西太后の死
1908年11月14日光緒帝が、そして翌日の15日、西太后が相次いで崩御した。この二人の接近した日時の死が偶然とは思われない。西太后の死期が接近したことを知った宦官の李英蓮が光緒帝を毒殺したと当時噂された。そのあと愛新覚羅家の実権を握ったのは文盲の隆裕太后であった。そして溥儀が宣統帝として即位し、摂政王として溥儀の父、醇親王載
が任じられた。
その翌月の1908年12月、軍権が改まり、近衛師団としての性格をもつ禁衛軍が編成され、載
が統帥権を得た。そして1909年5月、宣統帝に「陸海軍大元帥」の称号が加わった。そして載
の弟、載洵が海軍大臣、載涛が新設された参謀本部大臣になった。このとき、この三兄弟の年齢は、26歳・24歳・22歳であり、衆目のみるところ、組織の長となっただけでは軍権を行使できるとはみなされなかった。
さらにこの過程の1909年の1月、軍機大臣袁世凱が罷免された。理由は「足疾を患い、歩行困難、任に耐え難き・・・」であった。袁世凱は河南省彰徳に蟄居した。この追放劇は隆裕太后派(載沢・鉄良・盛宣懐など)によって行なわれたが、袁の盟友であった徐世昌や段祺瑞に手をつけることはできなかった。そして10月、洋務派の生き残りであった張之洞が死亡し、時代が変わりつつあることを知らせた。
一方、地方段階では、1909年9月、各省ごとに全て、諮議局が開設された。これは事実上の議会であって、有権者は人口の0・5%に過ぎなかったが、中国歴史上画期的であった。また辛亥革命後成立した北京政府も、全国選挙を2回実施している。反対に、清朝や北京政府と異なり、国民党政府や共産党政府は選挙を実施したことはなく、この両党の反動性は明らかである。
1910年は諮議局が連合して中央政府に国会開催を請願する運動が3回発生し、政府はその対応に追われた。
1911年5月、憲法の制定と内閣制採用が発表された。だがそこには、議会がなかった。朝廷で全てを決定する方式は改められ、初めて発足した「責任内閣」官僚の過半は皇族で占められ、皇族内閣・親貴内閣と呼ばれた。閣僚名簿は、
慶親王(皇族)為内閣總理大臣,那桐(滿族)、徐世昌為内閣協理大臣,肅親王(皇族)任民政部大臣,鎮國公(皇族)任度支部大臣,載洵(皇族)任海軍部大臣,溥倫(皇族)任農工商部大臣,壽耆(皇族)任理藩部大臣,蔭昌(滿族)任陸軍部大臣,紹昌(滿族)任法部司法大臣,梁敦彦任外務部大臣,唐景崇任學部學務大臣,盛宣懷任郵傳部大臣であった。
相次ぐ武装蜂起
清国政府は新建陸軍の将校育成のため多くの青年を日本の士官学校に留学させた。明治42年(1908年)の卒業生(第6期)のうち中国人(多くは省政府派遣)は187名に達した。
これら留学生の多くは、中国に帰ると新軍に配属され革命派に転じた。
新軍反乱の嚆矢は、安徽砲兵事件で西太后薨去のすぐあとのことであった。1908年12月、安徽新軍の砲兵中隊長の熊成基が歩兵・騎兵・工兵などの下士官を誘い、秋季大演習に乗じて、太湖附近で挙兵した。熊は逃げのび、日本に亡命している。
日本留学組は、清朝打倒を掲げ、東京で各省ごとに革命組織ができた。主な組織は
- 広東省 興中会〜孫文
- 湖南省 華興会〜宗教仁(会長)・黄興・陳天華・劉揆一
1904年に武装蜂起計画を練るが失敗
- 湖北省 科学補習所〜呂大森(会長)・張難先
宋教仁や胡瑛は華興会と共通の会員。1904年蜂起に連座し解散。日知会として再建。
- 浙江省 光復会〜章炳麟・
宝銓・陶成章・徐錫麟・蔡元培・秋瑾
秋瑾は「匕首をもった女革命家」と呼ばれたが、1907年、徐錫麟と共同しての蜂起に失敗、斬首刑に処されたが、遺体に群集が殺到し、胴体からの鮮血をパンにつけ、食したという。辛亥革命以後は同盟会と対立した。
- 安徽省 岳王会〜陳独秀・柏文蔚
熊成基の安徽砲兵事件に呼応。
- 福建省 益聞社〜鄭権・鄭祖蔭
である。このうち興中会と華興会の合同により、1905年、同盟会が発足した。上記の蹶起は同盟会の指導によらないものだけである。ただし、短兵急な武装蜂起は全て失敗したが、辛亥革命につながる武装蜂起は四川省における鉄道国有化事件と武昌起義であり、いずれも同盟会=孫文との関係は薄かった。
同盟会は三合会と哥老会を中心とする会党(組織暴力団)に兵力を頼っていた。ところが、この両者は多分に内陸の会党とはつながりが薄かった。これがため四川や湖北における蹶起は、沿岸部の慢性化した会党=同盟会の蹶起より、幾分新鮮なものがあった。
