辛酉政変と垂簾聴政
承徳避暑山荘。旧熱河省都承徳に現存する。満州事変のさいは、関東軍承徳派遣部隊司令部が置かれた。清朝初期18世紀に建築された。
アロー号戦争が終了しても咸豊帝は承徳山荘から北京に戻ろうとしなかった。奕
がパークスら人質を解放したあとでも、
「(人質を)ことごとく殺害せよ。もって不屈の意志を示すのだ」と上諭をくだしている(『呉可読日記』)。呉可読は、西太后が先に洋人を殺害したことを主張していたので、これについても彼女の差し金であろうと書いている。西太后の差し金かどうかはともかくとして、咸豊帝が健全な判断ができなくなりつつあったのは事実であろう。
健康にも優れず、しばしば喀血した。1860年11月、英仏軍が北京を去ると、朝廷は北京と承徳の二つに分裂する形勢を示した。北京には奕
を中心とする対外宥和派が集まり、承徳には対外強硬派の粛順を中心とする一派が集まった。
辛酉政変
1861年8月22日、咸豊帝は結核により崩御した。アロー号戦争終了から10カ月の命であった。死の直前まで観劇三昧の生活であったという。
咸豊帝は死の直前、怡親王載垣・鄭親王端華・粛順・景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦佑瀛の8名を顧命大臣を任命した。全員対外強硬派であった。そして、6歳の息子同治帝を皇太子に指名した。同治帝の母は西太后で、咸豊帝の正式の皇后は東太后と呼ばれるようになった。さらに咸豊帝は、東太后には「御賞」、西太后には「同道堂」(じっさいには同治帝に与えられたが、西太后が母なので代わって預かった)の印章を渡し、上奏文の裁可には、この二つの印章が捺印される必要があるとした。
このとき西太后は27歳、東太后は25歳であった。
顧名大臣には、当面の内外政について、いったん総攬し、裁可を求める強い権限が与えられたが、世間はその人選を訝しがった。恭親王奕
が選に洩れているほか、承徳に同行した内臣が多かったためである。両太后も不満であった。というのは、粛順・載垣・端華の3人は皇族(ただし粛順は愛新覚羅の姓をもつ)であり、咸豊帝に近侍していたため、若い皇帝未亡人を侮るところがあったのである。
咸豊帝の後事を託する大臣の人選に失敗したといわざるをえない。
西太后はここで、非常な決断をくだした。この3人の除去、すなわち殺害を思いつき、奕
にもちかけたのだ。これは若い女性に普通できない決断である。おそらく、咸豊帝が政務をなまけたさい政治的決断をくだす経験を積んでいたためと、性格的に軽躁なところがあったためだろう。
西太后は醇親王(道光帝七男)夫人であった妹に連絡し、醇親王奕
から奕
に連絡をつけた。
8月31日、奕
は初めて承徳にきて、兄皇帝の遺骸と面会した。そのあと東太后と西太后とクーデター決行を打ち合わせた。
10月25日、咸豊帝の霊柩は北京に向けてたった。載垣・端華・粛順も同行し北京に向った。この3人組は咸豊帝蒙塵のおりから承徳にいて、北京情勢を知るのに十分ではなかった。清国は治安上の理由から道路整備に熱心ではなく、熱河から北京までの道は悪路であり、200キロ、7日かかった。この間に北京は完全にクーデター派に支配された。
11月1日、両太后、奕
、桂良、周祖培は紫禁城内廷に集まり、載垣・端華・粛順ら三奸を断罪する諭旨をくだした。
午後、なにも知らぬが載垣と端華が護衛もつけずに内廷に入ると、いきなり内廷衛士によって捕縛された。そして霊柩とともにいた粛順は、北京にあと1日の密雲県で逮捕された。
皇族であった載垣・端華は自殺を強制された。粛順は白づくめの喪服のまま菜市口の刑場に引きずり出された。執行吏は跪かせようとしたが、粛順は応ぜず、鉄棒で膝を打ち砕かれた。そのあと数刻して、痛みでもたうちまわる粛順は、両肩を押えられ、斬首された(『庸庵筆記』)。
残りの5人の顧命大臣は免職となった
垂簾聴政
辛酉政変以降、朝廷は両太后が簾の奥に座り、両側に恭親王奕
・醇親王が佇立した。これを垂簾聴政と呼んだが、なんと西太后の死、1908年まで続いた。そしてその3年後、辛亥革命が発生、清朝は滅亡した。つまり47年間の垂簾聴政であり、西太后独裁ともいわれる。
だが、独裁者西太后が何か業績を残しただろうか?
