独墺軍のゴルリッツ突破戦における予備第41軍団の攻撃

独墺軍のゴルリッツ突破戦における予備第41軍団の攻撃

独墺軍のゴルリッツ突破戦における予備第41軍団の攻撃

1915年4月東部戦線

1915年ゴルリッツ突破戦における立役者はドイツ予備第41軍団である、その司令官はタンネンベルグで活躍したフランソワ将軍だった。この突破は、古い方法をもって成功した。そして、西部戦線で同様の方法で戦われた突破はことごとく失敗した。

また逆に、ロシア軍は1915年12月ストリパ河畔の戦いと1916年2月ナロッチ湖の戦いで、同様の方法を試みて失敗している。

なぜ、ゴルリッツでドイツ軍が成功したかといえば、単純であって局地優勢を占めたからに過ぎない。すなわち最大のポイントはロシア軍が索敵に失敗し、ドイツ軍の集中に気づかなかったことである。または、索敵で情報を得たにもかかわらず、何の対策も打たなかったことである。

1915年4月の東部戦線はロシアのポーランド突起部が大きく西方に張り出ていた。このためロシア軍の兵站線は屈折した形にならざるを得なかった。

ロシア軍の目標は最南部で攻勢に出ることだった。これはプルゼミスル攻略の余勢をかったことがあるが、ブコビナを経由し、ハンガリー平原に打って出ることが大戦略の一部だった。

ニコライ大公はこのためガリシア東部に、ブコビナ機動軍を集中した。このためガリシア西部における兵力バランスは崩れ、独墺6個軍にたいし、ロシアは4個軍しか配置できなかった。

反面ポーランド突起部にはなお6個軍を配置しており、ロシア軍が北部または南部で突破された場合、突起部にいたロシア軍は袋の鼠になりかねない形勢にあった。

ファルケンハインは北部で陽動のためクールラントに軍を進め、主攻をゴルリッツ=タウノウに定めたわけだが、作戦としては、定石にかなった方法ということができる。

東部戦線で独墺軍がこのようにロシア軍に拮抗する兵力を集めることができたのは、第一次大戦では、この1915年春の短い一瞬だけだった。それ以降、ドイツ軍は西部戦線で連合軍の攻勢にさらされ、オーストリア軍はイタリー戦線に引き付けられ、またブルシロフ攻勢で大敗を喫した。

ドイツ第11軍の布陣

マッケンゼンは攻撃開始にあたり、次のような訓令をくだした。この訓令には第14軍の参謀長だったゼークトの思想がよく現れている。

攻撃のための基礎訓令 (1914年4月27日、ノイサンデックにおいて第14軍司令官マッケンゼン大将発状)

第11軍は攻撃任務を達成しようとするならば、速やかに前進せねばならない。敵をして後方陣地に撤退、そこで抵抗すること許さないこと、及び、強力な敵予備隊の増援を阻止することのためには、ただ攻撃を迅速に行うしかない。

ゆえに、各方面ともその指示された攻撃地帯を絶えず前進させることが肝要である。

これのために、攻撃歩兵を縦隊に区分すること、及び、砲兵を迅速に随伴させることの二方法を採用する。

また、攻撃中に軍団または師団は命令された目標に固着し、爾後の前進に躊躇することがあってはならない。軍の攻撃は統一された目的をもつことは必要だが、全正面に等しく攻撃が進捗することはない。

もし、東北に面した正面ではなく、正面から逐次東に旋回する必要が生じた場合、左翼方面が迂回することは当然である。

一般に正面の一部が迅速に前進することは、他の方面において一時困難に陥り遅滞を余儀なくされた部隊の前進をむしろ容易にする。また所要の縦長があれば、自己の成果を他に波及させることができる。

だが、更に前進し突起部を形成した場合、側面攻撃の危険性が生じる。また迅速ま前進を期するものの戦果が伴わなかった場合、反撃をうけるかもしれない。

以上を熟考すると、協同動作により、しかしながら部隊を束縛せず、同時に到達することができる線を、軍は目標として規定せざるをえない。

であるが、軍の最も希望するところは攻撃を最大限進捗させることである。

このため、軍団及び師団単位で隣接部隊は常に連絡を保ち、電話だけでなく日報によって連絡を維持する必要がある。軍団司令部や師団司令部は常に軍司令部と絶えず連絡する義務がある。

