阿片戦争から中国の近代に入ったとされる。現代中国人は、それ以前を「古代」「封建時代」と呼ぶのが一般的である。ただ、先進国においては、このような歴史分類をされることはあまりない。すんわち近代とは、アメリカ「独立」やフランス大「革命」、明治「維新」を契機として、それ以降の時代をさす。
中国では阿片戦争以降、こういった社会の仕組みを変えるような激変は、まったく発生しなかった。だが、戦敗による屈辱は大きく、知識人の間では何か変革せねばならないという機運だけは生じた。それには外国がどのような歴史・地理をもち、兵備がどのようになっているか知らねばならない。その嚆矢として登場したのは魏源による『海国図誌』であった。この本は、阿片戦争で海岸防備に失敗、左遷された林則徐と話し合い、外国書を翻訳することによってつくられた。だが、日本は「本州と薩摩と佐渡の三島からなる」と書かれており、よくいわれる翻訳学問以下の内容にすぎなかった。中国人は外国について、それまでまったく興味を示さなかったことが如実にわかる。
『海国図誌』そのものは、日本でもよく読まれ、各種版本がでた。この本は百巻に及ぶ大部のものであって、当時の日本の学者がいかに外国知識に飢えていたかがわかる。吉田松陰や佐久間象山はこの本を称揚した。だが、吉田や佐久間は「在野の士」であって、要路の人間ではない。幕府や明治政府の軍事・外交を掌握していた役人が『海国図誌』から影響をうけた形跡はない。地図・図版による解説では不十分であった。ところが、林則徐や魏源は、清国では要路の人間であった。
1870年、日清修交条規が交わされ、、国交が回復すると中国人の来日が相次ぎ、そこで初めて彼らは「日本」を発見した。
そして、中国人は多くの所見を残した。
- 李圭『環游地球新録』
「日本は咸豊初年のころは、大将軍が政権を掌握し、天皇は名前だけの存在であり、国勢はふるわなかった。だが最近になって、洋学を尊重し、鉄道や工業の新規事業を興した。これによって大将軍の権威は落ち、雄飛できる態勢が整った」
- 何如璋『使東述略』
「最近20年、西洋諸国に迫られ、大いに通商を開始した。憂国の士は、国家の根本を変えることに反対し尊皇攘夷を唱えた。諸国の浮浪者がこれに応え、都会や田舎で騒擾した。徳川氏は狼狽し、拠り所を失った。皇室を復興し、武門を廃し、藩封を改め郡県とした。かかる急激な変化ははたして成功するのだろうか」
- 王韜・王之春『扶桑略記』
「電灯・電信・鉄道は巧妙につくられていて目も眩むばかりだ。学校教育制度も誠に善法である」
- 李筱圃『日本紀游』
「遠来の西洋人を拒絶できなくなり、西洋の猿真似に陥った。国は日益しに貧しくなり、人民から過酷に税をとりたてるようになり、民衆は徳川氏に慈愛を懐かしんでいる」
洋務運動
日本に好意的な意見の持ち主は洋務派といわれた。李鴻章、張之洞、曽国藩、左宗棠は洋務運動を主導した。この運動は1863年〜1888年まで、すなわちアロー号戦争終了から光緒帝親政開始までとされる。
上海に江南機器局、天津に機器局を設立し、造船工業を興そうとした。各省には西学局を設け、機械・軍事学を研究させた。さらに天津には水師学堂を設立し、海軍士官を育成した。このように、洋務運動とは軍隊の近代化を目論んだものだった。
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李鴻章の江南機器製造総局開設の上奏文(1865年9月20日)
「わが中国のいかに巧みな技能の士といえども、空論するだけでは、しかたがございません。しかし、年月が経過して、風習が次第に開けてくると、およそ人間の心裡や智慧は同じでありますから、やがては、自ら科学的真理を知るようになりましょう。臣が推し量りますのに、数十年の後には、中国の富裕な農民、大商人の中には、必ずや洋式の機械を模倣・製作し、自分の利益を追求するものが出てまいります。官法は、これに対して制限を加えてはなりません」
「中国の文物制度は、外洋野蛮の風俗とは、はるかに異なっており、治平を致し、邦を保ち、帝業を不敗の基礎に固めるゆえんのものは、もともとはっきりと存在しています」
