西安事件

西安事件

西安事件

西安事件は、よく主犯である張学良が蒋介石に「兵諫」(兵力をもって君主に諫言すること)や抗日や国共合作を訴えたものとされるが誤りである。中共が主犯であって、剿共作戦を断念させ、蒋介石を殺害し、寝返った張学良軍と楊虎城軍を従え、共産軍閥としての地位向上を狙ったものにすぎない。ただのテロ事件である。また、中国・中共の公的文書は依然真実を伝えていない。

満州事変のあとの張学良

張学良は満州事変(1931年9月)勃発にさいは北平にいて、のち上海に住んだ。この目的は阿片治療であると本人は述懐している。学良は満州事変のとき現地で指揮をとっていなかったばかりでなく、指揮系統を把握していたのかも疑わしい。ただし関東軍司令官本庄繁は、学良の個人財産を貨車2両で北平におくりつけた。後日になり学良は受取を否定しているが、関東軍の伝票を信じるべきであろう。

吉鴻昌 Ji HongChang (1895-1934)
河南省扶溝の貧農に生まれた。馮玉祥に取り立てられ、頭角をあらわした。性格は残忍で、信望に乏しかった。玉祥から第22路軍を預けられたが、1932年ごろ共産党に内通、寝返り誓詞を入れている。1933年5月、馮玉祥とともに察哈爾で蹶起した。だが玉祥は形勢が悪いとみるや、帰順に転じながら察哈爾に逃げ込みソ連と結んだ。国府中央軍何応欽が徹底懲罰に出ると孤立した吉鴻昌は一たまりもなく敗北した。そのあと天津租界に逃れたが、藍衣社の手にかかり拷問のすえ殺害された。だが、まとまった軍閥としては国府中央軍にたいする最後の蹶起である。

現在の中国歴史教科書では殺害されたときの情況を次のように記す。「刑場に護送される途中、彼は立ち止まって小枝で地面に一篇の詩を書いた。『私は抗日のため死ぬのであるから、その死は公明正大であり、背後から打たれるわけにはいかない。この眼で敵の弾丸がどのように私を殺すのか見届けようではないか』そして『抗日万歳』『中国共産党万歳』と叫んだ」(『中国中学校歴史教科書』(1992年版)小島晋治ほか訳 明石書店 2001)

現代中国における教育の実態がよくわかる、でっち上げ記述である。吉鴻昌は、共産党員ではなく、また国府中央軍と戦ったのであるが、いつのまにか「抗日」で日本軍と戦ったかのように誤魔化されている。

学良軍は、熱河省の錦州に集中、そこで軍隊の収容に努めたが離散する者が多かった。そして関東軍が熱河に進撃(1933年1月)すると、承徳(省都、湯玉麟省長)で微弱な抵抗をおこなった(張作相、1933年3月)のち、またもや北平方面に逃走した。張学良は承徳には数日現れ、督戦している。

華北では、1933年初頭から、馮玉祥・吉鴻昌が反蒋介石軍を結成しつつあり、学良軍兵士の大半はそこに吸収されたとみられる。

蒋介石は張学良が馮・吉と合体することを恐れ、1933年4月、イタリア駐支公使チアーノ(ムッソリーニ女婿、のち外相)の帰国とあわせてヨーロッパに外遊させた。ローマではムッソリーニに面会している。その後、ドイツにいきゲーリングと面会した。学良は「私はヨーロッパで、ファシズムの影響をうけました。それが中国に通用するかどうかは大きな問題でしたが、私は帰国後、中国でも首領を擁護せよ、と主張しました」(『張学良の昭和史最後の証言』角川文庫)と語っている。帰国は34年1月である。この外遊でわかる通り、国民党政府の友邦はドイツとイタリアであった。

ただ日本では「それは昭和二年頃であつた。ー略ー日本の思想界、言論界、政界、財界等は英米の國際聯盟の思想や軍備縮少の馨等に左右されて、極端に反軍的であり、日本の軍備を軍國主義の現はれであるかのやうに言ひくるめて、内には目本の軍傭を縮少し、外には巳本の國防や外交を極度に畏縮退嬰に導いた。日本の此の弱味につけ入つた英米等は、強力なる魔の手を支那に差し伸べて、支那をそそのかして日本に対して排日侮日をやらせた。當時の動向を其のままたどれば、日本は遂にアジア大陸から追ひ落されて、海上の大八島国土に立てこもる以外にないとさへ思はれた、日本はどうしても、聖戦の氣魄を呼び醒まして、英米の不當なる重圧を排除し、以てアジアを解放し世界を解放し理想の人類世界を新建して日本建國の大使命を全うしなげればならぬ」(『天関打開』満井佐吉 1940)といった中国に関連づけて反英米言論が盛んであった。

社会主義者(満井は愚物の皇道派軍人であったが、同時に三井大牟田の労組と組み、しばしば三井管理職にテロを加えた)が「英米の魔の手が支那に差し伸べられている」という言論をつくりあげた。

一方、軍事的には1930年の中原大会戦をみれば、国府中央軍にいかなる軍閥軍も対抗しえなくなったことが明らかとなった。満州事変も国府中央軍に対抗できる唯一の勢力、学良軍を滅ぼし、蒋介石有利の軍事情勢をつくった。

