一見してわかる通り近衛の「小出し人事」であった。この中で宇垣の外相就任はマスコミに人気が出た人事であった。宇垣流産内閣事件から国民やマスコミは陸軍の横車に反感を抱いていたのである。
宇垣については三井の番頭であった池田が推薦したともいわれるが、近衛の思惑は杉山の更迭にあった。杉山は元来政治的な人間ではなく、近衛の山師的な性格を嫌っていた。このためいっさい統帥関係の情報を近衛に入れようとしなかった。
宇垣は入閣の条件として@二元外交をやらないことA中国との和平交渉開始B「対手とせず」声明の取り消しを条件にした。
杉山は近衛が軍事情報を他国に流しているのではないかと疑っていたようだ。これはゾルゲ事件で的中した。近衛は陸軍主流派に反対するグループ、宇垣グループ・石原グループ(板垣征四郎)・皇道派(荒木貞夫)から一人づつ入閣させたのである。
宇垣が外相になると、すぐさま難問に遭遇した。
三国同盟問題の提起
独駐在武官大島浩は、1937年秋、軍事情報の交換やソ連の破壊工作に対処する軍事的取り決めをなした。1937年11月、これの拡大をカイテル"Wilhelm
Keitel"に申し入れた。カイテルは好意的に扱ったようである。
このときドイツ軍部は1934年の「長いナイフの夜事件」に次ぐ、粛清事件に巻き込まれていた。
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発端は親中派であったブロンベルグが、11月、エルナ・グリューン"Fraulein Erna Gruhm"と再婚する話をゲーリングに持ち出したことである。ブロンベルグは元帥、かつ陸軍大臣であったから、女性の社会的地位は重大である。
ゲーリングは、グリューンが「過去のある女性」だと知らされても反対せず、むしろ激励した。結婚式は翌年1月12日、ヒトラーとゲーリングも出席して挙行された。この直後、警察記録によれば、グリューンに売春経験があり、かつポルノ写真を撮影されたことで有罪とされたとする情報が流れた。
将校団を代表して、参謀総長ベックと陸軍司令官フリッチェはヒトラーにブロンベルグの解任を要求した。ヒトラーは同意した。それによって後任問題が発生した。明らかな候補者はフリッチェであった。ところが、フリッチェにSSの昇格問題で反感を抱いていたヒムラーはフリッチェに同性愛の嫌疑があるとの警察記録を暴いた。
ヒトラーは再びのスキャンダルで事件性を疑ったようであるが、ゲーリングも記録に確証があるといいたてるに及び、1月26日、「相手」のハンス・シュミットとフリッチェを首相官邸で「対決」させた。シュミットは「相手」がフリッチェだと言い張り、フリッチェは沈黙を守った。
ヒトラーはフリッチェを予備役編入にすると裁決した。のち、シュミットはゲシュタポに強制されたと自白し、無期徒刑を宣告された。ヒトラーはまたもや後任問題に突き当たったが、陸相と陸軍司令官に自らを任じ、OKW(ドイツ国防軍最高司令部)参謀総長として、カイテルを任命した。カイテルはヒトラー最高司令部の参謀長の扱いではあるが、事実上、軍部のトップにたった。 |
カイテル:Wilhelm
Keitel (1882-1946)
ブランシュバイク州ヘルムスシュローデ近郊の地主の息子。ゲッチンゲン大学卒業後、野砲隊の予備士官となった。第一次大戦勃発時は西部戦線にいて秋、重傷を負う。そのあと参謀本部勤務。1917年、再び西部戦線に出て負傷。1919年、ポーランド国境にきてフライコールを組織。1922年まで騎兵学校教官。ミンデン野砲隊長のあと隊務局編成課長。1934年、ブレーメン師団長。1935年、陸相次官。1938年、国防軍司令官参謀総長。1945年5月、連合軍により逮捕され、処刑された。遺骨は米空軍により空中からまかれた。処刑台では「私より前に二百万以上の兵士が祖国に命を捧げた。今、私もその一人に加わる。世界に冠たるドイツ」と叫んだ。
大島が、そのとき陸軍省次官に過ぎなかったカイテルをいかにドイツ軍部トップとなるかを予想したのかは不明であるが、外交才があることは認めねばならない。大島は幼児のころから父(大島健一)からドイツ人個人レッスンによるドイツ語英才教育を受けており、自在にドイツ語を駆使できた。防共協定の前からナチス党幹部への食い込みは圧倒的であった。
