鴨緑江方面の戦闘

第1軍(司令官、山縣有朋)は平壌の戦闘が終了して10日余りして、10月3日、北進を開始した。日清戦争は日本が計画したものではなく、清国から軍事的挑戦を受けたもので参謀本部は朝鮮領内の兵站についてまったく準備していなかった。

気候は順調であったが兵站が追いつかなかった。平壌と義州間は240キロに過ぎなかったが、20余日を要した。第1軍本隊の義州到着は10月23日となり、冬季一歩手前になってしまった。

先行した第3師団の朔州支隊は亀城経由、雲山支隊は博川より前進し、物資徴発と鴨緑江徒渉点の偵察を実施し、10月6日には義州に到着し、後続部隊の到着を待った。

敗兵の収容

清国政府は平壌陥落の報を受けて驚愕し、四川総督宋慶を防禦総帥に任命し、鴨緑江にて防戦する構えで臨んだ。ところが兵力は河口より上流長甸【ちょうてん】付近まで張り付ける必要があり、分散を余儀なくされた。渡河地点と予想した九連城から安東県の間8キロにはとくに50箇所以上の堡塁を設けていた。

平壌の敗兵は義州までの道路で散々の狼藉を働き、先頭は10月18日に到着したが、日本軍が先着しており、混乱したまま鴨緑江を宵闇に紛れて渡河、対岸における停止命令を聞かず、奥地に散っていった。敗将の豊陞阿、聶桂林(左宝貴の後任)、馬玉昆は10月20日、葉志超、聶士成、衛汝貴はその翌日に義州に到着したと伝えられる。

宋慶は敗兵は役に立たずとみて、援兵を要求した。それまでに、

  1. 呂本元 盛字軍馬隊1300歩隊5000(敗兵が含まれる)
  2. 劉盛休 銘字軍歩隊4750
  3. 馬玉昆 毅字軍歩隊2500
  4. 聶士成 牙山敗兵2750
  5. 依克唐阿 黒竜江将軍 馬隊

が鴨緑江に集中していた。日本側史料は総兵力2万とする。葉志超と衛汝貴は敗北の責任を問われ捕縛されのちに永禁固に処せられた。

渡河命令

山縣有朋は、23日到着とともに統軍亭に登り、敵情を確かめたのち命令を下した。

  1. 24日、1支隊(長、佐藤大佐)は水口鎮において鴨緑江を渡り対岸の敵を撃攘し、西南栗子園方面に前進し、第1地歩を獲得する。
  2. 工兵によって架橋隊を編成し、24日夜、渡船をもって掩護隊とともに中江台に達し、潜伏しつつ鴨緑江に架橋する。
  3. 第3師団をもって25日未明、鴨緑江を渡河し、払暁より虎山付近の敵を攻撃する。
  4. 予備砲の過半は義州東北高地に陣地を進め、第3師団の攻撃を掩護する。残部は追撃運動に備え行進を準備する。
  5. 第5師団は架橋点の近傍に位置し、必要に応じて渡河し攻撃に参加する。ただし立見旅団の一部は第3師団に接続して軍橋を渡り、左側を掩護する。

陽動作戦を実行したうえ、中江台経由で架橋し本隊が渡河するという教科書通りの渡河作戦であった。

佐藤支隊は、3人毎に肩をつけながら手を組み、水深腰に達する急流を渡河したが、中洲に達したとき、敵哨兵から射撃を受けた。応戦しつつ12時までに対岸に達し、安平河口西南方6キロの高地に露営した。

架橋隊は午後6時に着手し7時に第1江の架橋に成功したが、第2江は難渋した。鉄舟橋の一部を小幅橋に変更し、なお急造した木船を要した。寒威厳しく、暗夜燈火を必要とし、予定から遅れ、25日午前にようやく完成した。

