オーストリア=ハンガリー二重帝国は極めて特殊な国家形態をもった。すなわちオーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねるという形で国家を統合していた。その王朝、ハプスブルグ家は中世から続く神聖ローマ帝国皇位を世襲し、ハンガリー王の肩書きは、ハンガリー最後のヤゲロン王朝の国王がオスマン帝国軍との戦いで敗死・滅亡する直前の遺勅で得た。
ところが、神聖ローマ帝国皇位はナポレオンによる脅威によって1804年フランツ二世が自ら放棄し、オーストリア皇帝を名乗った。もちろん、オーストリア人の皇帝を意味するものではなく、単にオーストリアに存在する皇帝を意味した。そもそもドイツ人は存在するが二重帝国の人口統計にオーストリア人はない。オーストリア皇帝の肩書きは重いものではない。
ハンガリー王国とハンガリー人は存在した。当然ブタペストを中心とする領域も存在していた。クロアチア人はハプスブルグ家とハンガリー人が妥協したとき、ハンガリー王国の属領となることを自ら選んだ。つまりハンガリー王国とはハンガリーとクロアチア=スラボニアを合計した領域を保有した。では残りの地域はなんと呼ばれていたか?
実はついに第1次大戦の敗北による滅亡まで名前が存在しなかった。
ハプスブルグ家はあくまでもドイツの王朝である。それは神聖ローマ帝国の成立のときから、東南の縁辺部に存在した。また、滅亡時の地図(上図)でも上下オーストリア・ザルツブルグ・スチリア・クリンチア・フォアアールベルグ・チロルの比較的小さな地域として原型を保っている。
それでも帝国がドイツ人の指導のもとにあったとはならない。二重帝国の閣僚の多くは最後まで大領主・貴族、江戸時代の大名のような人々で占められていた。これらの人々は国際結婚の結果、どこの民族とも判然とせずまたヨーロッパの主要言語が話せた。ただ先祖伝来の封地と城は二重帝国のどこかにあった。
ハプスブルグ家は、西ヨーロッパ諸国の多くの王朝と同じく中世の王家の延長である。ただ残りの王家は国民国家の成立とともに国民の王家となった。日本の古代王朝である天皇家が明治維新で同様の変貌を遂げたのと同じである。ところがハプスブルグ家は中世の王家の国際的性格をついに失わなかった。つまりオーストリア=ハンガリー二重帝国とは、ハプスブルグ家の私有不動産という面を最後まで残し、その国内的基盤を国民ではなく各国民を貫く領主階級とドイツ人に負っていた。
ハプスブルグ家は、その存続を国民国家特有の強さ、すなわち軍事力に頼らなかった。というよりも傭兵集団からなるハプスブルグ家の軍隊では近代的国民軍に勝利することは覚束なかった。これは、たとえ数で優ってもという意味である。それを、ハプスブルグ家の賢明な君主は外交と外国の軍隊によって補った。
人口構成(1910年政府統計):千人
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ハンガリーを除く区域 |
ハンガリー
(但しクロアチア=スラボニアを除く) |
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ドイツ人 |
9,950 |
35% |
1,903 |
10.4% |
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チェコ人 |
6,438 |
23% |
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ポーランド人 |
4,968 |
17% |
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ルテニア人 |
3,519 |
12% |
464 |
2.5% |
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スロベニア人 |
1,253 |
4% |
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サーブ・クロアチア人 |
788 |
2.8% |
Serbs 462
Croats195 |
2.5%
1.1% |
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イタリー人 |
768 |
2.75% |
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ルーマニア人 |
275 |
0.98% |
2,948 |
16% |
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マジャール人 |
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9,948 |
54% |
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スロバキア人 |
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1,946 |
10.7% |
この表は1910年二重帝国により実施された人口統計に基づく。方法は自己申告制で官吏の戸別訪問によったと言う。また人種区分の欄は固定化され、その他が設けられているだけである。統計自体が各地方議会に与える影響が大きいため、ある民族は自陣営取り込みを図った。例えばガリシアはポーランド人とルテニア人が優勢だが、ポーランド人はユダヤ人などをポーランド人と名乗らせることによりルテニア人より多く見せようとした。実際にはルテニア人がポーランド人を上回ることは確実である。ハンガリーに於けるマジャール人も同様の事情で増えている。
また、日本語・英語などで、ハンガリー人はハンガリー国内に住む人々・マジャール人はマジャール語を話す人々と区別されているが、マジャール語にそのような区別はない。また同じ衛生条件にあれば、所得の低い民族または農村部にある民族が確実に人口を増加させる。
すなわち、ドイツ人の人口は本来逓減するはずである。ところが二重帝国の統計はそうなっていない。これはどうしてだろうか?