これに武者小路公共(1937年まで駐独大使、武者小路実篤の実兄)や東郷茂徳(38年まで)が対抗しようと思っても語学の点で無理であった。ヒトラーが一貫して大島を信頼したのも当然であった。
1938年1月、大島はゾンネンベルクにリッペントロップを訪ねたところ、条約の締結が可能か打診してきた。この提案は、外務・陸軍・海軍に通電され、7月に陸軍省ドイツ課から、仮想敵をソ連に限定するという条件で前向きの返事が大島に伝えられた。直ちにリッペントロップに「軍事攻撃があった場合、協議」といった条文はどうかと打診した。回答は、
の3点であった。さらに、電報のやり取りは危険であるので、機密漏洩の恐れありということで、7月末、笠原少将を帰国させた。この経緯について大島は東郷に説明しなかった。7月19日、板垣陸相は五相会議に日独と日伊を接近させることを力説した。大島から電信で連絡があったものと推定されるが、当時電信発信は大使館で全て行い、外務省が集約するので、まだ具体的なものではなかったと思われる。
笠原は、8月5日に帰国し、携行したリッペントロップの条約案を板垣以下陸軍省首脳部にみせた。大体において反対はなかった。8月6日、宇垣にみせたが、「承っておく」という程度で、下僚にも示さなかった。大使から何の連絡もなかったことで面白くなかったのであろう。
板垣は外務省に案を示せと要求し、外務省も案をつくったが、海・陸・外で違う案を東郷・大島に示すという結果になった。このとき、近衛は大島案に沿って、仮想敵を英米に拡大した案に賛成していたようである。宇垣が辞表を出したあと、東郷を駐ソ大使にして追い出し、後釜に大島を据えたのはその現われであろう。(じっさいには、6月ごろ、ドイツ駐日軍事アタッシェのオットーが大使に昇格したので、板垣も大島にかけあったが、「相当の考えがある」といわれ、「すべてのことがのろい」と不満をいったとされる)。
カー工作
宇垣は外相就任直後の6月17日、外人記者クラブで近衛声明(1938年1月15日)「國民政府を對手とせず」について再検討すると談話を述べた。この背景にはイギリスが進めていた和平工作があった。
そのあと新聞で宇垣・クレーギー(駐日イギリス大使)会談について報道されると、陸軍は猛反発した。駐イタリア武官が、「ムッソリーニ惚れ」からの親イタリア=反英感情をもったことがあった。ムッソリーニはイーデンらが国際連盟を通じたエチオピア侵攻にたいする経済制裁への反発があった。彼らは外交官としての訓練がなく独裁者または独裁者の舞台仕掛けに圧倒されてしまったのである。
こういったことは発生し勝ちで、松岡・白鳥、戦後においても北朝鮮外交における金丸信、米国務長官オルブライトに起きた。オルブライトは即刻更迭された点が日米において相違する。独裁者にたいして同格でない人物が交渉に当たることは危険なのである。チャーチルは「同格でなければヒトラーとは会わない」(『第二次大戦回顧録』)と決意していた。
宇垣はここで重大な失態を犯した。板垣陸相が張鼓峰事件のさい武力行使を宇垣に諮った。ここで「聞き置く」と返事した。板垣は昭和天皇に裁可を求めようと「外務大臣も海軍大臣も賛成しました」と上奏した。ところがその直前に宇垣は「出兵の必要はない」と上奏していたのである。昭和天皇は張鼓峰事件の収拾に憔悴しており、宇垣の言動に不審の念をもち、信認しなくなった。
6月26日、孔祥煕行政院長の秘書、蕎輔三が香港総領事中村豊一(緒方貞子の実父)に接触してきた。クレーギーから駐支イギリス大使カーに連絡がいき、蒋介石に意を通じたものであった。中村は、6回に亘って蕎と会談し、国民政府の和平条件を得た(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』文藝春秋)。
中国側は、武漢3鎮落城前に和平し、休戦協定を成立させ、蒋下野は困難なので代わりに孔祥煕が全責任を負って辞職することを申し入れてきた。
5を除いて、1〜7について、受け入れられるものであったろう。日本側の根本問題は休戦協定締結の意欲欠落であった。普通、休戦協定を申し込んだ側が敗北した側であって、勝利した側は現在の戦線を維持し、講和条約成立まで駐兵する。ただ、支那事変で日本軍が占領した地域は華北と揚子江デルタ地帯と広範囲であって、事実上中国中心部を占めた。
休戦ラインの設定は難しく、そのうえ権限は野戦軍司令官であり、統帥部は武漢三鎮占領の作戦計画を策定済みであった。参謀将校は計画ができると、その実行に固執する。
