チャナック危機はイギリスとトルコの緊張であり、イギリスがそれに耐えられず譲歩した事件である。そもそもの発端は1922年8月にトルコ軍が突如イズミルに駐在していたギリシャ軍を撃破したことから発生した。その結果セーブル条約に基づきダーダネルス海峡の小アジア側の沿岸のチャナックに駐屯していた1個大隊のイギリス軍が孤立した状態となった。
希土戦争
この時イギリス政府を率いていたのはロイド=ジョージであり、トルコとギリシャの抗争についてギリシャ側に好意的だった。この時連合国のうちフランスとイタリーは新たに獲得した領土シリアとドデガネーゼ諸島の保全に全力を投入しており、既にケマルと秘密裡に了解に達していた。両国とも原住民の反乱に悩み、とてもトルコと戦争に訴える情況になくまた新たな戦争を国内世論が許容しなかった。そしてボルシェビキ政府も中央アジアのトルコ系住民の反乱に苦しみ、ブレストリトウスク条約の国境線でケマルと妥協していた。
つまり奇妙なことにイギリスはこの問題でギリシャを除けば孤立状態におかれ、またギリシャ軍がトルコ軍に対抗できないのは誰の目にも明らかだった。
ギリシャ国王コンスタンチン(コンスタンチヌス)
King of the Hellenes(1868-1923)
ギリシャ王家の歴史は新しく短い。1862年議会がイギリスに国王を指名して欲しいと依頼したことからギリシャ王家は始まった。イギリスはシュレスウイッヒ=ホルスタイン=ゾンダーブルグ=グリュックスブルグ家のゲオルグを推薦した。ゲオルグとロシア・ロマノフ家の公主オルガとの間の長子がコンスタンチンである。コンスタンチンの教育はドイツ陸軍大学が全てであるうえ、ウィルヘルム二世の妹を王妃として迎えた。大戦中は何度か中央同盟に組することを画策して失敗し、休戦直後退位した。その後復位したがイズミルの失陥とともに再度退位し翌年パレルモで死去した。
それでもロイド=ジョージは断乎としてギリシャ支持を貫いた。ところがこのロイド=ジョージの姿勢に閣内でも反対意見が強かった。その時のギリシャ国王コンスタンチンは第一次大戦中、中立を保ったはよいが、どちらかと言えばドイツ寄りだったためである。1917年フランス軍の陰謀によってだがコンスタンチンは王位を追われ、王太子のアレグザンダーが跡を襲った。ところが1920年そのアレグザンダーはペットの猿に噛まれ敗血症で急死した。そしてコンスタンチンが復位したもので、連合国として歓迎すべき人物ではなかった。
トルコ軍のイズミル占領
1922年9月イズミル(スミルナ)を陥落させたトルコ軍は海峡に向かい、チャナックの英軍キャンプの哨戒線の直前に現れた。ここはセーブル条約により非武装地帯とされた地点である。それまでロイド=ジョージのトルコ政策に賛成でなかった陸相チャーチルや外相カーゾン、法相バーケンヘッドも急速な戦争ムードの高まりにあわて準備を開始することを余儀なくされた。9月15日、ロイド=ジョージとチャーチルは自治領諸国に来るべきトルコとの戦争に協力を依頼した。だがこの日は金曜日だった。いずれの自治領諸国も暗号の解読に手間取り、首相の手許にわたったのは月曜日となった。チャーチルは時差を考慮せずイギリスの金曜日はオーストラリアでは金曜が終わった時だと計算しなかった。そしてカナダ首相キングは国内出張であり間に合わなかった。チャーチルは日曜の夕刻にこれを記者発表したため自治領諸国は相談に預かれなかったと判断した。
カナダとオーストラリアは相談もなく一方的に参戦の依頼を受けても断るしかないと強い態度で拒絶した。賛成したのはニューファウンドランドとニュージーランドにすぎなかった。カナダ首相の相談なくしては合意できずの態度表明により、イギリス自治領は初めて本国政府に叛旗を翻したことになった。あるいはこれにより自治領の独立が確定したのかもしれない。
だが2週間何もなく過ぎ去った。閣議の承認のもとチャーチルは9月29日、チャナック守備隊長ハーリントンにトルコ軍の撤退を要求する最後通牒を送達する指示を発した。ハーリントンは賢くも握りつぶした。そのようなことをしてもイギリス守備隊にトルコ軍を追い払う力がない反面、トルコ軍も攻撃してこないと判断したからだった。
10月11日、近くのムダニアでトルコ軍司令官イノニュとハーリントンの会議がもたれ、新たな休戦交渉がまとまるまで、休戦地帯からトルコ軍が撤退することが約束された。ケマルに大英帝国との再戦の意思はなかった。
こうしてチャナック危機は終了した。
ロイド=ジョージの退陣
この危機でイギリス国民もトルコとの再戦を支持しなかった。10月10日の閣議で総選挙の実施が決定された。ロイド=ジョージは保守党と自由党(戦時連立派)連立で選挙を戦おうとした。しかし自由党の大部はアスキス支持であり、保守党のなかでも自由党(戦時連立派)との連立を嫌い保守党単独で戦いたいとする意見が強まった。
つまりチャナック危機を煽ったところで最早戦中ではなく、大連立の必要はないと議員は考えはじめていた。商業大臣のボールドウィンが音頭をとりカールトンクラブ(保守党議員・候補者・上院議員のためのペルメルにある食堂)で会合がもたれた。引退したボナ=ローが再び引きずり出された。
ローは10月6日のタイムスにロイド=ジョージのチャナック危機への方針に反対し次のように述べた。「我々は世界の警察官として行動する必要を認めない。」ビーバブルックがロー再登場のヒモを付けた。10月19日、圧倒的多数で保守党はロイド=ジョージを支持せず、単独で選挙を戦うことが決定された。
この決定は一瞬にしてロイド=ジョージ内閣を瓦解させた。その日の夕刻内閣は総辞職した。
ボールドウィンはロイド=ジョージが自由党を破壊したことをよく知っていた。おそらく保守党をも破壊する可能性があると思ったのだろう。10月23日、ボナ=ローは保守党の委員長に選ばれ、総理大臣となった。この政変はイギリス憲政史上平時における政局として初めて選挙と無関係に起きたものである。この事件以降ロイド=ジョージは再び公職につくことがなかった。

David Walder, The Chanak Affair, 1969
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