ジェラード大使の回想(第五章)

アメリカの駐ドイツ大使ジェラードは開戦後からアメリカ参戦の間、ドイツ政府首脳部と、中立国大使として、しばしば会談をもち、忌憚のない意見を聴取している。

ジェラードはドイツをなるたけ中立的な視点から捉えようとしており、「任地ボレ」に陥りやすい日本の外交官と好一対である。

ただしジェラードは、ドイツ政府首脳が第一次大戦を計画をもって引き起こした、と疑わなかった。これは現在からみると奇矯な見解であるが、当時のヨーロッパの全般的な雰囲気はよく伝えており、ウィルソン民主党政権もほぼ同様の見解をもっていたことは疑いない。

次の文章は回想録の第五章の抄訳である。
(Gerard, J.W., My Four Years in Germany, London,1917)

第五章

外部の人間にとってはドイツが獰猛な軍事国家にみえるだろう。しかしながら実際のところ、ドイツ大衆は戦争準備に常に追われる中で、戦争の恐怖にかられているのだ。

この恐怖は三十年戦争に遡る。1618年に始められた戦争は1648年に終了した。1648年、ウェストファリア条約が締結されたとき、ドイツは不毛の地と化していた。人口は2000万人から400万人に減少した。生き残った人々は餓えに苦しみ、人肉食が横行した。多くのドイツ小邦では一夫多妻が認められ、それから暫く、有効とされた。

ボヘミアの3万5000の集落のうち残ったのは6000だけだった。低地のファルツでは人口は十分の一に減少した。ウュルテンベルグでは六分の一である。何百平方マイルもの肥沃な土地が森林となり、狼が住むだけとなった。

この恐怖の時代は『単純化のための冒険』という名の奇妙な小説によく描かれている。グリメルシャウゼンによって書かれ、1669年に出版されたものだが、ある農夫が孤島に脱出し、故国に帰ることを拒むにいたる物語である。

この農夫は故国に帰ったらという声に答えた。「どこに戻れというんだ?ここは平和だ。そちらには戦争がある。私は宮廷遊泳術も、野心も、怒りも、恨みも、詐術とも無縁だ。私は服や食事はどうでもいい。私がヨーロッパにいたときは、戦争ばかりだ。放火、略奪、強盗、強姦そんなものばかりだった」

ミュンヘンの週刊誌『単純化』は、風刺漫画を得意としているが、この本の題名からとられたものだ。

30年戦争が終了したあともドイツは小さな戦争に悩まされた。その頂点はフリードリッヒ大王による7年戦争とナポレオンによるドイツの占領である。フリードリッヒ大王の戦争によって、ドイツの成人男子の1割が死亡した。ナポレオンによる支配を終了させた、諸国民の戦い、ライプチッヒ戦によっても、ドイツの戦争が終ったわけではない。

1866年、プロイセンと北ドイツ諸邦・イタリアは、バイエルン・ヘッセン=カッセル・ヘッセン=ダルムシュタット・ナッソウ・ザクセン・バーデン・ウュルテンベルグ・ハンノーフェルと連合を組んだオーストリアを敗北させた。

代々受け継がれた戦争への大衆の恐怖は、軍事独裁を企む支配層に利用され、まさにその大衆が弄ばれ、戦争の道具となっているのだ。

一方、貴族(ユンカー)は戦争を自己目的としている。このユンカーとは中世のドイツ騎士団の子孫であり、プロイセンに住むポーランド人を支配下に置き、プロイセン住民をその意思のままに操っている。

プロイセン軍は、フリードリッヒ大王の父によって創始された。初めは、背の高い兵士を集めるため、いかなることもやったという笑い話が残る。

その父は息子の家庭教師に、「まず軍事に興味を向けるようにさせねばならない。注意深く、剣による以外、名誉も名声もないことを息子に叩き込め。剣によって満足を求めない君主は、外界の目から見れば軽蔑すべき人格以外の何者でもない」と文書による指示を与えた。

フリードリッヒ大王は、その後その父に殺害されそうになったが、死後、素晴らしい軍隊の総司令官になることができた。そして、「語るべき存在になるため」戦争を引き起こした。それが7年戦争である。