国民党の下で中国が統一されば、独立満州の安全保障は難しい。すると国民党に相対する学良軍という緩衝地帯を残存させることは賢明な策であり、熱河作戦の戦略目的が問われねばならないだろう。また、この緩衝地帯喪失が土肥原・板垣による「北支工作」につながった。

満州を除く中国にわたる日本人の大部分が上海にいった。そこではイギリス人が商業で他を圧していた。じっさいには、これが魔の手の実態であるが、他方、外交官を除いてドイツの国民党政府への浸透をみることがほとんどなかった。ところが、ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼンは、日本軍打倒の秘策を講じつつあった。日本人の多くそして張学良も蒋介石のドイツコネクションを警戒しなかった。

紅軍長征の終了

1934年10月、毛沢東は、ファルケンハウゼンが献策したトーチカ戦術により国府軍に大敗、江西省井崗山にあった中央ソビエトを棄て、西の雲南方面に向かった。貴州省遵義会議で、軍の統制権を握ることに成功し、一転北に向かった。出発時8万6千の隊列は減少していった。兵站が準備されていない行軍であるから実態が徴発と強盗を働きながらのものであったことは容易に想像できる。

1935年8月1日、中国共産党は「抗日救国のために全国同胞告ぐる書」を発表している。この「書」はモスクワにいる亡命党員王明により起草されたもので、毛沢東は関与していなかった。「書」自体はスターリンが指令したものである。1935年7月、コミンテルン第7回大会で、「日独の世界分割の野心に対抗する」と決められた影響でもあった。スターリンは、当時、共産主義運動としては、中国共産党にもっとも期待していた。ただ国民党政権を中国の正統政権と認めており、蒋介石の方針「抗日」にも従うべきことも同時に説いた。ソ連は満州国が建設されると、ドイツ・ポーランドと日本から挟撃される地勢的位置におかれた。そして日本牽制への期待は、共産党ではなく蒋介石にあった。

じつはこのころ、毛沢東は「抗日」に反対であった。主敵は蒋介石でなければならない。だが毛沢東といえどもスターリンに逆らうなど思いもよらない。

ソ連唯一の「属国」はモンゴルであり、共産党が軍事的補給を期待するにはモンゴル経由しかなかった。資金面も中共はソ連に頼り、また中共中央は事実上モスクワにあった。

毛沢東はモンゴルと連絡がつく陝西省北部に向かった。ここでは、左派・朱理治と郭洪濤にたいして右派・高崗と劉志丹が相争っていた。毛沢東は、徐海東を先遣隊として、1935年10月、陝西省北部・呉旗に到着した。毛沢東は右派に味方した。ただ中共はこのときの党内抗争について明らかにせず詳細は不明である。

蒋介石の対日戦争決心

現在の中国・中共は、「抗日」を中共や張学良の専売特許のように扱っている。だがそれは、政治宣伝であり、デマにすぎない。じっさいのところ、もっとも「抗日」に熱心だったのは蒋介石であり、具体的軍事作戦も保有していた。いったい、中共や学良が日本軍と戦ったことがあるだろうか?日本軍の前面にいた敵は、1945年8月まで、国府軍であった。

満州事変や北支工作に、もっとも危機感を抱いたのは蒋介石であって、領土の一体性をあくまで守ろうとした。とりわけ、長城以南の華北への日本(人)の介入は我慢のならないものだった。ただそれまで、蒋介石は日本政府については、ある程度信頼していた。1934年10月、広田三原則@排日排除A満州国承認B共同反共が蒋介石に伝えられた。そして蒋介石は歓迎するむね伝えているのである(東京裁判証拠提出)。

だが、1935年6月梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定が結ばれ、8月冀東政府が樹立されると蒋介石は突然対日態度を変更するに至る。日記でもこのころから北支工作について「倭寇」という言葉が使われ始めた。

北支工作は、支那通軍人による私的政治工作であったが、蒋介石は支那通および広田弘毅に言い知れぬ不信感をもった。すなわち蒋介石は、この1935年8月前後に日本との戦争を決心しているのであって、1937年8月の支那事変勃発までの間は、2年間の猶予であったにすぎない。

だが、決心したとしても作戦計画発動は簡単ではない。このころの蒋介石の党内基盤はまだ十分ではなく、また軍閥は僻地において依然活発であった。ただ純軍事的には、1932年の徴兵令施行以降、補充兵の到着する中央軍の武力は圧倒的であり、数個の軍閥が連衡したところで問題とはしなかった。

さらに蒋介石が危惧したのは、英米との関係である。独伊が自分の側にたっていることについては自信があったが、北伐時武力衝突を引き起こした英仏をも味方につけねばならない。日本の国際連盟脱退により日本が孤立していることは、はっきりしていたが、この両国は対日制裁措置を断乎として否定していたのである。

これがため、蒋介石は藍衣社にテロを実行させ、日本側に言い知れぬ不安を与えることを考えた。

テロは、1936年8〜9月にかけてピークに達した。だが、ここで思いもかけぬ出来事がもちあがった。ファルケンハウゼンから、「日独防共協定」成立を予告されたのである。ドイツに裏切られたという衝撃は大きかった。このため、蒋介石は陝西に集結した共産軍を幕間つなぎに攻撃することを考えた。1936年10月、蒋介石は剿共戦の本拠地である西安に向かった。

