カーキ選挙
カーキ選挙とは、1900年、1918年、1945年の3つを指していわれる。カーキとは陸軍兵士の制服の迷彩色であり、戦争の影が反映される選挙という意味である。1918年は第一次大戦、1945年は第二次大戦の直後に実施されたが、1900年選挙はボーア戦争の戦中に実施された。カーキ選挙という言葉が使用された始めての選挙であった。
ボーア戦争
ボーア戦争が1899年10月に開始されると、12月、暗黒の1週間と呼ばれる相次ぐ敗戦に見舞われた。ところが1900年に入ると、イギリス軍は反撃に成功し、ボーア人指導者クルーガーはヨーロッパに亡命した。この段階では小さな戦争とみなされ、国民は戦勝を喜んだ。
投票は1900年9月25日に開始された(当時は投票日に幅があり、開票日もマチマチであった)。
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保守党 |
402 |
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自由党 |
183 |
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アイルランド国民党 |
77 |
結果は予想通り、保守党の圧勝であった。このとき労働党は2人が当選した。そのあと、ソールズベリーは退き、首相にはバルフォアがついた。1905年12月、ジョセフ・チェンバレンは、帝国特恵関税を主張、保守党を事実上離脱した。
キャンベル=バナーマン(Campbell-Bannerman,
Henry:1836-1908)
グラスゴーで生まれた。父はグラスゴー市長。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業。家業である倉庫業を継いだが、1868年、自由党から下院議員に当選した。グラドストン、ローズマリー両内閣で陸相。1898年、自由党党首。ボーア戦争には消極的で、とりわけキッチナーのボーア人処遇に異を唱えた。1905首相に就任したが、蔵相や外相などを兼務しなかった。それより以前、首相は閣僚代表にすぎず、なんらかの閣僚になって、閣僚中の筆頭人物が首相とされたのであった。イギリスで首相"Primeminister"が公式に使われたのは、これ以降である。1908年、病のため首相をアスキスに譲ったが、そのままダウニング街10番地から動けず、そこで死亡した。首相官邸で死亡した唯一の首相である。党内左派に属したが、性格は温和であり、党内では信頼されていたものの、「論客」ではなかった。この点でエドワード七世とよくあったといわれる。首相在任中に南アフリカにおけるオレンジ自由国とトランスバール共和国の自治を認めた。
バルフォアは、閣内不一致を調整することに失敗した。エドワード七世は下院第2党の自由党党首キャンベル=バナーマンに組閣を要請した。キャンベル=バナーマンは話し方が丁寧であり、またボーア戦争に不満であったエドワード七世が、この選出を主導したという。
1906年総選挙
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保守党(チェンバレン派含む) |
156 |
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自由党 |
397 |
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労働党 |
29 |
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アイルランド国民党 |
82 |
イギリスは議員任期について成文法がなかったが、キャンベル=バナーマンは直ちに下院を解散した。選挙は1月12日に投票が開始された。
選挙結果は自由党の歴史的圧勝であった。1902年に自由党と労働党の間で選挙協定が成立し、労働党候補(30人以下)が立つ選挙区に自由党は候補を立てないことになった。労働党を自由党は友党とみなした。
背景には、自由党に宗教を除く組織基盤がなく、個々の候補者にとり、労働組合の推薦が頼もしくみえたのである。代価として労働党員30人の立候補は安く感じられた。加えて当時、2人区があり、労働党1名の立候補を認めやすかった。
この選挙におけるスイング率(前回と今回で支持政党を変化させた有権者[ただし、ネット]の全体に対する比率)は12%であった。この比率はイギリス近代憲政史上、最高である。ただし、前回のカーキ選挙で保守党は実力以上の得票をボーア戦争によって得て、その反動が出たとも分析される。
特筆されることは、バルフォア内閣の閣僚が4人を除いて全員落選したことである。前首相のバルフォアすら落選し、三カ月後の補選でようやく当選する有様であった。
非国教徒の勝利?
同時代人の分析は非国教徒の勝利であった。200人以上の非国教徒が議員に選ばれた。あたかもクロムウェル以来の非国教徒の勝利であるかのようにみえた。
事実、トッテンハムコートロードのホワイトフィールズテーバーナクル(Whitefoield's Tabernacle
on the Tottenham Court Road)教会に自由党選挙対策本部が置かれた。選挙期間中でも、国教会学校への優遇措置への批判として、「税金で作られたローマ教会」「イスラエルの子供、約束された土地」と叫ばれた。
ウェールズでは、ロイド=ジョージによる1902年教育法への批判が地方政府を巻き込んで展開された。この運動はウェールズ語で"y
diwygiad mawr"と呼ばれ、現在でもロックの定番となっている歌曲の名前になっている。
なぜ同時代人が宗教票に圧倒されるかといえば、それは組織票であって具体的に勘定できるからである。ところが、選挙技術上からいえば組織票は重要ではない。というのは、組織票は前回選挙でも各政党の基礎票に含まれているからだ。
そのうえ宗教票とは、浮動層や反対者にほとんど影響力をもたない。宗教者は弁士となって演説会で目立つものの、その演説に耳を傾けるものは少ない。
浮動票移動
保守党の敗北は、カーキ選挙で得た得票のうち相当数が今回は自由党に流れたことが原因である。浮動票(ネット)の移動(スイング)は12%と推計される。当選した議員の総数は670人であるが、このうち無投票で選出された議員はアイルランドを除き、114人であった。自由党は528人候補者を立て、保守党は557人を立てた。
有効投票数は約500万であり、平均約5千票で当選できた。この場合、基礎票が3500票あれば1500票程度上積みで必勝となる。もちろん選挙区によるが小選挙区の場合、きわめて僅かな浮動票移動が当落を左右するのである。
なぜ有権者は自由党に傾いたのか?