北清事変までの西太后は露骨な排外主義者であり、じっさいに義和団が北京外国公館を包囲したとき、各国に宣戦布告した。だが、これは目先のしかも北京の中だけみて決定し、そしてその中のどの1国にも勝てない戦争を始めるといった茶番であった。まともな執政能力のある人物は決してやらない行為である。
どうして、このような人物が独裁権力を築くことができたのだろうか。当然、これは中国の特殊事情が関係する。
清国は、文書国家であった。ささいなことでも上奏文をつくり、皇帝の裁可を仰ぐ。だが、中国のような国で、数千ある県を治める知県の人事を、皇帝一人で選任することは不可能であろう。いわんや、それの基礎となる人事考課など読みきれるものではない。しかもこれは上奏書類のほんの一部である。
そして西太后はこの時代としては珍しく読み書きができた。だが、読み書きができることと上奏文を読むことは異なる。中国の文語文を読みこなすことは、子供のころからの十数年のトレーニングが必要である。西太后は上奏文に朱を入れることはほとんどできなかった。
そして、官僚はこのことを知って上奏文を書いた。平時において、政務が下僚の作文の通りになり、皇帝が権力を行使しなくとも国家は回るのである。問題は和戦のときなど重大局面のときに絞られる。
そして西太后もこれをよく知っており、国政について独裁権力を行使しようとしなかった。固執したのは、じつは家庭の中、すなわち愛新覚羅家における独裁権力であった。
同治政変
1865年3月、蔡寿祺という小役人が突然、西太后に奕
を弾劾する上奏を行った。蔡の意図ははっきりしないが、太后に点数稼ぎをしたかったのだといわれる。
西太后は群臣を集めて、その弾劾書を示し、奕
を厳罰に処することを訴えた。だが、東太后はのらず、よく調査してからと命じた。
すると、西太后は不満そうな顔をして奥にこもり、朱諭を下した。朱諭は朱墨で書いた勅諭であって、本来皇帝、すんわち同治帝が直接書く性格のものである。そこには、誤字・脱字だらではあるが、
「私をみんなでバカにして命令を聞こうともしない。議政王奕
は傲慢のあまり、国政を壟断している。全役職を剥奪する」
と書いてあった。
群臣は裏で集まって、奕
が形だけ西太后に謝れば済むのではないかと結論付けた。因果を含められた奕
は、幼帝と二人の太后に土下座して泣いて詫びた。すると西太后は朱諭を忘れ、ケロッとして、全てを許すをいった。これにて落着し、兄嫁と弟の対立に困り果てた群臣は胸をなでおろした。
蔡寿祺は偽りを書いたとして、官位を2段階落とされた。
これ以降、群臣は愛新覚羅家の最高権力が西太后にあることを自覚せざるを得なくなった。
安徳海処刑
西太后は56年間、2回蒙塵を経験したが、その他は北京の紫禁城または離宮、すなわち内廷にいた。北清事変のさいは、壁の外では銃撃戦が発生していたが、暮らしぶりは平然としたものであった。清朝時代を通して、北京の治安は必ずしも良好ではなく、城外に出れば匪賊が跋扈していた。
宦官が内廷における治安を維持していた。清朝における宦官は主として農村の細民出身であった。これは明朝以前が李氏朝鮮からなどの献上奴隷によっていたのとは大分異なる。おそらく、清朝自体が征服王朝であったため、漢民族出身の宦官に抵抗がなかったのであろう。
宦官になるための手術も、清朝末になると、北京市内にある世襲外科医が担当し、全剔が普通となった。大概は親に売られた10歳以下の子供で、山東省・河南省出身者が多かった。
清朝は宦官の政治関与を厳禁しており、また文書政治であったため、字が読めない宦官が政治に容喙することは難しかった。ただし、内廷で腕力をふるえるのは宦官だけであった。むろん、内廷外の武装力が介入すれば、宦官集団は一たまりもなかった。
1869年7月、宦官の安徳海は西太后に命じられ、14歳になった同治帝のための衣装の買い付けに南方に派遣された。白河と大運河を舟で下る大名旅行であった。
ところが山東巡撫丁宝驍ヘ、安徳海を勅許状(宦官は内廷を離れるときは、皇帝の許可状が必要であった)を所持していないという理由でいきなり捕縛・処刑した。この報せをうけると西太后は泣き崩れたが、如何ともしがかった。この事件の背景は判然とはしないが、東太后の差し金という説が有力である。
安徳海は外界と通じる情報ネットワークをもっていたようで、それをしばしば西太后の耳に入れたようである。このため、群臣から恨みを買っていた。処刑されたと知るや、曾国藩や李鴻章のような洋務運動をてがけていた漢人官僚までも、喝采を叫んだ。
西太后の権力とはこの程度のものであって、自身の意見が群臣多数の意向に沿っていれば、叩頭しながら官僚は従うが、もし反していれば、無視して終わりであった。
同治帝親政
1873年、西太后の子供、同治帝は18歳となり、親政を開始した。いきなり命令したことは、円明園の再建工事であった。この工事は西太后が試み、群臣の反対にあって頓挫した事業であった。