李鴻章の主張は、工業の振興にあたって、西洋の機械を模倣すれば十分であり、それがために民間の起業の自由を保証すべきと説き、反面政体を変更することはない、であった。このあと生じた康有為らの変法運動と比較してはるかに合理的である。清末中国の時代は、産業が大いに発展した。ちなみに、江南製造局は陳其美と蒋介石が目の仇にして占領を狙った官営兵器廠であった。 |
このころ李鴻章は曽国藩に
「清朝に開花砲隊と軍船があれば、西洲人も矛を斂【おさ】めるだろう」と手紙を書いた。
張之洞は、「中学為体、西学為用」(中国の形而上学を中心に置き、西洋の形而下学をそのために利用する)を唱えた。これからもわかるように、中体西用とは日本の「和魂洋才」とは根本的に異なり、軍事のうち武器だけを西洋式にしようとするものであった。
兵器の西洋化
李鴻章 Li HongZhang
(1823-1901)
字は漸甫。安徽省合肥出身。4人兄弟の2番目であるが、兄瀚章も両広総督であり、弟も軍人となり活躍した秀才一家であった。1948年、25歳で進士にあげられた。そのあと出世に恵まれず故郷にいたとき太平天国の乱が勃発した。直ちに、曽国藩の湘軍に投じた。1861年、李は廬州に戻り、淮勇を募集した。合肥は太平天国軍がついに占領できなかった土地で、そこでは数千人の募兵は簡単であった。翌年、淮勇がなり、揚子江を上り、上海を本拠として戦った。1864年、太平天国が滅亡したとき、淮勇と李鴻章はもっとも有名になっていた。李鴻章が知られたのは遅く、また軍人としてのものであった。ただ、李鴻章もこのとき派生した科挙官僚軍人の一人に過ぎず、清朝を倒すといった野望はなかった。日清戦争により一時失脚したが、北清事変で再度登場した。
李鴻章はまず直隷省の軍隊を洋務化、すなわち洋式の軍隊にしようとした。清国の軍隊の節制は旧態依然としたものであったが、根本問題は省、あるいは総督(通例、二つの省を統括する)ごとに統帥が分割されていることにあった。
すなわち、清国の軍隊は国軍ではなく、省軍なのであった。近衛兵ですら例外ではなく、節制は首都の属する直隷総督に任されていた。清国は国土が広大であるうえ、この当時、移動手段は徒歩と汽船でしかなかった。ただし、総督や巡撫の人事権はあくまでも愛新覚羅家が握っていた。
戦争や外交は、まず戦場と予想される地域の総督がその任にあたり、不足した場合、周辺の省の軍隊が派遣される。この場合、統帥はその地域の総督には属さず、派遣された軍隊の司令官に属する。
捻匪の乱(1857〜1866)の討伐の場合、最終的に李鴻章が討伐に成功したものの、それまでに任命された統帥者は22人の多きにわたった。李鴻章の前任は曽国藩であり、その前は僧格林沁であった。
1870年、李鴻章は曽国藩のあとをつぎ、直隷総督兼北洋大臣に任命された。この職を日清戦争が勃発した翌年の1895年まで続けた。
洋務運動は中国兵が手にもつ武器を西洋化しようとするものである。もっとも目立つ西洋化は海軍の軍艦購入であった。1882年から戦艦定遠と鎮遠をドイツのフルカン造船所から購入した。両艦ともイタリア型砲艦であって、十分な航洋性がなく渤海湾と黄海における活躍を期待したものであった。
防衛的性格が強いとも直隷省または北京防衛しか考えていないとも評することができる。また、海軍に力を入れた事情は、ちょうど鉄道時代の前にあたっていたためであろう。すなわち、この時代は汽船がもっとも早く移動する手段だったのである。
19世紀後半は人類史上もっとも科学技術が急速に発展した時代であった。新造船の戦艦は10年をまたずして旧式兵器になってしまった。1882年の戦艦は1894年の日清戦争には使える兵器ではなく、日清戦争の兵器は1904年の日露戦争には使えず、1914年の第1次大戦に使用されたのはドレッドノート級戦艦だったのである。
洋務運動の中心が武器におかれたのは仕方がない選択であった。ただ時代が不運だったのであろう。
直隷淮軍錬勇