鉄道国有化
中国における鉄道建設は、日本より古くから開始されたが、都市間を結ぶ長距離鉄道の建設は遅々として進まなかった。長距離鉄道でもっとも早く建設されたのは1898年に完成したシべりア鉄道短絡線である東支鉄道なのである。
これの理由は資金が集まらないことにあった。都市近郊路線ですら民営化して民間資本を動員せねばならなかった。次の段階で都市間に延引しようとすると外国から借款に頼らざるを得なかった.。当然、鉄道施設を担保に入れる必要がある。民営化会社の株主は排外主義的な反対を繰り返す。政府は国営化を計る。それへの反対運動が起きるという悪循環が発生した。
鉄道は欲しいがが、金を借りるのは嫌だという「庶民感情」があって、それを革命派は政治的に利用しようとしたのである。
四川省の面積は日本より広く、人口は日本に匹敵した。その四川省で鉄道国有化反対運動が起きた。四川省と漢口をつなぐ川漢鉄道はいったん国有鉄道として建設され一部開通していたが、1907年、政府財政逼迫により、株式を州民に公開し民営化した。
1911年8月、四川総督趙爾豊は突然、鉄道の接収を発表した。地下組織である哥老会(麻薬売人や手配師の集団)は、これに対抗して鉄道国有化反対を唱えて武装蜂起した。そして政府軍との戦いは一進一退となった。
武昌起義
湖北省でも、隣接する四川省の武装闘争が大きく影響した。1911年9月24日、共進会(1907年、東京で結成された同盟会員と会党の合同)と文学社(蒋翊武を社長とし、1911年1月に結成、新軍中心に会員をもつ)の会員、60余名が、武昌の共進会機関部家屋に集合した。
10月6日(旧暦8月15日の中秋)に軍隊を中心に一斉蜂起することが決められた。
二つの組織とも準備不足で、武器調達はこれからであり、居正は上海にピストルの買い付けにいき、同盟会からの応援、黄興・宋教仁も到着していなかった。ところが、起義の噂は翌日には広まり、新聞にも掲載される有様となった。
準備の遅れで、日程は繰り延べとなった。10月9日になっても、参謀格の孫武は、漢口のロシア租界に潜み、爆弾製造に励んでいた。ところが、くわえタバコで火薬を扱ったため、突然引火、爆発した。この事故でロシア租界警察がかけつけ、現場にいた30数人を検挙した。
対岸の武昌では、この日早朝、起義の臨時総司令と予定された蒋翊武が岳陽から戻って会議をしていた。そこに爆発事故の一報が入った。午後5時、蒋は、夜12時の決行命令を出した。
湖広総督瑞澂も爆発事故で何かが進行中であることを察知した。武漢三鎮の全ての城門を閉鎖し、検問を開始した。決行命令は新軍内の同志に届かず、逆に深夜、蒋翊武のいた司令部が軍警によって急襲された。蒋翊武もいったん捕縛されたが、辮髪をまだ残していたため、召使と誤まられ、護送途中、逃亡に成功、岳陽にまで逃げた。
10月10日の朝が明けると、武昌は革命派を追う、軍警に満ち溢れていた。逮捕者からの自白で軍内の3人が捕縛され、即決で斬首された。武昌城内にあった新軍内革命派有力者の熊秉坤【ゆうへいこん】に決行命令が届いたのもこのころで、既に決行時間の夜12時が過ぎていた。
熊秉坤 Xiong BingKun
(1885-1969)
字は載乾。湖北省武昌出身。文学社に加わり、部昌起義を主導。翌年から反袁・反黎を主張、李烈鈞に賛同、第2革命では国民党に従った。黎によって懸賞金をかけられ、日本に亡命した。1914年、中華革命党に参加、湘軍に加わり、北伐に参加した。中共政権獲得後は政協委員になっている。
熊秉坤は、同志とともに打ち合わせ、名簿が押収されたことは確実なため、午後7時に決起決行が決められた。熊の工程第8営では約40人の同志が集まり、上官を射殺、軍械庫のある楚望台に向かった。
この動きとは別に、武昌城外の輜重第12営でも李鵬昇が決行の狼煙をあげた。すぐさま隣接する砲兵第12営が鎮圧に向かったが、革命派に同調する兵士が大半であった。李も約100人を率いて軍械庫に向かった。
軍械庫には少数の兵士しかおらず、それも革命派をみると大半が寝返った。ここには単発モーゼル1万5千丁と30年式歩兵銃1万丁が保管されていた。当日の軍械庫警備責任者は呉兆麟であり、抵抗をやめ城壁に隠れたが、革命派に発見され、臨時司令官に推された。呉兆麟は日知会員だった時期があり、部下の信望も扱った。革命派が軍械庫に集まったという情報が広まると、続々と賛同者が現れ、30分もしないうちに革命派は2千人にも膨れ上がった。
