1899年10月11日、トランバールとオレンジ共和国がイギリスに要求した最後通牒の期限が到来し、ボーア軍はナタルに侵攻した。つまり、この戦争はボーア人の侵略よって開始された。
ボーア人は増派イギリス軍が到着する前にケープ植民地を全面占領することを目論み、また増派そのものをヨーロッパ諸国の介入により止めることができると予想した。
それまでの外交交渉はチェンバレン植民相とミルナー高等弁務官によって担われたが、ジェームソン蜂起からのクルーガーのイギリス人不信は徹底していた。1899年5月からブルームフォンテンで会談がもたれが成果はなかった。またチェンバレンやミルナーの方針は常に高圧的であって、「敵の頬をたたく」以外の譲歩を行なわなかった。
だが、この緊張が増している間、自由党は厳しい戦争反対を唱えた。これは19世紀の政治では極めて珍しい。1900年総選挙(ソールズベリーは「カーキ選挙」と呼んだ)では、戦争に賛成する保守党と自由ユニオニストが勝利したが、戦争のあとの1906年総選挙で自由党は大勝した。1906年に起きたドイツ軍によるホッテントットへの残虐な弾圧を、ドイツ国民は熱心に支持し、反対派の社会民主党は選挙で大敗北した。ところが、1911年総選挙では社会民主党は初めて第一党になっている。戦争熱は選挙ではすぐ冷めてしまうものである。
ホッテントット蜂起
イギリスのこの戦争反対の根底にはジェームソン蜂起にたいする嫌悪感がある。ボーア戦争はボーア人によって引き起こされたが、このボーア人の侵略行為についてヨーロッパの自由主義者はジェームソン蜂起の延長線上の位置づけ、理解を示した。大帝国による小さな入植者国家への「イジメ」ではないかと受け取ったからである。
自由党のモーレイは9月15日、セントジェームスホールで次のように演説している。
数千の未亡人や数千の父なし子をつくってしまうかもしれない。これは誤りだ。大英帝国にもう一州加えることになるかもしれない。これも誤りだ。南ア株や株式市場が上向くかもしれない。あるいは南アフリカブームがあるかもしれない。ローズの認可会社の株価が新高値をつけるかもしれない。それだからといって、戦争は誤りだ。
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そして、ソールズベリー首相自身も、8月、次のように日記をつけていた。
我々はミルナーと戦争好きの支持者によって準備された道徳的基礎にたって行動せねばならない。それゆえ、かなりの戦争努力への必要性を認める。だがそれは、軽蔑すべき対象の人々とイギリスに何の利益ももたらさず、何の力にもならない領土のためなのである。
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戦争は3期に分かれる。
- ボーア人の攻勢(1899/10〜1899/12)
- イギリスの反攻(1900/1〜1900/9)
- ゲリラ戦(1900/10〜1902/5)
ボーア人の攻勢
緒戦では、ボーア軍が国境沿いではマフェッキングとキンバリー、ナタルではレイディスミスで英軍主力を包囲した。
イギリス増援軍は11月中にケープタウンに集中を終えた。ブラー司令官は初めブルームフォンテンからプレトリアに向おうとしたが、包囲された各都市からの後詰の要請が強く、結局部隊を分散して、マフェッキング・キンバリー・ナタルに解囲のため向った。
ところが、イギリス軍は12月中旬、黒い1週間(12/10〜15)と呼ばれる相次ぐ敗戦を喫した。
- メジャーズフォンテン"Magersfontein"
- ストームベルグ"Stormberg"
- コレンソ"Colenso"
とりわけ、ブラーが直率しレイディスミスを解囲するためナタルに向った2万1千の部隊はコレンソでボーア軍8千に待ち伏せされ、壊滅的打撃をうけた。ブリーはそれでも部隊をまとめ、1900年1月19〜24日、スピオンコップでボーア軍に戦いを挑んだが、ルイス・ボタ"Louis
Botha"率いるボーア軍によりまたしても敗北した。ブラーは2月5日にも、バールクランツでボタと戦ったがまたも敗れた。
イギリス軍の反撃
