5月クーデターを成功させたディミトリエビッチ(アピス)は年齢に不釣合いな影響力をセルビア軍人社会にもった。ドイツから帰った1906年から1914年5月に至るまで、ディミトリエビッチは全ての陸軍大臣の任免に関与した。
5月クーデター
また、この間参謀総長だったプトニックはディミトリエビッチに親近感をもち、その活動を常に支持した。国王ピーターもこの若いクーデター指導者を決して否定的に見ていなかった。ただその二人の王子、ジョージ(兄)とアレクサンダー(弟)のうちディミトリエビッチはアレクサンダーと常に不仲であり、また急進党指導者パシッチと意見の一致を見なかった。
平和な時期にボスニア危機が突如襲った。
ボスニア危機
首相パシッチと外相ミロバノビッチは好戦的な声明を出し、国民の決起を促した。
「祖国は危機にあります。オーストリアは我々から、ボスニア・ヘルツェゴビナ両州を奪い取ろうと脅迫しています。我々は受身であることはできないし、またそうあってはならないのです。」
これは実際の軍事を知らない文民の国民へのアジテーションに過ぎなかった。プトニックはセルビア一国で二重帝国と戦うのは不可能であると説明した。ミロバノビッチはロシアの歓心を買うためか、二重帝国内でのゲリラ活動を実施するためナロードナ・オドブラナ(人民防衛団)を組織した。遠くアメリカからも義勇兵が集められ5千人程の人数となった。義勇兵は、5月クーデターで勇名をはせたタンコシッチ少佐のもとに集められ訓練を受けた。
しかしロシアは動かなかった。ロシアはセルビアが跳ね上がることを一貫して阻止するのに回っている。動員の解除とナロードナ・オドブラナの暴力的側面の除去を要求した。もちろんセルビアはロシアの指示に反することはできない。しかし義勇兵たちは、軍部が二重帝国の脅しに屈したためだと考えた。
ミロバノビッチは欧州各国を回り、二重帝国の横暴を訴えた。しかし、フランスがロシアに協同行動は不可能である旨相当前に釘を刺していたことをもちろん知らない。ただ、二重帝国とその行動を支持しロシアに軍事的圧力をかけたドイツの連合に危険を感じた諸国はあった。ミロバノビッチは屈服した。「ボスニア・ヘルツェゴビナの併合はセルビアの利益に反しない」と声明した。
ナロードナ・オドブラナは文化団体に改組された。更に文民はロシアの圧力により、マケドニアでのゲリラ活動も中止するように命令した。ゲリラ兵士の訓練に当っていたタンコシッチは憤慨した。ボスニア・ヘルツェゴビナを併合されたうえに、従来から実行し二重帝国とは直接関係がないマケドニアでのゲリラ活動も中断しなくてはならない。
ブラックハンドの結成
タンコシッチはナロードナ・オドブラナは既に無力であり、ゲリラ活動と大セルビア主義実現のため将校団の秘密結社が必要だとディミトリエビッチに説いた。タンコシッチは更に民間人のリュボミル・ヨバノビッチ(通称チューバ)に秘密綱領の作成を依頼した。
1911年5月、ディミトリエビッチ、タンコシッチ、チューバら7人を中央委員会とする秘密結社「統一か死か」(通称ブラックハンド;黒い手)が結成された。メンバーの多くは5月クーデターに参画した将校だった。またチューバはフリーメイソン会員であったため、入会時の神秘的儀式を発明した。明かりを消した部屋で髑髏に忠誠と秘密保持の誓約を読みあげるものだったとされる。
だがこういった秘密結社の常として情報は3ヶ月もたたずして、外部に漏洩された。二重帝国のウグロン公使も察知し、本国に報告した。「ブラックハンドという名前の秘密結社がセルビア軍将校によって結成された。この組織の目的は文民の行う内政に横槍をいれようとするものだ。」「パシッチを取り除くことが第1の目標だろう。」
