ジェラード大使の回想(第六章)
[キールヨット週間]

ジェラード大使はサラェボ事件の当日、キール軍港でウィルヘルム二世とともにヨット週間に参加していた。その日の生々しい様子が、書かれている。

バルト海に面し、ユトラント半島の東付け根の部分にあるキールは、キール運河の入り口であるとともに、ドイツ海軍の根拠地でもあった。

ドイツ人が大海軍の建設を決定したとき、皇帝はあらゆる手段を駆使して、ヨットレースと海への愛着を育てることにした。そして、キールヨット週間をイギリスのカウズ(Cowes)に匹敵させようとした。

この目的のため、金持ちのドイツ人はヨットの建造とレースへの参加が半ば強制された。その週、アメリカ人やその他の外国人は、ヨットに宿泊するよう勧められ、ベルリンのホテルに泊まっては不可能な、皇帝自らの饗応にあずかれることになった。

1914年6月、我々はシカゴのアリソン・アーマーの客として、彼らのヨット、ユトワナに招待されキールに行くことになった。ただ、私は仕事の都合から6月27日(土)にキールに着いた。妻は前もって行った。その日、私とアーマーは、皇帝のお客として、ホーエンツォレルン号の晩餐に招待された。

港湾にはレースに参加するため多数のドイツのヨットが集まっていた。他にもブラッセー卿の美しいサンビーム号、モナコ大公が科学実験をやるための船などがいた。また、ドレッドノート級戦艦を含むイギリス海軍も親善目的できていた。

ティルピッツ海相は、そのがっちりした体格をドイツ戦艦上に見せていた。ハンブルグ=アメリカン汽船の大西洋路線で活躍した客船ドイッチュラントも名前をビクトリア=ルイーゼに変更し、多数の乗客を乗せてここまでやってきた。

ホーエンツォレルン号における晩餐のお客として、かなりの数のイギリス人がいた。皇帝の左には、提督夫人のモード=ワレンダー、右にはリッチモンド公嫡子夫人のマーチ伯爵夫人が座っていた。

私はマーチ伯爵夫人とミュンスター公夫人の間に座った。食事のあと皇帝は私を引っ張り、船の欄干のところで、会話した。外交儀礼がなければ、この会話を公開することができるが、この時、私は皇帝の客であったので、それはできない。社会民主党右派の諸君には面白い内容なのだが・・・。

だが、第三者が聴衆となっている場合などには、このルールが適用になると思わない。皇帝はまた、来週火曜日のキールからエッケルンフィヨルドまでのレースに参加する宮廷ヨットのメテオに同乗しないかと誘った。

日曜日の午後、ヘンリー(ハインリッヒ)親王夫妻から、自宅の城のガーデン・パーティに誘われていた。だが城門につくと、パーティは中止だといわれた。ユトワナに戻ると、ロンドン・デイリー・メールのワイル記者が端艇で近づいてきて、フェルディナンド大公夫妻がサラェボで暗殺されたと伝えた。

(注)ハインリッヒ親王はバルト艦隊司令官となり、アルビオン作戦で活躍した。

見回すと、各船舶の間にはめまぐるしく、端艇が行き来していた。レースを観覧していた皇帝も呼び出されたとのことだ。

その晩、モナコ大公の実験船で夕食をとった。この日の午後と夜、私があった外交官や有名人は、いずれもがこの事件が戦争を引き起こすと思っていなかった。

翌朝、皇帝はベルリンに戻った。しかし、ヨット・レースなどは予定通り決行してくれと言い残したようだ。

月曜日の午後、キール・ヨットクラブの大ホールでビア・パーティがあった。皇帝がこのパーティを主催する予定だったが、弟のヘンリー親王が代行した。イギリス戦艦から出てきた、ゴッシェン英国大使が親王の右隣に座った。私は左隣だ。

そこでは、奇妙な出来事がいくつかあった。

食事中、私はヘンリー親王と話し合った。内容は「食後のスピーチが危険性を秘めている」というものだった。会話の途中で、誰かが親王に近づきささやくと、親王は立ち上がり短いスピーチを行った。そして結論として、居並ぶイギリス海軍の提督に次のように締めくくった。

