ボスニア危機


ボスニア危機は二人の個人によって引き起こされた。二人とはロシア外相イズボルスキーとオーストリア外相エーレンタールである。

イズボルスキーとエーレンタールは1908年9月19日、チェコのブハロウ城で会見した。ベルヒトルトがこの城を所有しており、また会見にも立ち合った。ベルヒトルトは1914年の7月危機でも重大な役割を果たすことになる。

会見の議題は、1878年のベルリン会議でのビスマルクの結論を覆すことだった。この会議で決められたことのうち、二人にとり、どうしても修正したいことがあった。イズボルスキーは、ダーダネルス・ボスフォラス両海峡は、トルコ以外の軍艦が通れないとあるのを、ロシアとトルコの軍艦以外は通れないと改めたかった。

この背景には、日露戦争のおり、ロジェストウェンスキー艦隊を極東に回航する際、黒海艦隊の参加ができなかったことがある。

一方、エーレンタールはボスニア・ヘルツェゴビナの管理権を得ていたが、セルビアの希望を失わせる目的で併合を望んだ。

エーレンタール(Alois Lexa von Aehrenthal)

この二人の希望は1878年までに遡る。ベルリン会議直後、ロシア外相ゴルチャコフが主導した墺露密約が基でブハロウの内容はそれと大きく変わらない。ただし、30年の歳月は周囲の情勢を大きく変えた。この二人はそれに気づかない。イズボルスキーは典型的なロシア貴族バリンで子供の頃からフランス語で育てられた。そして両大臣とも閣内で特別な地位にあった。すなわち外交については、首相より高い権能を有した。

この二人の密約に個人的な野望と独断があったことは否定できない。

まずエーレンタールの望むボスニア・ヘルツェゴビナ両州は、すでにオーストリアの行政管理下にあり、併合したところで内政上大差があるわけではない。もちろん地方議会の設立や鉄道の延引が可能になると説明されたが併合しなくとも、そのような事はできたはずだ。合併趣旨にある、君主国による恩沢というのもとってつけた話だ。

真意は併合という手続きにより、セルビアのボスニア・ヘルツェゴビナの全部または一部を併合する希望を断念させる事だ。ところが、セルビア人はこの両州で人口において過半を占めていたわけではない。

1908年のバルカン半島

ここに住むクロアチア人を加えると多数派となる。

そしてセルビアに住むセルビア人がボスニア・ヘルツェゴビナに住むセルビア人にとくに同情しているわけではない。ところが言語を取り上げると、クロアチア人・セルビア人・ボスニアヘルツェゴビナに住む回教徒は同じサーボクロアチア語を喋る。そしてクロアチア人とセルビア人は有史以来同一の国に属したことがなく、宗教もカトリックとギリシャ正教で別だった。

オーストリア=ハンガリー二重帝国と民族

エーレンタールの併合政策は、両州のサーボクロアチア語を喋るすべての人々にハプスブルグ家のくび木の存在を認識させた。それまではオスマン帝国の存在があり、ここの住民はオーストリア=ハンガリーが抑圧的と思っていなかった。この時から1992年に及ぶユーゴスラブ(南スラブ)運動は全てエーレンタールのこの政策の逆転現象である。つまりユーゴスラビアの真の作者はエーレンタールである。

サラェボの暗殺者、プリンチップは14歳の時、ベオグラードでセルビアの民族教育を受けるためサラェボからベオグラードまで歩き通した。この年の出来事である。この事実は象徴的である。ハプスブルグ帝国は初等教育の普及に大きな役割を果たした。近代法の意識を植え込むのにも成功した。それだからといって、セルビア人が異民族支配に甘んじることはなかった。

セルビア小史

もちろんこのオーストリアの政策をすべてエーレンタールに帰するのは酷だろう。しかし、帝国の最も従順なクロアチア人をもセルビア人またはセルビア王国と同一または宥和的とみなすこのような政策をとったことは理解に苦しむ。また以降100年にわたるこの地域の大混乱の引き金となったことは反省されねばならない。

エーレンタールはなぜこの時期を併合のチャンスとみたのだろうか。それは青年トルコ党によるトルコ革命を念頭に置いたに違いない。そこはイズボルスキーと同じだろう。特殊事情として青年トルコ党が、廃止された1876年ミトハト憲法を復活し、ボスニア・ヘルツェゴビナ住民にもトルコ参政権が与えられることもオーストリアにとり脅威だったかもしれない。