1900年2月14日、アフガン戦争の英雄でもあったロバーツ元帥が率いる増援第2陣の集中が完了した。それに先立ちフレンチの率いる騎兵隊はキンバリーに向かい、2月15日、解放に成功した。
1900年2月18日から27日まで戦われたパールデベルグの戦闘で、ロバーツはクローンジェに率いられた退却中のボーア軍を捕捉し、4千人を捕虜とした。ブラーもコレンソで逆襲に転じ、レイディスミスの解放に成功した。
そのあとロバーツは西方からオレンジ自由国に侵入、3月13日には首都ブルームフォンテンを占領した。直ちに分遣隊をマフェッキングとバーデンパウエルに派遣、3月18日までに解放した。しかしながら、行軍速度に補給が追いつかず、ブルームフォンテンで停止を余儀なくされた。だが衛生状態が良好でなく、ここで大量の兵士が腸チフスで死亡した。
だが5月31日、ヨハネスブルグを占領、6月5日、トランバールの首都プレトリアを占領した。二つの首都が占領されたことにより戦争は終了と思われた。
だが、オレンジ自由国のボーア人は首都をクローンスタットに移し、英軍の補給線を切断する戦術で臨もうとしていた。3月31日にはブルームフォンテンの東23マイル地点で英軍の輜重部隊を襲撃し、155人を戦死させた他、馬車117台と428人を捕獲した。
クルーガーはトランスバール東部に逃げた。ロバーツはブラーと合流し、8月26日、ベルゲンダールにおいてトランスバールの最終的防衛線を突破した。クルーガーはたまらずポルトガル領モザンビークに逃れた。だが、ボタの率いるトランバールのボーア軍はドラーケンベルグ山地に戻り、それから北に向かった。
ゲリラ戦
イギリス軍は9月までに、トランバール北部を除いて、オレンジ自由国とトランスバールの全域を占領した。ロバーツは1901年1月イギリスに戻り、後任の南アフリカ軍司令官には、それまで参謀長であったキッチナーが任命された。
だが、ボーア人は降伏しようとしなかった。戦争は両首都戦争から1年8ヶ月続いた。イギリス軍が移動するたびに、ボーア人ゲリラが現れた。南アフリカは起伏が多い潅木で覆われた土地である。機動性は騎兵に頼るしかない。だが、騎兵対騎兵の戦闘は、密度が低い戦闘では容易に決着がつかない。
ボーア軍指導者は、部隊を解散し出身地ごとの中隊に分割、中隊長に攻撃の自主性を与えた。イギリス軍は戦闘が退潮に向ったとみて正規軍(レギュラー・アーミー)を本土に戻し、徴募の兵士や入植者植民地兵(カナダ・オーストラリア・ニュージーランド)によって構成された部隊に置換えた。イギリスはこの戦争では徴兵を実施せず志願に頼ったが、本土で徴募した男子のうち40%内外が「くる病」などを理由にして却下されている。くる病は幼児期における日照不足(ビタミンD)と粉ミルクなどの人工乳によってもたらされ、貧困層に患者が多く、20世紀初頭ではイギリス病(せむし)と呼ばれた。
後期のイギリス軍はボーア人ゲリラに同数ではなかなか勝てなくなった。
ゲリラ戦はトランバール西部、東部、オレンジ自由国、ケープ植民地で戦われた。トランバール西部ではデラレイが活躍し、もっともイギリスに脅威を与えた。1902年3月、トウィーブッシュでイギリス軍を奇襲し、階級ではキッチナーに次ぐメチューエンを捕虜にした。
トランスバール東部では南ではボタ、北ではフィリョーエンが目立った。ボタは鉄道襲撃を得意とし、1901年9月には再度ナタルに侵攻した。
オレンジ自由国ではデウェットが活躍した。1901年12月にはグローエンコップの守備隊を攻撃し成果を収めた。キッチナーはこれに対抗して焦土作戦でのぞみ、徐々にデウェットを追いつめていった。ケープ植民地にはデウェットが残置したクリッツィンガーとシェーパーの部隊がゲリラ戦を挑んだ。ここでは互いに民間人が襲撃され、凄惨な戦いとなった。シェーパーは捕縛され処刑されている。1901年9月、残存した部隊をまとめたスマッツはケープ中央部で攻勢に出た。だが決着はつかず、スマッツは休戦まで3千の兵士をもちゲリラ戦を続けた。
キッチナーは、ゲリラ戦に対抗するため、さまざまな新戦術を導入したが、そのうちもっとも非難をうけたものは強制収容所"Concentration
