南方政権

中華革命党

1913年9月、孫文は日本に帰ると、頭山満や犬養毅の助力を得て、あらたな秘密結社を設立した。国民党は議員政党として存在していたが、すでに袁世凱の懐柔によって、議会内野党ともいえない存在になっていた。

だが第二革命で、孫文の武装蜂起方針に反対した黄興は参加しなかった。1914年7月8日、築地精養軒で成立大会が開催された。入党にあたっては「おのおのの身命、自由、権利を犠牲にし、孫先生にしたがって革命を再挙する」と誓約せねばならなかった。

また、10月25日、孫文は宋慶齢と東京で再婚した。

袁世凱のあと事実上政権を握ったのは段祺瑞であったが、孫文は第一次大戦参戦問題で段と対立した。連合国の一員であった日本は寺内正毅内閣の手によって、中国の参戦を促した。これによって援段政策をとった。

西原借款

第3革命と広東軍政府(護国軍政府)

1915年12月、袁世凱が「中華帝国皇帝」の推戴をうけると真っ先に反対の声をあげたのは雲南の唐継尭であった。蔡鍔や李烈鈞とともに雲南の独立を宣言した。これがきっかけとなり、貴州・四川でも討袁の動きが広がり、護国軍をなのった。

1916年3月、陸栄廷が独立を宣言、都督となり護国軍に加わった。袁世凱は広西・広東の軍をもって、雲南の鎮圧をはかろうとしており、大きな打撃であった。さらに広東省でも、陳炯明と朱執信が決起した。1916年5月、孫文は、戴季陶・寥仲トとともに2年9カ月ぶりに帰国、上海に上陸した。

これと同時期に、陳其美が袁世凱一味に加わったとみられる張宗昌によって殺害された。孫文はこれにひるまず、ドイツ租借地であった青島を占領していた日本軍の助力を期待して、山東省で居正に蜂起させた。6月、袁世凱が失意のうち死亡すると、北京政府は大混乱に陥ったが、段祺瑞が事態を徐々に掌握していった。それでも南方に手を伸ばす力はなく、南部4省は北京政府にたいして独立をほぼ確定させた。

1917年7月、張勲復辟が失敗に終わったのを見届け、孫文は懐柔した海軍をしたがえて、広州に上陸した。1917年8月、広東(護国)軍政府が成立し、孫文は「中華民国陸海軍大元帥」に就任した。だがそれは雲南で蜂起した護国軍指導者唐継尭と広西の陸栄廷が実質的に指導する政権であった。

孫文は黄埔公園で、

「わが全力を尽くして、奸凶を取り除き、約法を回復し、民国元年の果たしえなかった大業を完成し、数年にわたる功なき恥を雪ぐ。責任は我が身にあり、決して二心をもたない」と演説し、段祺瑞政権と護法戦争を戦うことを訴えた。

9月、湖南省都督譚延の解任に不満をもった湖南陸軍の一部が護法戦争に加わることを宣言した。湖南陸軍第1師団は衡山に進出し湖南省南部で戦端が開かれた。孫文は段祺瑞と梁啓超の討伐を宣言した。軍政府は程潜を湖南軍総司令とし、譚浩明を広西・広東連合軍総司令として援軍をおくった。

戦局は一進一退であったが、南方軍は、11月14日、省都長沙を占領した。

孫文は子飼の陸軍をこのころもっていなかった。頼みとするのは海軍であったが、翌年1918年1月、海軍司令官程璧光は陸栄廷の手の者に暗殺されるほどであった。1917年12月、ようやく直轄軍として援粤軍を編成し、陳炯明を総司令、ケ鏗【とうけん】・許崇智を副司令とし、福建省を攻撃させた。1918年1月27日、湘桂(湖南・広西)連合の護法軍は岳陽を落とした。

これに驚いた北京政府は呉佩孚を討伐に向かわせた。呉は、3月17日に岳陽を奪還、さらに4月23日、長沙を占領した。だが、湖南督軍のポストが張敬堯に与えられると呉佩孚は不満になり、これ以上前進するのを取りやめた。

4月、広州の非常国会で新たな動きが起きた。それは孫文追い落としを狙うもので、岑春(旧国民党の軍務院学派と呼ばれた政学会の一員)によって先導された。内容は軍政府を改組し、「軍務院」とするもので、北京政府の下部機構として南部の事実上の自治を獲得、南北の妥協をはかろうとするものであった。5月4日、岑春の提案は4票差で可決された。