1864年の丁普戦争、1864年の普墺戦争、1870年の普仏戦争はプロイセン陸軍の名声をかってないところまで引き上げた。また忘れてはならないのは、北ドイツの不毛の平原の住民が戦争に向かっていくようにみえることである。マリアス=アリオビストゥスに征伐されたキンブリー人、シーザーに征伐されたチュートン人、ゴート人、西ゴート人、フランク人、サクソン人、全てが不毛の地から出て、南の他人の土地を占領しに侵攻している。現代ドイツ人はこの北ドイツ人の温暖な気候に憧れる気持ちを「日の当る場所を要求する」、と表現している。

ユンカーはいつも戦争に賛成だった。商人、産業資本家、造船所経営者は彼らの営業分野の拡大を望んでいた。ドイツの植民地はヨーロッパ人が住むことができない土地である。皇帝と将軍たちは、一生涯、戦争を考えまた計画している。皇太子はその素晴らしいナポレオンの遺物に囲まれながら、征服戦争を指導することのみを夢見ている。

1913〜14年の初冬、皇太子は、私の知り合いの女性にそのナポレオンのコレクションを見せながら、「父親が生きている間に戦争が起きることを期待する」と述べた。そして、「もし帝位についたならば、その瞬間に戦争を始める」とも述べた。

その女性が私に伝えたありのままの会話を次のようになる。

「私はノーマン・エンジェルの『大いなる幻想』を謹呈しました」

すると皇太子は答えた。
「戦争が経済的に引き合おうが、合うまいが、王位についたときは戦争だと思っていい。戦争はそれ自体が目的だ。計画は最初はフランス、次はイギリスだ、その次は貴国、アメリカということになる。ロシアも同じ運命であり、ドイツが世界を支配することになる」

皇太子は胸像、遺品、肖像画をみせながら、さらに、その女性に語った。
「ナポレオンを尊敬している。ナポレオンは世界制覇を狙った。ただ小さな過ちで失敗した。ドイツ人はそのようなことをしない」

もし、長い間準備された計画が幾許かの成功を収めたとするならば、それはドイツ陸軍が『その瞬間』に突然、第一撃を放ったことによる。

1914年6月、キール運河の拡幅が完成した。これによって戦艦がバルト海から北海へ行けるようになった。

ツェッペリン飛行船はドイツのみが保有していた武器だった。ドイツは、開戦後実際に与えた損害よりも多く、とりわけイギリスに被害を与えることができると思ったに違いない。ドイツ人は潜水艦についても注意を払っていた。ドイツの飛行機は、他のどの国よりも優れていた。毒ガスについても開戦前から保有していたが、敵兵士を失神または殺害できる必殺武器だと確信していた。

Wehrbeitragと呼ばれる戦争税によって、1913年には数個軍団を増加させることが可能になった。一方、フランスに三年現役制は、実際には施行されなかった。ベルギーの徴兵制も同様である。疑いなくドイツはバクダット鉄道により、東方への影響を強化できると考えていた。更にイギリスのエジプトやインド支配に脅威を与えることもできると思っていた。

一方、ドナウ河=アドリア海鉄道計画、すなわちスラブ鉄道計画もあった。この目的はドイツの南方への進出を阻止することにあった。フランス人、フランシス・デロワシは大戦の前に書かれた本の中で、「バルカン戦争はヨーロッパ戦争を意味する。バルカン戦争はロシアの演出である。ドナウ・アジア鉄道はロシアのプロジェクトである。もし成功すれば、ドイツ=オーストリアの地中海への進出経路を阻害することができる。

ここにも、ハプスブルグ家とロマノフ家の対立がある。オーストリアとセルビアの対立は、オーストリアとロシアの対立となり、二つの陣営に分かれていることを考えれば、バルカンにおける紛争はヨーロッパ戦争に結びつく」と述べている。

別のドイツの戦争開始の理由は、フランスのロシアへの借款である。これの条件はポーランドに鉄道をつくることだった。だが、借款は実行されたが鉄道は建設されなかった。クロパトキン将軍はこの情況について、1900年の報告書で、次のように語っている。

「オーストリア軍に対する決戦的短期的勝利という幻想をもってはならない。オーストリアはガリシアまで8本の線路をもっている。我々は4本にすぎない。ドイツは独露国境に17本線路があるが、我々は5本だ。この違いは巨大であって、兵員数や士気でしのげるものではない」