「我々は、あなた方が去っていくことを惜しむと同時に、ここに来られたことを残念に思う」

このちょっとした舌のすべりについて、ドイツの報道機関が全く報道しないことに驚くべきだろう。

その晩は快適な気候で、私は庭に出てモナコの大公と話し合った。カジノから多額の収入を得ている大公は、科学的な調査について物惜しみなく支出できた。七つの海で行ったことがない所はなく、研究のための材料は自ら設立したモナコの海洋博物館に寄贈していた。

火曜日、私とアーマーは皇帝のメテオに乗船した。レースは上々の出来で最後はメテオが勝利した。だが残念なことに、勝利したレースで一緒に乗船した人々に配られるネクタイピンは、皇帝がいなかったため貰い損なった。一緒に乗船した中には、あとになり容赦のない無差別潜水艦戦を鼓吹したフォン・コスター提督もいた。

エッケルンフィヨルドは小さな漁業と海水浴の町だった。そこに、ヘンリー親王のイギリス・ビクトリア朝様式の煉瓦つくりの別荘があった。ヘンリー親王の妻はヘッセン=ダルムシュタット家の公女で、ロシア皇后の姉だった。私はヘンリー親王夫妻、ご家族、ゾンダーブルグ・グルックスシュタット公爵、ご家族と食事をともにした。

別荘のビリヤード室は滞米中に手に入れたマッカチェオンの漫画の原画が飾られていた。そのあと、ヘンリー親王夫妻はユトワナに来て、食事をとった。アーマーとヘンリー親王は、陸地のビア・パーティに行ったが、私はタバコと酒の臭いに辟易としたので船に残った。

別れ際に親王と話をした。親王は、どうしてドイツ人はこんなに嫌われるのかと常々疑問に思い、その理由を私に尋ねた。私は丁寧に、ドイツが工業や商業で成功しているので妬ましがられるのではないか、と答えた。親王は、海外旅行に出るドイツ人のマナーが悪いことによるのではないか、と疑っているとのことだった。親王は完璧な英国なまりの英語を喋った。そして、ドイツバルチック艦隊司令官よりも、イギリスの田舎紳士であった方が、本人のためには良かったのではないか、と思った。

親王は自動車狂でドイツ自動車産業の育成に力を入れていた。また、ベルリン自動車クラブの会員でもあった。

翌日キールに戻り、さらにそこで数日過ごした。ティルピッツ提督の戦艦で食事をともにした。ティルピッツは好感のもてる海の男だった。政治的なことや海軍について話はいつも印象深かった。

キールから車で戻る途中、とある伯爵邸に一泊した。建物の一隅は普通だが、残りの角には倉庫が併設されており、そこには荘園からの穀物が保管されていた。一階は地面から8フィート床上げがしてあったが、家族はさらにその上に住んでいた。ここは湿気が強いためで、私も二階に寝た。

伯爵の先祖は1700年ごろ、デンマーク国王のありたけの金を貸したそうだ。当時このあたりはデンマーク領だった。食堂にかけれている素朴な絵には、その伯爵が一人で所在なく長キセルをふかし、娘三人が糸を紡いでいるさまが描かれていた。

なんでも、先祖はデンマーク王から返済をうけるのをただ待ちわび、娘の収入でやりくりしていたそうだ。この例はドイツ民謡の「父親以外は皆働く」の中世版のようだった。

もちろん今では、プロシャの貴族は戦争に加わるか、下層階級を支配するか、それ以外仕事はしない。

ウィルヘルム二世は、愛艇ホーエンツォレルン号に乗船し、周囲を見渡していたとき、突然端艇が近づき、「重大ニュース」です、とメガフォンで伝えた。皇帝は手でどっかに行けという仕草をすると、端艇から足元に、テレックスの束が投げられた。そこにフェルディナンド大公暗殺の知らせがあったという。

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