第3師団は未明営舎を出発したが、第2江の架橋は終了せず、船舶で渡河し、虎山堡塁東方の高地に陣を構えた。払暁から第3師団大迫旅団は虎山、立見旅団は中江台の税関を攻撃した。虎山へは対岸の統軍亭付近にある砲兵隊も猛射撃を加え、大迫旅団の攻撃を掩護した。

立見旅団が西側に回り込むと虎山の敵は支えきれず、8時になると撤退を開始した。一部は九連城方面に、残りは西北方に退却した。すると栗子園、九連城、楡樹溝方面から援兵が来着した。そこに立見旅団も来着し激戦となったが、10時半までに撤退させた。山縣有朋も第5師団とともに虎山に達した。

九連城と安東方面への追撃

山縣は翌日からの九連城方面への追撃を命じた。25日、第3師団前衛が出発、本隊は楡樹溝東南の集合地を出発した。これとは別に立見少将の1隊は九連城西北高地に向かった。前衛部隊司令官の大島義昌は歩11第3大隊に腰溝西南の高地を占領させたが、九連城連繋堡の至近であったにもかかわらず、敵兵はいなかった。

歩11の西嶋中佐は、7時15分、連繋堡をも占領した。堡内には砲14門と多数の弾薬・糧食が遺棄されていた。宋慶は直属の毅字軍を引き連れ鳳凰城まで、前夜、退却していた。早朝これをみた付近の清国兵は支離滅裂になり、多くは鳳凰城をさして逃亡した。九連城には盛字軍が守備していたが、あとを追って、鳳凰城に向かった。

第3師団主力は、9時に石城に達したが、前衛から九連城からは敵が逃げたとの報告を受け、安東に向かうことに決心した。一方、安東(安東県城、現在の丹東)対岸で監視に当っていた奥山支隊は、25日午前6時50分、砲撃を開始した。だが応じる気配がなかった。支隊は将校斥候を出して確認すると敵兵はいなかった。午後0時30分から渡河を開始し、5時には支隊全員が渡河を終えた。

この戦闘における日本軍の死者は34、負傷者115であった。清軍の遺棄屍体で日本軍が収容したものは500であった。おそらく数千の死者が出たものと推定される。それでも将領の戦死者は出なかった。日本軍の鹵獲戦利品は小銃4400、砲75門であった。捕虜は15に過ぎなかった。遼東という著しい貧困地区(北朝鮮より良好であったが)で、逃亡兵が生存することは困難であり、ここまでで清国派韓軍2万は殲滅され、宋慶が指揮した鴨緑江増援部隊も半数近く減耗したと推定される。

連続攻撃

本作戦は日本軍にしては珍しく、渡河作戦という1回の戦闘から追撃戦まで連続攻撃を実施した。この当時の山縣はドイツ流の連続攻撃を信奉していたことがわかる。また、平壌包囲から、一連の作戦ともみなしうる。

ただし、このあとがいけなかった。鴨緑江は結氷するので、補給を考えれば大東溝経由大連方向に向かう方が合理的であろう。大東溝は河口に近く冬季でも水運の便が得られた。

ただし、第1師団、第2師団、第6師団半部で第2軍(司令官大山巌)が結成され、10月3日、戦闘序列が発せられていた。こうなると第1軍の行き場がなくなった。川上操六の『対清征討案』が渤海湾から山海関付近に上陸する内容であったことに問題があった。朝鮮領内の戦闘から戦争が始まることを想定していなかった。

戦争の争点が「朝鮮の独立」にある以上、朝鮮の保持は絶対であろう。そうすると義州、安東、大東溝を抑える必要があった。また川上の清国の兵力予想から奉天軍の存在が落ちていた。満州は満州族の発祥地だけに、満州族と兄弟民族のモンゴル族から一定の募兵が奉天で可能であった。

山縣は朝鮮保持のため遼東の占領が必要であるとして、第3師団の海城への突出を提案した。

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海城攻防戦に続く