上海抗日救国運動と幣原外交の終焉


満州事変勃発に伴って、上海の中国人は「上海抗日救国連合会」を有志120名で結成次のように決議した。

この連合会は実質共産党の指導下にあり、プロパガンダの意味があってこのような決議を行ったものであるが、撲殺は穏やかでない。中国が異常な点は、このような私的制裁を加える決議にたいし政府が暗黙の了解を与えることである。

また、責任者にこの決議の本質を問うても言葉だけだと言う返事がある。ところが実際に殺人まで発展するケースは数多かった。

清末以来、日本の綿紡績は低廉な人件費を求めて、上海に工場を設置した。この事自体は民事行為にすぎない。また、この時の当事者の言葉通りで、中国に始めて近代的工場を持ち込んだのは彼らであろう。現在でも香港その他の華僑資本でこの時分、日本人と起業をともにしたケースは多い。ただ、国外に工場を建設することに伴うカントリー・リスクはその私企業が負うことを忘れてはならない。

ことの問題のきっかけが、満州事変でありそのやり方、満州の帰属、普段の労務管理だったとしても、対外直接投資が私企業のリスクという観点はいささかも変わるものではない。

これにたいし、商工会議所および居留民団は幣原外相に抗議電報を打った。

これは、武力行使を求めていると理解できる。

幣原、外務省は消極的で、南京政府に抗議文を送っただけだった。同時に、在住の日本人に引き上げ勧告を行った。

商工会議所と居留民団は反発した。

そして満州事変勃発から3ヶ月、1931年12月若槻内閣は総辞職、幣原外交は崩壊した。

このような事態に直面した時の外交はどうあるべきなのだろうか?その年の総選挙では民政党は幣原外交、政友会は派兵を含む強硬外交を主張した。結果は政友会の圧勝だった。

吉田茂は幣原外交のわずかな中断のとき外務次官であり、対中国強硬外交を実施した。しかしその外交方針は、実際のところ幣原と同じでありそして1931年から軍部外交が開始されたと言う。この言葉は以降、外務省が軍部の意見を聞くようになったという点では事実かもしれない。しかし担当したのはわずかな例外を除き職業外交官だった。すなわち主流は広田・松岡・東郷である。この三人とも少壮官僚あがりが共通している。生まれもいわゆる名門ではない。1931年12月に日本外交は明らかな断層がある。

中国抗日救国連合会の主張は現在の視点でも過去でも法治国家として許されるものではない。独立のためであれば外国人やその関係者をリンチにかけてよいのだろうか。しかも実際には中国は既に独立していた。中国各地の大都市にある租界などは治安目的で警察権を外国人参事会などが握っただけで、中国人の流入や不動産取得は自由でありそこの人口の大半は中国人だったのだ。

日本の選挙民は中国の自国の法令すら無視する態度に怒っていたのだ。ただ、この怒りに正当性があるかは疑問である。それは満州事変ではなくて、対外直接投資は常にそのようなリスクを内包するからだ。現在の中国政府は北清事変における暴徒の外交官・宣教師の襲撃を植民地運動に反対した正しい行為だとし、ローマ法王庁や米国と論争を行っている。これは公知の事実であり、今後、日本国政府が中国(共産)政府と対立した結果、投資が危険にさらされたとしても、これは政府やその時の選挙民の責任ではなく、投資した側にあることは銘記されねばならない。

マルクス主義者は中国(共産)側の主張を繰り返し、日本の国家主義者は太平洋戦争を日本の欧米植民地解放運動とみなすから独立主義者のテロをも許容する。だが対外投資が帝国主義的進出とみなす論法を認めたとして、今中国の共産党政権はなぜ日本企業の進出をインバイトしているのか?またアメリカ企業はなぜ中国に進出しようとしないのか?

ここからは戦間期のマルクス主義や国家主義という古い主義で捉えようとすることが無理なのだ。


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