米軍の来着情況
1917年までの到着 5個師団 うち戦闘配備 1個師団(1)
1918年2月までの到着 1個師団 戦闘配備累計 3個師団(1.26.42.)
4月までの到着 2個師団 戦闘配備累計 3個師団(1.2.3.)26.42.は再び訓練
6月までの到着 15個師団 戦闘配備累計 3個師団(変わらず)
7月の到着 5個師団 戦闘配備累計 11個師団
8月の到着 6個師団 戦闘配備累計 11個師団
9月の到着 4個師団 戦闘配備累計 24個師団
10月の到着 2個師団 戦闘配備累計 28個師団
米軍は10月までに累計40個師団、100万人を送り、28個師団を戦闘配備に着けている。欧州到着から訓練に平均3ヶ月をかけた。1年で100万人と言うにはやや遅いが予定通りだろう。
英軍の情況
イギリス軍の1918年3月の配備は5軍体制58個師団を標準とした。内正規軍6個、テリトリアルなど6個、新軍・徴兵軍36個カナダ他10個だった。ただし英軍はこの時充足されていない師団が多い。ただし本国に75万人の補充部隊が確保されていた。
仏軍の情況
フランス軍は大戦中の損失を十分に埋めることはできず、西部戦線に合計99個師団を保有するものの、現役師団は60個にすぎず、かつ相当数の後備兵を混入させていた。そして充足率も悪く最低で1万人を切る師団があったという。これは60%を割り込む。
1918年3月、連合国の情況総合
他にベルギー軍12個師団があるが、国土を奪われたため補充がきかず充足率はこれも十分とは言えない。ポルトガルも2個師団派遣していたが訓練に問題があった。3月総合計は米軍4個師団として175個師団だった。それに米軍の増強が月をおって加わることになる。
ドイツ軍の情況
ドイツ軍は徴兵年次の人口が多いという有利性があった。このため英仏合計に優る兵力維持が可能で西部戦線の総兵力は204個師団、ほかにロシアに54個、トルコに1個、バルカンに1個、イタリーに11個師団あった。総合計で271個師団になる。そして4月に至ってもほとんど充足されていた。そしてカイザー戦による損耗により西部戦線の師団数を圧縮し172個としている。
フランス軍は戦後、1918年のドイツ軍の消耗の証拠として7月からの司令部付きの戦略予備を減少させたこと(81個から31個)をあげるが、これは攻勢時の直協部隊の数字の減少にすぎず、守勢にたった場合意味のある数字ではない。むしろ攻勢中でも60個師団の総予備を保有しながら戦った自らの作戦を称揚すべきだろう。
連合国の最終攻勢でドイツ軍の捕虜は36万人に達した。これは確かに前例を見ない数字だ。しかし204個師団400万人の軍からみれば果たして多いのだろうか。最終攻勢中に連合国が量で勝っていたことはない。またサンミエル突起部を除いて、非組織的にドイツ兵が投降したこともない。
つまり、ドイツ軍が1918年10月までに30個師団(60万人)相当損耗しても、全戦線でまだ240個師団残っていた。これは西部戦線の連合国総量を確実に上回る。もちろん西部戦線だけ置くという訳にはゆかないが、第1次大戦でドイツ軍は最も頻繁に東西に輸送を行い成功させている。ホフマン(東部軍参謀長)は東部戦線にいるのは後備兵ばかりだと言っているが、現役師団に後備兵を混入させているフランス軍よりは上だったと思われる。そして英仏軍も損耗していた。
兵力の伯仲
ドイツ軍と英仏軍がカイザー戦でほぼ同量の被害(概ね100万人:35師団程度)の受けたとすると、攻勢終了時、攻勢開始時のドイツ軍の優勢(32個師団前後)がほぼ維持される。ところがアメリカ軍は9月に28個師団を前線配置している。
そして連合国の第1期攻勢(8月8日開始)でドイツ軍は大量の捕虜を出しており、そこではドイツ軍の被害が上回る。
これを総合すれば連合国の第1期攻勢開始時点で数量ではまだドイツが優勢だった。そして第1期攻勢の終了時ではアメリカ軍の前線配置とドイツ軍の損害により連合国が数的に優位にたったと推定される。しかしこれは師団数を基礎にしており、充足率ではドイツ軍がよかったのではないか。
