上海決戦

ゼークトライン

日華事変では上海周辺で大規模な塹壕戦が発生した。国府軍の防衛線はゼークトラインと呼ばれドイツ式のもので前進壕三線と要所に強化された機関銃ポスト(トーチカ)を配置するものだった。国府軍は25個師33万人(ゼークト線後方を含めると75万人)を前面に集中した。対する日本軍は7個師団半20万人だった(あとで2個師団5万人転用)。

この戦いは日本にとり日露戦争の奉天会戦以来の大規模なものだった。世界的にも、このような塹壕突破戦は第1次大戦以来のものである。そして前面の敵、上海攻囲軍は国府軍の主力をよりすぐったものだった。

日華事変の開戦原因

平木渥(第9師団)の証言(秦 郁彦 『南京事件』 中公新書1986から)
「一弾は自分より二人前の中隊長殿の右大腿部を貫通、他の三人もやられた・・・地形に精しい敵は暗夜の逆襲を常套手段としているが、わたしは一発も盲射せず着剣して待ち構えたが、とうとう壕の中までは突撃して来なかった。しかし敵弾は凄まじく、壕の上面をそりはぎ、文字通りの雨あられで、誰かが素早く銃をあげて撃とうとした瞬間に指を射抜かれたり、銃口に命中弾を受けたのを目撃したが、横なぐりの弾幕その無益な物量に驚くばかりである。」

この兵力と物量、場合によっては士気も上回っていた敵の守る陣地を日本軍は簡単に突破してしまう。制海権・制空権は日本側にあった。7月から海軍機を中心として索敵に努め、十分な兵力を上海市内に集中することにし、また前面の敵の自由行動を許しむしろ兵力を集中させ捕捉殲滅を図ることにした。9月5日陽動作戦として第1次攻撃を実施し、孤立同然の上陸(しゃんりく)本部の側面を解放した。その間黄哺江沿いに3個師団を上陸させたが、前面は用水路と思えぬ長大な呉淞(ウースン)クリークが行く手を遮っていた。

MAP

大場鎮

10月10日、上海派遣軍(松井石根)は突如総攻撃(第二次攻撃)にうつりほぼ全部のゼークトラインを突破、12日までに国府軍前進壕の全縦深は崩壊した。10月26日防衛線最後の要衝大場鎮【だいじょうちん】)が陥落、国府軍は総撤退に移った。それは南京方面への壊走に過ぎなかった。

大場鎮附近の戦闘
大場鎮中心部に突入した第101師団歩157(佐倉):歩101加納連隊長はこの時戦死.)

陸軍はこの時分隊での浸透作戦をとった。第101師団はいわゆる特設師団で、東京の下町を中心とした部隊だった。第1次大戦時の密集重装備と異なり、分散・軽装備で兵士は背嚢すら背負わず、弾帯と救急医療用具・二日二食の携行食糧をいれた背負い袋しか持たなかった。

日本軍の攻撃方法は極めて特異で準備射撃は後方の物資のデポおよび敵兵の密集地点しか実施しなかった。また砲撃は突撃隊が出発した当座の前面の敵の砲撃から開始し徐々に前進させた。このため逃げる敵兵は常に頭上に爆弾が炸裂している錯覚に陥った。そして敵兵にとり攻撃開始と思う瞬間には浸透されているという奇襲効果をあげた。この大場鎮中心部もほとんど砲撃を受けていない。


国府軍の陣地構築はドイツ式なため縦深性が浅く、また総戦略予備隊は南京にあったが、交通線が悪くまた鉄道は揚子江沿いにあるなど内線が防衛上の観点で設計されていなかった。結局最後まで日本軍の前進のスピードが優っており国府軍の戦略予備隊は効果的に到着できなかった。上海攻囲軍の少数の精鋭師団は自動車化されていたが、道が悪く上海=南京間300kmを20時間要したという。

また制空権の優位により国府軍の動きは適切に把握されていた。日本軍の攻撃方法は極めて特異で準備射撃は後方の物資のデポおよび敵兵の密集地点しか実施しなかった。また砲撃は突撃隊が目標とする前面の敵への砲撃から開始し徐々に前進させた。このため逃げる敵兵は常に頭上に爆弾が炸裂している錯覚に陥った。そして敵兵にとり攻撃開始と思う瞬間には浸透されているという奇襲効果をあげた。大場鎮中心部もほとんど砲撃を受けていない。
上海前面だけで戦死者は8万人を越えると言われる。(国民党政府は後で上海攻囲軍の戦死25万人と発表)これは撤退が徒歩で行われ、捕捉されたためだ。撤退方法について事前に考慮されていなかったのだろう。この数字は全滅を意味する。

