ベルギー陸軍

ベルギーは永世中立国と自ら考えていた。政体は立憲君主制であり、文民政府が議会に責任を負い、国王は平時において政治上の権能を有しない。ところがレオポルド二世は、国王に忠誠を誓う、国軍を動員しコンゴに私領を設け、圧制を敷いた。他のヨーロッパ各国はこれに非難を浴びせ、ベルギー議会はレオポルド二世を退位させ、代わりに甥のアルベールT世を王位につけた。

1909年王位についた、アルベールはドイツを訪問するたびに、戦争のさい無害通行を認めることを要求された。これはシュリーフェンプランに基づくものだが、ドイツ軍事学の清華かもしれないが、極めてわかりにくい面があった。つまり、軍事作戦の目的から、ベルギー、そしてイギリスをも敵にまわすということは、普通の戦略家にとりわかりにくい。

アルベールT世は度重なる、ドイツの脅迫ともとれる要求から、王国に危機が迫っていることを認識した。文民政府に徴兵制を含み、常備軍増強を依頼したが、1912年に至りようやく認められた。内容は15ヶ月の現役期間で、他国に比較して短く、また服役の例外が多かった。

しかも正面装備まで予算がまわらず、機関銃と大砲は、ヨーロッパ最低水準の装備に止まった。

ベルギーはセルビアと並び、第一次大戦をもっとも早く経験することになった。1914年8月、シュリーフェンプランにもとづきドイツ軍右翼がゲメリッヒにおいて国境を突破した。アルベールは憲法上の規定でベルギー軍総司令官となり、徹底抗戦を呼号した。総動員後、陸軍は一個師団定員2万2千人の六個師団と一個騎兵師団の予定であったが、ドイツ軍右翼の怒涛の進撃に抗すべくもなく、約2ヶ月で全土をほぼ失う結果となった。

アントワープ撤退後、イーザー河に再終結したとき、兵員は 3万2千人にまで縮小していた。だがその後、国外にいるベルギー人にも及ぶ、18歳から40歳の全員徴兵制がしかれた。そして1915年末までに兵力は16万人にまで拡大した。装備はほとんど英仏から与えられた。しかし、1918年まで、洪水作戦をとり、イーザー=アルベール運河を開放したため、かえって前進もできなくなった。

その間、雌伏したわけだが、あくまで連合軍の統制に入らず、中立国の軍隊として独立した行動をとろうとするアルベールに文民政府は、ほとんど支持を与えなかったといわれる。

機会は1918年8月末、ベルギー人が百日攻勢と呼ぶ、連合軍第二期攻勢に訪れた。アルベール国王は、兵力28万人からなる白英仏軍からなるフランダース軍を率いて、連合軍最左翼から攻勢に出た。約100日間前進を続け、10月25日、ベルギーの古都、ブルージュの奪還に成功した。

ドイツ領東アフリカで戦ったイギリス軍とベルギー軍

独領東アフリカ、ンダンダ、1918年1月。

左ベルギー軍、右イギリス軍。先頭にたつのが両軍の将校。当時のヨーロッパの軍隊の南方軍装がみられる。

大戦期間中、ベルギー軍は一万四千人の戦死者と四万三千人の負傷者を出した。また植民地コンゴでは、約一万のベルギーコンゴ軍が、英軍と共同でレトウ=フォルベックの率いたドイツ領東アフリカ軍と大戦の全期間交戦を続けた。


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