それではなぜドイツ軍が敗北したのだろうか。
第一はルーデンドルフの作戦失敗とそれによる心理状態だろう。カイザー戦は旧来の方式に従い、そして失敗した。連合国の最終攻勢はフォシュの多点攻勢という新方式で成功した。ところがルーデンドルフはこの失敗について戦後の回想録でも認めていない。
ドイツ軍の質の悪化と銃後の非協力が連合国の最終攻勢を成功させたという。ルーデンドルフは旧来型の戦術家としては優秀で、自分の様式に反する方式を認めたくなかったのだろう。そして心理的に追い詰められ、打開の道を謀略で図ろうとしたのではないか。それが14ヶ条提案の受諾ではないだろうか。
第二にはやはり米軍の到着だろう。現在の数で優っても、全くの新軍の投入はインパクトがある。ドイツ兵は米兵と向かい合ったときのショックを語っている。
ヒンデンブルグは回想録で1918年6月の心況を記した。
「残念だが(第3次攻勢までの)作戦は、軍事上も政治上も敵に致命的打撃を与えるのに失敗した。敵はすこしも降伏の意思を見せなかった。今後の我が軍の失敗は我々の破滅を望む敵の希望を増大させることになる。敵側の政治組織は鉄帯のように強固に団結し国家の戦争意思を保持している。また戦争反対者にたいしては専制的に弾圧していた。
食料不足による飢餓、および空中ビラ散布による敵の宣伝は従来結束していた意見の不一致をドイツ国内で招き今後危険な要素となることが予想された。そしてアメリカの参戦に関しても従来にない意見の違いが生じた。そしてシャトウ・チェリーにアメリカ軍が出現するに及び大本営でも不安が生じた。」
ところがルーデンドルフはこういった心理要因を認めようとしない人物だ。また、戦術的退却命令を出しても、厭戦気分・敗北気分を生じるとは考えなかった。またこういった兵の心理を捨象したところにドイツの軍事学はある。ところが、西部戦線にいたドイツ兵の半分はすでに4年以上現在位置死守で戦っていた。ここで後退命令を出せば、敗北と認識するのは明らかだろう。
ドイツ軍の1918年秋の後退はとても敗走といえるものではなく、組織だった撤退だった。だがこの疲れた軍に再度戦わせることができたとは思えない。ただこれらは心理や雰囲気を説明しているにすぎない。
根本理由としてはドイツに、ロンドンやワシントン・東京を攻め落とせる実力はない。ところが連合国はベルリン到達が射程内にある。この形勢では、いくら戦闘で勝利しても交渉ではドイツが譲るしかない。すなわち、ドイツは妥協による部分的勝利しかなく完全勝利は不可能だ。そのためには交渉が必要だ。文民政府どころかこのとき参謀本部にいた軍人以外はすべてわかっていた。おそらく前任のファルケンハインは3年前にこの事を承知していただろう。ルーマニアにいたマッケンゼンも交渉の必要を訴えたという。
だがドイツがベルギー占領を固執する限り、妥協による平和は難しかった。
ドイツ軍部はベルギーを自国の防衛のため必要だと主張した。これはそれ自体で奇妙な主張だ。ベルギーを領土に加えることはフランスとの共通国境を増やすばかりでなく、イギリスとも実質向かいあうことになる。防衛自体はかえって困難を増す。これはアルザス・ロレーヌで、46年間要塞建設に明け暮れたのと一緒だろう。もちろん英仏にたいする脅威を増加させるのは事実だ。しかし攻撃のための跳躍台確保のため、他国を滅ぼすというのは、主張に無理がある。だが文民政治家が主張すると無理でも国民が偶像視している将軍が主張するとそれなりに聞こえる。
前進政策
最後は軍事独裁というドイツの環境(これも必然とは思えず、タンネンベルグの僥倖による勝利とルーデンドルフの個性によるところが大きい。)に問題があり、それを当初から指摘していたアメリカ政府の慧眼を評価すべきかもしれない。
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