民族浄化主義者としてのチュブリロビッチ


加瀬俊一は、チュブリロビッチといわば第1次大戦の原因について清談しているが、実際のチュブリロビッチは極めて過激な民族主義者だった。これはチトー政権が民族和解を標榜したため加瀬が会談した時には表面に現れなかったにすぎない。

チュブリロビッチは、1930年代には既に歴史学で頭角を現しており幾つかの論文を出している。とくにセルビア人の故地であるコソボ地方に興味をもった。その中の一節である。

セルビア人はどこから来たか?

1937年ベオグラード大学論稿:

コソボで多数派のアルバニア人に対抗して行くためには国家的組織による暴力の使用を考慮せざるを得ない。もし適当な時期にこの問題を解決できなければ2・30年以内に恐ろしい未回収地域運動(イリデンティズム)に直面することになる。


更に1939年の新聞に発表した論説は次の通りである。

アルバニア人は追放されねばならない!

現在の世界は追放という手段が生ぬるく感じさせる程進化を遂げている。そして日に日に悪化する諸問題のためにもはや多少のことを心配する情況にない。ドイツが数百万人のユダヤ人やロシア人を大陸の果てから果てへと動かしているとき、数十万人のアルバニア人を動かしたところで、世界戦争になるわけではない。

この時はドイツがポーランド侵攻を成功させた時であり、過激となるのはわからないでもないが、チュブリロビッチは、常套手段であるセルビア人による強盗団の結成および弾圧的警察の導入の他、1878年以来実施されているとする、アルバニア人民家と都市の居住地区の組織的焼き討ちを提案している。

しかし、1941年から1945年の戦争はむしろセルビア人への組織的民族浄化だった。それでもチュブリロビッチは1946年以降チトー政権に再びユーゴスラビア領内からのアルバニア人の抹殺を建言した。この時はドイツ人が反対にポメラニアやズデーテンにおいて民族浄化を受けており絶好の好機に見えた。

しかしチトーは民族和解の線を選択し、チュブリロビッチの提案はとりいれられなかった。それでも政府の力を借りないテロリズムの影は1946年から1990年までの間続いた。少なくともコソボに住むアルバニア人から数千人の死者が出た他、10万人以上がコソボ以外の地に脱出した。そして1992年以降ミロシェビッチの手により、セルビア人によるコソボ・アルバニア人の組織的迫害が実施された。

1990年6月12日、チュブリロビッチの盛大な葬儀がベオグラードで営まれた。セルビアの高位高官およびベオグラード大学の人文系学者の概ね全てが出席した。国営新聞「Borba」はこの国の最も重要な一人として名前が刻まれるだろう」と書いた。これはセルビアにとってその後のユーゴ内戦につながる原罪となった。テロリストを顕彰したり、大義が正しいことを理由にテロリストの処罰を猶予したり、宥和的な態度により自分だけはテロの恐怖から免れようする態度は誤りである。チュブリロビッチとセルビアの軌跡はそれの何よりの証明である。



Ibrahim Berisha, Serbian Colonization and Ethnic Cleansing of Cosovo: Origins, History, Politics, Ithaca and London, 1992

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