同治帝は親孝行のような気持ちであったろう。当時の国庫収入は年間約7000万両(庫平銀。現在の銀相場1グラム53円で計算すると1100億円)であった。収入の大半は塩税や物品税であり、農地に係わる税や所得税・事業税は地方税であった。
このうち官吏の俸給や内廷費など固定的支出が6400万両に達しており、皇帝が自由になる金は十分ではなかった。群臣は冗費とみなした宮殿建設に反対した。
だが1874年、同治帝は親政わずか1年で痘瘡をわずらい薨去した。中国の歴史家は、太平天国の乱がおさまり、洋務運動が展開された同治帝の名目上の統治期間(1862〜1874)を同治中興と呼ぶことがある。
西太后は同じ世代であるが、妹の子であるわずか4歳の光緒帝をたてた。これにより西太后の垂簾聴政が復活した。このとき40歳であった。光緒帝が親政を開始した1988年まで続いた。この期間は洋務運動の期間であり、中国軍の近代化に努めた時期でもあった。
光緒帝は百日維新に失敗し、幽閉されることになるが、その間はわずか9年間に過ぎなかった。西太后は、百日維新以降内廷を代表し、その死まで続けた。
徳齢の記録
左から槿妃・徳齢・西太后・容齢・徳齢の母・隆裕太后
後ろのバナーには「歳萬萬歳萬歳萬后太皇母聖今當國清大」とある。
徳齢は清朝末期の外交官裕庚【ゆーけん】の娘として生まれ、1903年から2年間、西太后の側にフランス語通訳として侍った。そして、宮廷から出たあとアメリカ人外交官と結婚、のち"Two Years in the Forbidden City"(『西太后に侍して』太田七郎、田中克己訳 筑摩書房世界ノンフィクション全集18)を英語で書いた。内容について一部史実に合致しない点があるが、西太后の肉声として伝えた部分に誤りはないと思われる。
「みなさんの物を知らないこと!どの国にも支配者があるし、なかには共和国もあるということを私は知っております。アメリカ合衆国は共和国で、わが国にひじょうに好意を持っております。けれどもあんな平民ばかり行くので、私たちもみなそうなのかと思われるのは情けないことです。りっぱな満州人もすこしは出かけて、私たちがほんとうはどんなか見せてやるとよいと思います」
西太后は反英、親米的であった。1890年代はアメリカは鉄道ブームであり、中国人建設労働者が多数渡米した。西太后は満州人優位を信じていたためか、満州人が渡米すれば、アメリカ人の中国にたいする印象が変わると思ったのだろうか?
「まあ、あなたたちとお話するのがおもしろくて、午餐を言いつけるのを忘れてしまいましたよ。おなかがすいてはいませんか?外国にいたときにもシナの料理が食べられましたか?ホームシックになりませんでしたか?私だったら自分の国をそんなに長く離れていれば。きっとなったことだろうと思いますよ。でもあなたたちがそんなに長く外国に暮らしたのも自分のせいではなかったのですね。裕庚をパリにやったのは私の命令だったけれども、ちっとも悪かったとも思いませんよ。だってごらんなさい、今となってはずいぶん私の役に立つのですものね。私はあなたたちを自慢にして、外国人たちに私たち満州人でも自分の国のことばよりじょうずに外国語が話せることを見せびらかしてやりたいのですよ」
きわめて自己中心的であるが、動機について率直に話すことができたことがわかる。官僚が組しやすしとみたことは容易にうかがえる。また、外交官人事について、西太后が掌握していたとみられる喋り方である。
「私には、外国人もシナ人と同じくらいお金持ちだとは、とても信じられません。外国人たちが宝石をあまり付けていないのにも気がついてます。私は世界じゅうのどの君主よりもたくさん宝石を持っているということですが、そのうえ絶えずふやしているのですから」
西太后は、中国が全世界でもっとも富裕であり、中国人はもっとも金持ちであると生涯信じていた。この視野の狭さは外交における失敗をもたらしたことは確実だろう。ただ同時に西太后は、欧米人が中国人を野蛮人と呼んでいることもよく知っていた。
「あの外国の婦人たちが大きな足をしているのは、どうしたわけなのですか?あの人たちの靴といったら舟みたいですし、おかしな歩き方ときたら私には褒められませんよ。私はまだ外国人できれいな手をしている人を一人だって見たことがありません。肌は白いけれど、顔は白い毛でいっぱいじゃありませんか。あなたはその人たちが美しいと思いますか?」
頤和園における園遊会で、コンガー米公使夫人、デカルセルスペイン公使夫人、内田康哉公使夫人などを引見したあとの記録である。性格的には容貌の醜い点をみつけて喜ぶタイプであった。ただ内田夫人については褒めている。
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