自由党勝利の原因は複数あると思われる。第1はボーア戦争への嫌悪感である。南アフリカではボーア人をコンセントレーションキャンプに収容したため、女性と子供だけで2万8千人の死者が出た。
キャンベル=バナーマンはコンセントレーションキャンプを「野蛮人の方法」と非難した。大英帝国の威信にとって決定的は汚点であると。
こういった人道的な非難以外にもチェンバレンの武器取引疑惑や南アフリカにおける中国人労働者も取り上げられた。今からみれば奇妙であるが自由党は、南アの労働組合を弾圧するため資本家が安価な労働力としての中国人を移入させたと非難したのである。
自由党のいうリトルイングランドは多くの有権者を引き付けた。
第2は自由貿易問題である。自由貿易を明確に否定したのはチェンバレンであり、帝国特恵関税を採用し、大英帝国ブロックをつくろうとした。バルフォアは態度を明確にしなかったが、当座は自由貿易を維持するとした。これに反発したチェンバレンが保守党と袂を分かとうとしたのが、今回の選挙のきっかけであった。
有権者がこの保守党内のゴタゴタを嫌ったことは確実であろう。そのうえ自由党は、「安いパンか、高いパンか」という標語をつくった。農産物に課税すれば、都市生活者の食糧が値上げされると脅したのである。
チェンバレンに従う保守党員は公共投資や福祉の財源を「外国に払わせる」といって関税引き上げによって社会保障を実現できるち主張した。そういわれても、都市生活者はより高価なパンを買うことになるのは明白であった。また、特恵関税により有利なのは食糧をイギリスに無税で輸出できる南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドであるが、見返りにイギリスの工業製品を買うかは疑問であった。
特恵関税はじっさいにはアメリカ農産物に高い関税をかけ、イギリス自治領に関税をかけないことであった。だが、自治領にイギリス以外の工業製品輸入について高率関税適用を要求することは困難であろう。自治領はより安い工業製品をアメリカからやはり輸入することになる。イギリスの産業資本家もチェンバレンの主張に懐疑的であった。
アスキスは特恵関税をいう保守党員について「なんと間抜けなことを!金持ちに払わせろだ」と言ったが、高いパンを買わねばならない貧困層は同意したに違いない。
結末
キャンベル=バナーマンは1908年に病のため、アスキスに職を譲った。アスキスが実行した政策は新自由主義であった。これが人民予算につながり1910年選挙における勝利に結びついた。有権者の長期的な希望は自由貿易の堅持と福祉制度の確立であった。
十九世紀後半は、リベラルと保守の対決であったが、概してリベラルの政権担当期間は短く、保守は長い傾向があった。労働者は帝国主義的、国権主義的外交を支持し、保守勢力を支持する傾向があったためである。またリベラルを支持した都市中間層は、浮気者であった。
新自由主義の政治的巨人はアスキスとロイド=ジョージであった。両者は1916年から反目するようになったが、それまでは補完的な間柄であった。アスキスは金のからんだスキャンダルにしばしば引っかかったロイド=ジョージを弁護した。
じつはヨーロッパでは、イギリスを除いて、自由主義政党は世紀末を境に退潮に向かっていった。この理由は、労働者階級の台頭による社会民主党勢力の増大と説明されるが当を得ているとは思えない。大きな理由は国家主義に有権者とりわけ都市生活者が曳かれていったためではなかろうか?ところがイギリスでは、国家主義の発露、すなわちボーア戦争と10年以上にわたる保守党長期政権に飽きがきて、逆転した政治感情が有権者に生じた。
それに加え、イギリス人は帝国に誇りをもってはいたが、それが本国人に何かプラスをもたらすか、といった点に疑問を抱き始めていた。新聞のチェンバレンへの批判も、ジェームソン蜂起、武器取引コミッション、南ア有力者との関係などスキャンダルめいたもの(一部は真実であった)が中心であった。イギリスは既に完成された帝国であり、個人による帝国ビジネスにたいする嫌悪感が生じていた。
新自由主義は国権によらない社会福祉の実行であり、この点で社会主義と異なる。イギリスを除くヨーロッパ各国は、領土拡張を是とする国家主義に傾いていったのであり、それが第一次大戦の遠因となった。
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