孫文は直ちに海陸軍大元帥の辞職を表明した。1918年5月21日、孫文は失意のうちに広東を去り、台湾経由で日本に向かった。

陸栄廷 Lu RongTing (1859-1928)
広西省武鳴出身。1911年広西提督。辛亥革命では広西省独立を宣言した。広西副都督となり桂系軍閥の長となった。1917年、両広巡閲史に任命されたが、同年、護国軍政府の成立に参画し北京政府からの独立を闡明にした。

1919年から20年にかけての南北和平会議とは、唐継尭と陸栄廷が事実上支配した広東政府代表岑春と徐世昌の間で実質行なわれ、孫文の派遣した胡漢民は「よろしく和議推進を監視するだけで構わず、革命を放棄してはならない」と指示されていた。このとき徐世昌も岑春も南北を分断し、平和的に相互に発展する道を追求していた。このときの「統一バネ」の頭目は孫文であった。

1919年8月、孫文は、武力統一を唱える安徽派に肩入れし、分離和平派である直隷派・奉天派を斥けた。ただ、1919年11月には「目下の急務は広西軍閥(陸栄廷のこと)を滅ぼして南方を統一することだ」といっており、北伐から討陸に切り替えている。

一方、孫文が去ったのち福建省汕頭にいた陳炯明の護法軍は取り残された。北京政府の福建省の軍権は督軍の李厚基にあったが、陳は、李と1918年1月から対峙していた。陳は1919年8月、李と和睦し、「広東人の広東」(粤人治粤)を唱えて、岑・陸討伐を叫んだ。岑・陸は東江で迎え撃ったが敗れた。

11月1日、陳炯明は広州に入城した。孫文は陳を広東省長兼粤軍総司令に任命した。1920年5月、広東政府が再興され、孫文は非常大総統に選出された。1921年8月、陳はさらに、広西に進んで陸栄廷を討った。陸は安南に逃げた。

だが、この直後、孫文と陳の間で対立が生じた。孫文と陳炯明は、1921年11月南寧で会談したが、陳は孫文の主張する北伐にあくまで反対した。

孫文は、1922年2月、動員令を下して北伐を命令した。李烈鈞は江西に、許崇智は湖南に進軍した。ところが、粤軍参謀長であったケ鏗が、九広鉄道大沙頭駅で射殺された。ケ鏗が「陳炯明が呉佩孚と内通している」と孫文に知らせるところを狙われたという。

孫文は直ちに北伐軍を戻すことを命令した。粤軍第2軍参謀長であった蒋介石は恵州に進撃し陳炯明を討つことを主張したが孫文は認めなかった。5月4日、北伐の再開を命令した。このとき孫文・段祺瑞・張作霖の三角同盟によって呉佩孚を討つ計画であった。

北伐軍は李烈鈞と許崇智に率いられ、江西に入り、6月13日、吉安・撫州に迫った。このとき陳が叛した。北伐軍が出発したあと陳は入れ代わるように広州に入っていた。孫文は6月1日広州に帰り、交渉を重ねたが、ついに6月15日、武力攻撃をうけた。

孫文は軍艦楚予に避難した。そのあとイギリス砲艦に乗り換え、香港を経由して、8月、上海に移った。北伐軍はまともや引き返し、韶関に陳の軍と戦ったが敗北し、四散した。

孫文は「私はこれまで民国のためにうちこんだが、これほどひどい目にあったことはない」と宮崎滔天に書き送った。だがその12月、宮崎滔天も世を去った。

翌年、孫文は楊希閔の雲南軍と劉震寰【りゅうしんかん】の広西軍を使嗾し、陳炯明を広州から追い出した。1923年2月、孫文は広州に戻り、大元帥となった。

第一次国共合作


ソ連政府が中国や孫文に着目したのは意外と早い。1919年7月、外務委員代理カラハンは「カラハン宣言」を唱えた。内容は帝政ロシアが中国との間で締結したいっさいの条約を破棄するものであった。レーニン外交の基本は「先進国」ドイツで革命を起すこと、「帝国主義列強に抑圧された」中国で、日米英仏の「干渉戦争連合国」への戦いを引き起こすことだった。