軍は以って第一線各部隊間を常に統制し、その直属予備隊を情況に適合するかのように追随させる必要がある。

このようにドイツ軍は、翌年末に至るまで、命令戦法に固執した。ただ。攻撃に当って迂回の必要が出た場合などは、師団長などの独断専行を認めている。つまり、この時点は陸戦における以降主流とされるようになった訓令戦法と命令戦法の過渡期にあたる。

そして、ドイツ軍が突破に成功した大きな要因は、局地優勢を占めたためである。第14軍は秘密裏に西部戦線などから、ゴルリッツ近辺に移動し、そこを守備していたオーストリア軍と交代した。

ドイツ第41予備軍団(フランソワ)が領したのは、ゴルリッツ市街正面で、そこにはロシアの二線級の予備第61師団しかいなかった。一般にロシアの「予備」と符号される二線級師団は、一線級の現役師団よりかなり戦闘力が劣る。

これは司令部の裁量によるのだが、ロシア二線級師団は定員に満たず、また十分な野砲隊、重砲隊が配属されていなかった。

ところが第41予備師団には重砲隊として、オーストリア野戦重榴弾砲二個中隊、オーストリア120ミリ加農砲1個中隊があった。これは交代したオーストリア軍団が残置したものであって、イタリア戦線では当面、攻勢に出ないことを見越した措置だった。もちろん固有の重砲隊は持っていた。

元々ロシア師団の砲兵力はドイツ師団の三分の二ほどしかない。このため、ロシアニ線級を考慮すれば、重砲で五倍以上、野砲で三倍以上ドイツ軍は上回っていた。

ドイツ第11軍の軍隊区分

マッケンゼンの指揮下に第11軍がおかれたが、実際には独墺混成軍だった。オーストリアのコンラートは、冬季カルパシア山地戦およびプルゼミスル救援戦で、ドイツ参謀総長ファルケンハインと隔意が生じていた。

それでも、オーストリア軍は対セルビア戦でも、対露戦でも戦況が芳しくなく、ファルケンハインのオーストリア軍の一部を指揮におくという要請を断ることができなかった。『公刊ドイツ戦史』などは、この突破戦を専らドイツ兵の功績に帰する傾向があるが、公平ではない。ドイツ予備第41軍団が突破兵団であったことは事実だが、オーストリア軍もかなりの戦果をあげた。

[軍隊区分](第10軍団は司令部付き予備)

第11軍
司令官マッケンゼン
参謀長ゼークト
クノイスル軍団
クノイスル
バイエルン歩兵第11師団
歩兵第11師団
予備第41軍団
フランソワ
予備第81師団
予備第82師団
近衛軍団
プレッテンベルグ
近衛歩兵第1師団
近衛歩兵第2師団
第10軍団
エミッヒ
歩兵第19師団
歩兵第20師団
墺第6軍団
ストラウセンブルグ
オーストリア歩兵第12師団
ハンガリー歩兵第39師団
オーストリア騎兵第11師団

予備第41軍団の突破

1915年5月1日午後11時露軍陣地、宿営地、前進路などにたいし、散布射撃が開始された。それまでに、ドイツ軍は隠密裏に敵軍陣地200メートル手前に突撃壕を設営していた。5月2日午前1時、突撃壕には工兵がいて、単身鉄線鋏をもって鉄条網に通路開設のため潜行した。

午前6時、ドイツ軍は全砲門をもって一斉射撃を開始した。『ドイツ公刊戦史』のこの時の描写である。「轟々たる破裂爆音は四隣を圧し、七百の全火砲は火蓋をきり、砲弾は空気を振動し、落下すると、土塊・木片・掩蓋を空中高く飛散せしめ、露軍戦線内における市街・村落からは煙、炎天に昇る。この時、各所の塹壕より、露兵逃走するのを見る。独軍榴散弾はこれを追い、殺到する。重平射砲は敵の近接路を射撃しゴルリッツ北方において濃厚なる火柱炎炎として、家の高さに及び、黒煙濛濛として、天に沖す」