これは当時ベオグラードで流れていた噂だった。しかしこの分析は二重帝国にとり致命的な失敗を内包していた。すなわち初めから最後までブラックハンドの目標はセルビア国外でのテロ・ゲリラ活動だった。すなわち攻撃目標は二重帝国に向けられていた。二重帝国はサラェボ事件のあとも公然団体のナロードナ・オドブラナに注意を向けブラックハンドの存在を過少評価した。隣国の政治情勢調査の無能が二重帝国の判断を大きく誤らせることになる。
1912年前半はブラックハンドの天下だった。しかしどこの国の軍部でも派閥が出来、人事を壟断すると必ず反動が現れる。ピーター国王の二人の王子は反目していたが、兄のジョージは性格が粗暴で、突然副官などを殴打することが多く信望を失っていた。1909年王太子は弟のアレクサンダーと決められた。ところがディミトリエビッチはアレクサンダーと良くない。自然ブラックハンドを快く思わない分子はアレクサンダーの周囲に集まった。このうち最も組織の才を示したのは5月クーデターの時の王室親衛隊長ピーター・ジブコビッチだった。ジブコビッチはブラックハンドに対抗、ホワイトハンドを結成した。
ジブコビッチの周辺には、ディミトリエビッチに反対する者たちの他、5月クーデターに参加を拒んだ者、王太子の側近などが集まった。
第1次2次バルカン戦争
しかし時流はこのような軍部内の対立を許さなかった。ロシアは反オーストリア・反トルコからブルガリアとセルビアの同盟を画策した。マケドニアを巡って対立する両国の交渉は困難だったが、ついに成立した。セルビアはブルガリア、ギリシャに先行してトルコ領内に侵攻した。1912年10月クマノボで決戦となった。2日間にわたる戦いで数で劣るセルビア軍はトルコ軍を打ち破った。
この戦争を実質的に指導したのはプトニックであり、ディミトリエビッチの果たした役割はエージェントを使ってのアルバニア人の懐柔工作だけだった。またマルタ熱という当時としては奇病にかかってしまった。戦争はその後、ブルガリアに対する戦いとなるなど複雑な様相を呈したが、パシッチ外交の成功とプトニックの作戦による結果勝利したことは明らかだった。経験のない将校は中隊程度の兵士を率いてクーデターを成功させることができるが、大軍を率いるとなるとそれは別の話である。
少壮軍人は大言壮語する。しかしテロ・クーデターに成功したとしてもその後の政治プログラムを持ち合わせていない。そしてしばしば政治的責任にすら無自覚である。これは第1次大戦後のドイツに現れたことだ。
第1次第2次バルカン戦争でセルビアは勝利したが、ブラックハンドの存在が何か軽くなったことも事実だった。またブラックハンドに属する将校からも多くの戦死者を出した。この間にも何件かのテロ事件を企画したがいずれも失敗した。
この戦争の結果、セルビアは新たにマケドニアを領土として得た。マケドニアはブルガリア語の方言を喋る人々が住んでいた。それだからといってブルガリアに帰属する意識はなく、多くのマケドニア人は独立を望んでいた。
第2次バルカン戦争終了後、ディミトリエビッチは1913年1月中佐に昇進し、8月参謀本部情報局長に就任した。この時36歳である。情報局長の仕事は二重帝国内の破壊活動と不満セルビア人の糾合だった。またこの年ドイツに何回も旅行した。ディミトリエビッチはドイツ参謀本部情報局とつながりがあったことは否定できない。ただ、弁護すれば自国の情報、これは不利にならない性格に限られるが、を提供しドイツから間接的に二重帝国の情報を得ようとしたものだ。結果としてドイツ・二重帝国にとり必ずしも良い結果を生む取引ではなかっただろう。なぜならばディミトリエビッチはブラックハンドの情報を隠蔽したと推定されるからである。