一方、孫文は「我々の三民主義は社会主義及び共産主義と同じものである。・・・西欧はその社会形態を保ち、我々は我々の社会形態を保っている。そして社会精神及び風習は同じものではない」と語るほど、啓蒙主義に批判的であり、社会主義に傾斜した人物であった。要は民主主義的手続きを嫌い、独裁または寡頭政治を好み、地方分権を否定し、中央集権を熱愛したのである。

マーリン Hendrik J.F.M. Sneevliet [Hendrik Maring] (1883-1942)
スネーフリートが本名で、マーリンは偽名。初等教育終了ののちオランダ国鉄に入社、同時にオランダ社会主義労働者党(SDAP)に入党。組合運動にも熱心で、1911年オランダ鉄道労働組合(NV)議長になった。だが、同年船員組合ストが発生したときSDAPとNV双方について方針が穏和であると批判し、双方から反対をうけた。

母国の運動にあきたらず、1912年、オランダ領東インドに渡り、インド社会民主主義協会(ISDV)とインドネシア国鉄組合を結成。1920年、ISDVはインドネシア共産党(PKI)と改称し、アジア最古の共産党といわれる。1916年、オランダ共産党(CPH)がロシアに影響され結成されると、その創設メンバーとなった。1918年、オランダ植民地政府に目をつけられ、退去処分となった。母国に戻ったがCPHと折り合いが悪く、1920年第2回コミンテルン大会にPKI代表として参加した。そこでレーニンに認められ、中国に派遣された。

スネーフリートは「マーリン」の仮名を用い、中国で孫文・国民党と中国共産党との協力関係(第一次国共合作)樹立に尽力することになった。1927年ソ連の事情により、中国を離れたが、母国ではCPHと対立し、コミンテルンを離れることを余儀なくされ、革命的社会党(RSP)を創設した。その後トロッキストと離合集散を繰り返し、1933年には獄中立候補により、下院議員に当選している。その後もスターリニストとトロッキスト双方と争った。1940年、オランダがドイツから侵攻をうけるとレジスタンス運動を組織した。1942年4月検挙され、直ちに処刑された。死につくとき、大声でインターナショナルを歌ったという。

一方、コミンテルン極東部長ボイチンスキーは中国共産党設立の目的で、1920年夏、上海に渡った。さらにその足で広州にいき、孫文とも面会している。ただ、会話の内容は明らかではない。ボイチンスキーは北京で李大サ【りだいしょう】に、上海で陳独秀に会い、共産党細胞を結成させた。この延長で1921年7月上海仏租界で、ボイチンスキーの後任のマーリンが出席し、毛沢東、何叔衡、董必武、陳潭秋、李達、李漢俊、劉仁静、張国Z、王尽美、ケ恩銘、陳公博、周仏海の12名によって中国共産党(コミンテルン中国支部)が結成された。

ボイチンスキーと会った同じ時期、孫文は『孫文学説』を著し、中華革命党を中国国民党に改組する必要性を論じている。

1922年8月、陳炯明によって広州を追われた孫文は、上海に逃れた。そして上海で、青年国際共産党のダーリンやソ連代表のヨッフェとも面会している。1923年1月、北京と中ソ国交回復を協議していたヨッフェは上海を訪問し、孫文と面会、「共産主義、ソビエト組織は採用しないが、中国の統一と完全な独立のためにソ連は援助すること」といった共同宣言を出した。

1923年6月、中共は第3回大会を開き、国民党への潜り込み戦術を可決した。そして同じころ、孫文も国民党改組を党内に諮っている。背後にはマーリンの働きかけがあった。マーリンの方針は、第1次国共合作として結実した。ただし、この方法はマーリンがインドネシア共産党設立にあたって、イスラム原理主義者を取り込んで成功した方法をみならったものであろう。

第1次国共合作

8月、孫文はモスクワに蒋介石を派遣した。10月、孫文はボロディンを国民党顧問としてうけいれた。

1924年1月広州で、中国国民党第1回全国代表大会が開かれた。ここで、黄埔軍官学校の設立、共産党員の個人としての国民党への入党の許可を採択し、新しい党規約を承認した。この大会ではまた譚平山・李大サが中央執行委員に、毛沢東・瞿秋白【くしゅうはく】が同候補にと、共産党員が要職を占めた。