甘泉・直羅鎮の戦闘

張学良は帰国後ほどない1935年9月、蒋介石により西北剿匪副総司令に任命され、陝西省西安に落ち着いた。このころの心境として「中国に戻ったとき、私はもう軍隊を率いたくありませんでした。私は蒋介石先生と、互いの認識と理解をもっと深めたいと考え、蒋先生の侍従室の主任になることを希望しました」(『張学良の昭和史最後の証言』)と回想しており、信じてもよいと思われる。

当時の張学良は途方もない金持ちであった。なぜかといえば、張作霖・学良軍閥とは満州を支配したものの「政府」を樹立しなかった。軍隊は私兵であり、行政官・外交官は家臣であった。このため税収は全て学良個人の財産となった。そして、関東軍は満州事変を引き起こしたが、陸戦規定を守り掠奪を働くことなく、学良の個人資産には手をつけなかった。つまり、満州国の建国とは従来政府の資産・負債を引き継いだものではなく、純然たる日本の財政により賄われたのである。張学良の手許には莫大な外貨・貴金属がそのまま残された。

蒋介石が張学良のもつ「金」を剿共戦によって費消させたいと考えたのは無理がない。

1935年4月、張学良が陝西省にうつると噂が流れると、華北を流浪していた旧軍閥幹部は、学良の金目当てで、たちまち集まり、また募兵も簡単であった。満州と比較して陝西省は経済発展に遅れていた。

学良はもちまえの潤沢な資金を生かし、陝西省に自宅建設・病院建設などの公共投資も実施している。

楊虎城 Yang HuCheng (1893-1949)
陝西省蒲城県生まれ。貧農出身。西安事件が落ち着いた1937年6月29日、蒋介石によって外遊に出された。神戸・横浜を経由してアメリカからヨーロッパに向かった。その間、支那事変が勃発した。それに触発されたのかスペイン動乱に興味を示し、スペイン共産党のミアハ将軍と会見した。これは思慮の足りない行動であり、共産党員でないばかりでなく、政治的背景も理解できない人物であることを示している。11月帰国すると藍衣社の戴笠によって捕縛され家族もろとも監禁された。そのあと夫人の謝葆真が発狂するなどし、1949年9月、戴笠後任の毛人鳳によって家族・部下もろとも殺害された。顔面には硫酸が浴びせられていたという。

中国共産党は、1955年楊虎城殺害犯として楊進興を逮捕し大衆裁判にかけたとしている。そのさいの肩書きは「重慶中米特殊技術合作所看守長で国民党軍統(軍事委員会調査統計局)のスパイ」である。現在の中共が「大衆裁判」を是認していることに注意。

そして、そのとき西安を地盤にしていた軍閥は楊虎城であった。虎城は馮玉祥の元部下であり、この地を封土のように与えられ独立、その後、国民党に忠誠を誓い第17路軍を名乗った。だが、陝西省は大兵を養えるところではなく、もつ兵数は数千にすぎなかった。

張学良は自家用機を数機もち年中、南京・西安・上海を往来していた。だが突然1935年10月、新編の第110師が洛川県甘泉で包囲・殲滅され、師長の何立中が重傷を負ったのち殺害されるという戦闘が起きた。さらに11月(異説では10月という)、第109師が富県直羅鎮で同様の目にあい、師長牛元峰も殺害された。

この二つの戦闘は疑問が多い。中共は甘泉戦闘について徐海東が指揮したというが、陝西省到着直後であり疑わしい。同様に直羅鎮戦闘について林彪の功績であると本人失脚以前に主張さたことがある。だが、林彪はそのとき長征中であり、疑わざるを得ない。張学良は『張学良昭和史最後の証言』で「陝西の共産党劉志丹の兵は数千にすぎない」と語っている。このとき陝西省北部を支配していたのは高崗と劉志丹であって、劉志丹の名のみをあげるのは現代中国政府を慮っているのであろう。学良は共産党の実情に無知であった可能性が強い。

不思議なことにまた、学良軍はこの戦闘以降も洛川県の拠点を維持している。ただ、延安はこのころ土匪と中共に共同支配されていた。蒋介石はこの事実を知ることがなかった。中共・学良の間に素早く了解ができたのであろう。

張学良は第一次奉直戦争、第二次奉直戦争、郭松齢の反乱で3回実戦に参加しており、戦闘にひるむ人物ではなく、また無謀なことをする人物でもない。やはり、高崗・劉志丹の手によって将校の大半が共産側に寝返り、師長だけが殺害されたのではあるまいか?(*)

(*)2002年、胡錦濤政権は初期共産党運動における不当に粛清された人物についての名誉回復運動をおこなっている。それによると、長征終了時陝西省では、朱理治・郭洪濤一派と高崗・劉志丹一派の間で内部対立があり、毛沢東が手打ちを要求、徐海東が到着したとき、数百名に過ぎなかった地方部隊を吸収し、新たに紅第15軍を編成した。徐海東が軍団長となり劉志丹が副団長となった。甘泉の戦闘では、地下共産党員を名乗る旅長が殺害されたという。