二重帝国のドイツ人
二重帝国のドイツ人は民族名でなく階級名である。
18世紀の君主マリア・テレジアは、啓蒙君主だった。それでもその治世が絶対王政の時代だったわけではない。国民国家でない以上、絶対王政の方法はとれなかった。代わって行われた方法は、各民族があまり興味を示さない分野すなわち軍事・外交を中世からの貴族が独占し、内政を地方政府に任せることだった。すなわち地方政府と議会(Diet)が広範囲な自治権をもった。もちろん総督は宮廷から貴族が任命されたが、徴税権もなく別名軍事総督と呼ばれ軍団司令官を兼任するのが普通だった。
マリア・テレジアは、こうして統治方法を確立したが併せて啓蒙思想の普及を図った。啓蒙思想は中心となるもの、自由・民主・平等などとは別に、広範囲な科学技術も含んでいる。これらの知識はドイツ語を媒介として行われた。
ドイツ語が主として話される地域以外でも地方政府の所在地、また有力な都市での文書・会話は圧倒的にドイツ語が主流となっていった。これはフィリピンを除く東アジアで圧倒的に日本語の用語が定着しているのと同じ現象である。
現在の非ドイツ都市、例えばプラハでもドイツ語を母国語とする人々は70%を越えていた。ただ人口は1850年代20万人にすぎない。このように二重帝国の諸都市はドイツ的であり、多くの都市は地元語の名前の他にドイツ語の名前すら持っていた。
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ドイツ語 |
地元語 |
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プラーグ |
プラハ |
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ブリューン;Bruenn |
ブルーノ;Brno |
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オウフェン |
ブダペスト |
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アグラム;Agram |
ザグレブ;Zagreb |
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プレスバーグ;Pressburg |
ブラチスラバ;Bratislava |
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ライバッハ;Laibach |
リュブリアーナ;Ljubljana |
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レンベルグ;Lemberg |
ルウォウ;Lwow |
これらの都市の人々はドイツ語を話すが多くはドイツ民族出身ではない。周辺の農村から都市へ職を求め移住、数世代後、ドイツ語を母国語とするようになったに過ぎない。また二重帝国ではボヘミアと上オーストリアを除き工業はあまり発達しなかった。つまり圧倒的に農業国だった。そして都市は農村からすると国際的にみえたに違いない。ハプスブルグ家を脅かしたのは農民国家主義である。
しかし、行政機構の肥大化のせいだろうか、ウィーンとブダペストの2都市には帝国全土から人口が流入した。これらの人々も同じくドイツ語化することになる。現在でもオーストリア(国)の田舎ではドイツ姓が多く、反面ウィーンでは少ないのはこのためである。
また上欄にあげた都市は同時に軍団根拠地である。これらの都市はブタペストを除いて、1850年代に人口20万人を越えることはなかった。しかし、1個軍団とは少なくとも動員時5万人の軍隊である。これを以ってしても都市の機能とは工業・商業よりも行政・軍事の中心だという実情がわかる。
1850年代に初等教育が普及するまでは教科書もドイツ語しか用意されなかった。