黄埔軍官学校の目的は「党軍」の育成であり、「軍」は党の下にあるというソ連赤軍と同一の性格をもたせようとした。また党軍と従来の軍を併せたものが「国民革命軍」である。そして廖仲トの主張により、国民革命軍には政治委員(党代表)が党から派遣されることになり、その政治委員育成も軍官学校設立の目的であった。

このようにして、孫文の革命運動に初めて軍事的実質が加えられることになったが、近代的な国軍というより、党の私兵的性格が強かった。

そして、前年末モスクワから帰った蒋介石が黄埔軍官学校校長に任命された。この人事には、モスクワにおいて蒋介石を面接したコミンテルンの意志が働いていることは確実である。蒋介石がモスクワに滞在していたとき、いうことはとても革命的で、だれよりも左寄りであった(馮玉祥『我が義弟蒋介石』)。

蒋介石の前半生

孫文北上

だが、孫文が共産主義を理解していたかどうかは疑わしい。武器・金銭提供のスポンサーとしてしかみなしていなかったのではないか。というのは、この同じ1月6日、孫文は広州を尋ねてきたアメリカ公使シャーマン"Jacob Gould Shurman"に、中国全土をアメリカ(を中心として英・仏・独・伊を加える)の植民地とするべく依頼した。

予定宗主国の顔ぶれから、孫文が日ソを嫌っていたことがわかる。

植民地化の理由は、5年間にわたって外国軍が駐留すれば、軍閥。土匪を剿討できる。そのあと公正な選挙を実施し、選ばれた指導者に国家を委ねればいいといった荒唐無稽なものであった。ソ連への干渉出兵ですら膨大な国費の蕩尽を招いたばかりの英仏米にどうして中国に出兵できる余裕があるだろうか?孫文は他の中国人一般と同じように、外国が熱心に中国に関心をもち、構ってくれるという期待を持ち続けた。

アメリカ人は、日・英・仏・露よりも中国に善意で接してきたという自負からか、他ヨーロッパ諸国に打診したが「悪い冗談」以上の扱いをうけなかった。

1924年10月、第二次奉直戦争は馮玉祥が張作霖に味方することにより、曹・呉佩孚が敗れると、馮と張は安直戦争で失脚した段祺瑞を大総統にたてた。孫文は気安い段であればと思ったのか、「国民会議」を提唱し、北京に上京することを決めた。

ところが、天津にいく便の都合という理由で途中、日本の神戸に立ち寄った。そこで「大アジア主義」を獅子咆して、関西財界を中心とする日本人聴衆に感動を与えた。ただし、犬養も含め政治家はいっさい面会しようとしなかった。

孫文の大アジア主義演説

1924年12月31日、天津に到着し、市民から大歓迎をうけたが、体調が優れず、北京に到着するとすぐ入院し、翌年3月、肝臓ガンにより死亡した。中共はこの北上に反対であった。というのは、ソ連は馮玉祥にも肩入れしており、国民党と両天秤をかけていた。もし、馮が北京政権に君臨すれば、国民党を切り捨てればよかったのである。

第一次東征

蒋介石はこの当時、左派であった。1925年1〜3月、黄埔軍学校の教員・学生を中心に教導団を結成した。

国民党の宿敵、陳炯明はこのころ恵州に拠っていたが、孫文の北上をみて、「援粤軍総司令」を自任し、1925年1月27日、広州附近珠江河口の虎門砲台を攻撃した。蒋介石はこの黄埔の目の前まで侵攻してきた敵をみて直ちに反応し、軍学校教導団(党軍)と許祟智の粤軍をもって反撃し、撃退した。

さらに2月3日、許祟智を総司令として、陳炯明の広東省における根拠地、潮州と梅県方面への進撃を開始した。3月末までに淡水(現在の恵陽市の東南)で一戦したのち、目標を達成し、陳炯明を福建省南部に追いやった。

このとき、恵州守備の楊坤如も寝返り、6月には第5軍軍長に任命され、再び恵州守備についた。ところが再度8月、楊は陳に寝返り、第二次東征の伏線となった。

孫文が死亡すると、ソ連は国民党内右派の排除に乗り出した。3月10日、大元帥府を改組し、左派の汪兆銘を中央執行委員会と軍事委員会の主席にすえ、右派320余名を除名した。