パシッチを筆頭とする文民政府がディミトリエビッチの二重帝国への破壊活動をどのように見ていたのか疑問が残る。恐らくパシッチは軍部で絶大な力をもつディミトリエビッチを敬して遠ざける積もりがあったのだろう。つまり、反二重帝国運動はそれが暴力的なものだったとしても国民には人気があった。セルビア国民の二重帝国に対する羨望と征服したいという複雑な気持ちの反映だった。ボスニア・ヘルツェゴビナは二重帝国の管理下に入ってから大きく発展した。鉄道が敷設され公共事業が起こされ教育は普及した。それに比べてセルビアは貧しい農業国だった。
その上、ボスニア・ヘルツェゴビナでセルビア人は少数派だった。そして地主や都市生活者など富裕な層はクロアチア人・回教徒など非セルビア人だった。
文民政府はセルビアの貧困をボスニア・ヘルツェゴビナにいるセルビア人を吸収できないためだと説明したものの、本心ではセルビア領土外のセルビア人に関心がそれ程あるわけではない。ブラックハンドの活動を監視する必要は認めたが、もしテロ活動を掣肘すれば国民の反発を浴びることも確実だった。また対する二重帝国の反テロ対策はあまりにも統一性を欠き、また外務省主導のため情報活動や非合法活動(当時は仮想敵国のスパイ・破壊分子を情報機関が暗殺することは普通だった。)の水準が他の大国に比べ低すぎた。フランツ・ヨゼフ帝がそのような活動を好まなかったことも一因だろう。
このセルビア政府のテロ活動への傾斜を最も警戒したのはロシア政府だった。ハートウィック公使はセルビア政府に大きな影響力を持っていた。
5月政変
第2次バルカン戦争の結果、セルビアはマケドニアを手にいれた。ディミトリエビッチはマケドニアに軍政を敷くことを主張した。ハートウィクは、マケドニア人への強圧策により、ただでさえヨーロッパ最野蛮国と評されているセルビアが更に事件を引き起こすことを、何としても避けたかった。セルビアの背後にロシアがあるとされていた。
ハートウィックは直ちに文民による統治をセルビア政府に訴えた。当然パシッチは歓迎した。ディミトリエビッチは、マケドニアにおけるゲリラ組織の温存を図りたかったが、断念せざるを得なかった。戦争の終了は軍事予算の削減を求めた。1914年5月陸軍大臣が、ディミトリビッチの息がかかったボジャノビッチから、予算削減を公約する急進党政治家、前内務大臣のプロティチに代わった。これは1903年以来初めてのディミトリエビッチの関与できなかった人事だった。
軍部全体がこの人事に驚愕した。パシッチは辞任をちらつかせ軍部の圧力に抵抗、結局急進党ともよい5月クーデターに参加したステファノビッチが陸軍大臣になった。しかし巷にはブラックハンドによるクーデターの噂が流れた。内務大臣に戻ったプロティチが警察官を動員し参謀本部情報局長のディミトリエビッチの身辺を伺う異常事態となった。この政変はロシアの支持を受けたパシッチの勝ちだった。これ以降、陸軍大臣のステファノビッチはブラックハンドと疑われた高級軍人を順次予備役に編入する措置を開始した。
ブラックハンドとサラェボ事件
ブラックハンドとサラェボ事件との係わりについて現在においても定説が存在しない。大きな論争点は次の2点である。
- フェルディナンド大公を暗殺することを提案したのは誰か?
