チュブリロビッチの証言

加瀬俊一は外交官で国連大使をつとめまた戦前は松岡洋右と同行しスターリンやヒトラーと面会したことのある人物である。退職後、歴史についての著作を残した。そのなかで日本人としては珍しく重要人物とのインタビューを紹介している。

チュブリロビッチ(Cubrilovic, Vaso : 1897-1990)

加瀬がユーゴスラビア大使をしていたとき、当時ベオグラード大学の歴史学教授をしていた、サラェボ事件の参画者チュブリロビッチと面会した。(会話はドイツ語で行われた。)

われわれの仲間には別に打ち合わせはなかったのですよ。例えば部署にしても、これを定めたのは指導者格のイリイッチですが、これは彼が独断で処置したもので、他の者には相談しなかったのです。コンスピラチオン(陰謀)とはそういうものですからね。

つまり私は当日の暗殺者は私だけだと信じ込んでいました。よもや同志が数名もおり、それが肩を並べるようにして沿道に待機し、それぞれ必殺の意気込みで大公を狙っていたとは思いもよりませんでした。だから私のすぐ傍らに立っていた未知の青年ーチャブリノビッチだったのですがーが爆弾を投げた時には、これは実に驚きました。ほんとうに驚きましたよ。しかもその爆弾は私の数メートルの近くで大音響とともに炸裂したのですからね。

爆弾が大公の乗用車に当たらなかったことはすぐ確認できました。大公の車は暫時停止しました。大公は不快の念を黒く眉間に凝結させて、大破した後続車を睨んでいましたよ。

私にとっては絶好の機会だったわけです。だけど正直のところ、私は夢中だったようです。眼前の混乱を見ると不覚にも浮き足だって、いっさんに走ると、フランツヨゼフ街まで逃げました。そうそう図面で示せばこの辺ですな。

そして人目につかないようにピストルを隠しました。いつまでも胸の動悸が収まらなかったことを、いまでもよく憶えていますよ。なにしろ十歩おきくらいに警官が立っていたのですから。

・・・なにプリンチップですか。知っていましたとも。私とはサラェボ小学校の同級生でしてね。その頃からの友人でした。貧しい農家に生まれひどく病身でしたが、わずかに愛国の情熱によって、病苦にたえていたようです。

しかし私は彼が大公暗殺計画に加わっていることは少しも知りませんでした。暗殺決行の数日前に彼と酒をくみかわした時にも、何の暗示も与えませんでした。互いに固く秘密を守っていたわけです。そう言えば道を隔てて私のむこうに立っていたポポビッチとは幼友達の間柄です。

そうです。今サラェボの博物館長をしています。ええあのポポビッチ博士です。そうですかお会いのなったのですか。あれもご覧のように温和な人物ですが、暗殺団にはいっていました。しかし当時は互いにその事実は全く知らなかったし、知らされもしなかったのですよ。・・・さあ彼も慌てたのでしょうな。自分一人だけと思い込んでいたのに忽然として他に暗殺者が出現し、一大爆音によって初めてその事実を知ったのですから・・・。」

この会話の内容はかなり驚くべきものを含んでいる。イリイッチが主犯でプリンチップも暗殺者グループの一人にすぎないという点である。加瀬はイリイッチがブラックハンドのサラェボの代表者だったと断定する。

たしかに、この記録からはそうしか判断できない。ところが裁判ではイリイッチはすべて自白しプリンチップは一切の供述を拒んでいる。しかもイリイッチはブラックハンドの一員だと自白したにもかかわらずタンコシッチ以外の人物は知らず、かつ武器の搬入などもプリンチップグループが実施している。

主犯が屈服し従犯が頑張るというのは腑に落ちない。そのうえプリンチップはサラェボではイリイッチの家に宿泊している。そしてイリイッチは全計画をプリンチップに言わなかったのだろうか。一応本文ではプリンチップがむしろ計画の大綱を決めたという説をとった。

更にチュブリロビッチは続ける。

「プリンチップが大公を狙撃できたのは運が良かったのですな。大公の一行は朝の襲撃にこりて午後の計画を変更しましたが、これは暗殺者側には一切わかりませんでした。だからプリンチップがアペルキューとフランツヨゼフ街の交差点で待ち構えていたのは偶然の幸運なのです。・・・私ですか?私はフランツヨゼフ街の一角に立っていました。

当初の予定どおりならこの道を通過したはずですから。プリンチップの射撃音は聞こえませんでしたが、その直後の混乱で大公が暗殺されたことはすぐにわかりました。ええ、それはもう想像以上の大混乱でしたよ。