国民党は、これを第一次東征とする。蒋介石は、牽制作戦として、このころ湖南軍を率いる中共と意を通じていた譚延に援兵を要求したが達せられなかった。実は、陳炯明もソ連と連絡をとっており、前年の1924年には訪ソしている。この両者は、ソ連をめぐって寵愛獲得競争をやり、蒋介石が勝利したかのようだ。

粤軍粛清

4月、楊希閔(雲南軍)と劉震寰(広西軍)が叛した。この両名は1923年、孫文の求めに応じて広州に来着した。劉震寰は留守にしていた広西が国民党を支持する李宗仁と黄紹рノ二分されたことが不満であった。楊と劉は手を結び、粤軍と党軍が第1次東征で広州を離れていた隙を狙った。

粤軍は陳炯明に対していたため、蒋介石の党軍が石龍から広州へ急遽引き上げ、楊・劉と、6月11日から12日にわたって、会戦した。数では有利であったが、雲南軍と広西軍は戦い半ばで降伏した。捕虜1万7千、鹵獲した小銃1万6600という。さらに、これまで楊・劉は徴税を独占していたため、国民党政府はそれを取り戻し、財政に貢献することになった。

さらにこの事件の波紋は、国府軍最大の軍事力であった粤軍にも波及した。粤軍首領であった、許崇智もは胡毅生が配下の師長であったため疑われ、上海に退去させられた。李済や陳銘枢が代わって粤軍を率いることになった。蒋介石は「党軍」を率いて、軍権における首位の座を粤軍の許崇智と争っていたが、蒋の勝利が確定した。

国民政府

7月、国民党が改組され国民政府委員会が結成された。党・政分離がはかられたのである。汪兆銘が国民政府主席と軍事委員会主席を兼任した。

このときの国民党指導者は右派湖漢民、中間派許祟智、左派廖仲ト・蒋介石に区分けできた。

1925年8月20日、左派の廖仲ト(息子が日中友好協会に関係した廖承志)が暗殺された。事件の首謀者は朱卓文、胡毅生、林直勉であったが林を除いて逃亡した。胡毅生は湖漢民の従兄弟であり、湖漢民は事実上失脚を余儀なくされた。

ところが、この粛清にたいする右派の反発は強く、1925年11月23日、北京の西山碧雲寺に四中全会を開き、共産党員の除名、汪兆銘の6カ月資格停止、ボロディンの解雇を決議した。ここに集まった右派は西山会議派と呼ばれるようになった。謝持、鄒魯、居正、張継、戴季陶などである。

第二次東征


陳炯明 Chen JionMing(?-1933)
字は競存。広東省海豊出身。1908年、広東政法学堂、1909年、広東省諮議局議員となった。同盟会に参加。辛亥革命後は広東副都督、ついで都督になった。第二革命に敗れて亡命。1917年恵州に1営を編成、粤軍をなのった。翌年、孫文の広東軍政府に参加した。1920年、広東省長・越軍総司令となり陸栄廷と争った。1922年、北伐に反対、孫文と袂を分かった。1933年、蔡廷の福建革命に参加する直前、香港で病没した

9月28日、蒋介石は東征軍総指揮に任じられ、10月1日、3個縦隊編制で広州を出発した。
第1縦隊 何応欽(1890〜1987)
第2縦隊 李済(1885〜1959)
第3縦隊 程潜(1882〜1968)
が指揮官で何応欽は35歳という若さであった。

10月12日、恵州城攻防戦が開始された。1日で西北門が突破され、守将楊坤如は香港に逃走した。そのあと剿討戦に移り、横江で敵主力と遭遇し、包囲・殲滅した。

11月6日、汕頭に到達し、群集の歓迎をうけた。蒋介石は国民政府に「国民革命は障害が徐々に取り除かれつつある。帝国主義に重大な打撃を与えたので、ますます奮い立たねばならない」と報告しており、用語からいってコミンテルンに配慮していたに違いない。

第二次東征は、蒋介石の武名を決定的にした。だが、このときの作戦は、コミンテルン派遣のガレン(偽名で、実名はブリューヒャー。のちソ連極東軍司令官で張鼓峰事件に失敗、スターリンによって銃殺された。張鼓峰事件自体が、徐州作戦に直面した蒋介石が旧知のガレンに牽制作戦を依頼して発生した公算がある)の献策によったものである。

