1921年7月、アメリカ新大統領ハーディグによりワシントン会議が提唱されると、中国では大きな興奮が広がった。日本から山東利権が返還されるという期待が広がったのである。おそらく日本の外交官がその可能性を中国側に伝えたのであろう。こういった愚行は日本の外交官によくみられる所業である。それによって自己のパイプを強化したいのである。
中国にとっては、阿片戦争以来の初めての領土奪還であるうえ、中国人の目にはドイツ人の建造した建物から鉄道まで、全てがまぶしく映ったのである。徐世昌はワシントン会議で巧く立ち回るため顔恵慶を首班とする「ワシントン会議内閣」を組成させた。ただし徐自身の力はなく直隷派の傀儡であった。この内閣は第一次奉直戦争を挟んで、1924年4月まで続いた。
だがもちろん、中国はワシントン会議の主役ではない。
アメリカ史上、もっとも無能な大統領
1919年6月、ベルサイユ条約が締結され第一次大戦は完全に終了した。アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが主導したこの条約には国際連盟創設が含まれていた。それまでの二大陣営の軍事的均衡による平和維持を秘密外交として否定し、国際連盟による集団安全保障を提唱したのである。
ウィルソンはアメリカに戻ると、国際連盟参加を訴え全国を遊説し、その途中、過労のためか脳卒中に倒れた。だがその甲斐もなく、議会上院はベルサイユ条約批准を拒絶した。翌1920年の大統領選挙ではウィルソン的なものは全て拒否反応に会い、共和党のウオレン・ハーディングが選出された。
ハーディングは選挙キャンペーン中、「元のアメリカに戻ろう」といい、就任式では「愛される大統領になりたい」と語りかけた。戦争に疲れた国民は空疎な「優しい言葉」に飢えていたのである。今、多くのアメリカの歴史家はこの人物について「米国史上、もっとも無能な大統領」と表現する。
事実、ハーディングは禁酒法を無視してホワイトハウスで酒盛りし、博打をうつのが日課であった。1923年、サンフランシスコで急死したが、今でも毒殺説が根強く囁かれている。この短く腐敗した在職中(汚職の噂も絶えず、その後三人の高官が収賄で起訴された)、唯一評価される業績がワシントン会議である。
ハーディングは海軍軍縮と太平洋・極東問題解決のため、1921年11月、戦勝五カ国(米英仏伊日)による会議を呼びかけた。これを受けて、イギリスはユトランド沖海戦において巡洋戦艦隊を率いた「イギリス最後の海の英雄」ビーティを全権に指名、日本は日本海海戦における連合艦隊参謀長加藤友三郎を全権代表に指名した。
一般に軍縮とは仮想敵国同士でやるものである。第一次大戦前の英独海軍交渉や第二次大戦後の米ソ核軍縮交渉がそれにあたる。戦勝五カ国は第一次世界大戦で戦時同盟を組み、そのあとも対ソ干渉戦争を共同して戦った。共通の敵独ソに対抗して、各国の軍備拡大を訴えてもおかしくなかった。
第一次大戦中、イギリスは弩級戦艦を多数建造した。日本も大規模な八・八艦隊建造計画を打ち出していた。両国間には日英同盟があり、両洋から締め上げかねないとアメリカの赤新聞は叫んだ。ハーディングは「元のアメリカに戻ろう」といって政権をととった関係から、海軍予算増強はできなかった。そこで狡猾にも、日英の負担で新聞と国民の歓心を買おうとしたのである。
太平洋・極東問題とは、日英同盟破棄を意味した。イギリスは大英帝国維持のためにはスエズ以東では日本の助力が必要であり、同盟存続を願っていた。だが、アメリカとの対決を避けたい自治領のカナダとニューファウンドランドが反対した。その上、本心では大英帝国を離れたいボーア人の南アフリカも反対した。
日本史上、もっとも国家・国民に害をなした外交官、幣原喜重郎
