明治二十七年十二月十二目
山縣陸軍大將「征清作戦に閲する上奏」
臣有朋三タヒ謹ンテ奏ス 曩【ここ】ニ三策ヲ上リタルノ後大本営ハ臣カ愚見ヲ容レ大作戦ノ計畫@上第一軍ノ大部分ヲシテ大連灣ニ進.マシメントスルノ状アリ 臣是ニ於テカ窃【ひそ】カニ以爲【思え】ラク柝木城及ヒ海城附近ノ敵兵ハ漸次増加ノ景況アリ 若シ大作戦ノ計畫ニ從フテ我カ軍ヲ進ムル時ハ勢ヒ側敵運動ヲ爲ササル可カラス 必スヤ先ツ右ノ敵兵ヲ撃退スルノミナラス仮令ヒ側敵運動ヲ爲スニ及ハサルモ目下ノ敵状ヲ撃退スルニ非サレハ大不利ナリト 便チ第三師團二之ヲ撃退スルノ命令ヲ下セリ 而シテ臣ノ宿痾ハ曩ニ奏上シタルカ如ク漸ク軽快ニ赴キ殆ント平日ニ復シタルヲ以テ将ニ自ラ進ンテソノ方面二向ハントスルニ際シ偶々【たまたま】 勅使ヲ賜ハリ臣ヲシテ 大纛【たいとう/天皇旗】ノ下ニ帰リ親シク敵状ヲ奏聞セシメ賜フノ 勅旨アリ 出師未タ半ナラス 計畫ノ攻撃未タ其ノ結果ヲ見ルニ及ハスシテ帰程ニ上ルハ臣カ終生ノ遺憾トスル所ナリト難モ
聖恩ノ優渥ナル臣敢テ辞スルニ由ナシ 鳴呼今回ノ戦闘タル海陸共ニ連戦連捷 而カモ常二先制ノ機Aヲ過【あやまた】タス 今ヤ巳二幾多ノ要地ヲ占領セリ 宜シク此ノ機ニ乗シテ兵ヲ山海関附近ニ進メ全カヲ尽シテ敵ノ首都ヲ陥レ彼ヲシテ城下ノ盟ヲ爲サシム可キナリ 然レトモ臣カ伊東聯合艦隊司令官ノ談ナリトシテ伝聞スル所ニ拠れば目下既二氷結ノ期二迫リ渤海湾中山海関近ニ兵ヲ上陸セシムル事難シト云ヘリ 果シテ然ラハ第一策ハ最早之ヲ決行スル能ハサルヘク臣ハ一日時機ヲ失ハサルカ為メニ第二策即チ陸兵ヲシテ山東省ノ半島ニ上陸セシメ陸海合議脇カシテ以テ威海衛ヲ攻撃スルノ策ヲ採納アラン事ヲ希望スルナリ 抑モ威海衛ノ攻撃ニシテ果シテ其ノ目的ヲ達スルニ於テハ則チ左ノ利益アリ
一 敵ノ北洋艦隊ヲ撲滅ス 仮令ヒ之ヲ撲滅スルニ至ラサルモ其ノ唯一ノ根拠地ヲ略奪シ以テ渤海湾ヨリ敵艦ヲ駆除スルコトヲ得
二 氷解後直隷【現在の河北省】ノ野二於テスヘキ陸軍作戦ノ諸準備ヲ整頓シ且ツ之ヲ容易ナラシムルヲ得
三 陸軍ヲシテ盛京【奉天省/現在の遼寧省】及ヒ直隷ノ野二於テ独立シテ作戦ヲ爲サシムルコトヲ得
四 海軍ヲ東南支那海沿岸二運用シ敵二大害ヲ加フルコトヲ得
以上ノ利益ハ固ヨリ山海関ヲ衝クノ利益二及ハスト難トモ今日ノ事情之二依ルニ非サレハ以テ先制ノ機ヲ占ムルニ足ラサルナリ 陛下聖明願クハ此ノ策ヲ採納シ以テ氷結後ノ作戦ヲ容易ニシ賜ハソコトヲ 然シ而シテ已二此ノ策ヲ採納シ賜ハランニ於テハ望ラクハ漸次大纛ヲ進メテ敵地二移シ來春氷開ノ期ヲ過タス三軍ヲ指揮シテ急撃突進大勝ヲ以テ戦局ヲ結ハセ給ハンコトヲ 若シ内政ノ必要大纛ヲ異域二移サセ賜ヒ難キモノアルニ於テハ則チ熾仁親王殿下ヲシテ三軍ヲ総督セシメ賜フモ可ナルヘシ 果シテ然ラハ臣ハ不肖ト難トモ願フテ自ラ其ノ幕僚二列シ爲メニ身命ヲ掘ツヘキナリ 敵國ノ首都ヲ屠リ戦乱ヲシテ速カニ其ノ結ヲ結ハシメント欲ス臣愚他二手段アルヲ知ヲサルナリ 三タヒ 聖威ヲ冒漬シ罪萬死二抵【あた】ル
臣有朋謹ンテ奏ス
明治廿七年十二月十二日
帰途船中二於テ認
陸軍大将伯爵山懸有朋
山縣有朋が第一軍司令官を革職された直後、日本への帰国船中で書き留めたものである。革職の原因が第一軍が大連湾方面に止められたことに嫌気がさし、独断で第3師団を海城方面に突出させたことにあるのはこの手紙で明らかだ。
@の大作戦の計画とは川上操六が起草した、山海関上陸作戦計画を指すのであろう。川上は北朝鮮や満州からは兵力を離脱し、関東州や山東省に集中し、来春にかけて一気に北京を攻略する計画をたてていた。
