昭和天皇は臣下の人物評を好まれたように見えない。それはすべての君主に共通するのかもしれない。ただし、陸軍軍人とりわけ皇道派の軍人については月旦評を残している。
昭和天皇は憲法に反する親政などは初めから脳裏になかったと思われる。自身の神格化は科学者の立場から受け入れることができないものだった。天皇機関説弾圧には反対だし、精神力で科学進歩に太刀打ちするなどは、あたかも迷信としてしか思わなかったようだ。
一方、皇道派軍人は天皇が具体的肉体をもち、意見を表明する力があるとは見ていなかった。自分達の意見を天皇が述べれば国家の発展に最も寄与すると判断していた。ただ皇道派といっても、隊つき将校(普通これらの人々を青年将校と呼ぶ。)と幹部とでは相当に意見や識見に違いがある。人事に統制派ほど拘泥していない。ドイツ一辺倒でもない。
『木戸幸一日記』(下、(昭和19年6月15日の条)東京大学出版会1968)から以下であるが、かなり手厳しい評価を皇道派軍人に下している。
- 真崎
参謀次長のさい、国内改革案の如きものを得意になり示す。中に国家社会主義の如き文字あり、粛正を求めたることあり。教育総監の時の方針により養成せられしものが今日の中堅なり。- 柳川
2・26を一師団長として押さへ得ざりしこと。賀陽宮のご批評、第10軍司令官としての好成績。部下にまかすにあり、部下次第にて目的を達することを得べきか、方面軍司令官までの人物にあらざるか。- 小畑
作戦家なり−大学校長として満井佐吉を握み得ず、−軍司令官程度か。批評のなかに温かみも感じられる。すなわち真崎は教育家、柳川は名望家、小畑は作戦家、としての本領を認めているのだ。昭和天皇は2・26事件について許すべからざる暴挙であると生涯みなしており、皇道派についてはこの印象からきているのかもしれない。
小畑敏四郎(1885−1947)
陸士16期 陸大 参謀本部作戦課長、第3部長を歴任した。土佐勤皇党の小畑美稲(男爵)の次男として生まれた。第1次大戦ではロシア畑としてモスクワ、キエフなどに観戦武官として派遣された。その時荒木貞夫に師事し、この結果皇道派の中心人物と目されるに至った。注目されるのはブルシロフ攻勢の際、シェルバシェフ(第7軍)の本営(グスヤチン)に荒木とともにいて、帝国陸軍の浸透戦術の原型を掴んだとみられることである。しかし本人は政治的なことは好まず、むしろできず作戦のみに集中した。満州事変、日華事変初期、対ソ連最終作戦などは全て、小畑の起案にもとづくものである。ただ作戦家の常として自身の記録は一切残さなかった。1929年歩兵学校校長をつとめ、歩兵マニュアルの改訂に努力した。
また政治的にはバーデンバーデンの密約に参加、満州事変の際満州国の承認に暗躍するなど芳しくない。そして陸軍の致命的な失敗といわれる永田鉄山との対立を招いた。むしろ純粋の作戦家を温存することができない陸軍いや日本の官僚界に問題があるのだろう。2・26事件で辞表を提出した。これは当時の軍人官僚にまず見られない潔い姿勢である。第2次大戦のドイツ東部戦線の敗退について、ドニエステル川を突破されたら、ハンガリー平原まで後がない、と極めて的確な評を行った。第1次大戦のレチツキーとシェルバシェフの突破を想起したのだろう。
真崎は2.26事件でやや軽率な行動をしているからもっと手厳しく言ってもおかしくないが、粗末な政治性を除いては言及していない。真崎が国家社会主義に熱心であったことはやや意外である。柳川はフォシュを尊敬していたし、荒木や小畑は、反ソという点で親英米であった。皇道派は軍事傾倒で広義統帥権独立を主張したが、外交政策は一貫したものがなかったのであろう。
これらの人物は近衛とも近かった。近衛にたいする評と比較してもなにか有益な人物として扱っているようだ。
真崎は2・26事件の黒幕として軍法会議にかけられ、結局証拠不十分のまま釈放された。戦後においてもA級戦犯被疑者として2年間も収監された。皇道派に属していたというだけの嫌疑にすぎず、陸軍刑法などに抵触することはなかったのではあるまいか?