ただし、蒋介石はこの戦いの最終報告(12月15日)の末尾を「旗幟の各種各様は改めねばならない。とりわけ統率者の姓名を大書することは私人の軍隊の象徴であり刷新されねばならない。軍旗の統一方法・デザインを制定するべきである」と結んでいる。まったく新しい軍事指導者が出現した。

中山艦事件

蒋介石の1925年12月の黄埔軍学校第3期同学録の序文には、

「総理の三民主儀を実行することは、間接には国際共産主義を実行することであり、三民主義の成功は共産主義の発展と矛盾しない」と書いている。さらに西山会議派を批判して、汪兆銘を弁護した。

1926年1月、広州で西山会議派を除いて、左派だけにより2中全会が開かれた。この会議は露骨に共産党に指導されたもので、9名の常務委員のうち3名が共産党員であった。

ところが蒋介石が軍権を掌握するようになると、従来から事実上参謀役を果たしていたソ連派遣軍事顧問との争いが生じた。ガレンの後任として1925年11月着任したロガチェフとキサンカとの仲が急速に悪化した。これの原因はロガチェフとキサンカが北伐に反対したことにある。ソ連は一方の「連ソ」派、馮玉祥にむしろ期待をかけていたのである。

ボロディンが張作霖・呉佩孚と戦闘状態に入ったが形勢の悪化した馮玉祥に会いにくと、蒋介石と二人の対立は抜き差しならなくなった。ただ、馮玉祥はけっきょく、1926年1月、ソ連に亡命した。


中山艦。780トン、4・5インチ砲8門
神戸製鋼製。1913年清国に引き渡される。
1938年、武漢にて海軍機の空爆により撃沈。

1926年3月20日、蒋介石は自分の乗用砲艦である「中山号」が勝手に黄埔に向ったことを咎めた。中山号艦長の李之竜(共産派)は「命令をうけて黄埔に回航した」と供述している。一方、蒋は「共産派は黄埔に蒋介石を誘き出し、ウラジオストックに拉致しようとした」と主張した。

蒋介石は、直ちに戒厳令を布告し、李之竜を逮捕、さらに第1軍に属する周恩来ら共産党員を拘束した。

中共側にすぐに反撃しようとしたが、ソ連顧問団が押し留めた。これによって、当時の中共は完全にソ連またはソ共の支配下にあったことがわかる。そしてソ連顧問団と蒋介石は話し合いでこの問題を解決した。つまりキサンガ・ロガチョフは帰国することになった。

汪兆銘は病臥中であったが、行方をくらませた。軍事面で湖南軍を率い中共を代表していた譚延は、ソ連顧問団が蒋介石を支持するとたちまち、反蒋から援蒋に切り替えた。

中山艦事件の真相

蒋介石は「事件が片付いてのち初めて真相がわかったのだが、私が広州から中山号で黄埔に帰る途中、強引に進路をウタジオストックに向けて私をソ連に送り込み、彼らが国民革命を利用して無産階級専制を実現しようとする陰謀の、唯一の障害である私を始末してしまおうという魂胆だったのだ」と語っている(『中国の中のソ連』)。

ソ連関係文書は1992年以降公開されているが、蒋介石の説明を補強する文書は現れていない。すなわち、蒋介石が「ソ連の陰謀である」と信じたことは事実にせよ、ソ連はそのような陰謀を働いていなかった。

これについて様々な説が現れたが、もっとも説得力があるのは陳公博によるものであろう(『中国国民党秘史』松本重治監修、岡田酉次訳 講談社 1980)

「それはまるっきり違う。伍朝枢(右派)が演じた小細工に過ぎなかったのだ」と鄒(魯/西山派=右派)は言った。そして更に話を続けて「君は知っているかどうか判らないが、胡漢民(右派)がモスクワに亡命したあと、我々は皆これではどうしようもないと思った。

そして広州の局面を打開するためには共産党と蒋介石を引き離さなけれぱならないと考えた。そこで我々は外部で対策を練り、伍朝枢は広州で策を工夫していた。

ある日伍朝枢はソ連の領事を食事に招き、次の日蒋介石の側近たちを食事に呼んで、その席で彼はさりげなく『昨夜、私はソ連領事と食事をしたが、領事は蒋先生が近いうちにモスクワヘ行くことになっているが、いつ発つつもりかと尋ねていた』と言った。