近衛の巻き返し
1938年7月7日、近衛は支那事変一周年にあたって、
「国民政府を対手にしないのは国民政府が容共抗日政策を採っているからである、従って国民政府が共産党と手を切り共産党分子を排除し、また抗日政策を放棄するならば、国民政府は容共抗日の国民政府でなくなるのだからこれを対手とすることも考えられるわけである。
これは国民政府を対手とせずと云うことを理論的に見た場合である。然し実際は国民政府の中心となっているのは蒋介石である。容共抗日政策を追求している蒋介石が中心となって動いている国民政府を対手として安んじて和平の話を進めるわけに行かぬ、これが『国民政府を対手とせず』ということを実際的に見た場合である。
且つ仮に蒋介石が下野して日本と真に提携する誠意を持った他の有力な人物が国民政府内に立って、日本との講和を希望した場合があるとしてもその場合蒋介石無き国民政府はこれを支那の中央政府として取扱うことは出来ぬ、事実上現に北支には臨時政府があり中支には維新政府があるからこれに国民政府が合流して支那に新しい中央政府が出来た場合にはその中央政府を対手とすることは考えられる、要するに実際問題として今後いかなる事態が起って来ても国民政府を対手とすることはあり得ない」
と演説した。この声明は肝心な休戦協定には触れておらず、「対手にせず」を維持したいようにも聞こえる。蒋介石下野を要求する内容も含み、蕎輔三提案に対応したものである。だが、宇垣の考え方を逆撫でするものであった。
近衛の他人の和平努力に水をさす卑劣なやり方は、いつものこのようである。8月22日、武漢三鎮攻略作戦が発令された。8月27日夜、近衛は原田熊雄に
「カー大使が谷公使に対して、非常に日本に有利過ぎるやうな条件で、『もし日本がそれを容れるならば、自分は喜んで蒋介石を説く自信がある』と言つて來てゐるけれども、もう一息といふところで支那が参りやあせんかと思つてゐる時に、もし日本がこれを容れて支那に寝返りでもされては事だし、さらばと言つてこのまふ引ぎずられて、もう参りやあせんかと思ひながらも、ますます深みに引込まれることも困るし・・・。やはりどうも或る場合には結局蒋介石を相手にして始末をつけなければならないかもしれない。この点はなほ研究中だが・・・。」
と語り、事実上カー工作を拒絶する方針を伝えた。これをきいた西園寺公望は
「どうもやつぱり尊氏が跋扈してゐるんだから、なんといつてもしやうがない」
と語った。西園寺は南北朝時代関白であった近衛経忠が足利氏(陸軍を暗喩)に寝返った故事にあてつけたものとされる。さらに、「(協定違反をやれば)イギリス政府に責任をとらせばいいじゃないか」と付け加えた。トラウトマン工作拒絶のときと同じく「もう一息」と繰り返す近衛であった。政治家とは若さゆえの元気よりも経験が大事であることがわかる。
9月1日、蕎輔三は中村に蒋介石下野を拒否すると通知した。近衛はこの回答をもってカー工作打ち切りと解した。これが9月7日に木戸との料亭桑名密談につながった。このとき。近衛は宇垣により首相の座を狙われることを警戒する発言をしている。
陸軍支那通の暗躍
9月3日、宇垣は石射東亜局長に向かい、
「事変の収局に付ては君の提案の如く蒋介石相手の和平より外なかるべしと思う、自分も大臣就任のとき近衛首相に対し1月16日の声明は場合により乗り切ることとの了解を得ているのだ、只急に蒋相手の和平を提案しては騒がれるばかりだから潮時を見て居たのだが最近の状勢から見て最早その工作に取掛って然るべき時と思う、出来るならば漢口攻略前に蒋と話を付けたいと考える」
といい、香港に帰任した中村総領事に宛てて、
「日本国内の情勢は、和平後、蒋が支那国民に対し自発的に下野するならば蒋を相手に和平するも可なり、との空気が濃厚となりつつある旨を喬に告げ孔との話を繋ぎ、再び先方の意向を打診せよ」
と訓令を与えるよう、石射局長に命じた。宇垣は、9月1日の蕎輔三からの通知でも、まだ諦めていなかった。中村はすぐさま国民政府からの返事を得た。
それは驚くべき内容であった。国民党外交部副主任の高宗武が東京から孔に、
「日本側に戦意なし、支那側が飽くまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」
