段祺瑞は、参戦を推し進めようとしたが、1917年夏になるとロシア崩壊の度が強まり、再度非参戦派の声が強くなった。非参戦派代表の黎元洪は5月13日、再度段祺瑞を罷免した。張作霖の奉天派は反黎元洪を鮮明にする一方、非参戦派の張勲は北京に軍隊を率いて入城した。
張勲 Zhang Xun
オーストリア=ハンガリー公使館を出たあとオランダ公使館にいき、行方をくらまし、天津に逃れた。そこで病没したとき遺産が1千万元あった。妻や妾に1万元、子供に2万元それぞれ分与され、残りは清室復興の費用に充てられた。
張勲は李経羲を総理とすることを要求する一方、宣統幼帝を擁立して清朝復活を唱えた。6月13日、黎元洪は江朝宗を総理に任命するとともに、張勲の要求をいれて国会を解散した。7月1日、張勲は黎元洪に辞職を迫った。宣統帝溥儀は上諭なるものを発した。
「朝に臨みて政を聴き、大権を収回して民と与に更始す」
張勲は内閣議政大臣兼直隷総督・北洋大臣に任命された。北京城内には龍旗がなびき、清朝が復活したかのようなありさまになった。
黎元洪は日本公使館に逃れた。黎元洪は7月4日、日本公使館から江朝宗の罷免、段祺瑞の復職を指令した。段祺瑞は馬廠(天津静海県の南)に蹶起した。京津鉄道に沿って上京し、廊坊で一戦となり、張勲の定武軍は敗退した。
7月6日、段祺瑞の友軍である段芝貴の軍5000が北京西郊に布陣すると、張勲の軍は一斉に逃亡を開始した。7月11日、宣統帝は段祺瑞に謝罪の書状をおくった。
「本年7月1号黎明、忽ち国体を変ずるを謀る事あるは、殊に初め衷【うち】に能く料り及ぶ所に非ず。俄かに聞くの下、害異殊に深し。数日来、屡諭旨を頒つも進退する群僚、均しく、朕の関知する所に非ず」
段芝貴軍の飛行機は紫禁城を爆撃し、重砲弾を北京城内に打ち込んだ。7月12日、張勲はオーストリア=ハンガリー公使館に身を隠した。復辟はわずか12日間続いただけだった。この復辟事件について、溥儀の家庭教師であったイギリス人ジョンストンは「1917年に、日本の支持のもとに張勲が帝政の復活を企てたクーデターも・・・」と書いているが誤りである。同じく1924年の溥儀の日本公使館への亡命事件について「日本公使館による皇帝の歓迎は、彼が高度の政治的駆け引きのさいの有効な人質となることを見越した日本の『帝国主義者』の奸智にたけた策謀のあらわれ・・・」と書いたのも誤りである(『紫禁城の黄昏』入江曜子・春名徹訳 岩波文庫 1989)。
8月11日、黎元洪は大総統職を辞任し、馮国璋が代行大総統に就任した。馮国璋は8月14日独墺にたいし宣戦を布告した。
だが、これにて落着かとも思われた中国政局は8月29日、孫文を首班とする広東軍政府(両広・雲南・貴州・四川・湖南の6省)が発足することによって更に、混迷の度を加えた。この広東軍政府も内情は複雑であって、広西の陸栄廷・雲南の唐継尭は当初から反孫文だった。
北京においても、対広東軍政府対策で宥和を説く馮国璋と討伐を主張する段祺瑞と折り合いがつかなくなり、北洋軍閥は馮国璋の直隷派と段祺瑞の安徽派に分裂することになる。
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