6月24日予想された敵の策応攻撃が開始された。ドイツ第2軍「司令官フリッツベロウ、参謀長グリューネルト」の地区内でソンム川の両岸に沿いゴムクールよりショールヌ南方に達する。準備射撃は毒ガス弾を伴っていた。攻撃は英軍だけでなく仏軍も参加した。この攻撃正面に対しソンム川北に5個師団、南に3個師団をもって守備にあてた。そしてその背後には予備として3個師団を直ちに使用できる状態におき、更に第3線にはムーズ川の戦闘(ベルダン戦のこと)に参加した1個師団があった。
第2軍司令官は攻撃を的確に予想しており増援招致について要求してきた。これにはできる限りこたえたが、砲兵および飛行機はガリシアにおける情況(ブルシロフ攻勢のこと)からその期待に応じることができなかった。
またそれまでにガリシアに多数の部隊を派遣してしまったため、大規模な逆襲で敵の鋭鋒をくじこうとする作戦計画も放棄するしかなかった。またムーズ河畔から抽出転用する方法も、かりに専守防衛の方針に転じてもある程度の兵力は維持する必要がありとれる方法ではなかった。
また兵站線として重要であるにもかかわらず敵の有効射程距離にある地域を死守することにして、反面そうでない地区についてはあらかじめ敵の攻撃を知った段階で、敵の突入寸前に後退し逆襲を期することの可否についても議論された。
しかし後退案について大方の賛同を得ることはできなかった。なぜならば後退すれば味方の被害は一時避けることができても敵とりわけ砲兵が前進することになり、新たな攻撃拠点を作ることを許してしまう。
味方にしても強固なる陣地から劣弱なる陣地へ移るだけで、決戦を遷延するものにすぎない。つまり動機は陣地の薄弱を補おうとして全力を尽すということにあり、却って決心および運動の自由(イニシアチブのこと)を奪うことになり、即時決戦方針をとることが決定された。
敵の準備射撃は絶えることなく7月1日まで継続した。大部分は米国製造に係わる莫大な弾薬を独軍戦線に投下した。これがため障害物は粉砕され塹壕は埋没し、少数のより強固に建造された壕しか残らなかった。そして一層苦痛なのは7日間にわたる射撃によって守備兵の士気が阻喪したことだった。
仏軍は7個師団を第1線に5個師団を第2線に配備しペロンヌ=アルベール街道の南側約16キロメートルの正面をもって、英軍は12個師団を第1線に歩兵4個師団および多数の騎兵師団をその後方に配置し仏軍の北方約24キロメートルの正面をもって7月1日午前攻撃してきた。かくのごとく優勢な敵が、とりわけ仏軍が初めある程度の戦果をあげたことは止むを得ないことだった。
ただ英軍の達成したことはこの程度にも及ばなかった。バポーム=アルベール街道北側において一歩も前進することができなかった。その南側でわずかに独軍最前線陣地を越えただけである。
仏軍の成果はこれより大きく、わが軍はフエーからソンム北岸にあるハルクドールに至る前進壕全てを喪失し更に予備壕の数ヶ所でも敵軍の侵入を許した。しかしその目的である突破について達成させたものではなかった。
ただエストレー=フーコークール街道およびソンム川に挟まれた地域は仏軍の攻撃により危機に陥り、わが軍は予備壕を撤収し、「ピアジュ・バルルー・ベロイ・エストレー」の線まで敵に委ねることになった。そしてわが軍は多大の損害を蒙り、大本営の直轄戦略予備部隊と交代させる事態となった。
しかしこの交代により戦線はむしろ整理された。7月1日から数週間仏軍はソンム川の対岸からわが軍に側射を浴びせかけたが、今や立場は逆となり防衛戦闘は容易なものとなった。
ソンム川南の敵は7月初旬徒に反復攻撃を繰り返したが、仏軍の攻撃力はいつからとなく減退し8月下旬までに記述に足るべき成果をあげていない。仏軍は兵力欠乏のためソンム川両岸を攻撃する能力はすでになく、英仏共同攻撃としてソンム川北岸の狭い地域に主攻を定めた。
この正面における戦闘は7月8月まで継続し消耗戦の様相を呈し始めた。両軍の火砲および弾薬の消耗は未曾有の額に達し、人員の死傷は敵軍にありては著しく、わが軍においては処置機宜に適したるためその数は減少した。−略−
この戦いでは独軍将兵は再び戦士として精神を発揮し、常に少数の兵で敵の優勢なる攻撃砲兵の射撃下にあって、防勢不可能な地点では後退を余儀なくされたのは事実だが、乗ずるべき弱点があれば常に利用するという観点を忘れず逆襲を成功させた。また激戦に伴い死傷者は彼我ともに莫大な数に昇ったが敵は独軍に比して大なることは疑いの余地がない。
戦闘開始二日目の夜に大本営は英軍の計画した突破は失敗したこと、第1週後には当初目的の達成を断念し消耗戦に移ったことを認識していた。敵の使用した兵力と死傷者がわが軍を上回ったことは敵も認識したはずで、また作戦も長期間に亘ったので8月下旬第8週目に入ると敵の士気の阻喪がみられた。そこでソンム川両岸20キロの正面を7キロ程度進んだところで戦線は停滞した。
ソンム会戦はムーズ地方における戦闘(ベルダン戦のこと)と同じく敵の巧妙なる宣伝によりドイツ不利に捏造された。そしてこの宣伝は残念ながらドイツ国内でも成功した。わが軍も苦痛となる損害をうけたのは事実だが、その影響が全戦闘経過に影響したとはいえない。これに反し連合軍は数ヶ月間行動不可能となる大打撃をうけた。両者をみれば同日の論ではない。
( )内は後で付加
ファルケンハインは本文中に注をつけこの文を1916年8月末(参謀総長を更迭された直後)に書いたと明言しており、以降の戦闘については触れられていない。