側近は当然この話を蒋介石に報告しただろう。蒋介石は大変猜疑心の強い人だ。この話の真偽を伍朝枢に直接質すわけにもいかず、ソ連領事に聞くこともできずに心の中にしまい込んで、さんざん思い惑った揚句、共産党が自分を排斥しようとしているか、或は汪兆銘(左派)が白分を陥れようとしているのに違いないと思うようになった。

ある時、蒋介石は汪兆銘にさぐりを入れるつもりで『自分は極度に疲れたので東江と南路が統一できたのちに暫く休みたいが、上海へは行けないのでモスクワに行ってみようと思う。モスクワヘ行けぱソ連当局と接触できるし、いろいろな軍事知識を得ることもできるだろう」と言った。

汪兆銘は正直一途の人だから蒋介石のさぐりだとは気付かず、軍事なお多端な折だから外遊すべきではないだろうと一所懸命に引き止めた。

次にさぐりを入れたときは蒋介石は『今では戦況も一段落ついたので、自分が広東にいるかいないかは大して重要な間題ではない。ぜひこの機会に短期間外遊し、休息をとって元気を回復したい』と言った。

相手を信じ切っていた汪兆銘は蒋介石のもっともらしい態度に惑わされて、とうとう彼のさぐりに乗ってしまった。汪が承知したのを見て、蒋は自分の判断が間違っていなかったと信じ、更に第三のさぐりを入れた。

つまり、汪注夫人および曾仲鳴をも一緒に外遊させてほしいと要望したのである。君も知ってる通り狂夫人は弥次馬根性の強い人で、モスクワヘ行けると知ったら断わる道理がない。ソ連は寒いと思って毛皮のコートを用意したり、荷づくりをしたり、てんやわんやで旅の仕度を整え、何度となく蒋介石に出発の催促をした。

蒋介石はもともと行く気などなかったのに、汪夫人から毎日のように催促を受けれぱ、ますます汪が自分をやっつけようとしていると確信するようになるのも当然である。丁度その頃ソ連の船が一隻入港し、蒋介石は参観するよう招待されたが、蒋は汪にも一緒に見に行こうと誘った。

ところが汪は前にすでに見ているということで断わられた。そこで蒋介石は自分がこの船を見に行ったら、そのままモスクワに送り込まれる手筈になっていると思い込み、遂に意を決して反共と反汪に踏み切った。

これが三月二十日の事件の真相だ。当初は伍朝枢によって企てられた小細工で、伍自身もこうなる確信はなかったのだが、はからずもその結果は反共だけにとどまらず反汪にまで発展してしまい、人々を驚かせることになった」と。

私はこの話を聞いてさむざむとした感じに襲われた。悟りをひらいたような心境でもあったし、耐えられないほどの悲しみも覚えた。伍朝枢はすでに世を去り、今や安らかな眠りについているが、存命中の彼の不用意な言葉のために、どれほどの人が命を落としたか知れない。

私はこの一文を書きながらも泣くに泣けない気持にさえなった。


伍朝枢の「悪戯原因説」であるが、中山艦事件について、これまでのところもっとも諸事情をうまく説明している。

革命とは、暴力による権力奪取であるが、革命党内部の権力闘争であることも思い知らされる。

蒋介石自身も戒厳令発動以降、将兵が自分の意のままに動いたことに驚いたのではないか。そしてゴリゴリの中共党員以外は、これから北伐に向おうとしているとき、外国人が党や軍を握っていることに疑問をもち、ソ共要員も同じように思ったのではないだろうか。玄洋社や黒竜会の日本人「志士」は、このときになると事実上のコミンテルンの一部を形成する国民党に嫌気がさし散っていった。

4月末、馮玉祥が敗勢に陥ったことを確認しつつ、ボロディンが戻った。ボロディンは共産党員の活動制限を受け入れた。さらに、5月中旬開かれた5中全会で蒋介石は国民革命軍総司令の肩書きを得ることになった。蒋介石はここで北伐の方針をも徹底させた。



陳徳仁・安井三吉『孫文と神戸・辛亥革命から9年・補訂版』 神戸新聞総合出版センター 2002
波多野善大『中国近代軍閥の研究』河出書房新社 1973
K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』福井雄三訳 展転社 2001
近代中国研究委員会編『近代中国研究』第2輯 衛藤瀋吉「中国最初の共産政権ー海陸豊蘇維埃史ー」 東京大学出版会 1958

第一次北伐に続く