・・・なぜ大公を選んだかって。それは大公が権力の象徴だったからです。暗殺は個人的な怨恨が理由ではなくて、政治的示威が目的だったのです。総督のポチョレックを血祭りにあげろという主張もありましたが、総督はたとえ地位は高くとも、要するに官僚にすぎません。

しかし大公とともに誤って大公妃を射殺したのは極めて遺憾なことでした。」

暗殺は成功した。だがテロリストというものが天性のものと訓練が必要なこともわかる。すなわち射撃と爆弾投擲の手段はそう誰でもできるものではない。おそらくタンコシッチが正規に訓練したのはプリンチップ、グラベッツ、チャブリノビッチの3人だけだったのだろう。そしてイリイッチはその線からははずれていたのではないか。

ここは加瀬の解釈とは食い違う。加瀬はイリイッチ主犯で、プリンチップとチャブリノビッチともブラックハンドの構成員だとする。実際ここの所は歴史家によって解釈が異なる。読者も事実はこれ以上でないと思うので独自に見解を出して欲しい。

ただ抑えねばならない事実は@イリイッチはアピスを知らなかったAアピスは途中で計画を中止しようとしたBパシッチはなんらかの手段で情報を入手しウィーンに通報したC中止命令は届かなかったDタンコシッチはあとでパシッチを困らせるためやった、と語った、があり以上を矛盾なく説明する必要がある。

最後にチュブリロビッチは総括する。

「サラェボ事件を過大に評価してはならぬと思います。あの事件がなくとも、戦争は当然起きる形勢にありました。暗殺は申さば開戦の口実になったまでです。現にセルビア政府はオーストリアが予防戦争を仕掛けてくるのではないかと恐れていました。オーストリアとしてはセルビアがあまり強大になる前に先制処理をする必要を感じていたようです。

それに当時列強の利害の対立が絡んで戦争は不可避となっていたと思うのです。しかし今日老境にはいって、往時を追想すると若気の至りというほかはありません。血気さかんな時と衰えを覚えるときとで人間は全く変わりますよ。サラェボ事件を想起すると、あの日、ピストルを握り両眼を裂かんばかりにして大公の乗用車を街頭で待ち受けていた青年が果たして自分だったろうかと疑いたくなります。」

チュブリロビッチはここで大戦とサラェボ事件との因果関係を過小評価しようとする。そこは加瀬も大きな疑問符をつける。サラェボ事件が第1次大戦の引き金を引いたのは疑いがないではないかと。

民族浄化主義者としてのチュブリロビッチ

加瀬の書いた本の多くは、本人が歴史家ではないので、本邦で訳出されていない外国の歴史家の本をタネ(数年後訳出されることが多く本人の鑑識眼が伺える。)にして、自身で集めた情報とで構成されている。日本の史家のものはほとんど参考にしない。このため日本の歴史家からの評価は低い。これはあまり妥当とも思われない。

また別の大きな疑問としてオーストリア側の捜査報告がある。ベルヒトルトが参考にしたものだが、通常ウィズナー報告と呼ばれる。これはベルヒトルトの下僚のウィズナーがサラェボ警察に派遣されとりまとめたものである。

そこでウィズナーは事件とセルビア政府が無関係であることを断言している。ところが、この時すでにイリイッチはタンコシッチの名前とブラックハンドのメンバーだったことを自白していた。ベルヒトルトはこのタンコシッチが関与したことをセルビア政府の官憲が絡むことの第一の理由としてあげ、それだけでは足らず武器の搬入や国境検問員の関与をとりあげ最後通牒に記載した。しかし、最大の問題ブラックハンドについては等閑にされた。

オーストリアの最後通牒

またこの問題に関連して、ベルヒトルトの最後通牒を受け取ったセルビア政府がなぜオーストリア官憲の捜査関与だけ否定したか、という疑問がある。ある史家は、ウィズナー報告により無罪とされたセルビア政府が、オーストリア官憲によって関連していたことが露見するのを恐れた、とする。これだともしウィズナーが結語を変えれば第1次大戦は起きないことになる。

もちろん、他の見解もありパシッチは実はアピスに脅迫を受けていて、アピスが少しは否定しなければ国家の体面が保たれないと主張し屈服した。もしくはロシアが介入したと諸説紛々としている。

ウィズナーは決して明敏とはいいかねる官僚であり、とにかく自分の報告で世間が騒がないようにという方向でまとめただけではないか。



現代史の謎 加瀬俊一 文芸春秋新社 1962

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