という秘密電報を送っていたことを報せてきた。このとき陸軍省参謀本部第八課長、影佐禎昭(谷垣禎一の祖父)と同支那班長、今井武夫は、汪兆銘引き出し工作を実行しており、高宗武と董道寧(外交部亜州第一科長)を東京に招いていた。この工作には『朝日新聞』グループと近衛ブレーンであった松本重治(松方正義の孫)や尾崎秀実が関与していた。
影佐は高宗武に汪兆銘引きずり出しのため、数々の言質を与えていた。最大のものが松本重治がいい出した「撤兵」であった。このとき陸軍省次官であった東條英機が嫌った曰く付きの単語である。この言葉の問題は中国語の語感にあり、「日本軍が大陸全域から撤退し、日本本土に戻る」といった印象を与えるのである。
普通の軍事的手続きとしては、まず停戦ラインを設定し、いったんそこの内に駐兵(講和条約履行まで保障占領)し、条件を満たせば「撤兵」し、保障占領地区を敗者に返還することになる。そして、ハーグ陸戦規定によって停戦協定を締結する権限は野戦軍司令官に与えられる。カー工作に当たっていた日本側の軍人と外交官はこの戦時国際法をよく認識できていなかった。
宇垣は和平を張り切ったが、それには閑院総長宮と多田参謀次長とまず了解せねばならなかった。初めの相手は蒋介石ではなく、参謀本部であった。ところが、このとき参謀本部も停戦を望んでいた。参謀本部にしても宇垣同様で、まず政治決定を得るために外相・首相の理解を得ねばならなかった。トラウトマン工作を拒否した段階で、支那事変は「近衛の戦争」となっていた。
影佐禎昭は汪兆銘工作に必死であったが、これはどの角度からも政治工作であろう。軍人でありながら、参謀本部の本来の業務、作戦に興味をもたないほど政治ボケしていたのである。近衛は松本重治の線からこの工作をよく承知しており、カー工作放擲に誘惑されたに違いない。汪兆銘が日本に12月にきて、それから内閣を投げ出したのはその証左であろう。
近衛は国家より私的名誉欲を重視したのである。近衛の演説や議会答弁は、長年の議会人からみても優れたものだったという。支那事変に大勝し、国民は徐州や武漢三鎮陥落の都度、提灯行列で祝った。このときでも、日本の20歳台の男子青年の約1割が出征したにすぎない。国家総動員法は国民の自由を縛る悪法であったが、国民は反対するよりも、国運の発展を近衛にみたのである。
宇垣辞任
9月上旬、興亜院(対支院)問題が提起された。中国の占領地は満州を除いても国土の五分の一に達し、占領地行政を一元化する必要が生じた。外務省は権限を奪われるものとしてこれに反対した。
9月6日、宇垣は「1月16日声明は取り消すと近衛首相が約束したが守らない」と新聞記者にオフレコで喋ったとされる。これは即日外に漏れ、批判された近衛と木戸はむくれた。
この日を境に、近衛は汪兆銘擁立路線に走ることを決心したようだ。満州国と二重に傀儡政権をつくって他国や中国人の信頼を得られると考えることは大きな誤りである。蒋介石は敗北を認め、妥協を求めていたのであるから、失敗は取り返しのつかないものであった。
一方、両側を知っている宇垣が、三国同盟問題・大島昇格問題で陸軍と抜き差し難い対立に入ると、辞職したくなるのは止むを得ないことだった。「御公卿さまを擁して平家(陸軍軍政畑をいう)と壇ノ浦に行かねばなるまい!仕方なく国民もその御伴をなさねばなるまい」「事変の解決を自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に止まり得ないのだ。余の心境を了とせよ」が辞職の弁であった。
潤沢な陸軍機密費から右翼を雇い、影佐禎昭がテロにかけると脅したという噂も消えない。米内光政は「辞めた理由はまず自分の身辺に危険を感じたこと」と原田熊雄に語った。宇垣は戦後に至っても、辞任の真相を明らかにしなかった。
影佐や今井は、謀略で敵陣営を分裂させることはできても、講和を成立させることはできないことがわからなかった。講和とは相手国の当事者能力を認めることから始まる。つまり「対手にする」ことが必要である。さもなくば、停戦ラインの意味がない。それがためには、交渉相手が全権を委任されているかどうか確認せねばならない。これには第三国の仲介者が必要であった。
蒋介石の出してきた条件は、1941年(昭和16年)4月から開始された日米交渉より日本に有利であった。そのときの首相も近衛文麿であったから、心理的に拒否したくなるのは頷ける。
近衛第三次声明