午前10時、第82師団は前進を開始し、一時間でユダヤ墓地及び357高地を占領した。

この357高地とユダヤ人墓地がロシア軍の前進壕のあった地点で、予備第41軍団第82師団は突撃後2時間で、三線からなるロシア軍の第一線陣地を攻略したことになる。『ドイツ公刊戦史』の記述は、戦場にいたドイツ人の印象であることは事実にしても、普通、砲撃だけで、塹壕に篭る守備兵を殲滅することは難しい。

隣接の第82師団は良好でなかった。鉄道の堰堤沿いに前進したが、ブストギ高地からの側面射撃により正午には停止するのやむなきに至った。

軍団予備隊がムスツァンカ方向に向かったが、その時、隣接するオーストリア軍がブストギ高地斜面を登坂し、ロシア軍砲兵陣地に突入し、占領した。午後1時20分までにロシア軍第一線陣地は崩壊した。

このようにゴルリッツ正面における初日の戦いはあっけなく、ドイツ大勝利で終了した。ただ、第一次大戦ではこのままでは攻撃側勝利で終わることは少なく、防御側は予備隊を突破地点に集合させ、敵の突起部を包囲するのが普通である。

ところが、ドイツ第11軍は歩兵10個師団(5個軍団)の大軍である。これが、幅25キロの突破に出たわけだが、ここのロシア軍の戦略予備隊はコーカサス第14軍団のみであった。この軍団は直ちに、突破点に向かったが、前線に到着したのは三日後となった。そのとき、ダンクル軍を始めとするオーストリア5個軍は一斉に前進を開始した。

これでは、ロシア軍は戦略的撤退を命令するしかない。

独墺軍大勝利の理由

ゴルリッツ突破戦は単なる一点突破ではなく、まず第11軍(マッケンゼン)が25キロ幅で前進し、それを追って、両横のオーストリア軍が一斉に行動を起こしたものである。つまり、古典的な突破、ある一点を突破して、以降騎兵が突進し、跳躍前進し、両脇に広がるという形ではない。

ロシア軍の塹壕は地下室を備えていなかった。このため、第一線壕の兵士が義性覚悟で踏みとどまり、無人地帯を進む敵兵を弾幕射撃で反撃するという形をとれなかった。

つまり、単に高地に強化地点を設け、それを塹壕でつなげ、後方に砲兵陣地をおくものだった。つまり、日露戦争の旅順における戦いと戦術思想において異なることがない。

実際、日露戦争における旅順戦の南山の戦いと予備第41軍団の戦いはよく似ている。

南山の戦い(1903年5月)

南山は遼東半島のくびれた部分にある山岳地帯で最小のところの幅は15キロほどしかない。ロシア軍はそこを二線からなる塹壕で囲い、後方に砲兵陣地を設営した。

ロシアの守備部隊は三個連隊ほどで、一個師団に満たなかった。そこを、第1、第3、第4師団の三個師団をもって強襲した。海軍は6インチ艦砲で射撃を加え、陸軍も重砲隊により射撃した。

日本軍は4倍ほど優勢であり、またロシア軍は、縦深性のある陣地はもたず、塹壕線は南山にあるものだけだった。勝敗は1日で決し、ロシア軍は旅順方面に退いた。ところが日本軍はこの戦いで大きな被害を受けた。

ドイツ予備第41軍団のこの戦い(5日間)における損傷率は13・5%であり、日本軍は(1日間)12・5%だった。

南山のロシア軍は後に守備線がないから、持ち場で徹底的に戦い、ゴルリッツでは三線にわたる陣地があったから、退きながら戦ったわけで、日独両軍が突破にかけていたことに変わりはない。

このように整備された塹壕に突撃をかけ、かつ突破に成功した場合の死傷率とは、東西でほとんど変わることがなかった。(突破に失敗すれば死傷率は数倍跳ね上がる)南山で大きな戦傷者を出したことから、東京の参謀本部は「責任問題だ」と騒いだといわれる。遼東半島の隘路の突破成功という戦果と670名ほどの戦死者が引き換えとなった。しかし、第一次大戦の標準からいえば、南山の日本軍はむしろ成功したともいえるのではないだろうか?


戦死

負傷

行方不明

将校

兵卒

将校

兵卒

将校

兵卒

ドイツ軍(41RC)

18

655

66

2202

74

2857

200

日本軍(南山)

33

638

106

3440

139

4078

いずれにせよドイツ人は、ゴルリッツ突破成功は第一次大戦における功業の一つだとして、現在も信じている。


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