長い間、イギリス外交のエースは「外交官の模範」(吉田茂)といわれたエドワード・グレイであった。現在でも破られることがない十一年間の外相経験をもち、この間、二度のバルカン戦争における五大国の不介入をまとめ、「グレイ外交」とも呼ばれるヨーロッパ平和維持に成功した。グレイはワシントン会議開催前まで駐米大使であった。
ワシントン会議の軍縮以外を担当する全権として指名された幣原喜重郎も駐米大使であり、両者は外交官同士でいう「同僚」にあたる。幣原は、グレイについて「銀杏」(ヨーロッパ大陸では絶滅したが、ワシントンには日本から移植された銀杏があった)に感心する奇妙な人物、その主要任務は「軍縮問題」であると描写している(『外交五十年』中公文庫)。この認識は誤っている。グレイはバード・ウオッチングのベストセラー本を書いた自然愛好家であり、銀杏に感心してなんら不思議ではない。
グレイの駐米目的は、アメリカの国際連盟不参加をなんとか参加、乃至オブザーバー参加にもっていくことであった。だが、ハーディングは世界平和を論じるようなことができる人物ではなかった。ワシントン会議はいわばイギリス外交行き詰まりの象徴であり、そのためグレイもその前に帰国を余儀なくされたのである。
幣原には、平和維持が軍縮で達成されるかのような国際政治の無理解があった。グレイは幣原のあまりの無定見をみて、日英共同してのアメリカ説得を早々と諦めたのではないかと推察される。幣原は日英同盟廃棄と国際連盟=集団安全保障との関係について、親日家でもあったグレイと突っ込んだ話合いをすべきであった。
アメリカの国務長官(外相)は、ヒューズであった。この男も抱負なり経綸がある人物ではない。日英同盟を廃棄させ、日英の戦艦を戦わずして海に沈め、アメリカ国民の溜飲が下がれば十分であった。ヒューズは手始めに日英同盟がアメリカにとり脅威であるとブチ上げた。イギリスは対抗して太平洋・極東問題に関する三国会談を要求した。日英同盟の共同防衛の範囲は主としてその地域であった。
ここで奇妙な提案をしたのが幣原であった。海軍軍縮に参加する仏伊に加え、太平洋に植民地をもつオランダ・ポルトガル・ベルギーそして中国を加えるべきだと主張した。このとき原敬内閣は「できれば」三国で解決せよと訓令していたので、幣原の心底は理解し難い。
ヒューズは太平洋・極東問題については9カ国、日英同盟についてはフランスを入れた4カ国で討議しようと提案、受け入れられた。日本の国益に害をなす招集の仕方であった。日英米がまとまれば軍事的結合となりうるが、この地域に有力な軍事力をもたないフランスを入れれば日英同盟とは連続しない紳士協定に堕ちるのは必定であった。このようにして「太平洋の島嶼の安全保障について協議」しか規定のない四カ国条約が締結された。
日英同盟はアメリカ人の横車と幣原の外交の拙劣さから廃棄させられたのである。幣原の関係しなかった海軍軍縮交渉については、日本はある程度成功した。この軍縮会議はたんに戦艦の保有比率を論じたものではなく、世界の大洋を分割した。日本は西太平洋、アメリカは東太平洋と西大西洋、イギリスは東大西洋とインド洋を支配することになり、伊仏は地中海を二分した。
それゆえ英米日の戦艦の比率は初め5:5:2・5であったものが、日本にお負けがきて5:5:3になったのである。加藤友三郎は日本海海戦勝利の軍功とともに、ビーティと肝胆あい照らし、外交でも戦果をあげたとみなされた。今でもワシントン会議は海軍軍縮が中心に論じられたとされるのはこのためである。
幣原は、外交史や国際法を理解していないようにもみえる。というのは、当時の外交とは大国で全てを決め、大国は利害関係をもつ小国について配慮すれば十分であった。第二次大戦前、大国間の外交使節は大使と呼ばれ、小国・大国間のそれは公使と呼ばれており、接遇の差は重大であった。幣原は駐米大使であったが、中国は小国とみなされ、公使しかアメリカに派遣できなかったのである。
