チャーチルは現在でも戦間期イギリスを代表する好戦論者とみなされている。また反ドイツ主義者であり、植民地主義者だと。
チャーチルはベルサイユ条約調印後、ロイドジョージ内閣の下陸軍大臣となった。その時省内部で使用する便箋に反戦論を書き付けていた。以下はその全文である。
あらゆる時代のあらゆる残虐性が1ヶ所に集められ軍隊だけでなく国民全部がその渦中に投ぜられた。教育制度が進んでいる国ほど自己の存在そのものが危機にさらされていると考えた。
国民も政府も戦いに勝つ一助となれば手段を選ばなかった。ドイツは地獄の扉を開け放った当事者として、もちろんテロ行為の先頭に立った。しかしドイツの攻撃の対象となった国々も必死となり、最後は復讐の念にかられて同じ行為に走った。
人倫にもとり国際法を無視した行為はしばしばそれに倍する報復を招いた。一時停戦も司令官会議も軍隊の戦闘行為を緩和することはなかった。負傷者は戦場に放置され戦死者は泥まみれとなって朽ち果てるにまかされた。
商船も中立国船舶もそして病院船までもが公海上で撃沈され乗員は艦と運命をともにするか泳ぐ間に力尽きて死んだ。
年齢や性別に関係なく敵対国の国民を餓えに追いやり屈服させるためにあらゆる手段がとられた。都市や歴史的建物は砲撃で破壊され、無差別爆撃が敢行された。
各種の毒ガスが散布され、兵士たちをあるいは窒息させ、あるいは皮膚を焼け爛れさせ、倒れた兵士に更に火炎放射器により劫火が浴びせられた。多くの飛行士が空中で火達磨となり墜死した。潜水艦乗組員は深い海中で緩慢なる死を迎えた。
軍隊の戦力には各国の青年男子全員が動員されヨーロッパそしてアジア・アフリカの一部が戦場となった。そして何年にもわたる戦闘の結果軍隊だけでなく国家も消滅してしまった。
全てが終わってみれば文明的で科学的なキリスト教国家がなんとか回避できたのは拷問と人食いだけだった。それも手段として疑問符がついたからに過ぎない。
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戦間期のイギリスでは最も反戦論=平和主義が盛んだった。そしてそのイギリスが覚悟を決めて開始したのが第2次大戦だった。この逆説をどう考えたらよいのだろうか。
またチャーチルが指摘するように教育が進み、文明的かつ科学的な国が最も大量の残忍な殺人ゲームに熱心に参加した。これも進歩という点で逆説的ではなかろうか。
チャーチルはコンスティテューショナル(原則)主義者という名前の自由党員(リベラル)としてこの時入閣していた。その後保守党に復帰するが、これもコンスティテューショナリストの自由党議員を率いた上での行動だった。自由党はアスキスとロイドジョージの間で分裂し更に自由党の原則すべてが何か古臭く感じられる時代となっていた。
ただ保守党が国家主義を、新たな労働党が社会主義のスローガンを掲げる時、自由党の居場所がなくなりつつあった。すなわち国家主義者や社会主義者の唱える重い政府・官僚主導の行政・炭鉱の国有化がなぜか当然の解決策と思われた時代だった。
この中でチャーチルが孤立して行くのは無理がないとも言えた。チャーチルは労働運動やインドの独立運動に根本から反対ではない。ただ暴力化することを防ぎたかったようだ。暴力的分離独立運動や暴力革命を支持する人間に反戦を訴える資格はあるのだろうか?もちろん統一や併合を求めテロを実行することはそれよりも資格がない。ただ彼らは反戦を訴えることもしないようだ。
教育の普及、社会福祉の向上、貧困の除去でテロが根絶されることはない。むしろ教育のある中産階級は決死のテロリストを生み出す母胎だ。また復讐の繰り返しになると言う理由で弾圧をためらえば、同一団体・個人が再度テロを繰り返す。これは歴史的事実である。
それでは、ドイツ問題にどう対処すればよいのか?チャーチルのヒトラーに対する認識は社会主義者というもので、国家社会主義はレーニン主義の双子またはその醜い嫡子とみていた。
ヒトラーについてチャーチルは早くから相当に興味を持ち研究したようだ。ただ、チャーチルは国家主義が民族主義や人種主義と結合すると極めて危険になるという点にいち早く気づいたが保守党の大勢を動かすことはできなかった。チャーチルが主張するミュンヘン会談でのヒトラーへのチェックは軍事的に遅すぎ、ラインラント進駐阻止がラストチャンスであった公算が強い。しかしイギリスの世論はこれを許さなかった。それでも第2次大戦後、平和を守るためには、時には小さい戦争が必要だとイギリス世論は納得したかのようだ。
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