ところが山縣はAの先制の機を重視した。この論は極めて近代的であった。連続したイニアチブを以て、敵将をして敗北感を抱かせることは近代軍事学の基礎である。戦争であるから、敵にエンゲージせねばならない。相手が大国であれば、時間を開けることは相手の益である。
川上の北京攻略論と山縣の連続攻撃論の対立であり、近代軍事学からいえば山縣が正しい。ところが北朝鮮と遼東は兵を養える場所ではなかった(北朝鮮がより難しい場所であった)。隋の煬帝も豊臣秀吉もマッカーサーも北朝鮮に大兵を入れて失敗したのである。
日本軍はけっきょく海城と威海衛両方を攻撃し、勝利を得た。とりわけ海城で、満州兵をほぼ全滅せしめた。これ以降、満州兵は北清事変、辛亥革命、それ以降の内戦でまったく兵力として出現できなくなった。満州人は海城で全滅したのである。日本軍も、仁川から平壌、鴨緑江をつなぐ兵站線において1万人以上といわれる大量の輜重兵死者を出した。
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福島安正中佐が語る山縣第1軍司令官革職の真相
島貫重節(終戦時参謀本部中佐参謀)が福島から直接、経緯を聞き取っている(『戦略日露戦争』原書房1980)。
当時、福島中佐は急いで山県大将を訪ね、重要な情報報告をしたのであったが、このときの山県大将は連日の作戦指揮のため疲労はしていたが病気という程ではなく、ただ何となく淋しい様子であったのが、中佐にとっては奇妙に思われてならなかった。
福島大佐(三月大佐進級)が事の真相を知ったのは、日清戦争後であったろうと思われるが、その概要は次のとおりであった。
日清戦争の陸上作戦は第一軍が朝鮮半島の清国軍を撃破北上して鴨緑江を渡り海城方面に進出、この頃までに海軍作戦の成果を見て第二軍を遼東半島に上陸させて旅順を占
領させるにあった。
この計画は万事順調に進展し、特に海軍の黄海海戦の勝利はわが制海権の確保を決定的にし、また旅順攻略は攻撃わずか一日で完了してしまうという予想外の進展振りを示した。
そこで次期作戦の指導をどうするかという問題が大本営で審議されることになったが、当時大本営には天皇の特旨をもって伊藤総理の外に外務大臣陸奥宗光も軍議に列せられていた。
清国は開戦以来約五力月を経過したこの頃になって、やっと陸軍主力が北京附近から山海関を通って遼河の線に向.い前進中で、逐次その前方兵団は第一軍の正面に増援中と
いう態勢にあった。第一軍前面の敵は逐次強化され海城附近にあった第三師団(師団長桂太郎)は優勢な清国軍に包囲されつつあった。
以上のような状況に鑑みて川上操六次長の次期作戦指導の構想は第一軍正面に多くの敵を牽制し、その隙に乗じ第二軍を以て旅順方面から海軍と協力して天津方面に上陸
し、一挙に北京を攻略してしまうという実に放胆な作戦であった。
これは制海権を確保した有利な現在に在っては、海上機動力を最大限に活用し、敵主力の側背を衝いて一気に決戦を求めるという着想である。
ちょうどその頃、伊藤総理と陸奥外相は、欧州列強が介入干渉してくる前に早く講和に持っていく意図をもって、同じく制海権確保の有利な態勢を活用して、先ず海軍と協力して敵海軍根拠地の威海衛(山東半島)を占領・同じく海軍と協力して台湾海峡の澎湖島を占領させ、清国陸軍の兵力派遣困難な要地を攻略することによって、清国をして早く講和に導いて行くことが必要と、これを川上次長に申し入れてきたのだった。
川上次長は伊藤、陸奥の申し入れの主旨に同感であった。そこでさっそく第一軍司令官山県大将に大本営の企画を明示して、第一軍は積極的攻勢を止めて、むしろ一部の兵力