そして、真崎の子息、真崎秀樹氏は昭和天皇の通訳として戦後25年間身辺で仕えた。昭和天皇は個人として真崎への親しみを失っていなかったためではないか。
小畑はこの昭和天皇の批判に対し反論を残している。これは細川護貞に語ったものとされる(『日本陸軍英傑伝』 岡田益吉 光人社 1972)。
「満井は、誰も抑えるものがいないので自分が引き取って厳重に戒告していたのだが、満井を相沢中佐の裁判に引き出したのは、陸軍次官古荘幹郎であり、あとで満井は自分に詫び状をよこしている。
また、満井は、陸軍大学校長(小畑)に抑えさせますと上奏したのは自分ではなく、あるいは陸軍大臣がしたのではないか。」
昭和天皇は前後から小畑に教育者としての役割を期待したものとみられ、その点で噛み合っていない。ただ、昭和天皇は東久爾内閣のとき、実質陸軍大臣としての小畑の入閣を、対ソ連で懸念したが最終的に受け入れており根が深いものではない。
有末精三(1893−1982)
陸士29期、陸大 北海道の屯田兵かつ陸軍工兵大尉の子息として生まれた。歴史上の事跡としては1939年8月阿部内閣組閣の際暗躍しただけである。当時陸軍省軍務課長(軍務局の下で陸軍が内閣に関与する唯一のセクション)で、組閣にあたり大臣の定数を減らし兼務を増やすことを主張し、近衛が受け入れ実行された。こういった定数削減が行政改革に役立つというのは、経験の少ない陣笠(と橋本元首相)の主張することで、当時の重臣がもはや定見を失っていたことがわかる。5・15、2・26事件のテロリズムがじわじわと国の進路を誤らせた。実際、モロトフ=リッペントロップ協定、第2次大戦の開始、日独伊防共協定の破棄と進んだので、外交総路線に見識をもたない限り乗り切りは不可能だったのだろう。
本人は外交の経験も経綸もなく、ただ組閣人事に関与できるというので有頂天になったにすぎない。自伝でも第2次大戦の勃発という意識をもっていないのが、哀れを誘う。昭和天皇から見ればこのような未経験の人間が組閣に関与すること自体が情けなかったのだろう。
写真は1941年8月のもので、中支派遣軍の先任参謀だった。北方軍装の制服で、詰襟(カラー)が廃止された頃である。将校の制服は自費であるが、肩の線が水平でなくまた袖口が大きすぎ帝国軍人としてはだらしがない。現地で安く仕立てたのだろう。
また昭和天皇が『独白録』で軍人の政治への容喙または関与として一番悪い例として名前をあげたのが有末精三(阿部内閣成立時陸軍省軍務課長)である。有末は北海道出身だが皇道派に近かった。
ところが戦後有末は大活躍する。日本郷友連盟会長として持ち前の政治力を発揮し佐藤栄作のブレーンとなった。そして1966年の園遊会に招待され昭和天皇から親しく声をかけられた。内容は郷友連盟機関紙への寄稿についてで昭和天皇は戦後も相当長く陸軍軍人の動静について興味をお持ちであったことがわかる。有末は感激し回想録の冒頭にこれを取り上げている。
もちろん『独白録』が発見されたのは1990年で、有末はそれを読まず亡くなった。
昭和天皇は昭和の軍人が、政治でなく軍人としての専門性を発揮することを期待したのだろう。すべての人間が農村の荒廃に興味をもつ必要はない。
有末は省部軍人が多く辿ったように戦後の一時期、GHQのウィロビー機関にいた。この機関の日本側リーダーは服部卓四郎で、その配下になったと言える。
ところが昭和天皇は追求をゆるめず、ウィロビー機関に巣食う旧陸軍軍人を戦犯として訴追すべきだと主張したと、ある記録にみえる。これは有末を指したと言われる。さすがにウィロビーが波及を防止したらしいが、どちらがよかったのだろうか。
有末は自伝にも論及せず、また証拠もないが民間の壮士(暴力団)と組んで反英運動に取り組んだ形跡があり、また相応に金も動かしている。そのやり方は東條をも驚愕させたと言う。やはり刑事手続きの対象とすべきだった気はする。
また有末をあげて、もう一人昭和天皇が名指しで批判した人物をあげないわけにはいかない。それは伊藤忠の瀬島龍三である。昭和天皇はこう語る。
「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」
入江(侍従長)さんから直接聞いたとして田中清玄が書き残した(『田中清玄自伝』文芸春秋 1993)。また田中は「私のみるところ瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀実は感じが同じだとね」としている。田中は瀬島をソ連に屈服したスパイとみなしているのだろう。
昭和天皇は第1次大戦前のヨーロッパの君主のいずれのタイプとも異なる。第一に自然科学者であり、近代人である。その意味で国家のロマンとか男のロマンのようなものに一切興味をお示しにならなかった。外交政策でも現実を自分の理想に引付けるようなことを嫌った。そのうえ、戦間期の特徴である国家主義と社会主義の対立情況を疎ましく感じていた。瀬島の特色は戦争を計画し促していることである。そこには昭和天皇と同じくロマンはない。昭和天皇と異なり私欲が存在し、それがこの男の全ての行動を決定したのであろう。
瀬島龍三は自己の著作で昭和天皇に誉められたと自慢している。事実ではあるまい。