8・13外務省機密日誌


外務省には世界各国のメディア、外交使節からの情報などが集まり、選別のうえ、局長以上外務大臣までその報告があがる。そしてそのうち多くは30年後情報公開される。これはテーマ別に仕分けされる。次の表は「支那事変関係」として綴られた一件書類にうち1937年8月13日およびその前後日のものである。

8月12日
  • 日高(信六郎、駐南京参事官)午後3時半、(中国外交部)往訪、陳次官と会談。(上海の)保安隊撤退と防御施設の撤去を要求
  • 岡本(季正、駐上海総領事)停戦共同委員会出席
  • 保安隊、北停車場より陸戦隊本部150メートルの地点に侵入
  • 88師、入滬(上海周辺地区)
  • 陸戦隊午後7時警備につく
  • 北四川路、スコット路、狄思威路、(周辺居住者へ)中部小学校へ引揚命令
  • 上海全周、保安隊に包囲さる
  • 午後1時朝日(新聞)岡美千男、保安隊のため拉致
  • 憲兵軍曹大前旭、通訳熊野敏行方不明
  • 午後10時、日高・イタリー大使会談(7月29日、イタリー軍兵士が流れ弾により天津で死亡した事件の後処理と思われる)
  • 日高、ベック(アメリカ大使館書記官)に電話、支那側部隊引き下げ斡旋申し入れ
  • 深更支那外交部声明を発表
8月13日
  • 岡本・ロング(租界工部局長官)会談、上海中立問題、上海危機回避のため尽力を約す
  • 日高、王外交部長往訪
    (夕刻、閣議で動員下令決定)
8月14日
  • 午前10時支那爆撃機、わが軍艦・陸戦隊本部に爆弾投下
  • 工部局非常警戒
  • 支那、揚子江に機雷敷設
  • 空爆猛烈、 陸戦隊本部・日本人小学校・浦東スタンダードオイル・米国極東艦隊旗艦オーガスタ・新世界・カセイホテル・パレスホテル
  • 広東・芝罘に引揚命令

( )内は付加

外務省の脳天気に驚くべきだろう。8月13日には上陸(シャンリク)本部周辺には88師が殺到し激戦が展開されていた。その日、わが外交使節(日高信六郎)はまた同じく何も知らされていないと思われる中国外交部と交渉を行っていた。外務省が蒋介石が上海租界に真面目な攻撃を仕掛けてきたと認識したのは表からは8月14日からにみえる。

20世紀における国家間の戦争開始時、すなわち自軍が計画にもとづいた組織的な攻撃を受けながらこのように、戦争が開始された事実に気づくことなく、一国の代表が敵の外交責任者に戦争回避を依頼し続けるのは稀有の事態である。

これでは真珠湾攻撃を受けた米国国務省が12月8日駐日大使を攻撃回避を求めて、日本外務省に会談に赴かせるのと同じ状態である。

1937年夏の上海租界虹口

8月12日外務省は居留民に避難命令を出した。対象は北からスコット路(施高塔路)、狄思威路、北四川路に住む居住者である。地図ではピンク色の道で、幅10メートル程度の両側に5・6階建ての雑居ビルが立ち並んでいた。先鋒となった88師は北停車場に集中、その後東と北に部隊を展開させた。これは陸戦隊本部ビルを包囲する形だが、南への補給路は空けていた。つまり租界内で激戦が発生したのは、この3本の道路上で発生した。外務省は予定戦場を的確に予想したことになる。これは偶然だろうか。

考えられる説明は二つあり日本軍が何らかの手段で国府軍の作戦計画を入手していたか、または嚮導の方法により陸戦隊が国府軍をその3本の戦場に追い込んでいったかであろう。実際には前者と思われる。市街戦は軍隊にとり双方望む形ではない。つまり攻める国府軍にとっては、市街は障害物の多い攻めにくい場所であり、日本軍にとっては居留民や日本人財産の集中する地区でなるべく破壊を避けたい気持ちがはたらく。国府軍の真の狙いは陸軍の主力を市街地でない黄浦江沿いに上陸させゼークトラインを攻めさせ消耗戦を挑むことにある。この目的からすれば、陸戦隊本部攻撃は陽動作戦にすぎない。