陸軍は海軍と異なり、従来からの基盤があった。李鴻章は直隷省の陸軍を淮勇編制のまま新設した。
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営数 |
人数 |
司令官 |
駐屯地 |
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盛字軍 |
18 |
9000 |
衛汝貴 |
小站 |
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銘字軍 |
12 |
4000 |
劉盛林 |
大連湾 |
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毅字軍 |
10 |
4000 |
宋慶 |
旅順 |
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蘆防淮軍 |
4 |
2000 |
葉志超 |
蘆台・北塘 |
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仁字虎勇 |
5 |
2500 |
聶士成 |
営口 |
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計 |
49 |
21500 |
― |
― |
淮勇は李鴻章が募兵して成立したものであるが、合肥で活躍していた民兵部隊が基礎になっていた。目だったのは、周盛波・盛伝兄弟、劉銘伝であって、「盛」と「銘」はその名の一部からとられたものであった。「毅」や「仁」は縁起のいい字ということであろう。
洋務化した直隷軍の制服には「淮勇」と「盛」字が刺繍されていたのである。さらに「人数」はあくまでも定数であって、ほとんど充足されることがなかった。また、手にもつ武器も歩兵の半数は刀槍であった。
清国の軍制
ライフルにしても、その時代その時代の新式銃が継ぎ足しで歩兵に与えられた。日清戦争では火縄銃から87年式モーゼルまで5種類以上のライフルが制式であった。日本兵はこのとき単一の村田銃をもっていた。
淮勇が基礎となった関係から将兵の大半は安徽省出身であった。これが将来の安徽派につながっていった。太平天国の乱のとき応募した兵士の多くは50歳を超えていたが、それでも営舎に留まることが多かった。下士官登用制度や服役年限の定めもなく、退役兵士の職業斡旋もなかったのである。
戦争が起きたさいには、新徴募されることが前提となっていた。日清戦争のさいは、街角の浮浪者を連行し、刀槍をもたせ兵員を定数まで増加することが行われた。それで近代的徴兵制度をもつ日本軍に対抗しようとしたのであるから土台無理があった。7個師団あった日本軍の戦時編制の1個師団定数は2万人に達する。李鴻章の直隷淮軍が、成歓戦と平壌戦までに全滅したのは、当然の結果といえる。
アロー号戦争や清仏戦争の敗北をうければ国家は何かをせねばならなかった。李鴻章が国家によって兵器、その他については民間という方針について誤っていたとは思われない。ただ、陸軍からではなく海軍から兵器を購入したことは疑問が残る。鉄道時代を見通せなかったためである。
潜在的な武力を背景に外交を中心とし、極力戦争を避けるべきであった。李鴻章は朝鮮の宗主国の地位を失ってはならぬとして、日本に開戦したのであるが、最早朝鮮の貢物など、国家経済の単位としては小さかった。
洋務運動は日清戦争で一敗地に塗れた。これは結果であって、運動そのものは実行に移された。これに反して、変法自彊運動は実行に移される前に失敗したのである。この点は重要である。
李鴻章の臨終の言葉は、
「毓賢め、何でここまでも国を害したのだ」「皇太后と皇帝はなかなか首都に戻ってこない」
であった。毓賢は、山東省でキリスト教徒迫害を奨励した人物であった。山東巡撫という官職にある人物が、条約違反を実行でき、朝廷は、条約違反の観点からではなく、巡撫が民生において成功しているかどうかで人事を考課するといった仕組みに問題があるのだろう。現代中国においても大差はないが。