国府軍の作戦とすれば前線部隊の戦闘序列をそのまま半分に分け、1隊をローカルの予備とし、縦深性を増し攻勢防御で臨むべきだった。国府軍は南京=上海間に75万人53個師を集中したが、総じて打撃兵力に力点が置かれ、交通線の維持のための兵力に力をさけなかった。また師(団)編制が世界標準とあまりにも異なり、補充兵がしばしば独自行動に陥るなど兵力の運用に欠陥があった。また砲兵や輜重兵・通信兵・工兵・衛生兵・斥候部隊などが師に属さず、本部直轄とされたため、兵站・特殊軍事行動(架橋など)に欠陥を露呈した。

このため臨時措置として男女学生らによる輜重部隊を編成したが、上述の通り突破・捕捉されたため数万人が戦死したという。上海近郊のクリークに相当数の女性死体が混じっていたのはこのためである。これは第1次上海事変のとき第19路軍が志願者を募ったのと同じ手段をとったものだがいたましい結果となった。前線の33万の軍が崩壊すると南京、蘇州ー江陰線にいた総予備も含めて総崩れとなった。

打撃兵力より場合によると輜重兵の方に訓練が必要で、とくに砲弾や砲の輸送には専門知識が必要とされる。国府軍の師(団)の充足人員が1万人を切っているのは、これら専門兵を欠いていたためである。これは共産軍も同じで朝鮮動乱時前線まで辿りつけた兵員は1個師団3000人を切るなど師団単位での運動性に欠陥を露呈した。

そして11月5日、杭州湾に敵前上陸(実際抵抗はあまりなかった)した友軍(第10軍:柳川平助)も加えて、南京まで残敵掃討(並行追撃)を行った。12月5日に南京周辺に達したが、そこには南京保衛軍の弱い防衛線があるだけで中世の城壁に頼って抗戦を続けようとしたが、当然無益な戦となった。

浸透戦術

この戦いは決して小規模な戦いではない。そして日本軍は敵地で戦った。第1次大戦の鉄則からは攻撃側が必敗である。ところが結果は逆だった。なぜだろうか?

この時、日本軍はブルシロフに端を発する近代的浸透戦術を完全に咀嚼し、傘型分隊突撃法を歩兵操典で基本的な運用方法としていた。この方法は軽機関銃を中心に10人程度の分隊をもって多点に亘って突破を図る方法だ。この方法の基本は分隊の自由意志を基盤にしていることが特徴でさらに日本軍は全歩兵をそれに向けて訓練した。これは現在、通常国陸軍の歩兵や猟兵師団の基本でもある。

一方、この方法は分隊=突撃隊に非常な負担がかかる事を忘れてはならない。すなわち上海=南京間で日本軍は略2万人の戦死者を出している。これは平木証言からみても避けられない損失である。むしろ塹壕で延べ30万人を越える兵士が敵軍と3ヶ月以上対峙し攻勢に出たのならば非常に軽い損害といえるだろう。元参謀本部員はこの戦いを非常な苦戦だったという。これだけの大軍を相手にすれば苦戦に陥るのは当然だが、勝利の仕方は圧倒的だったと評すべきだろう。

上海東部戦線における突破

参謀本部は浸透戦術を肉弾攻撃と名づけた。酷なネーミングと言うべきだろう。また分隊に攻撃目標確認を要求することは不可能だ。あとの作戦評論は無差別に民家を破壊したと非難するが、戦場である以上兵士にとり、視界にある障害物を破壊する以外道があるのだろうか。この戦法は全縦深に民間人またその私有財産が存在しないことで成り立っている。とにかく分隊長の指揮で前面にあるものを全て破壊しながら進むしかない。視界は裸眼と小銃射程距離で500メートルだろう。この範囲で突撃隊に制限を課すことはできない。また自由意志とは課さないことを意味した。兵士は分隊毎に固まってしまう。またドイツでは突撃隊を志願者から選抜したが戦後隊員は最も社会との不適応を引き起こしたという。フライコール(反共義勇軍)の中軸をなしたのも彼らだった。

ゼークトライン突破後、上海派遣軍(朝香宮)と杭州湾上陸の第10軍(柳川平助)を合わせて中支那方面軍(松井石根)が編成(編合)された。しかしこの時点でも参謀本部からの命令は上海の制圧と居留民保護にあり、南京への進軍=掃討戦の実施は目標になかった。これは結果がわかっている現在からみれば意外だが、参謀本部はすでに上海決戦自体が蒋介石のワナということを見抜いていた。すなわち蒋介石の戦略がゼークトラインに主力を集中し日本軍を誘引する計画であると見抜いていた。