ただオーストリアが考慮しなければならないのは、オスマン帝国の存立自体である。由来、オーストリアの存在はオスマン帝国拡大に対する防波堤だった。この役目はオスマン帝国が「ヨーロッパの病人」に転落すると確かに意義がなくなった。すると、ハプスブルグ家は「西ヨーロッパ文明の旗手」と言い出し、オスマン帝国の継承に乗り出す形となった。しかし、それはセルビアやオスマン帝国と自らを同列に置いたうえでの競争だった。

これでは大国としてのオーストリアの地位の低下は免れない。大国は不自由なものである。小島とか村とか漁場で小国と帰属争論しても勝てないのだ。なぜならば、大国の総動員などの軍事手段は他の国々にも重大な脅威を与え大戦争として計画をたてざるを得ないからだ。

この当時、オーストリアには予防戦争を主張する人々の勢力が強かった。コンラートを始めとする軍人・外交官である。こういった好戦的ムードも影響したのかもしれない。

それではイズボルスキーはどうだろうか。この人間は功名心が強いという訳でなく、ロシアの単純な南下策に従っただけのように見える。これは理由のあることだ。ロシアの輸出入の80%は両海峡を通っていた。大連港を失った今ロシアの通年不凍港は黒海沿岸にしかない。

ただこれの安全を集団安全保障でなく、単独の軍事力に置いたことはどうか。

イズボルスキー(Alexander Isvolski)

ともあれ両者は合意した。この密約の成否は他の大国の出方にかかっていた。

初めにエーレンタールがアクションをとった。1908年10月3日、オーストリアは地域住民の経済的福祉と帝国直接統治の恩沢に浴させるため、両州を併合すると発表した。セルビアとトルコは反発した。

ドイツもあからさまに不満の意思を表明した。ドイツはこの地域におけるトルコの存立、とくにその海峡支配は必要だと考え、他のいずれの国が支配することも容認したくなかった。そのためにもバルカン半島におけるトルコの存在を弱めてはならない。

他の諸国はオーストリアと同盟関係にあるドイツの出方に従う見解を示した。

次はイズボルスキーの番だ。しかし露艦隊の両海峡通過と聞いたとたん英仏が猛反発した。とくにイギリスは全部の国の艦隊通過を許すべきだと主張した。これはロシアにとり容認し難い案だった。トルコ・ロシア以外の艦隊が黒海に遊弋する。

そうこうしているうち、11月初旬セルビアが総動員をかけた。オーストリアも総動員の準備に入った。コンラートら好戦派にとりこれは戦争を意味した。ドイツは戦争の危機を前にしてオーストリア支持を表明せざるを得なくなった。セルビアはロシアに支持を訴えた。

ブラックハンド

ドイツのビューロウ首相は調停に乗り出し、オーストリアとトルコの了解工作を開始した。オーストリアは、トルコにサンジャックの返還と賠償金の支払いを約束した。トルコはドイツの圧力もあり、これを1909年2月認めた。青年トルコ党の財政への苦悩は初めからのものだった(しかし個人では清廉な人々である)。

1919年1月初旬、参謀総長コンラートは念願の総動員を発令した。この段階でオーストリアは具体的に戦争に直面した。コンラートはセルビアへの短期決戦策を持っていた。しかしエーレンタールはセルビアを滅亡させた後のことに悩み始めた。領土を獲得しても新たに不満分子のセルビア人人口を増加させるだけではないかと。経済的に裕福な国が、貧しい土地を得ても、(民族浄化でもしない限り)国民多数の幸福にはならないのだ。

エーレンタールはこの前後、セルビアへの侵攻を断念した。

三元主義

それではロシアはどのように対処すべきか?しかしフランスの支持がなくロシア単独で独墺両国に軍事的に対抗することは不可能だった。ロシアはセルビアに引き下がることを指示した。エーレンタールはすぐさまブハロウの密約を双方で公開することを提案した。これはイズボルスキーには出来ない相談だった。セルビアという友邦を裏切ったことを暴露するからだ。

結果はロシアにとりみじめなものだった。何も得るものがなく独墺両国の軍事圧力に屈服したという外見だけが残った。イズボルスキーはもう3年間外相の地位に止まった。しかしオーストリアにたいする憎しみは消えなかった。またロシアのストルイピン首相は、ロシアにとり両海峡よりもセルビアとの友情が重要だと演説した。これは全くらしからぬデマだろう。しかし外交がいかに事前の測定を誤ると見当違いの方向に向かうことの例証だ。

それでは、1914年7月危機とどこが違うのだろうか。

それはフランスがロシアを支持しなかったことである。イズボルスキーのやり方が自然とそう仕向けたのだ。

デイリーテレグラフ事件



A.J.P. Taylor, The Habsburg Monarchy 1809-1918, Penguine Books, 1990

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