- 途中でブラックハンドは中央委員会で暗殺決行を取りやめとしたにもかかわらず、なぜ実行されたのか。
論争中だから決定的な結論は存在せず、現在までほぼ判明した事のみをとりあげる。結論を先に言えば現在までに参謀本部高官(ディミトリエビッチ)が承認し、その上でテロリストに武器を提供したことが判明しており、張作霖爆殺事件類似のセルビアの国家テロであることは否定できない。
まずフェルディナンド大公のサラェボ訪問の日程を誰が初めにつかんだかが問題となる。これはどうやらディミトリエビッチの二重帝国内のスパイ・エージェントであるラーデ・マロバビッチ(サロニカで処刑)のようである。遅くともこの情報を1914年2月までに得た。
ディミトリエビッチは直ちにフェルディナンド大公の暗殺を決意し、刺客の人選に入った。
この人選はディミトリエビッチ・タンコシッチ・ブロビッチ(サロニカで処刑)の三人で行われた。そしてテロ実行のための詳細な計画が作られた。1914年4月、それまでにテロ訓練を終えていた学生プリンチップが刺客として最適だと決められた。補助として残り三人が選ばれ、ベオグラードで四人に伝えられた。別にサラェボに住むナロードナ・オドブラナの一員教師イリイッチが選ばれ、更に実行犯を加えることが予定された。タンコシッチ配下の従来のゲリラ・ルートによりサラェボに計画が伝達された。ただプリンチップが新聞で情報を得て、4月タンコシッチまたはディミトリエビッチにフェルディナンド大公暗殺をもちかけた可能性は否定できない。
プリンチップはその死に至るまで、ブラックハンドやディミトリエビッチの名前は明かさなかった。ただし、これまでの研究で両者が4月面会したことは確実である。
1914年5月初旬ディミトリエビッチはプリンチップ以下四人と面会し激励した。その時には国境警備隊への手配、武器の手配、サラェボ在住者の協力が確定し伝えられた。メフメド・バシッチを除く三人は5月28日、二重帝国への侵入を開始した。ほぼ同時期にサラェボにいたイリイッチにプリンチップらを受け入れるよう連絡された。
6月2日、ディミトリエビッチはブラックハンドの中央委員会にこの件を報告した。意図に反してタンコシッチ以外の全ての中央委員は反対した。これまでもブラックハンドは暗殺事件を企画したが対象が大物でなくまた刺客も信頼できる人物でなく失敗が予想されたため皆賛成したに過ぎなかった。この段階でセルビアが単独で二重帝国と戦争となるのは破滅的である。つまりロシアの参戦が必要だが、暗殺という手段はそれを危うくする。
ブラックハンド中央委員の大半はボスニア・ヘルツェゴビナの治安は良好でなく、セルビア人の抵抗は続いていると印象つける程度のテロには賛成だが、二重帝国が戦争を決意する程のテロには反対だったのだ。これが普通の人間の反応である。ディミトリエビッチは暗殺自体を喜びとする人物に変化したか、そのように生まれついたのだろう。世界は5月クーデターの時点から実は警戒すべきだったのだ。大規模なテロはこのように異常な人物によらなくては成功しない。
ともかくディミトリエビッチは刺客に暗殺の中止の使者をおくることに一応同意した。
この使者にはタンコシッチの配下でイリイッチを知るジューロ・シャラツが選ばれた。シャラツはイリイッチと会い、計画の中止とプリンチップら三人にベオグラードに戻るよう伝えた。イリイッチがこれを承諾したことは疑いないが、なぜか計画は当初のまま実行された。
サロニカ裁判
第1次大戦が開始された。セルビアは緒戦には勝利したものの、1915年11月マッケンゼンの攻勢の前に大敗し、その軍隊アルバニア逃避行を経てサロニカに到着した。この逃避行には民間人も同行した。民間人はアルバニアから各地に散ったが、既に成年男子の半数が死亡する大打撃を受けていた。
アレクサンダー王太子は後日1916年春コルフ島でディミトリエビッチと対決することを決めたとしているが、実際には1914年12月の連立内閣成立によりボヨビッチが陸軍大臣に就任すると、ディミトリエビッチとブラックハンドの政治的影響力は失墜した。ボヨビッチはディミトリエビッチを参謀本部情報局長から更迭し、マケドニア兵団参謀長に転任させた。
参謀総長プトニックは老齢のうえ病気であり、コルフ島に行く前にイタリーへ出発していた。後任には陸軍大臣のボヨビッチが就任した。ディミトリエビッチはまたもや庇護者を失った。
サロニカではセルビア軍はかっての16個師団から6個師団までに減少した。しかも連合軍の指揮はフランス・オリエント軍司令官サレイユがとることになりセルビア軍はその指揮下に入った。ディミトリエビッチは第3軍の参謀長となった。