第1次大戦の常識からすれば戦線はゼークトラインで膠着し対峙の形勢に入ると参謀本部は予測しそれに合わせた命令を出したにすぎない。ところが松井石根は大アジア主義者で中国人にたいし不当な優越意識を持っていた。すなわち日本兵一人は中国兵一〇人に相当するというのである。この考えは当時の日本人に支持されていた面があった。実際は日本軍の戦法が優れていたにすぎないのに物量や人数で上回る国府軍の前線を突破したことはこの不当な優越感を証明するように映った。

松井は独断専行による掃討戦開始を決断した。当時の野戦軍司令官の夢は塹壕線の突破に成功し残敵掃討を行い無限の荒野を突進することだ。 第1次大戦の西部戦線はただこの夢を追って数百万人に昇る戦死者を出した。松井の独断専行による進軍は作戦目的が野戦軍の殲滅にある以上当然のことでありこれを停止させる奉勅命令がなければ現地軍の裁量にあたることだ。また誤解してはならないのは松井の作戦目的はあくまでも敵野戦軍(上海攻囲軍)の殲滅であり、南京攻略ではない。ただ敗軍収容地点が南京と予想されたため並行追撃の収束点を南京に設定したにすぎない。

しかし南京は敵の名目的な首都だから事前の戦略上の配慮は必要でゼークトラインを簡単に突破する可能性の方も予期すべきだったのだろう。松井石根は凡庸な指揮官ではない。自軍をも陽動にかけ自分のタイミングが来るまで待ち、東京との打ち合わせ以外戦術を口外しなかった。また攻撃と攻撃の間には必要な準備を怠らなかった。第2次攻撃は上海全周をとりまく国府軍に三方向から攻撃をかけるという意表をついたものだった。

国府軍

またこの時国府軍の指揮はドイツ国防軍軍人がとっており、日本軍に全縦深を突破されたことを知るや、自ら銃をとり前線に赴き多数が戦死したという。上海攻囲軍は結果として11月12日以降、命令が錯綜する状態となった。上海の南はフランス租界だが、少数の日本軍が黄哺江を渡河更に南から守備する国府軍に攻撃をかけた。このため国府軍はどこから攻撃をかけられたかわからず一部はフランス租界に逃げ込む状態となった。

フランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランはこの時のことを記す。
「中国軍第88師団の少年兵400人は、10月27日、フランス租界で孤立して戦っていた。幾人かは日本軍のパトロールが来るや、手榴弾を掴んで飛び込んでいった。イギリス人が仲介して降伏するように勧めたが、『われわれは中国が生きるために死ななければならない。』と返事があった。年配のドイツ人女性がパンを少年兵に届けようとしたが、イギリス兵に阻止された。少年兵は食料も弾薬も尽きたようだった。日本軍は中国兵のいる倉庫にサーチライトを浴びせ周囲を機関銃部隊で取り囲んだ。中国兵はその夜集団となって日本軍の警戒線を突破した。…マーケットのそばでフランス兵に取り囲まれ、少年兵が呆然と立っていた。少年兵はドイツ製の小銃と青天白日の国章を描いたドイツ風のヘルメットを、傍らにおき涙で頬をぬらし感情の高ぶりのせいか全身をふるわせていた。傷ついた動物のように異様な音をたてていた。」

これを読めば国府軍の士気が低いため壊乱に陥ったとの説は成り立たないことがわかるだろう。国府軍が軍閥の寄せ集めで兵士は全く士気がなかったと言う説はいまだに日本国内で強い。しかしこれは繰り返すが謬説だ。横浜にいる敵が増強され、九十九里に敵の増援軍が上陸したら平静でいられる日本人がどの程度いるだろうか。この点で中国人が大きく変わるとみるのはどうか。たとえ大義が正しくとも戦法が劣れば簡単に軍は敗れるということだ。

単純に日本軍の装備が良かったというのも無理で軽機関銃や野砲はチェコ・スコダ製を採用した国府軍が優っていた。ただ迫撃砲は旧軍が常に重視した兵科で日本優位と思われる。日本の重砲は性能において数段よかったがクリーク地帯で15榴までしか持ち込めなかった。飛行機は日本が優勢だったが陸軍は急降下爆撃機を保有していなかった。海軍の艦載機・内地・台湾からの陸攻とあわせ5000発ほどの砲弾投下を行ったが、照準器はこの頃未発達で、地上兵力への有効な攻撃力とはならなかった。ただ索敵で数段優位にたったことは疑いない。