ほとんどの戦争は宣戦布告や最後通牒期限切れなどの手段を経ないで開始される。外務省はこういった際の危機管理手段を全く持っていなかった。近代的官僚組織として職責に欠けるとしか言いようがない。もちろん、この結果について広田弘毅以下革新外務官僚は責任を問われるべきだろう。せめて租界への無差別爆撃の問題と真の標的が日本の(合法の…日中間の条約にもとづく)軍事施設に向けられていることを諸外国に訴えるべきだった。またこの数日後、広田外相と石井射太郎東亜局長の間で宣戦布告を行わないことが決定された。これはアメリカの中立法、交戦国への武器輸出禁止を避ける目的だったとされる。

蒋介石も同じことを考えたとされるが、蒋は自ら攻撃をかけたのだから宣戦布告を行わないことには十分な理由がある。この必要が日本にはなく、また武器自製能力の点ではるかに中国を上回る。日本はアメリカから武器の完成品の輸入はほぼなかった。もちろん武器の範囲が石油に拡大されることを恐れたのかもしれない。しかし、石油は当時蘭印からの輸入が相当量あった。またアメリカの石油の採掘コストは当時すでに高かった。このため、最大輸出先の日本を失うことは採掘業者(採掘リース権者)が金利など固定費が払えないことを意味する。すなわち石油業とは厄介な業種で買い手は普通非常に強い立場にたち、アメリカが簡単に石油を禁輸できるものではない。

上海派遣軍の松井石根は初めから、宣戦布告をすべきだとの意見をもっており、陸軍がこれに反対する理由は乏しい。宣戦布告を行わなかった理由は不明だが、外務省の失態である公算が強い。これも外務省は現在に至るも責任の所在を認めていない。

更に奇怪なのは国府軍の異動について無線解読によりほぼ正確な情報を得ていたと思われる陸軍参謀本部が全く外務省に報告を行っていないことである。当時参謀本部はロマンだけで現実的な政治判断ができない人物、石原莞爾に握られていたとはいえ、この縦割り行政は邦人の生命財産を考えると異常と思える。ただ陸軍は陸戦隊には連絡を入れており、それが88師の上陸(シャンリク)本部への奇襲を防ぐ結果となった。石原は戦後になって陸軍の上海への派遣は事前の陸海軍協定のためだったと、自己の混乱を弁明している。現在に至るまで、文書としてはこの種の協定の存在は確認されていない。あるいは、この情報の交換をさしているのかもしれない。また石原は陸軍の派兵(集中・開進)は奉勅命令によらねばならず、動員は文民政府と議会(事後)の承認が必要なことを全く考慮していない。クーデターを成功させた人間なら当然かもしれないが。ともあれ軍人としてあまりの混乱に驚かされる。

戦争の開始は軍人が一番早く知る、は一般的真理である。また当時の当事者主義すなわち日中間の問題は日中間だけで片付けるべきだとする大アジア主義者(石原・広田)のメンタリティを問題にすべきかもしれない。

日高信六郎はこの時、南京に滞在していた最も高位の外交官だった。中国外交部と8月13日を挟んで精力的に活動しているが、この時中国外交部が蒋介石の開戦意図を知っていたかはっきりしない。いずれにせよ蒋介石は外交官のなかで顧維均(この時、国際連盟に派遣されていた)にしか信頼をおいていなかった。またこの時外交部に日本側から調略の手が伸びていた可能性は否定できない。いずれにせよ蒋介石に宣戦布告を行う意図は全くない。これは以降ブラッセル会議などで各国の不信を招くことになる。それでも、日本が中国側の非をなぜ国際社会に訴えなかったのか疑問が残る。

ただ当時の外交官は一般的に陸軍の行動や高位軍人の発言に信頼を置くことができなかった。これは張作霖爆殺事件、満州事変、錦州爆撃事件と煮え湯を飲まされ続けていたことに起因する。こういった公務員によるテロ、クーデター行為が国家や国民に与える損害は新たな保護国の獲得などよりはるかに重大であることをこれらの事実は教える。たとえ動機や結果が当時の国民の価値観に合致していても、これらの行為について厳罰をもって対処せねばならぬことを銘記すべきだろう。

日高信六郎は8月20日、南京大使館を閉鎖、同僚8人とともに青島経由で日本への帰国に成功した。日高は山登りが趣味でモンブランに日本人として始めて登頂に成功した。戦後日本山岳協会会長。


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