毛沢東の東征

1936年2月21日、毛沢東は「東征・抗日」を宣言し、自ら軍を率い、劉志丹を先頭に黄河を渡り、山西省に突入した。山西省を支配する軍閥は閻錫山であるが、中共と内通(ただし、寝返り誓詞を交わす程度)していたのは確実である。それでも毛沢東が東征を決意したのは、コミンテルンの指示により強烈に従ったとの外観を装い、支配地を増やそうとしたのだろう。当時、中共はコミンテルン中国支部であって、本部はモスクワにあり資金源もモスクワに仰いでいた。

一隊は、22日、中陽・石楼県城を包囲し、他の一隊は離石方面に向かい、本隊は南下し、濕を経由して趙城に向かった。閻錫山はただちに迎撃に向かった。

一方、国府中央軍は河南省から長躯山西省に入り孝義西郊で、3月8日、中共軍本隊を捕捉した。3日間の激戦ののち、中共軍は戦死者3千人を出して、大敗した。さらに3月22日、離石方面(一説では三公鎮という)でも劉志丹の部隊を撃破、ここで劉志丹は敗死した(これにより陝西省保安県は志丹県に改称された。人名を地名につけない共産中国としては珍しい措置である)。

3月27日には閻錫山は蒋介石に「24日、共産軍の要害をいっせいに攻め落とした。捕虜の供述によると、毛沢東は各要害が守れないとみて、匪軍500余を率いて西に逃げた。しかし、途中で我が軍が行く手を阻み、死者300の損害を与えた。毛沢東と妻(賀子貞)、及び楊尚昆は辛うじて逃れた」と報告した。

紅軍はそのあとも山西省を逃げ回り、各地を掠奪しながら5月3日、陝西省に逃亡した。通過した村々には根こそぎ掠奪され、村民は拉致され、さながら無人の荒野のようであったという。

張学良の寝返り

甘泉・直羅鎮の戦闘で意気消沈した張学良は、ただちに、上海にいた中共への内通者李杜を通して、当面の敵、中共側と連絡をつけることにした。当時、軍閥相互間では何かあったときにそなえ、寝返り誓詞を入れることは常態化していた。また軍閥軍の中でも主だった将士もそのようにしていた。そして、陝西省にあった高崗や合流した毛沢東は、群小軍閥からみて、ソ連が後ろ盾にあるとみられたことにより、じっさい以上に大きな存在であった。

この張学良の内通申し込みにもっとも熱心であったのは、山西省の戦場で敗北しつつあった毛沢東であった。毛沢東秘書の張文彬は1936年春から西安に楊虎城の第17路軍総指揮部主任秘書として西安にとどまった。そして楊虎城自身の秘書王炳南もヨーロッパ帰りの中共党員であった。学良が内通意思を固める前から、楊虎城は中共に内通しており、要所には党員が配置についていたのである。

そして、学良は手引きに従って、洛川県に飛び中共代表を名乗る李克農と面会し、周恩来か毛沢東と面会することを申し込んだ。これはいささか大胆な決断である。一般に中国では、寝返り誓詞を交換することはよくあることだが、面会をするには閥主または上司(この場合、蒋介石)の了解が必要であるとみなされていた。

学良が躊躇なくこの申し込みを行なったことは。叛心がすでに固まっていたことを示す。1936年4月9日、学良は周恩来と延安のカトリック教会で面談した。自家用飛行機をもっていたからこそ出来る芸当であろう。このとき飛行機は張学良自ら操縦し、孫銘九(副官)・王以哲(軍長)・劉鼎(中共党員)が同乗した。さらにこのとき共産党に入党申請まで行い、スターリンに却下されている。

このとき、学良は周恩来に太平銀2万枚、20万法幣元を「見面礼」として支払ったという。

5月12日にも再度、学良は延安に飛んだ。この周・張の会談内容について、事件後双方が「逼蒋抗日」(蒋介石に抗日を迫ること)だと口裏を合わせているが、信じることはできない。じっさいに1936年6月ごろから起きたことは、紅軍と学良軍の間の戦闘がいっさい停止したことだった。

蒋介石西安訪問の意図

蒋介石はドイツだけに懸けていたのではない。利害と打算で動く国はもう一つあった。それはソ連である。ソ連との交渉は1935年から開始されていたが、スターリンは共同抗日を訴える蒋介石に耳を貸そうとしなかった。日本にたいし開戦すれば、ドイツからの攻勢をしのぐことができない。

蒋介石はこのようなスターリンの事情はわからず、中共の存在がソ連との了解を妨げていると考えた。そして、最近になり戦闘を停止した張学良に督戦し、再度剿共戦に出させることを考えた。陝西省北部は東・閻錫山、西・干学忠(張学良の古参配下、蘭州にいた)、南・張学良によって囲まれている。一押しで中共を押し潰せると考えたのである。

もちろん、蒋介石は無条件で学良を信用していたわけではない。だが、1928年の「易幟」により自分に忠実であると信じていた。そのうえ、国府中央軍の威容をみて従わないはずがないとみていた。蒋介石は学良がきわめて西洋的な考え方をもっていることに気づかなかった。つまり、参謀部から学良軍が無線で共産側と連絡をとっていると通報をうけても、閻錫山のように両天秤をかけ、結局最後は「強い方」につくという軍閥思考をとると思ってしまった。