小国は国境という重大問題でも、大国同士の決定には従うしかなかった。例えば、1938年のミュンヘン会談では、英独仏伊だけでスデーテン地方のドイツへの帰属を決め、それまで主権をもっていたチェコスロバキアは事後通告だけで、会議への参加は許されなかった。
ドイツ山東利権の返還
ここで問題となったのが、租借権を含むドイツ山東利権である。日本が参戦したときの焦点はドイツ海軍基地のあった山東半島先端の青島であった。ここを日本軍は力攻し占領した。このとき中国は参戦していなかった。ところが、パリ講和会議で「戦勝国」として臨んだ中国側代表団は突然、ドイツ山東利権を中国に返還すべきだといい出した。
一般に租借権とは、貸した国と関係なく移転する。例えば、日露戦争を集結させたポーツマス条約は、ロシアの関東州租借権が日本に移転することを定めている。中国はポーツマス条約に参加していない。しかも、この条約のための会議を斡旋したのは、ハーディングの親分であったセオドア・ルーズベルトであった。
ドイツ人は、山東半島の鉄道事業、石炭鉱業、染料、ビール産業などへ過剰投資していた。経済効率に見合わず大半は赤字であった。一般に戦敗による領土移転に伴い没収される資産は公有に限られ、私有財産には及ばない。ベルサイユ条約でもアルザス・ロレーヌにあったドイツ人私有財産については保護された。日本もドイツ人の私的投資や家屋については保護する方針であったが、じっさいには占領と同時にドイツ民間人は二束三文で日本軍の徴用に応じ、中立国のアメリカに引き上げた。
中国人の要求は旧ドイツ人私有財産を含む山東利権の全面返還であった。多分にドイツ人財産を没収しようという意識であったに違いない。パリ講和会議では、いずれの国もこの中国の要求を無視した。主宰者であったフランスのクレマンソー首相(このときの全権代表西園寺公望とソルボンヌ大学で同窓であった)は、中国が山東利権が得られないので調印しないときき、西園寺に「相手にしても仕方がない。どうでもよろしい」と耳打ちした。
ところが、加藤(高明)、寺内内閣を継いだ原敬は山東問題に柔軟な考えをもち、直ちに全面返還すべきと考えた。日本政府も外務省もザルのような組織であるから、すぐさま中国人に伝わり、大騒ぎになった。
原はドイツ利権といっても港湾施設が弩級戦艦の役には立たず、ドイツの投資は採算度外視の無価値なものとみなした。幣原に与えた訓令は、山東利権返還も含めた広範囲な自由裁量であった。
ヒューズは、ドイツ山東利権の件について幣原から相談をうけると、日中会談で決めたらばよかろうと返事した。これは無法な言い方であって、租借権の移転は第一次大戦の結果であり、講和条約たるベルサイユ条約の締結国間で決められるべきであった。具体的には国際連盟理事会が相当である。
ところが驚くべきことに幣原は嬉々として中国全権王寵恵との日中会談でこの問題を決めることを認めた。小国の領土は大国が決定するという当時の慣行を破ったのである。これは寵恵を舞い上がらせ、無用な長口舌で会議を長引かせることになった。
第二次大戦後、幣原の死後設立された幣原平和財団に台湾に逃れた寵恵が多額の寄付をしたことはこの間の事情をうかがわせる。私的なことはともかく、この幣原外交は中国に「日本は弱い」とする不釣合いな自信を与え、条約は踏みにじってもよいとする「革命外交」に道を拓き、テロにつながったことも否定できない。
一度得た租借地を貸した国に返還する「善行」は、じつはこの山東利権返還が世界史上初めてである。イギリスは威海衛、フランスは広州湾を1930年まで保持した。アメリカはキューバのグァンタナモを今尚保持している。幣原の二国間会議による譲歩がいかに突飛なものであるか理解できよう。
幣原は中国がこれによって日本に好意をもつと期待したようであるが、甘いといわざるを得ない。山東利権回復を叫んだ学生による五・四運動当日はいまだに中国の祝日である。中国人に好かれるように振舞えば、中国が日本に妥協的な態度をとるとみることは大きな誤りである。
満州は中国領か?