「ドイツ軍の先制攻撃は逆の場合より大いにありうる。欧州戦争が発生した場合、ロシア史上かってない危険が、西部国境に存在する」

ドイツ人は、ロシアにおける労働者の騒乱を革命の発端である、ととらえていた。

ドイツ帝国銀行による金地金の購入も特徴的だ。
1911年1億7400万マルク
1912年1億7300万マルク
1913年3億1700万マルク
となっている。

ドイツではフランスは崩壊寸前にあり、腐敗しており戦争には堪えられないと固く信じられていた。フランス上院において、ウンベール議員がフランスの戦争準備の不完全さと弱さを議会で演説したとき、予想は確信に変わった。

リヒノウスキードイツ駐英大使は、イギリスは戦争を欲しない、と本国政府に報告したに違いない。現在は、あらゆる条件でも戦争に入らない、といった覚えはない、と言い方を変えているようだ。しかしながら、ドイツ外務省がイギリスは参戦しないと確信をもったことは事実だ。保守党のカーゾン卿によるアルスター軍の結成は、我々の松明をもった選挙活動と変わることがなく、反乱でもなければ革命でもない。だが、ドイツ人スパイはこれを暴動だと報告したようだ。ドイツではアイルランドにおける反乱が戦争を始める好機だととらえられていた。1914年夏はロシアでも革命が起きると信じられていた。

ドイツにおける反軍国主義の高まりは、ザベルン事件のあとの議会における特別投票の時と思われる。その時、ドイツ人の多数は政府要人や軍国主義者に正気に戻れ、そして軍国主義を振り払うべきだと思った。またプロイセンの長い間の恐れ、他国から攻撃をうけるのではないかという点についても再考が促された。

だが、汎ドイツ主義者や拡大主義者は戦争に熱心だった。人々は三つの戦争しか記憶がなかった。第一は丁普戦争(1864)であり、これは数日しか続かず、シュレスウィッヒ・ホルスタイン連合公国をプロイセンに加えた。第二は1866年の戦争で、バイエルン・バーデン・ウュルテンベルグ・エッセン=ダルムシュタットそしてオーストリアが敗北した。ハンノーフェル王国が消滅し、エッセン=カッセル・ナッソウ・フランクフルト自由都市がプロイセンに併合された。

この戦争は宣戦布告から、わずか2週間で終了した。第三が1870年の戦争でフランスは1ヵ月半で敗北した。

ウィルヘルム二世は、戦争が始まったとき、戦争開始の熱狂に包まれた群集に宮殿のバルコニーで次のように演説した。

「木の葉が落ちる前に、兵士は家に帰ることができる」

軍人も含めドイツ人全てが皇帝を信じた。数週間でフランスは崩壊し、その裕福な植民地は全てドイツのものとなる。ロシア軍は集中が完了する前に、ドイツ軍に徹底的打撃を加えられる。イギリスは中立を維持するだろう・・・、と。

そして、ドイツは世界を支配するようになり、皇帝は松(常緑樹であり永遠を意味し、かつ建物の基礎に使われるため創業者を意味する)となるだろう。

暗闇で、新聞社を保有したり影響を与えたりしながら、武器製造会社のクルップはドイツ国民に戦争という細菌をまいて歩いた。

ドイツの駐英大使だったリヒノウスキーは戦争勃発後たびたび私のもとを訪れた。そして「イギリスは戦争を欲しない」とイギリスの雰囲気を報告したと説明した。帰国後、ドイツ人はリヒノウスキーを失敗者としてみなした。つまりフランスとロシアにたってイギリスが参戦したことを責めたわけだ。

1913年ライプチッヒで諸国民の戦争勝利の記念碑がたてられた。これもドイツ人の好戦欲をあおったに違いない。

私からみれば、ドイツ支配層を戦争に駆り立てたのはザベルン事件で国民が反軍国主義の態度を示してからだと思う。社会主義者が臨時議会の閉会のさい、議場に残り、起立せず皇帝の名前に敬意を示さなかったことは、専制政治への抵抗を示す新事実だった。

そして専制はドイツ国民をまとめるために、短い期間で勝利する戦争に可能性を発見した。

これは、貴族的な支配層の新しいやり口である。ローマ時代をふりかえったみても、人民が権利を要求したとき、専制は、戦争を、民主主義に反対するための最良の手段とみなしていた

今日の目からみると、ジェラードの主張はほとんど誤っている。もちろん事実における誤りはほとんどない。事実から導きだされた結論が誤っている。

これは、同時代のうち新聞記事などジャーナリスト関係資料にほとんど当てはまることで、驚くにはあたらない。

またウィリアム皇太子についていえば、皇太子という立場で、あまり美しい女性と背後にいる外国使節をからかわない方がよいのだろう。

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