蒋介石は南京における共産側代表潘漢年と国府側陳立夫の休戦合意をある程度信用していた。つまり、蒋介石は自分から謀略をかけつつあると思っていた。

10月22日、蒋介石は西安に飛び、張学良と会っている。このとき雰囲気はなごやかで、10月28日まで麻雀をやってすごし、閻錫山のいる山西省都太原に向かった。だが、学良・虎城謀反の噂はますます広がった。12月2日、ことの真相を確かめるため洛陽に戻り、その後、学良から求められ、12月4日、西安に到着した。

夜明けの銃声

蒋介石は臨潼にある華清池に止宿した。だが西安一帯には明らかに不穏な空気があった。学良軍将校の大半は剿共戦に反対であると意思表示してきた。

一緒に麻雀をしたり骨董品の品定めをしたりしたが、張学良はそわそわと落ち着かなかった。蒋介石は12月12日に南京に帰る予定をたてていたが、その朝、起き抜けにいきなり銃声が聞こえた。初めは楊虎城の一部部隊による反乱と思われたが、すぐさま学良軍あげての反乱とわかった。

孫銘九 Sung MingJiu (1909-)
遼寧省生まれ。1928年ごろ天津南開大学で張学良の弟、学銘と机を並べた。翌年、学良の推薦により、日本の陸軍士官学校に入学。1931年、学良の随従参謀となり、子飼いの部下となった。西安事件後は延安で中共の保護を受けたが、幾許かして天津それから上海に現れた。1940年ごろからは汪兆銘軍の山東省駐在部隊にいた。第2大戦終了後の動静ははっきりしないが、1980年ごろ日本人の取材を受けた。そのとき上海市参事会委員を名乗ったという。1992年にも取材をうけ生存が確認されている。

蒋介石は護衛隊が銃撃戦を交わす中、裏山へ向かった。そして山腹の岩穴に逃げ込んだが、孫銘九の部隊に発見され、午前10時ごろ、西安城内の新城大楼に連行された。半時間ほどして張学良が現れ押し問答となった。

蒋「今日のことはお前は知っていたのか」
張「知りませんでした」
蒋「知らなかったら、すぐ私を南京に送り返せ」
張「事変については知らなかったのですが、委員長に申し上げたいことがあります」
蒋「お前はなお委員長と呼ぶのか?上官と認めるのなら、命令に従って、洛陽に送り返せ。そうでなければお前は逆賊である。私を射殺しろ。その他にお前にいうことはない」
張「もし、委員長が私の意見をきいて下されば、命令に従います」
蒋「お前はいったい部下なのか?敵なのか?敵ならば私を殺せ。二つに一つだ。私は何もきかん」

このときの蒋介石の態度は断乎としていた。一方、張学良は出任せのウソをついている。中国の軍閥抗争を勝ち抜き、今、世界の主要国と外政を展開している蒋介石と張学良とでは政治家としての識見・覚悟において差がありすぎた。

張学良と楊虎城は8項目を並べ、南京に打電した。

  1. 南京政府を改組して各派の参加を許し、ともに救国の責任を負う
  2. いっさいの内戦を停止する
  3. 上海で逮捕された七君子を釈放する
  4. 全国の政治犯を釈放する
  5. 民衆の愛国運動を束縛しない
  6. 人民の集会・結社など全ての自由を保障する
  7. 孫文の遺嘱を確実に遵守、実行する
  8. ただちに救国会議を開く

七君子とは、上海の日系工場における暴力ストを煽る論調を並べた知識人であるが、じっさいにはマークされていた秘密共産党員であった。張学良はその後もこの項目の固執しており、中共と事前打合せがあったことが伺える。すなわち、この拘束事件は中共と連携した行動であって、いったん蒋介石を拘束し、首を延安におくるか、拉致して、西安に三派(中共・虎城・学良)政権を樹立し、国民党政権と対決することが目的だった。

中共と張学良は、後になり、このテロ事件を抗日を目的としたものだと説明しているがデマである。8項目に抗日にあたる文句はない。そして、西安政権を樹立すれば、挙国抗日の力は弱まり、また三派がまとまっても抗日実行など不可能なことは自明である。

西安城内では学良・虎城軍が掠奪を開始し、憲兵隊と警察を襲撃し、武装解除のうえ多数の憲兵・警察官を虐殺した。さらに西安駅では兵糧米など150万元に及ぶ物資が奪われた。この掠奪は蘭州にも広がった。

スターリンの介入

かねてから示しあわせていたように、張学良が蒋介石を拘留したことは、中共にとり快哉を叫ぶ出来事であった。だがモスクワにいる王明と連絡をとり、スターリンに前後措置の了解を求めねばならなかった(一説では、コミンテルン極東支部長のディミトロフの了解は事前にとっていた)。

スターリンの反応は早かった。「蒋介石をすぐ釈放しない限り、匪賊とみなし絶縁する」というもので毛沢東宛であった。この電報を受け取ると毛沢東は悪態をつき地団駄を踏んだという(エドガー・スノー『中共雑記』)。スターリンは張学良を嫌っていた。「1929年の中ソ紛争」の経緯をみればこれは当然だろう。蒋介石とは軍事同盟についても話し合い、現に数十機の戦闘機もソ連から購入し気心は知れていたのである。

