スティムソン宣言

スティムソン宣言

スティムソン宣言

スティムソン(Henry Lewis Stimson1867-1950)
ニューヨーク共和党の名門家庭に生まれた。エール大学卒業、ハーバード法学修士課程終了。ウォール街の名門弁護士事務所に勤めた。妻のマーベル・ホワイトはアメリカ独立戦争の英雄ロジャー・シャーマンの子孫である。

1910年ニューヨーク州知事選挙に敗れた。だがタフトによって国防長官に選ばれた。スティムソンはセオドア・ルーズベルトを支持する共和党員で第一次大戦に参戦が決まると、共和党による志願師団を組織した。だが、ウィルソンが志願師団を拒否するとスティムソンは陸軍に志願入隊し、西部戦線で戦った。

1929年、フーバーによって国務長官に任命された。1940年、フランクリン・ルーズベルトによって国防長官に再度任命された。マンハッタン計画による原爆開発へスタートを切り、広島・長崎への原爆投下を了承した。過酷なドイツの戦後処理案に反対し、西ドイツの基礎を構築した。

知日派であり、3度、日本を訪問した。京都爆撃の中止はスティムソンの献策であったという。知日派と原爆投下は矛盾しない。スティムソンは最後まで法曹家であった。国際法(条約)をアウトライトに破る国を許せなかったのである。ともあれ、今世紀前半のアメリカの軍事外交方針について、もっとも長期間関与した人物であった。

内政に傾くアメリカ

1929年10月のニューヨーク株式暴落・大恐慌の突入以来、アメリカは内政に没入した。だが、内政を邪魔にしない程度の外政は必要であった。戦争は経済にとりマイナス要因で考えられており、世界平和の維持は必須と思われた。そのうえ第一次大戦が終了すると、その後遺症にあたる戦争以外新たな戦争は、ほぼ15年間、全世界で発生しなかった。

西半球を除いて、世界分割終了=植民地化したためであった。植民地は戦争を減少させるのである。植民地本国は植民地のために戦争をやることはしない。後進地域で分割されなかった地域は中国であった。アメリカはヨーロッパ諸国による中国植民地化が好ましくなく、日本と共同してそれを防止することにした。それがワシントン会議であり、9カ国条約であった。

それ以降の幣原外交の下で、この路線は守られた。破綻は第3次南京事件からであって、中国の内乱は不干渉・孤立外交では解決できないようにみえた。満州事変が発生するとフーバーは孤立外交を踏襲し、遠方にあり重要でない満州に関与することを慎重に避けた。

スムート・ホーレイ関税法もアメリカの輸出入を減少させており、日本との貿易関係も悪化させたくなかった。スティムソン国務長官は違った。国際法または条約遵守義務が日本にはあると考えたのである。またこうすることによって、幣原外交を信奉する日本の外交官の助力にもなると思った。

このように動機は「道徳的道義心」であった。また背後には、軍部の横暴をアメリカに訴えて解決しようとする日本の外交官があった。日本の官僚が外圧に頼って省益をはかることは、今に始まったことではない。

1932年1月7日、スティムソンは、ケロッグ・ブリアン条約遵守を求め日中両国にノートをおくった。

The Secretary of State to the Ambassador in Japan (Forbes)

Washington, January 7,1932

Please deliver to the Foreign Office on behalf of your Government as soon as possible the following note:

With the recent military operations about Chinchow, the last remaining administrative authority of the Government of the Chinese Republic in South Manchuria, as it existed prior to September 18th, 1931, has been destroyed. The American Government continues confident that the work of the neutral commission recently authorized by the Council of the League of Nations will facilitate an ultimate solution of the difficulties sow existing between China and Japan. But in view of the present situation and of its own rights and obligations therein, the American Government deems it to be its duty to notify both the Imperial Japanese Government and the Government of the Chinese Republic that it cannot admit the legality of any situation de facto nor does it intend to recognize any treaty or agreement entered into between those Governments, or agents thereof, which may impair the treaty rights of the United States or its citizens in China, including those which relate to the sovereignty, the independence, or the territorial and administrative integrity of the Republic of China, or to the international policy relative to China, commonly known as the open door policy; and that it does not intend to recognize any situation, treaty or agreement which may be brought about by means contrary to the covenants and obligations of the Pact of Paris of August 27, 1928, to which Treaty both China and Japan, as well as the United States, are parties.

「次のノートをアメリカ政府に代わって外務省に提出して欲しい

最近実施された錦州作戦によって、1931年9月18日以前に存在した南満州における中国共和国政府の行政権力は最終的に崩壊した。アメリカ政府は国際連盟理事会によって権限を与えられた中立委員会が日中両国に存在する問題を解決すると引き続き信じている。

しかしながら、アメリカ政府は現状と権利義務から、両国政府にいかなる新事態も合法性がないことを通知するとともに、米国とその市民の権利を損ない中国の行政的統一、領土、独立、独立を損なういかなる両国間の協定・合意を承認する意図はない。さらに門戸開放政策といわれる国際的承認事項、1928年8月27日調印の各条項に反するいかなる新事態、条約、合意を認めることはない」。

ケロッグ=ブリアン条約の解釈

この宣言が発表されると、日本の新聞は囂々たる非難をスティムソンに浴びせた。新聞の論点は二つあって「自衛」と「民族自決」であった。この二つは明らかに矛盾する。日本軍がテロに対抗して「自衛」する行為は(満州人による)民族自決に結びつかない。

テロが張学良政府によるものだとすれば(事実、大部分のテロは張学良政府官吏によるものであった)、張学良政府を打倒し、官吏を処罰すればよい。ここまでは民族自決とは関係がない。じっさいには、後継政府が反張学良で反国民政府であれば、その段階で新政府が民族自決をいえばいいのである。

とりわけ日本の新聞は9カ国条約違反ではないという点を強調した。9カ国条約とは、中国領土の保全を定めたものであるが、満州は中国領土に入らないという主張を繰り返した。辛亥革命のあと、日本は満州は中国の一部であると認めており、この主張には無理があった。

これをいうならば、張作霖・学良政権の国民政府からの独立性をいう方が外国にはわかりやすかった。

当時の日本人は自衛なり民族自決を「独法」(ドイツ法学)で、あるいは文字面だけを考えていた。戦後の社会党に近かった。スティムソン宣言の骨子は9カ国条約ではなくてケロッグ=ブリアン条約違反なのである。自衛とは、気持ちの上ではテロへの対抗であったが、条約は「戦争を国策としない」と定めていた。

柳条溝事件が国民党の仕業によって起きたか否かは重要ではなく、そのあとの関東軍の作戦が計画にもとづいたことが条約上問題になっていた(国策とは計画なのである)。当然のことながら、テロへの自衛であれば、そう宣言して関東軍を正面から学良軍にあてて粉砕すればいいのである。

満州事変とは石原莞爾による夜盗のような奇襲で開始され、学良軍を崩壊させたものであり、そういった騙まし討ちに感心する国民性が問題であったのかもしれない。幣原喜重郎はの国民革命軍将兵によるテロへの対抗、山東出兵について「この出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果多年築かれた日支両国間の親善関係を根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と演説した。

テロ事件よりも「日支親善」が重要だというのである。現在でも拉致というテロ事件に関連して「日朝親善が破壊されてしまった。国家のために痛恨にたえない」という政治家が存在する。第3次南京事件のさい、揚子江にあった駆逐隊が国民革命軍の北上を阻止する姿勢をみせ威嚇すれば、済南事件・満州事変は起きず、中国南北分裂も確定していたであろう。太平洋戦争もまずなかったと思われる。

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