Camp"である。この処置によって、2万7927人(うち2万2074人が16歳以下)のボーア人が死亡した。また1万4154人の黒人も死亡した。
戦争の終了
1902年に入ると、キッチナーの新戦術は徐々に効果を現した。中でも小基地の設営と鉄道沿線に張り巡らした鉄条網は、次第にボーア人の活動範囲を狭めていった。また、ゲリラに訴えるボーア人騎兵部隊を追いつめるためには、やはり騎兵分遣隊が必要であったが、黒人は次第にイギリス人につくようになり、ゲリラの動静がつかまれるようになった。
ボーア人は1902年5月降伏し、フェレーニッヒン条約が締結された。講和条件は寛大で、再建資金として300万ポンドが与えられ、自治領の設置も約束された。この結果1910年、南アフリカ連邦が成立した。
だが多くのボーア人は条約に従うことを拒否し、国外に脱出した。ただボーア人の将領、ボタ、スマッツ、デラレイは英連邦に加わることに賛同した。条約反対派はビッターレインダー"bittereiders"と呼ばれ、そのうちに南アに戻り反英運動を続けた。第一次大戦が勃発すると親独を叫び武装蜂起した。反乱は鎮圧されたが、「和解」のため多くは2年以内に釈放された。そのあとは合法政治運動に転じ、国民党を組織した。国民党は1946年から1990年まで南アフリカで「白人選挙」による第一党を続け、アパルトヘイト政策を実行した。

1928年に採択され、1994年まで南アフリカ連邦の国旗とされた。
左:イギリスのユニオンジャック、中央:オレンジ自由国、右:トランスバール
地のオレンジ、白、青の三色旗はオランダ東インド会社が南アフリカで掲げた旗という。
イギリス軍は2万2千人(うち戦死者7792人)の死者を出したが、大部分は疾病による死亡であった。ボーア人戦死者は6千人内外とされる。
戦争責任
ボーア戦争はクリミア戦争から第一次大戦の間でイギリスが戦った戦争としては最大規模のものであった。そしてイギリスではこの戦争の是非をめぐって、大論争が起きた。自由党は三派に分裂していたが、対立は決定的になった。そして、この時期は「テイルエンド・チャーリー」の時代であって、19世紀を代表する二人の首相、グラドストンとソールズベリー指名した後継者が首相として振舞っていた。すなわち、自由党ローズベリーと保守党バルフォアである。
「テイルエンド・チャーリー」とは長期政権を担った首相のあと短期間の首相が現れる現象である。ボールドウィンとチェンバレン、チャーチルとイーデン、マクミランとダグラス=ホーム、ウィルソンとキャラハン、サッチャーとメイジャーの関係である。後継首相はいずれも線が細く「指導力が欠如し」「危機管理に失敗し」ている。ジェームソン蜂起のきっかけをつくったのはローズベリーであり、ボーア戦争を終息させたのはバルフォアであった。そしてその間、外交を担っていたのはジョセフ・チェンバレンである。
チェンバレンはだがミルナーに引きずられた。チェンバレンは帝国主義を主張したが、本意は外交によってであって、戦争のみに頼っていたのではない。しかし、チェンバレンはジェームソン蜂起を承認したという弱みがあり、対南ア強硬策を変えることは難しかった。セシル・ローズを筆頭に南ア居留民は弱みを知っており、植民省においても同様であった。
ミルナーはリベラルから政治生活を始めており友人もまた自由党員に多かった。グレイ、ホールデン、アスキスは皆友人なのである。ところが、1899年8月16日、ミルナーは書いている。「我々が強硬方針を貫けば、または確信をもって螺子を締め上げればボーア人は必ず譲歩する」。この頑なさは、政治家のものでなく役人の性癖からだろうか?さらにミルナーはイギリス軍に全幅の信頼を置いており、鎧袖一触でボーア軍を撃砕できると信じていたのである。
だが、このイギリス人の失敗をもって、ボーア人が正しかったとはとてもいえない。ボーア人の黒人隔離政策、圧政はとても許せるものではなく、産金会社への課税、外人労働者への処遇は誤りである。つまり誤りとは戦争の惹起であって、イギリス人が戦争を回避する努力を十分払ったかといえば、不十分なのである
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