汪兆銘はこのときベルリンにいて、日独防共協定の真意について探りを入れていた。ドイツからディスインフォメーションとして、汪兆銘の努力によって日独防共協定に中国が参加するという説がソ連に流されていた。スターリンが疑心暗鬼に陥っていたことも想像にかたくない。

このようなことが原因でソ連が日独中に包囲されることはスターリンにとり悪夢である。

プラウダは「汪兆銘は、学良軍の反日傾向を利用して中央政府への反乱を呼びかける陰謀を働いた。汪は日本に唆されて、日本に好都合なだけの新しい混乱を国内につくりだそうとしている」と書いた。

スターリンは補足して「張学良では器量不足だ。張学良では抗日戦を指導する能力はない。中共も今の時点ではない。蒋介石は抗日戦の唯一指導者足りうる人物であり、もし抗日戦が始まれば、中共と必ず合作する」(張国Z『我的回憶』)と述べている。このスターリンの分析は見事であった。

スターリンの命令は13日中には張学良に伝わったとみられる。というのは「三日目の14日になると、張学良の態度が変わった。『早朝、張がまたあらわれ、入り口にたたずんだまま、私に向かって恥じ入るように泣いていたが、私が声をかけないので、しばらくして立ち去った。正午張はまた現れた。『私は委員長の日記と重要文件すべてに目を通し、委員長の革命にたいする忠誠、救国の責任を負う苦心は、私たちの想像に及ばないものだということがわかりました』」と蒋介石が述べている(『蒋介石秘録』11サンケイ新聞社)。

張学良が今更、蒋介石の本を読み出したとは笑止であろう。ただ、自身の進退が窮まったことは理解した。そして突飛な行動をとり始めた。

国府中央軍の潼関占領

蒋介石の監禁をきくと南京政府はすぐさま反応した。何応欽(参謀総長)は8項目を拒否し、もし蒋介石が殺害されるようなことがあれば、国民党は日本と連合し対ソ連戦を始める、とソ連大使を脅した(あとになり中共は何応欽が蒋介石の跡継ぎの地位を狙うため強硬方針をとったと中傷している)。

一方、蒋介石の妻、宋美齢は軍事的処置はかえって事態を悪化させることを恐れ、顧問のドナルド(ニュージーランド人、以前満州で学良の顧問であった)を西安に派遣することにした。ドナルドは張学良の海外資産管理人のジミー・エルダー(イギリス人)の友人であった。14日午後、ドナルドは蒋介石に面会することに成功した。これにより、南京側にも蒋介石生存が確認された。

張学良は完全に進退に窮した。ただちに飛行機を中共要人の住む保安に向かわせたが、雪のため着陸できなかった。中共もスターリンの指示をめぐって対立が起きた。毛沢東だけが孤立してスターリンに抗して蒋介石殺害を主張したが、聞くものは誰もいなかった。そして紅軍を渭水の線まで南下させることが決められた。

同時に、周恩来が西安に赴くことが決められ、15日、保安を出発した。しかし延安城内に近づくと、そこを占領していた土匪に入城を拒まれ、大きく西方に迂回せねばならなくなった。

ドナルドは蒋介石から自分に構わず西安を占領との命令を受け取った。何応欽と林森(政府主席)は16日、「討伐令」を下した。ただちに河南省開封に東路軍(劉峙)と洛陽に西路軍(顧祝同)の編成が命じられた。

顧祝同は順調に前進し潼関を17日に占領、華県を包囲し、渭南に迫った。

周恩来は爆音によって張学良のボーイングを発見、合図した。飛行機は延安東10キロにある膚施に着陸し、恩来を迎え入れた。そして17日、西安に到着した。その夜、学良と会議がもたれ、「学良軍・虎城軍を中共は保護する。張学良の指示で軍事力を行使する。蒋介石は時宜をみて釈放する」と決められた。

蒋介石の釈放

張学良はまず何応欽に顧祝同中央軍を潼関から東に下げるよう要求した。だが蒋介石は、空爆停止を除いてはいっさい応じようとしなかった。

周恩来は18日、楊虎城に面会した。二人は初対面であった。虎城は昨晩の和平案に反対した。蒋介石を処刑するものとばかり思っていたのである。今では逆に報復を覚悟せねばならなくなった。これにたいし恩来は、三派共同を説いた。中共があくまでも虎城軍を保護するというのだ。

楊虎城は「九間房事件」(1935年3月、徐海東らが虎城軍に属する共産党員張漢民らを詭計をもって虐殺した事件)を恨んでおり、決して中共を信用していなかった。この点で、党員にまでなろうとした張学良とは決定的に異なる。

18日以降は、張学良は虎城の釈放反対、渭水方面からの中央軍からの攻勢に脅えることになった。19日に張学良は、8項目要求のうち4項目だけを認めて欲しいと蒋介石に哀願したが、撥ね付けられた。すでに立場は彼我逆転していたのである。

20日、宋子文とドナルドが空路、西安に入った。子文は周恩来と妥協の道を探ろうとしたが、「仲介にきただけだ」と逃げられた。恩来は、学良軍・虎城軍内の共産党員の説得におわれていた。彼らも蒋介石を処刑するのは、従来のスローガンから当然と思っていたのである。