96式陸攻

この時部隊で行動する上海包囲軍の動きは適切に把握されていたことは確実である。(南京への追撃戦は約9条の線で日本軍は前進したが、不定期遭遇戦は発生しなかった。)ただ、軍で保有した記録は公式の各部隊からの報告を除き終戦時焼却された。当時、軍部はこの攻撃について極秘扱いとして観戦武官の募集も行わずまた各国参謀本部とも興味をしめさなかった。これはあとで謎の日本軍という誤解を広めることになった。

上海の戦闘地区で白人及び中国人を安全な地区に移送する日本軍兵士。

この写真はイギリス人によって撮影された。これでわかるように、旧軍はあくまで戦時国際法に則った戦闘を予想していた。すなわち自軍の支配地域で戦闘地区と予想される場所から非戦闘員を国籍にかかわらず安全な地区に保護しようとした。だが国府軍にそういった姿勢はない。この時大量のドイツ人顧問が蒋介石に派遣されていた。第1次大戦でもドイツ軍は勝利のためであれば何をしても良い、という発想が強かった。国府軍支配地域の戦闘地区では住民には何ら情報や指導が与えられなかった。ドイツ人顧問の助言範囲が作戦面に限定されていたとしても不当なことだと言わざるを得ない。第1次大戦でトルコに派遣されていたドイツ軍事顧問団はアルメニア人の虐殺を目撃し、トルコ官憲に厳重な抗議を行った記録が残っている。

一方旧軍は軍司令部や師団単位で法務担当の責任者を配置していた。上海派遣軍は司令部に3課を置き参謀を配置していた。法務担当は第3課で寺垣中佐が課長だった。戦闘区域における住民への広報・誘導、兵站のための徴発、戦時国際法遵守、捕虜の取り扱いなどすべて担当した。上海決戦および掃討戦で旧軍は戦時国際法を意図して破っていない。たとえば現在でも南京郊外・蘇州・鎮江などには清末の文化財がよく保存されている。問題となるのは国府軍の敗残兵による同士討ち、逃走のための被服・食糧の強奪、およびおそらく指揮系統から出された日本軍の捕虜殺害指令である。


それでは国府軍に勝機はあっただろうか。前述のような量的優勢から簡単なように思われるが実はこれが極めて難しい。北は東西に揚子江が流れている。そして揚子江は川幅が極めて広く、河川砲艦の通行が容易だった。そして揚子江の制海権は日本海軍に奪われ、敷設した機雷も簡単に除去されていた。そして南部中央には巨大な太湖が横たわる。地形は平坦だが運河・用水路が縦横に走り、そこに集村型の住居が密集していた。道路は狭く舗装もなく街路樹により大型車両は通行できない。

国府軍(1937年)

交通線を考慮すると制海権がない以上退路は南京方面に求めざるを得ないが、南京も揚子江に面していた。すなわち上海ー南京線で戦線が膠着するという予想しか実際たたないのだ。そして膠着すると中国軍が上海自体に攻撃をかけることになり心理的に不利となる。ところが日本軍には南京または杭州湾に直接上陸する手が残されている。

これらを防ぐためには南京にいる強力な戦略予備隊とゼークト線に篭る前線部隊との交通路を円滑にすることだ。ところが中国軍の部隊運用はこれと反対で、前線部隊全てに現在地死守を要求した。これは精神論として問題はない。ただし部隊運用として残酷のようだが現在地死守の場所には少量の兵士を置き、そのうえで要求するのが鉄則だ。そしてそこを占領した敵軍に逆襲をかけることだ。

また、上海・南京戦(淞滬会戦・南京保衛戦)後、蒋介石は日本軍の包囲殲滅戦術を見抜き、常に機動的な後退作戦で臨んだ。国府軍は徴兵による軍ではなく、損失が大量に発生しても補充は金銭が続く限り簡単だった。兵力温存作戦は成功した。中国大陸の制圧は日本の資源では難しいという蒋介石の判断は正しかった。しかし民心は抗日にあり、温存作戦は人気のあるものではなかった。そして実際は自らも兵力を温存した共産勢力に人気の点で劣後して行く。蒋介石は国共内戦でもこの守備が困難な上海地区を最終防衛線にするという失敗を犯した。しかし制海権を残していたため台湾脱出には成功した。


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