ー アントワープ攻防戦ー 海へのレースといっても終着点については、じつはドイツ、ベルギー軍間でマルヌ会戦以前から戦闘が発生していた。
ベルギー軍のアントワープへの集中
アルベール国王は、リエージュ要塞の陥落のあと、8月20日、ベルギー軍6個師団のアントワープへの集中を命令した。フランス軍のジョフルはベルギー軍がそのまま後退して、フランス領内に入ることを要請したが、国王にとって、戦わずベルギー領土を明け渡すことは出来ない相談だった。
だがベルギー軍のアントワープへの集中はジョフルも予想出来なかった効果をもたらした。ドイツ軍はマルヌ会戦の直前、予備第3軍団と海兵師団をシュリーフェンプランにもとづく片翼包囲部隊から切り離しアントワープへの「抑え」として配置した。6個師団にたいする3個師団で、その程度でなければ抑えにはならない。
アルベール国王はシュリーフェンプランの本質を見抜いた数少ないうちの一人であり、ドイツ軍をより引きつけるための出撃を企てた。8月24日、マリネ("Malines"ブラッセルとアントワープの中間)附近の出撃は3日間の戦闘のうち退却した。9月9日、市から10マイル離れたビルボールデに出撃した。そのあと、マルヌ会戦が現出した。9月26日、マリネが陥落した。9月27日、最後の出撃を敢行した。
9月27日からビッグバーサ13門を含むドイツ軍重砲隊が、モーブージュから到着、アントワープ外周堡塁への砲撃を開始した。それまでに、さらに2個師団がベーゼラーの指揮下に入った。
9月28日、セントカタリナ堡塁が奪取された。それを手始めに外郭防衛線にある堡塁が次から次へと陥落した。
10月1日、アルベール国王はイギリス政府に3日以内にアントワープを撤退すると伝えた。
10月3日、チャーチルが特別列車で到着、アルベール国王にアントワープに踏みとどまることを要請した。だが国王は退路を断たれる形勢であり、4日までにシェルト川西岸に全軍撤退すると伝えた。その日、ドイツ軍は外周線を突破した。
ベルギー軍の堡塁守備体制は徒に旧弊なものであった。アントワープ要塞は、ブリアルモンによって設計されたものであり、1959年に完成した。隠顕砲の装薬は黒色火薬であった。堡塁の周辺には建設以降、民家や林が出来ていた。要は、要塞は放置されていたのである。ベルギーは1848年条約により永世中立国となった。そうすると国防強化は周辺国家を刺激するのではないかという世論が生じ、軍事費は財政悪化も加わり、年々低下していったのであった。
ドイツ側はこのベルギーの国防弱体化を計算しており、戦わず屈服するとみなしていた。ところがベルギーを突破してフランスに向かったものの腹中にある小さなベルギー軍をやはり無視できなかった。
ベルギー軍が要塞周辺の民家や林を取り壊すと、あたり一帯に遮蔽物はなく、堡塁は遠方からも見渡せた。要塞砲を発射すると堡塁全体が黒煙に覆われ、遠方からでも所在が確認できた。さらに堡塁内部では黒煙が逆流し、砲手は息をつまらせた。擁壁はドイツ軍重砲の破壊力によってたちまち射洞された。
イギリス軍の到着
10月4日、イギリス海兵師団第1陣が到着した。この部隊が、ベルギー軍撤退の殿軍の役割を果たすことになった。チャーチルは海軍大臣でありながら、24時間、自ら指揮をとった。この行為はあとになり「目立ちたがり屋」の行為として非難された。しかし、ベルギー軍の撤退と連合軍の大西洋への到達のための時間を稼いだのは間違いない。
ただし、イギリス海兵旅団の質は優れていたとはいえなかった。2週間に1度訓練を義務付けられた海軍省管轄のテリトリアル部隊が中心であった。この部隊は各鎮守府の友の会のような性格で、海兵はカッターやらロープの結び方やらの訓練しか受けていなかった。当初設立目的は飛び乗りによる格闘であったので、海戦が砲戦が中心となると存在意義がなく、海軍は「海兵」という名前とともに温存しただけであった。
第一次大戦勃発とともに50歳以上の海軍将校退役者を中心に召集して旅団としたもので、装備が旧弊であるうえ、兵士はライフルの訓練すら受けていなかった。この他にオステンデで、オックスフォード・フサールテリトリアル騎兵連隊が控えた。
この連隊は、チャーチルの出身であるマールボロ公爵家領地の自作農によって結成されたもので、別名ヨーマンリー騎兵または農騎兵連隊といわれた。ともあれ、チャーチル家の私兵の色があった。
この日、ベルギー軍は師団ごとに撤退を開始した。
10月5日、ベルギー軍の動ける範囲はアントワープからオステンデの海岸線に沿った幅100キロ程度の回廊に過ぎなくなった。ドイツ軍はアントワープ要塞外郭防衛線を完全突破、南東20キロのリエール(Lier)を占領した。さらにシェルト川渡河を試みた。
10月6日、アルベールは皇后エリザベスとともにアントワープを出発し、途中汽車に乗り換え、オステンデに到着した。この日までに50万人の市民が難民となって、オランダやゲント・ブルージュ方面に向かった。
アントワープの兵営の門でベルギー軍退却を見守るアルベール国王
中央、首を傾けている人物である。右では従軍僧が武運を祈っている。
アルベールは第一次大戦で唯一国軍の最先頭に立って戦った国王であった。10月7日、ローリンソン指揮下のBEF第7師団の一部がブルージュに入り、ベルギー軍との邂逅に成功した。ベーゼラーはスペイン観戦武官を仲裁者にたて、守備隊長デギュイーゼ(Deguise)将軍に降伏を勧告したが拒絶された。この日、イギリス海兵旅団が2個旅団増強され、堡塁の守備についた。
10月8日夕刻、イギリス海兵師団もアントワープ撤退を開始した。あとになって増強された旅団は36時間しかアントワープにいなかったことになった。
アントワープはシェルト河口にあるが、川幅は1キロを超えた。ベルギー軍はポントゥーン橋を架けており、撤退と同時に爆破した。この爆破は過早に過ぎ、また徹底性を欠いていた。
イギリス海兵のうち2500人が橋を渡ることが出来なくなった。この結果、1500人がオランダに抑留され、1000人が捕虜となった。ドイツ軍は橋を30分で修理し、西岸に続々と渡った。
10月9日、ベルギー軍本隊、イギリス海兵師団、第7師団はゲント=テルノイツェン(Terneuzen)運河西岸に達し、そこで守備についた。ジョフルは全体をさらに西へ移動させることを要請した。フランス軍最北を守備するフォシュは、ベルギー軍のニューポール・ディクスミューデ・イープルへの布陣を決定、さらにグラブリン運河の水門を開放、水攻め作戦を示唆した。
ドイツ軍の入城
10月10日、アントワープ市長デヴォス(De Vos)は市の降伏を申し出た。それまでにベルギー軍本隊6万5千は海岸沿いの回廊をつたって脱出した。アントワープの内郭守備線にいた民兵部隊2万5千はオランダに脱出し、そこで抑留された。
同日、ベーゼラーは、6万の部隊とともに市内に入城した。出迎えたのは市役所の役人ばかりであった。
ベーゼラーは"Ein solche Festung und kein General"(一人の将軍もいないこんな要塞)と嘆いた。そのあとデギュイーゼ将軍が、一人の副官と一人の従兵を連れて現れた。その日のベルギー軍捕虜はこの3人だけであった。