セルビア軍民のアルバニア、コルフ島経由サロニカへの逃避行は20世紀最大の国家間の戦争による国外脱出の旅だった。また未だ人数や犠牲者についての正確な数字は把握されていない。1998年、NATOによるユーゴスラビア(セルビア)への空爆が予想される数日前、ベオグラード国営放送局は当時の経験者を集めその特集を組んだと言う。
全土が敵によって占領されると予想された場合、1.セルビア人のように全面脱出を図るか、2.少数の首脳部だけ脱出し亡命政権を樹立するか、3.占領軍との妥協により傀儡または偽装傀儡政権を作り、多少でも軍政の直接的な圧力を緩和するか、の方法があるが、どれが良いか回答の出ない難しい問題だろう。しかし、セルビアのとった方法を以降とる国は現在までない。
セルビア小史
独墺軍とのプリスチーナ、ミトロビッツァ、ブルガリア軍との黒鳥原での敗戦後、1915年11月21日セルビア軍は敗残の全軍を三方向に分けて進発させた。またこの敗戦地はいずれもコソボ地区内で、ここの住民の多数派はアルバニア人だった。セルビア軍はもてる限りの全てを運んだ。国家機密書類、条約・有価証券、24000人の捕虜そして700年前に死亡したステファン・プルボベンチャーニ(ネマンニッチ王朝の初代国王)の遺体もだった。
黒鳥原(コソボ・ポーリエ)を1389年の先祖と同じように撤退して行く、民間人を連れたセルビア軍。
驚くべきことは、これと同じ事態が以降1941年ボスニア、1993年クライナ、1998年コソボで繰り返されたことである。
そして、占領下にいることを潔しとしない、市民、生徒を引率する教師、赤ん坊を抱いた若い女、そして自分の子供を兵士として送り出した老夫婦が厳寒のなか山中に分け入ることになった。そして連合国の外交官も同行した。同じ藁のうえに、ロシア公使、イギリス公使そして隣にセルビアの外相が寝たと言う。
コルフ島まで平均3週間かかった。
この間持参した食料以外なくまた寒さは徐々に厳しくなった。しかし最大の試練は食料でもなく凍死でもなかった。コソボは1912年のバルカン戦争によりセルビアが得た土地だった。しかしセルビア統治はそこに住むアルバニア人にとり受け入れられたものではなかった。
散在するアルバニア人の家に入った難民はまず生きてそこから出ることはできなかった。仲間からはぐれたり、小さな集団で通過すると確実に襲撃され、その場で殺された。

逃避行の道の両脇には動物と人間の死骸がえんえんと横たわった。12月7日ピーター国王は北部アルバニアの海岸都市スクタリ(スカダール)に到着した。しかしその地域はオーストリア海軍のパトロール地域で海岸からでることが出来ず、更に南部のドラツォまたはバロナに陸行せねばならなかった。敗残部隊の大部は12月後半にはその2つの港湾都市に集結を終え、イタリー海軍の45隻、フランス海軍の25隻、イギリス海軍の11隻によりコルフ島に運ばれた。
往復数は延べ1159回に及び、26万人が脱出に成功した。
この後、兵士はチュニジアに再集結、再編成を終えサロニカに向かった。民間人の多くはサロニカに向かったが幼児や子供はフランスまたはイギリスに向かい学校に就学した。ただコルフ島でもチフスを中心とする疫病が絶え間なく多くの犠牲者を出した。
この一連の戦いと逃避行で何人が犠牲になったのだろうか。確実なのはセルビア軍は補充も含めて42万人の兵士がいた。このうち17万人が独墺軍またはブルガリア軍の捕虜となった。そして12万人の兵士が最終的にサロニカに集結した。差額の13万人は戦死したか途中死亡したか脱走したのだろう。
民間人になると把握はほとんど困難だ。一説によると逃避行のなか28万人が死亡したと言う。
では逃避行に加わらず残留した人々はどうなっただろうか。この戦争の原因を作ったとみなされたセルビア人に中央同盟諸国は厳しく当たった。セルビアの故地はオーストリア=ハンガリーとブルガリアの2ヶ国で分割された。オーストリアは1万人を越える男子を強制労働につかせた。ハンガリーは約3万人を強制収容所に入れた。ブルガリアは旧セルビア南部の人口はすべてブルガリア人だと自分から言わせるようにして、拒否するものを投獄した。
セルビアの人口は凡そ450万人でそのうち300万人がセルビア人と言われる。そして18歳から45歳の成人男子の3分の2が戦死、捕虜、病死したことになる。また占領期間中飢餓・疫病が発生多数の民間人が死亡した。
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