蒋介石も子文の役割を疑った。ようやく面会したのち、「西安に早く進撃せよ」と伝えるのみだった。だが、子文は学良と虎城から進撃を遅らせろと要求されており、21日に南京に帰り伝えろと強要された。子文はいったん南京に戻り、再度、宋美齢とともに22日夜、西安に戻った。

23日、張学良・楊虎城・周恩来の三者は子文に「停戦と潼関以東への中央軍の撤退・共産党の合法化・その他4項目」の6項目の要求を伝えた。ここにも「抗日」がない。

一方、釈放反対の青年将校、高崇民・杜斌丞・申伯純・王炳南・応徳田・盧広績が集まり、「条件がなければ蒋を釈放しない」と衆議一決していた。これにより、これら青年将校は共産党員でなかったことがわかる。

24日夜、周恩来は蒋介石と面会した。二人は黄埔軍学校で師弟の間柄にあった。恩来は無条件釈放と学良軍と虎城軍を抑えることを約束したとみられる。また、蒋介石はここで第二次国共合作の可能性を示唆したとされる。蒋介石が対日開戦に前後して共産党と妥協せねばならないと考えていたことは確実であり、ここで今回の剿共戦は完全に放棄されたものとみなすことができる。最初の、張学良と閻錫山の「外様大名」による中共殲滅という方針が甘かったのだ。そして、この決定が勢力温存を図る毛沢東派(対ソ独立派)の勢いを増し、最終的には蒋の破滅につながった。

楊虎城は迷いをふっ切れなかった。これは当然のことで、当時の中共がソ連の指導下にあることを知らず、また、蒋介石が対日戦争開始のため剿共戦を始めたことについて、まったく理解が及ばなかったのである。張学良はやや違った。満州を支配していたころの記憶から、国際政治がどのような力学で動くのか多少は理解できた。学良は中共に当事者能力がないと感じ、ソ連に嫌われている自分が生きるためには蒋介石にすがるしかないと思い始めた(張学良が中共にも国民党にも疎外されていると生涯感じていたのは疑いない。なぜならば「釈放後」インタビューに応じたのは日本の国営放送局NHKであった)。

25日朝、蒋介石は再度周恩来と面会した。自分の息子である蒋経国がソ連に留学していた(ただしスターリンの命令により帰国が許されず、このときシベリアで強制労働につかされていたという)ため、謝意を述べたともいわれる。蒋・周会談の中身ははっきりしない。その日の午後、蒋介石は出迎えの飛行機に乗り込もうとした。すると学良は「私は蒋委員長をおくって南京までいかねばならない」といった。蒋介石は「君がいってしまったら、軍は誰が指揮するのか」といったが張学良は頑として同行したがった。学良は結局、自家用機で蒋の飛行機を追った。

飛行機は洛陽に寄ったのち、1936年12月26日午後12時45分、南京に到着した。遅れること1時間で張学良と宋子文をのせた飛行機も到着した。飛行場には5千人以上の国民党関係者が集まり、蒋を歓迎した。このニュースはすぐさま中国全土につたわり、蒋介石は誰からも押しも押されぬ中国の国家指導者となった。

事件の結末

蒋介石は英雄となった。いかなる脅迫にも屈せず、いかなる条件にもいっさい応じなかった胆力は、それまでの中国政治指導者にないものだった。

毛沢東は、この事件の直後、負け惜しみとも思われる声明を出している(『毛沢東選集』補巻、第5巻)。「蒋介石は西安で出された条件に署名こそしていないが、(口頭では)受け入れたし、署名をしていないからといって信義を守らぬことはない」と述べ、野卑としか思えない論を吐いた。監禁され強要され、署名もしていない契約について、「信義を守らぬ」とはどういうことであろうか?その精神性が疑われる。

考えねばならないのは、当時の中国において、精神が卑しかろうが、共産主義に広範囲な支持が集まっていたことである。蒋介石はこれに対抗する政治プログラムを示す必要があった。だが、対日戦争を選んだ。その原因の一つは日本の支那通軍人による北支工作である。

この事件によって共産党は利益を得たのだろうか?延命できたという点は重大である。地所としては延安を確保した。国民党が剿共作戦をやらない限り、延安獲得は時間の問題であった。だが、中国知識人が共産主義に魅力を感じ、唯一の中国復興の処方箋であると信じているとするならば、延安共産党が滅亡したとしても別の共産党が出現するのは必至であろう。

ただ中共の全中国支配以降、1980年代まで、政治的権力者は、全てこの時の延安共産党指導者に限られている。この点においては僥倖にせよ陰謀は成功したということができる。

張学良は、いったん裁判にかけられた。裁判長は第2革命の雄、李烈鈞であった。そこで、張と李は怒鳴りあったという。学良は、このあと50年間の幸せな軟禁生活をおくった。

生活資金は潤沢であった。1980年代李登輝政権になり、事実上軟禁生活が解かれても、豪邸に住む悠々自適の生活であり、最後はハワイに隠棲している。それまで学良資金は続いたのだ。他に、学良資金の請求権があるのは部下たちであるが、学良は彼らとの面会すら疎ましく、軟禁はむしろ好都合であったろう。