しかし底辺ではアレクサンダー王太子とホワイトハンドのジブコビッチによってブラックハンドとディミトリエビッチを壊滅させる計画が進んでいた。この時までにブラックハンドの組織目的、セルビア外のテロ活動は現実的でなくなり組織の求心力は将校団の戦死の増大と目先の戦闘のため失われていた。
1916年12月、パシッチ政府(この時コルフ島にあった)はホワイトハンドの密告に基づきデミトリエビッチ、ブロビッチ、マロバビッチを逮捕した。容疑はアレクサンダー王太子の暗殺だった。併せてブラックハンドに属する将校は申告するよう命令され、そのうち数百名が拘束され尋問を受けた。アレクサンダー王太子暗殺はディミトリエビッチの指図によりマロバビッチとメフメド・バシッチ(サラェボ事件刺客の一人)が8月、路上から王太子の車にライフルで狙撃したとされた。この嫌疑そのものがでっち上げだった疑いが濃い。
アレクサンドル王太子とジブコビッチがディミトリエビッチの軍部での権勢を削ぐ目的があったことは確実である。そして当時の情勢として連合国はセルビア内部の混乱やサラェボ事件の真相解明を好まなかった。
裁判は1917年5月まで続いた。容疑は更に、5月政変時のクーデター未遂とブラックハンド加盟に伴う軍人宣誓違反が加わった。こういった公判の常としてかつてディミトリエビッチに忠節を誓ったものも除々に去っていった。ディミトリエビッチはサラェボ事件は自分が命令したものだと主張し、その愛国的行為にもとづき免責されるべきだと主張した。これは公判戦術としてサラェボ事件は訴因にないため当然のことだったのかもしれない。5月23日判決が言い渡された。拘禁されていた9名全員が死刑だった。判決理由はブラックハンドの規約自体がクーデター決起のための盟約にあたる、というものだった。
その後上級審に移されたが、死刑を宣告されたもののうち2名は減刑となったが、依然7名は死刑のままだった。そして閣議で死刑は3名、ディミトリエビッチ、マロバビッチ、ブロビッチだけとして残り4名は有期刑に減刑にすることをアレクサンダー摂政王太子に奏上することが決定され、裁可された。
1916年6月11日3名は処刑された。
恩赦上奏のための閣議の時、パシッチは戦局が悪化しておりサロニカ戦線の連合軍の崩壊は間近い、その時は二重帝国に和を請わねばならず、サラェボ事件の犯人に恩赦を与えることは得策でないと説明した。しかし、この時それ程戦局が切迫していたとは考えられない。この突然の弾圧の真意は謎である。
エピローグ
結果としてサラェボ事件とブラックハンドについてサロニカ裁判は多くの事を明るみに出した。有期刑に減刑された6名は休戦以降恩赦などにより出所した。そこでこの6名が驚いたのはサロニカ裁判の公判記録が原型を留めないくらいに改竄されていることだった。
セルビアではサラェボのテロリストを英雄視する空気が戦勝ともに強まった。むしろ反政府運動に使われたと言ってよい。ディミトリエビッチ英雄論が噴出した。
しかしアレクサンダー王太子のかたくなな姿勢は崩れなかった。これの背景にはアレクサンダー王太子とホワイトハンド首領ジブコビッチが男色関係にあり、二人の間で決まったことは取り消しできずに拘束する心理が存在したためとされる。
1929年6月アレクサンダー国王は憲法を停止、ジブコビッチを実質首領とする独裁政治を開始した。1934年アレクサンダー国王が暗殺されると後を継いだポール国王も独裁体制を維持した。この体制は1941年3月27日のクーデターで倒される。ディミトリエビッチの5月クーデターによって造られたカラジョルジェ王朝はここで倒壊した。ただ、その5日後、ヒトラーの軍隊はベオグラードを占領、第1次大戦以上の苦難をセルビア人に強いることになる。
ジブコビッチはその時いち早くイギリスに逃走、ロンドンに亡命政府を樹立し1947年死ぬまでその首班をつとめた。
一方、共産主義を標榜するチトー政権はむしろブラックハンド一味を真の愛国者と持ち上げる政策を取った。1947年サロニカ裁判の再審を決定、1953年でっち上げだったとの判決が下った。サラェボ事件について真の証言が表に現れたのは従って1953年以降である。現在まで続くユーゴスラビアの悲劇はそのテロによって成立したという原罪とクーデターとテロを容認また顕彰した歴史と無関係ではない。
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