これと同時に九カ国条約も締結された。中国領土(台湾を除く現在の領土と同じ)の一体性を認めたものであるが、じつは辛亥革命による清朝倒壊のとき、日本は満州を含む領土一体性をすでに認めていた(13カ国共同承認)。借款や北清事変賠償支払いについて新政府が引き継ぐことを狙った。ところが、それから20年たつと中国は混迷の度を深め、分裂傾向がはっきりしてきた。とりわけ満州には独立張作霖政府ができつつあった。
日本の国境線はそのとき鴨緑江であった。朝鮮の安全保障を考慮すれば、満州を緩衝地帯とすることが防衛上有利なことは自明であった。タイムズ特派員ルイスは
「支那問題は、@統一政府なくA財政紊乱しB軍閥横行のため、改善するのは容易ではない。"What is China?"という大問題がある。18省を支那というか、22省をいうか、明確に定めるのは不可能である。まず利害関係を有する日英米で何等かの協定をなすべきであろう」と講演した。
国際世論は中国領土の不可分性に疑問をつけていた。だが、手っ取り早い会議の成果を望むヒューズは、領土問題については13カ国共同承認をそのまま九カ国条約にしようとした。日本の国益を考えれば、満州について留保条件をつけるべきであった。ところがなんと幣原は、満州における日本の特別権益を認めた石井=ランシング協定破棄を「おみやげ」としてつけ、ヒューズの提案を「丸呑み」してしまった。
満州事変のさいアメリカ政府が出した「不承認政策」(スチムソン宣言)は、日本の九カ国条約違反を理由としているのである。石井=ランシング協定破棄を引き換えにすれば、満州について改めて留保条件をつけることは、難しくなったはずである。幣原による譲歩は、満州事変・支那事変・太平洋戦争を想起すれば、途轍もない日本外交の失敗であった。
幣原喜重郎批判
幣原喜重郎は、ワシントン会議で、アメリカにたいして全部イエスといい、南京事件ではノーであった。日本の国益からすれば、これは逆ではなかったか?ワシントン会議では、海軍軍縮は日英海軍の英雄に任せ、幣原の担当した太平洋・極東関係については、中国領土の一体性については少なくともノーというべきであった。「相手の嫌がることをしない」では外交にならない。
第三次南京事件
幣原は、第三回目の外交官試験の合格者であり、外務省キャリア官僚として初めて外相になった。それまでは政治家が外相になったのである。ここに登場する外相、グレイ、ヒューズ、王恵寵はいずれも政治家であって、官僚上がりではない。幣原喜重郎のあとも、官僚上がりの外相、有田八郎、佐藤尚武、重光葵、松岡洋右、東郷茂徳、廣田弘毅が続いた。重光を除いていずれもが成功せず、初めの二人は戦後野党政治家になり、あとの三人は東京裁判によって刑死あるいは獄死した。
外務官僚が政治判断を含む外交をやるとなぜ失敗するのであろうか?責任をとることがない外務官僚は国家・国民に目を向けず、相手国外交官とのパイプ維持が自身の存在価値となってしまうからである。幣原は、ワシントン会議ではヒューズの機嫌をとり、南京事件では国民政府の蒋介石と伍朝枢の好意を得ようとし、国家に大損害を与えたのである。
重光葵は幣原喜重郎を手厳しく批判した(『昭和の動乱』)。
「その弱点は、満州問題のごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案をもたぬことであった。政府が国家の危局を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力に欠けておったことは、悲劇の序幕であり、日本自由主義破綻の一大原因であった」
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