だが軍事・外交で主導権をとったのは、ウィーンに伺候する大領主=貴族だった。貴族の出身は、構成する12民族全てに及んでいた。これら貴族の母国語は実はドイツ語でなくかつてはフランス語かイタリー語だった。貴族の子弟は乳母や家庭教師によって育てられるから、親が適切と思う言語が習得できた。ドイツ語が主流となるのは、19世紀に入ってからである。ところが貴族自体は出身民族の特性は失うが、モラビア出身の貴族はあくまでチェコ人ともなされた。ベルヒトルトは第1次大戦を引き起こした外交官だが、チェコ人という意識をもち母国語はフランス語だった。ただしポーランド人とハンガリー人の大領主は比較的民族特性を保存した。
これら貴族は第一階級と呼ばれた。そしてドイツ語を母国語とする下級官吏は第二階級とされた。この人々が典型的なドイツ人である。この二つ階級は相互のなかだけで婚姻を行う傾向があり、またハプスブルグ家を熱心に支える意識をもった人々だった。ちなみにヒトラーの父は上オーストリア縁辺部出身の自作農の倅で、のちに上級税官吏となった。これがドイツ人であり、都市部で職を求めるとはほぼ官吏の職を見つけるのと同義だった。
つまりドイツ人とは都市に住む中産階級である。
ハンガリー人
ではドイツ人と並び指導民族とされたハンガリー人はどうだったか?ハンガリーは1867年、二重帝国の名前で実質独立を果たした。しかしそれより以前18世紀にはその地位は確定しており、後はハプスブルグ家を王家として認めるか否かの違いがあったに過ぎない。
ハンガリーは江戸時代の日本と似た社会だった。ただ都市に住む町人と町役人(警察・道路局)がドイツ人であり、武士(郷紳)のみが上級官吏となる権利及び参政権を有していた。それとは別に日本の大名と同じくらいの数の貴族がいてウィーン中央政府で外交官・将軍として活躍した。
この武士(郷紳)階級は人口の5%を占め、小規模な農地を保有し小作に出していた。ただハンガリーは王家より固定資産税に当たるものは免除されていたし所得税もない。すると小作人は地代を支払わねばならないが、それは通常の固定資産税=土地代金の1%程度に過ぎなかった。永小作権は存在しないが、小作人は自作農とあまり変わらない。当然、ハプスブルグ家は農奴制を禁止していた。
それでは、国の費用はどのように賄っていたのだろうか?それは関税収入に頼った。つまりハンガリーに流入する物資(同じ二重帝国からのも含めて)に対し高率の関税(20−30%)を徴収していた。つまり輸入物資を購入する階層、武士(郷紳)とドイツ人(中産階級)への一方的課税である。しかしこの階級にも痛税感があるわけではない。
ハンガリーは農産物輸出国だった。つまり農産物を輸出し、それ以外の工業製品を輸入していた。またこの時代は消費者が簡単に国外に旅行できる時代ではなかった。
皇后エリザベート(フランツヨゼフ帝の后Euginie Amalie Elizabeth of Wittelsbach
1837-1898)
バイエルンのウィッテルスバッハ家からフランツヨゼフ帝に嫁いだ。エリザベートはむしろその愛称シシーで知られる。シシーはウィーンの宮廷生活になじめず旅行を好み、しばしばブタペストに滞在した。そして、ハンガリーの山野に乗馬することを日課とした。しかもそれに止まらず、二重帝国のなかのハンガリーの地位の向上に努力した。宮廷内ではハンガリーの特権的地位について常に異論があったが、シシーは断然ハンガリーを支持した。フランツヨゼフ帝も妻のアドバイスを無視することなく、最終的にハンガリー擁護に回った。
この事をハンガリー人は忘れなかった。第1次大戦の敗北後ハンガリー人は王国を維持し、ホルティ提督は国王なきまま摂政の地位についた。しかしハプスブルグ家最後の皇帝カールの復帰は断然拒絶した。シシーの血統でなければ受け入れることができなかったのだろう。現在でも多くのハンガリー人は彼女を最後の女王と認識している。また1956年のハンガリー動乱の際、ソ連軍の戦車に追われる50万人を越えるハンガリー難民をオーストリアは受け入れた。二重帝国の広大なトライスキルヒェン士官学校を難民施設とした。ソ連の反オーストリア宣伝のなかでの勇気のある国策だった。真の友邦とはそのようなものだろう。
この高率関税=保護貿易という政策は実は当時どの国でも最大の論争点だった。つまり保守主義と自由主義の対立である。保護貿易は一見非のうちどころがない政策である。租税収入の増加、国内産業の保護、貿易収支の好転といい事尽くめである。これが保守主義の立脚点だ。自由主義者は自由貿易を破壊し世界の交易を縮小させると批判する。