を抽出して第二軍に増強する準備に当たるよう要求したのである。
山県大将はせっかく敵主力と山海関方面で決戦する主力正面となることを予期していたのに、急に助攻正面に変更させられたので面白くなく、しかも海軍が黄海海戦の勝利に続いてまたも花形となるのを快しとしないものがあり、大本営の要望があったにも拘わらず、その命令に従わないで攻勢を主張し、反対に第一軍に兵力の増加を要求してくる態度に出たのであった。
ここにおいて川上次長は参謀総長に進言して山県軍司令官の即時解任を提案した。しかし当時の山県大将は枢密院議長の職のまま軍司令官となって出征したという特別の事情があり、なにしろ当時の陸軍随一の大将であって、明治天皇の御親任も厚く、これを正面から解任させることは事実上は不可能に近かった。結局において伊藤総理から天皇に奏上して、天皇が山県大将の軍状奏上を要望されておられるから直ちに軍司令官の職を第五師団長野津道貫将軍に譲って一刻も早く大本営に帰任するよう、総理から山県大将に伝えることになったのであった。
山県大将は天皇の特旨であるとなれぱこれに従わざるを得ず、これが病気のため交代と当時伝えられていた真相であった。
山県大将は帰国してまず伊藤総理に山県大将の詰問を喰ってかかった。そして心の中では伊藤総理が山県大将に功を樹てさせるのを妨害したとまで思い込んでいたらしい。
そして次は川上次長にこれまた毒づいて、よくも伊藤総理の要求に追随して、この自分を解任させたと叱りつけたのである。
日本陸軍最高先任の大将から叱りつけられたらこれで万事休すであり、当時はそれ程、山県大将の威力は絶大であった。ところがこの川上次長は平然として山県大将に答え
るには、
「伊藤総理から求められて新作戦の構想をやったのではなく、私が次長として最も正しい作戦と確信して、これを総長に申し上げたのでありまして、私の作戦のどこに間違いがありますか」
と断乎たる一言を発し、作戦上のことならば一歩も引かないといった毅然たる態度に出た。川上次長はこの時にまた、陸軍も海軍もその優劣や区別はなく、大本営の務めは
この両者を統合して完全に指揮することにあり、さらには戦況の変化に応じて有利な態勢を活用することこそ戦術家の当然の役目なりと答えたという。
これには山県大将も言うことなしであった。
事実としていわれていることに相違はないと思われるが、原因に外交をあげ、それに係わった伊藤博文や陸奥宗光を山縣革職の理由としていることは首肯できない。日本の軍人が失敗の原因を政治家や外交に帰することは、長年の通弊であった。
ここに登場する参謀総長とは、小松宮彰仁親王を指す。小松宮彰仁親王の事実上の先任者である有栖川宮熾仁親王は不思議なことに「四将軍」といわれた陸軍反主流派、三浦梧楼・曽我佑準・谷干城・鳥尾小弥太と親しかった。山縣は、このころ陸軍主流派となっていた大山・桂・川上・寺内と距離を置き、「四将軍」とも離れずという中間的ポジションをとっていた。
山縣が小松宮彰仁親王の命令に反して、独断で第3師団を突出させたことは、川上にも許せない出来事であった。また川上はこのとき桂第3師団長から山縣解任に賛成であるとの意見をとっていた。
日清戦争中有栖川宮は薨去し、川上操六(山縣より10歳年下)は明治30年に没した。山縣もまた長生きすることによって陸軍の重鎮になったのであった |
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