楊宇霆暗殺事件

楊宇霆暗殺事件

楊宇霆暗殺事件

1929年1月10日夜、元張作霖大元帥参謀長の楊宇霆は、張学良から麻雀に招かれ、常蔭槐(満州交通副主任)と同道、護衛も武器ももたず、学良邸に赴いた。だが、広大な応接間(青大楼・老虎庁)で待ち構えていたのは、北満州の三姓で捕らえられ剥製にされたシベリアタイガーと刺客高紀毅(奉寧鉄路局長)であった。楊宇霆と常蔭槐は、そこで高によって射殺され、長らく応接間は「あかずの間」にされた。屍体は絨毯につつまれ家族に返されたという。

張作霖・学良故居

張学良と楊宇霆は、作霖爆殺後「両雄」ならびたたず、と評されたが、ここまで迅速に清算されるとは予期されないところだった。

張学良(1901〜2001)は、このとき27歳であったが、偉丈夫、白皙で貴公子然とした身のこなしは、張作霖なきあとの奉天軍閥を率いるに十分とみなされていた。

一方、楊宇霆(1886〜1929)は奉天中学卒業後、日本の士官学校に入学(陸士8期)、卒業し、帰国後、奉天軍の参謀として重きをなした。1924年の第二次奉直戦争における奉軍の参謀長、1926年北伐開始以降は、北洋軍と奉軍の連合である安国軍参謀長をつとめ、軍事において張作霖の片腕であった。

1928年6月の張作霖爆殺後の満州は、均衡状態ではあったが、複雑な様相を示していた。吉林省には張作霖の莫友(同姓ということで義兄弟の契りを結んだ。両者とも緑林すなわち匪賊の出身である)張作相がいて、その参謀長が煕洽であった。満州事変が勃発すると張作相はいち早く錦州に逃げ、日本軍に抵抗姿勢を示し、煕洽は関東軍に勧められるがまま、吉林省独立宣言を行なった。煕洽は日本に留学経験がありインテリで、のち満州国宮内府内大臣になった。

ハルビンには北満特別区長官の肩書きをもつ張恵景(緑林出身)がいた(のち満州国国務総理)。そして、中心である奉天省の中心奉天に張学良と楊宇霆が両立していたのである。満州事変のさい奉天で「独立宣言」を行なった袁金凱・于沖漢の2名は文官であって、このときはまだ力があったわけではない。

楊宇霆 Yang YuTing (1886-1929)
奉天省法庫出身。陸軍士官学校(7期)卒業。李烈鈞や程潜と同期。奉天軍械局長。1916年奉天軍参謀長。1922年東三省保安総司令部総参議。1925年江蘇省督弁になり孫伝芳と争う。

楊宇霆は、張学良の急進的な反日策(満鉄平行線建設・胡蘆島の築港・旅順と大連回収論)などに反対し、直言することがあったという。また、日本側官民も張学良のところに出入りすることは憚られ、なんとなく楊宇霆の屋敷に行くことが多かったという。

1928年12月、床次竹次郎が来満し、領事館主催による晩餐会が開かれ、そこに張学良と楊宇霆が招待された。すると両名は一つの車に同乗してやってきた。これをみた床次は「両人が同乗して来るくらいならば世間でいうほどのこともないじゃないか」と語り、さらに「両人の提携は日本にとって絶対に必要だから、何とか、その間をとりもちたい」と続けたという。席上でも床次は、船津辰一郎の通訳で「東三省は地大と物博を兼ね備え、ひとえに健康に留意して前途洋洋たる東三省の開発に専念せられんことを切望し」、宇霆をかえりみて「故大元帥にたいすると同様の忠誠をもって、若年の学良を助けて大をなさしめんことを」と演説した。

これにたいし、張学良は「同舟倶遊」と色紙に揮毫して床次におくったという。

だが翌日床次は学良邸におもむき、金の無心をしていた。満州事変勃発後、関東軍が学良の金庫を捜索すると床次の領収書が発見されたのである。金額は50万元であった。この事実は1990年、張学良によって確認されている。政治資金を外国人から受け取ることは国民にたいする背信である。

この晩餐会の直前、張学良は秘書陶尚銘、外国特派員公署日本科長安祥の2名を突然逮捕、拘留していた。この2名は楊殺害後釈放されたが、張学良は暗殺計画の漏洩を恐れて拘束したのだという。すなわち、床次会見以前から計画はねられていた。

1990年、張学良はこの二人の殺害について、次のように語った。テロ主犯が後年になって自由な立場で感慨を述べた珍しいケースである。

この出来事は、郭松齢の反乱とも関係がありました。当時私は、楊宇霆と常蔭塊の企てに気付いていました。彼らは武器と弾薬を盗んで反乱を起こそうとしていたのです。私はたとえお前たちが反乱を起こしても、必ず片づげてみせると思っていました。しかし後で考え直し、やはりそうすべきではない、と思うようになりました。他の人から残酷でひどい人間だと思われるべきではないと。しかしこのまま手をこまねいて反乱を起こさせたら、また郭松齢のときのように、民衆や部下が苦しむことになるでしょう。それならば反乱を起こす前に、処刑すべきだと考えたのです。たとえ他人に罵られ、残酷だと思われようと、このようにしなければならない、と決心したのです」(NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』〜解説はバーナード・ショー的検閲追従で注意を要する)。

これは、あさましい弁解であろう。楊宇霆はともかく常蔭槐が反乱を企てる理由は全くない。常蔭槐はたまたま麻雀をやるための面子をつくるため同道したのである。古くからある陰謀反撃論をいいたてているにすぎない。後段の「民衆保護論」など笑止といわねばならないだろう。満州の権力を握るため殺害したと正直にいえない学良の二代目根性が出ている。

ただ張学良が決心したのは、大川周明(1886〜1957)から頼山陽の『日本外史』をおくられたときだったという説がある。その『日本外史』には、徳川家康と豊臣秀頼に丸が描かれていたという。大川がなぜ楊宇霆殺害を示唆したかといえば、「できるならば張氏を助けて東三省に王道政治を実現されたいと親身に考えるようになったのであります」(原田幸吉『大川周明博士の生涯』)と本人が説明している。

これは、「王道」という言葉の儒教的解釈を知らないと理解が難しい。儒教では「天に二日なし」(『孟子』)と教える。この意味は国を統治する君主は一人しかいないということである。すなわち、両雄相並ぶことが不可能だとし、正統は潤統を打倒すべきだという放伐論につながる。これは暴力的な思想であって、戦争やテロを肯定する。ただ、大川も学良も疑問をはさまなかったに違いない。

張学良は、この成功に味をしめたのか、5月、東支鉄道をめぐり対立関係にあったソ連領事館を襲撃するという暴挙に出た。

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