この部会で極めて重大な議論が展開されている。有名な命題、ドイツの統一に関してである。この点について諸君に同意できない。少しもだ。
それゆえ、私は提出された疑問について説明せねばならない。私は、あなたがたが私がドイツ統一の推進者ではないと信じていると思う。これは私の名誉がかかることだ。私はドイツの力が分散されることを願っている。しかし私達が相手にしなければならないものは何か?
ちょっと考えて欲しい。昨日まで70百万人で現在60百万人の国家がある。その国民の歴史は数世紀遡る。私はその理由をうまく説明できないがドイツ人は極端な分散主義から極端な集中主義に振れている。たぶん神の仕業だろう。仕方のないことだ。彼らの本質なのだろう。そのようにドイツ人はできているのだ。
歴史のある瞬間ではドイツ人の良心に訴えることがなされた。例えばナポレオンのライプチッヒの戦いではサクソン人と一緒だった。その時、ドイツ人はこれ以上不可能と思われる程、小国分立にあった。ドイツ人はその時ドイツ人同士で弾丸を打ち合ったのだ。サクソン人がライプチッヒで何をしたか知っているだろう。
本当の統一とは心のそれである。そして他国人がそれに影響を与えることはできない。
統一とは外交交渉で与えられるものではない。統一とは心のうちにある。人間は愛する人々を愛する。憎むものを憎む。危機にあたっては、どちらに味方すべきかを知っている。戦いのときもだ。
あなた方は何を望むのか?好むと好まざるにかかわらず、彼らはそこにいる。その60百万人と一緒に住まねばならない。もっと古い時代何があったのかはよく知らない。ローマ人は彼らの剣をへし折り投げつけたようだ。私達はそのような冒険をすることはないだろう。
私達は彼らの自由を尊重する。しかし我々は彼らが我々の自由を尊重させるための手段を必要としている。
1870年に宣戦布告がなされたとき(普仏戦争)のことを覚えている。道でジャーナリストに会った。何かを言おうとしているジャーナリストは常にいるものだ。そしてこう言うのだ。「バイエルン人は加わらないよ。」と。
私が理由を聞くと答えたものだ。「バイエルン人はケルト人だ。彼らの頭はプロイセン人と同じように出来ていない。彼らはプロイセン人を憎んでいる」。
二日後何が起きたか、ご承知の通りだ。
そして1914年だ。理論上バイエルンは、もしベルサイユ条約に調印せねば現在と同じ状態にあったのではないか。バイエルンは加わるのに躊躇したか。ノーだ。
平和時に私は戦争を見ることなく死ねると思いたかったが、戦争が来るとも信じていた。そして毎年オーストリアかバイエルンに行くことを習慣としていた。
そこで様々な人々と喋った。不満そうな人々ともだ。ある時ミュンヘンに行き、バイエルンの人々と話した。プロイセン人の厳しいやり方について語ると、その通りだと言った。非難するとそれ以上のことも言った。しかし分離することに言及すると違う反応が現れる。
そして彼らが勝利したときより、負けたとき違う形、弱気に考えるだろうか。その反対ではないか。
敗北は分散した力をむしろ統一に向かわせる。この点では情況があらたな力を必要としないかのようだ。
おわかりか?ベルサイユ条約の作成者が残したように、事態がそのまま止まることは決してない。むしろ条約によって作られた事態は発展し続ける。我々は結果を見ることになるだろう。監視せねばならない。手段を有効に利用せねばならない。
たしかにドイツ次第だろう。ドイツ人は必ず条約を変更しようとする、この点はわれわれ次第だ。
厳しい言葉は使いたくないが、もしドイツ人が政治的に分裂したとするなら、短い将来我々に戦争をしかけることはできないだろう。それだからと言って、ドイツ人を屈服させるために、この混乱を利用することはできない。
ドイツに侵攻することはナポレオンのスペイン遠征と同じ意味で、考えること自体が時間の無駄だろう。