洋務運動の批判
梁啓超
梁啓超(変法自彊運動の首謀者)は洋務運動を厳しく批判した(『飲氷室文集』)。
「国家のなんたるものか知らず、国家と政府といかなる関係あるかを知らず、政府と人民との権限の如何を知らず、大臣の尽くすべき責任の如何を知らぬ。・・・わが中国の政教風俗は、他国よりも劣らず、及ばないのは、ただ銃のみ、砲のみ、船艦のみ、鉄道のみ、機器のみだとし、我はただこれを学ぶのみだとした。洋務はこれをもって、よく事終われり、とした。兵事あることを知って民事あることを知らず、外交あることを知って、内治あることを知らず、朝廷あることを知って、国民あるを知らず、洋務あるを知って、国務あるを知らぬ」
梁啓超のような批判は、いかにも浅薄である。その時代の中国は朝鮮を除いては中緯度諸国の内では所得水準が最低の産業未発達国であった。結論とすれば、いくら兵器を入れても先進国に武力で太刀打ちすることは難しかったと思われる。
「一人ひとりがそれぞれの身を善くすることを私徳といい、一人ひとりがその共同体を善くすることを公徳という。私徳がなければ自立できない。公徳がなければ団結できない。両者のどちらか一方が欠けても、国家は成り立たないのである」(『論私徳』)
「今日の学者たちが日に日に公徳を講じるにもかかわらず、まったく効果がみられないのは、国民の私徳に大きな欠陥があるからである。したがって、一国民を作り出そうとすれば、必ず個人の私徳喜つことを第一義的なこととしなければならないのである」
「中国の進歩を阻む原因である数千年来の旧態を改めるには、旧有のものを取り除く破壊
が必要である。それは建設のための破壊でなければならない。道徳に新旧はなく、それが各々の社会で養成されたものであるため、ほかの社会の道徳をもって固有道徳にとって代え
ることはできない。中国の徳育には西洋の新道徳をもって補うべきであるが、しかし、けっして一朝一夕でできることではない。今日において社会を維持するものは、固有の道徳にほかならないからである」
梁啓超の道徳論は福沢諭吉の儒教批判を批判したもので、中国古来の儒教を中心とする道徳は、西洋における啓蒙主義と同じものであると論じている。これは中国や韓国にみられる「付会論」と呼ばれるもので、議会制民主主義は「周時代」や「春秋戦国時代」の中国で既に説かれていたとするものである。このような啓超の付会論は愚かなものであろう。
「儒家は実は人治と法治を合わせて調和させるものである。『礼』も法の一形態である。儒家は、昔貴族に適用していた法律(すなわち礼)の適用範囲を拡大して、一般平民に適用させようとするのに対し、法家は、逆に、昔平民に適用していた法律(すなわち刑と法)の適用範囲を拡大し、一般の貴族に適用させようとしたにすぎない」(『中国法理学発達史論』)
「法家と儒家の人治主義に対する両者の立場は一致している。なぜなら、儒家の言う礼と、法家の言う法は皆行為の標準である。儒家のいわゆる礼に合っているか否かは、すなわち法家のいわゆる法に適しているか否かであり、両者は形質から見ても、効用から見ても、視角がまったく同じである」
「人治主義の人治に対して、法治と礼治とは、共通規範を設けようとするものなのである。
このような共通性は、法治主義と礼治主義とを結合する重要な基礎である」
梁啓超は科挙官僚としての自分は「民によろしい」という観点から考えておりそれは、西洋の啓蒙主義と合致しているという考え方から抜け切れなかった。中世的な人物であるとしか評しようがない。
厳復
厳復は北洋水師武備学堂の総教習(校長)であった。日清戦争の敗北をうけて、洋務運動がなぜ失敗したのか痛苦に反省した。
「イギリスから教官を招聘したが、それを生かすことができず、意見を聞き入れないどころか、みんなで反対して彼らを追いだした。それでも、人材がまったく育たなかった。西洋に学ぶこのような方法は、『西法』という名はあるだけで、実際はあい変わらず中国の『弊法』を踏襲したものである」