なぜ張学良は、周囲の誰もが止めたにもかかわらず、振り切って蒋介石とともに南京に帰ったのだろうか?これは多くの人々がもつ疑問だとされる。だが答えは簡単である。疑問をもつのは西安事件が「兵諫」と中共の宣伝を額面通り受け取るからである。真実は、中共が筋書きをつくり、途中、スターリンにより止められたのだ。張学良は、「共産方か国府方かどちらを選ぶか?」という岐路にたたされた。これはどちらに転んでも、命を奪われる危険性が高い難しい賭けである。

自由な外国を旅行する体験をした軍人にとり答えは明らかだった。張学良は蒋介石が自分を殺さないという「賭け」に出て勝ったのだ。だからこそ、台湾で自由になっても、いっさい大陸に戻ろうとしなかった。

西安事件について張群はどうみていたか

1938年夏、国民政府が漢口に移ったとき、陳公博は張群から西安事件についての見解をきいた。張群は予想外のことを口にした(陳公博『中国国民党秘史』)。

(陳公博)「あなたは知らないだろうが、中日両国は全く戦う必要はなかったのだ。むしろ我々は多くのチャンスを逃してしまった。私は外交部を辞めて駐日大使になりたかった。当時日本は中日問題をどう解決したらいいのか、その方策を求めていたのだ。日本側は私が駐東京大使になると聞いて、外務省から歓迎の電報をよこし、軍部からも歓迎電報がきたくらいだ。しかし蒋介石がこれを許してくれなかった」

張群も沈んだ調子で言った。「西安事変のお蔭と言ってはなんだが、そのために蒋介石の心はすっかり共産党のとりこになってしまった」

張群はこう言って長い溜息をつき、黙りこんでしまった。


張群は南京にいて蒋介石救出作戦の総指揮をとっていた。陳公博は第1回共産党大会の出席者でもあり、共産党の内情に詳しかった。共産党から国民党に活動の舞台を移したのも、両者に差を発見できなかったからであった。

蒋介石は「まず共産党を滅亡させて、ソ連と同盟し日本と戦う」戦略から西安事件以降、「共産党は陝西省の山奥に閉じこもると約束したので、まず日本を討つ」に変化した、と陳公博と張群はみたのである。二人の会話は、蒋介石が日本軍に先制攻撃をかけたことを前提にしている。

残された学良軍と虎城軍

1月に入ると、軍事委員会西安行営主任に任命された顧祝同は前進を再開した。一方、紅軍もこれに対抗して、咸陽・三原の線に到達した。周恩来は西安に留まり、三派共同(三位一体)を説いた。だが、楊虎城も中共を最早信用できないとみなすようになっていた。虎城は蒋介石に、命令に従い、どこにでもいくので、張学良を戻して欲しいと依頼した。だがもちろん相手にされなかった。

1937年1月9日、西安で開催された「抗日武装大衆集会」に現れた紅軍少年部隊。「小紅鬼」と呼ばれ、10歳前後であった。中には四川省から拉致された子供もいたという。クメール・ルージュとの類似性をあるいは指摘できるだろう。

学良軍は張学良の資金によって成立している軍隊であったから、すぐさま瓦解が始まった。

顧祝同は、両軍に蘭州など奥地にいくよう命令した。1月27日、応徳田・孫銘九・苗剣秋・何鏡華が周恩来・葉剣英・博古・劉鼎と会談した。三派共同を話し合ったが、中共側はそれまでの積極姿勢を撤回した。南京で開始された国共会議への悪影響を避けたかったのである。

1月29日、学良軍高級軍人が集まって会議を開いた。だが高級将領董英斌(参謀長)・何柱国と青年将校孫銘九・応徳田・苗剣秋が対立した。内容は不戦か、中央軍と一戦交えるべきか、という点だった。

2月2日、30人ほどの学良軍将校が孫銘九の家に集合した。そして、王以哲と何柱国の殺害が決定された。だが、楊虎城は学良軍青年将校に不穏な動きがあるのをつかみ、周恩来・孫蔚如・干学忠・何柱国を匿っていた。しかし王以哲は何を思ったか、虎城の申し出を断った。

まず孫銘九配下の干文俊がトラックで1個小隊を率いて王以哲の家に向かった。だが、襲撃を予想していた以哲は拳銃隊を配置していた。小一時間の銃撃戦ののち、襲撃隊はついにベッドにいた以哲を射殺した。

だが、渭南で国府中央軍にそなえていた主力前線部隊に王以哲殺害が伝わると、憤激の声が巻き上がった。孫銘九・応徳田らは中共党員または同調するものとみなされていた。中共党員と知られていた高福源をまず殺害した。次に王以哲殺害犯の干文俊が殺された。

こうなると、学良軍の師団長クラス馬占山たちは西安を離れ始めた。周恩来はこの混乱を放置できず孫銘九・応徳田・苗剣秋の3人を紅軍側で引き取ることにした。この3人はいずれも党員ではなく、延安を経由して北平・天津に向かった。

2月8日、顧祝同は西安に入城した。干学忠・何柱国・孫蔚如が駅に出迎えたという。



エドガー・スノー『中共雑記』小野田耕三郎・都留信夫訳 未来社 1966
西村成雄『張学良ー日中の覇権と満州』岩波書店 1996

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