どちらも真実を全面的についてない。実は長期的にこの政策は国内のあらゆる産業を破壊する。つまり国内産業の競争力が衰えるのだ。短期的には製品価格が上昇するのである程度個別企業や個人事業主は潤うことになる。ところが、その製品は長期的に対外競争力を失ってしまうのだ。つまり原材料の輸入分は、製品価格に上乗せせざるを得ず、コストアップを招く。そして多少の彌縫策で打開できない。長期的には一人当たり国民所得が伸びない、経済成長率の低下として現れる。
高率関税、関税同盟、関税措置を伴う経済ブロック主義は必ず失敗する。
例えば韓国の自動車産業を見よう。この国は外国自動車の輸入について高率関税をかけ、一方輸入原材料については低率関税とした。これでコストアップは防げるように見える。ところが成功しないのだ。自動車の生産はある程度の台数が確保されねば成り立たない。すると国内販売では不足し外国に輸出せざるを得ない。ところが輸出市場で競争力を保有するためには、外国の販売網やデザインの定期的変更などのコスト要因が生じ、それは外国での利益で賄うことができない。ところが市場が狭隘だと国内販売でも十分コストをカバーできない。すなわち国内販売が多い=人口が多いという基礎的要因が欠落し、コストアップを狭い国内でカバーできないと言う要因のためである。日本も第2次大戦後の一時期この方針をとった。その後すぐ停止したが、破綻せずに済んだのは国内市場が巨大だったためである。
つまり彌縫的な策でも市場が小さく輸出依存度が高い場合は、この策は長期的に必ず失敗する。短期的にでも成功させるには国内の競争が可能な程の市場が必要だが、ハンガリーはその条件を満たしていない。ハンガリーには、ブタペストに地下鉄が走っていたにもかかわらず第1次大戦に至っても産業革命が起きなかった。
しかしハンガリー人は一見無税社会にいる錯覚に陥り、現状維持を目標とするようになる。
その他の民族
それでは普通被抑圧民族とされた人々はどうであったか?
ポーランド人とクロアチア人を除くスラブ人は抑圧されていた、つまり二級市民として扱われていた。だが抑圧する対象は異なっていた。ルテニア人はガリシアでポーランド人を敵とみなした。しかしポーランド人は両側の強敵、ドイツ人とロシア人と対決せねばならない宿命を負っていた。ポーランド人は常にルテニア人に宥和的に臨んだ。
チェコ人とスロバキア人は農村に住む。農地はチェコ人貴族の所有であるが自作農も少なくない。ところがチェコスロバキアの山岳地帯(ズデーテン)でドイツ人が近代的工業を開始した。多くはドイツ人が経営していた。また都市は全てドイツ人が優勢だった。チェコ人の目標はドイツ人に追いつくことに置かれた。
ルーマニア人は、ハンガリー人を敵とした。ルーマニア人が多く住むトランシルバニアはハンガリーの大領主が土地を所有していた。ところが政府は固定資産税を要求せず。また農地は大量に余剰だった。つまり小作料は低く、農民にとり母国ルーマニアより良い条件だった。
イタリー人はどうか?イタリー人はクーステンラントと南チロルに住む都市生活者だった。イタリー人は啓蒙思想の取得にドイツ語は必要でなく、都市を自ら運営することができた。かつ周辺に住む、スロベニア人とドイツ人より出生率が高かった。イタリー人はイリデンティズム(未回収のイタリー運動)などやらずとも、南チロルから時間の問題でドイツ人を追い払うことができただろう。
スロベニア人は最少数派であるとともに地理的にドイツ人に囲まれている。スチリアやカルニオラではドイツ化が進んだ。もし第1次大戦がなければ、スロベニア人は消滅した公算が強い。
そして最後にセルビア人である。セルビア人はあくまでもハプスブルグ王朝を直接の敵とみなした唯一の人々である。大多数のセルビア人はボスニアにいる農民だった。ここは地主がイスラム教徒で規模が小さい。このため隷属の度合いが強かった。ところがイスラム教徒と言っても、サーブ・クロアチア語を喋る人々で民族的な差はない。このため、現状への不満は母国への統合を認めないハプスブルグ王朝だと考えた。
この少数だが強力な反ハプスブルグ勢力であるセルビア人がテロの手段により最終的に二重帝国を破滅に追い込むことになる。
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