中国人がなぜ排斥したかといえば、イギリス人教官が航海や運用をまず教えるため、国際法から始めたためといわれる。中国人学生からみれば、そのような迂遠のことを知らずとも、敵艦に弾丸を命中させるためには砲術だけが必要だったのである。
代わりに雇われたのがドイツ人退役砲兵中佐ハイネケンであった。豊島海戦で国際法を必死に学んだ東郷平八郎に、ハイネケン乗船の高陞号が撃沈されたことは、この事件の惨めな結末であったろう。
「『西学』を学ぶとき、西洋の名だけを借りるのではなく、その皮相だけを学ぶのでもない、『格致』が重要である。ここでの『格物致知』は朱子学の主張する読書による『窮理』ではなく、『西学格致』である。西洋では、『ひとつの理を明らかにし、ひとつの法を立てるには、必ず物事の検査を経てから、はじめて不易のものと定める」
「中国的思考法は、事物の観察や経験からではなく、古文を読書することによって学ぶという致命的な欠陥を有している」
「中国の場合、陸王の学はもっぱら心に存する「良知」を基準にし、「格致」を無視したゆえに、天下のことは「知」に合っているか否かは問わない。そのような学問が結果的に後世の学者の怠惰と傲慢の情を養った」
「最後には主観で物事を判断し、学術にだけではなく、国家にまで禍をもたらした。儒教の教えを排し、西洋の「実学」を取り入れるべきである。これには中国の民度=『民力、民智、民徳』を高めねばならない」「だが、『中国の民度』が劣るため、中国を強くするために、遅れた法制に取って代わる西洋の「富強の政」をすぐさま取り入れる、という意見には同調できない」
「中国では『民度』が低いため、たとえ西洋の政治の導入を唱導する人がいても、それに唱和する者がいない。たとえば、洋務運動が『西法』を模傲したにもかかわらず、効果がなかったのは、まさにそのためだ」「変法の成否の原因は、そのときの風俗、人心がその法に合っているか否かにあるのだ。なによりも先に『民度』を高めることが本質的なことだ」
民度を高めるために議会設立を伴う立憲君主制の採用を厳復は主張しており、その意味では革新的な人物であった。だが、民度が根本にある問題であろうか?むしろ、教官追い出しという学生の暴走を防げなかった指導者層こそ問題があったのではないか。
蒋介石
"徹底した精神"が中国の場合には欠けていた(蒋介石『十九世紀以来のアジア情勢』)。
ひるがえってわれわれ中国をみると、その主張する維新格致(ものごとを改め知識をきわめること)の道には、一つとして因陋就簡(お茶をにごすこと)でないものはなく、改革のようにみえて、実際には半新半旧、不新不旧の上べだけの改革であり、根本的な全体を見通した計画、はっきりした目標がなかった。
科学的知識もなければ、政治、経済、教育、軍事、外交が時代とともに進歩しなければならないという常識もなかった。この科学的精神、科学的方法の重要性についての認識の欠如は、中国の維新変法にとって重大な欠点であった。
ロシアのピーター大帝は、かつて皇帝の身を労働者の身にやつして英国に行き、みずから造船や機械を学んだが、中国には誰一人、そのような者はいなかった。
また、日本の学者のように、西欧の科学的技術と方法を、日夜の別なく専心研究し、ひたすら模傲しようとする者もいなかった。
中国人は中国自身の古代からの科学の成果をも重視せず、西欧の科学すら蔑視した。「聖朝は本徳をとうとび、奇技(科学技術)は洋を重んずることをしりぞく」「天文算学、益をなすこと、はなはだか餓なり」「文儒(学者)近臣は技能をとうとばず、夷裔(野蛮国の子孫=外国人のもの)をみならわず」と説いた。その結果、われわれ中国は「頑固愚昧の老大、守旧の国」と非難され、侮蔑されることとなるのである。このように、日本は維新によって日ましに強大となったのに反し、中国は変法によって、日ましに弱体化、落後し、相変わらず変乱が絶えなかった。
時代は下るが蒋介石の批判がもっとも透徹しているようにきこえる。

梁啓超『李鴻章』張美慧 久保書店 1987
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