瑞澂は軍械庫が襲撃されたとみて、午後9時になり、督署参謀長呉兆麒を偵察に向かわせた。ところがこの兆麒は、総司令兆麟の実兄であった。兆麒は兆麟に督署にある機関銃は3丁に過ぎず、その配置を教えた。
革命派は憲兵営を占領したあと督署に向かった。保安門の清軍がもっとも抵抗したが、熊秉坤が決死隊40人をもって突破した。瑞澂は保安門突破をきくと、城外に脱出、砲艦楚予にのり揚子江上に逃れた。
10月11日、夜が明けると革命派は藩署を除いて武昌城内全域を支配していた。藩署も朝のうちに制圧された。この起義による革命派の死者は十数人といわれる。清軍は500人以上の捕虜を出した。
起義を支持する動きは湖北新軍全体に広がり、漢陽、漢口も呼応した。
革命派は諮議局に集まり、湖北新軍司令官黎元洪を都督に仰いだ。黎元洪は弁髪を切り落とし反清を明確にした。
皇族内閣は直ちに政府軍を鎮圧に派遣したが、湖北革命軍はこれを漢口近郊の劉家廟で撃破した。哥老会の全国に張り巡らされた連絡網によって、各省で革命派の蹶起が相次ぎ、1911年末までに13省が清朝との決別を宣言した。
袁世凱出馬
清朝も動いた。10月14日、3歳の新皇帝溥儀の父でもあった摂政王載
は、1908年老齢を理由に北洋軍司令官から引退させた袁世凱に湖広総督就任を求めた。
馮国璋 Feng GuoZhang
(1857-1919)
字は華甫。直隷省河間出身。北洋武備学堂卒。1913年江蘇都督。1916年副総統。袁世凱帝政問題では、帝政に反対した。
袁世凱は、足疾が治らないことを理由に出馬を嫌がる素振りをみせた。元の配下である馮国璋が湖北省革命派討伐のため第1軍司令官に任命され、その途中、彰徳の寓居を訪ねてくると、「しばらく防禦に徹すること」と指示した。一方、湖南省革命派代表黎元洪に「南北議和」の意向を伝えた。
袁世凱は出廬すると直ちに湖北省に向かい、11月1日、孝感で馮国璋に漢口攻略を命令した。漢口は1日で陥落した。これで袁世凱の威名は大いにあがることになった。11月9日、摂政王は、慶親王に代わって袁世凱を総理に任命した。袁世凱は11月13日に入京し、16日、新内閣を組閣した。さらに馮国璋は11月27日、漢陽をも陥落させた。
この武漢三鎮をめぐる戦いには、末永節(1869〜1960、玄洋社社員、朝日新聞論説委員)・菅野長知・金子克己(1882〜1946)・北一輝・大原武慶・原二吉・野中保教・甲斐靖・岩田愛之助が現地で参加し、犬養毅・頭山満・宮崎滔天が資金を援助したといわれる。前者は大陸浪人と呼ばれたが、国内では与太者として受け入れられず、中国で安全な位置に身を置きながら、暴力を喜ぶ体質の連中が大部分である。思想的に立脚点はなく、孫文を応援しながら北洋軍閥に加わり、一方、復辟運動にも賛成するといった興味本位の活動であった。また大部分は福岡県人である。日本人死者も2名ほど出た。岩田はそのあと阿部政務局長暗殺・宗社党運動・浜口雄幸暗殺・天皇機関説反対運動に関与するなど思想的背景がよくわからない人物であるが、他も大同小異である。
袁世凱は、12月9日、馮国璋に替え、第1軍司令官に和平派とみられた段祺瑞を任命した。これは統帥権が誰にあるのか満天下に明らかにする行為でもあった。さらに、「南北議和」を提唱し、唐紹儀を団長とする交渉団を南下させた。
華南でも情勢が変化していた。江浙連軍は、12月2日、南京を陥落させた。南京守備隊長の張勲は南京郊外で一般市民の公開処刑を行なうなど悪辣な行為ののち徐州に逃げた。革命派の中でも、湖北より江浙に主力が移っていった。12日、漢口に入った唐紹儀は、黎元洪と面会したあと上海に向った。
17日、唐は上海に到着し、翌日から南代表の伍廷芳と上海議和交渉に入った。会議は上海租界工部局議事堂で連日のごとくもたれ、両者は各省代表によって国民会議を翌年1月開催することで合意に達した。ところが、袁世凱は「唐紹儀が勝手に決めたもので拒否する」という、悪意のある声明を出した。唐は、1月4日代表を辞任した。袁は人事権が自分にあることをみせつけたかったのであろう。
孫文は12月25日、上海に上陸した。12月初頭以来、南京に集まっていた華南各省代表は、臨時政府樹立を宣言し、1912年1月1日、孫文を中華民国臨時大総統とした。この動きは「中華民国」を名乗ったため、ややこしくなったが、あくまでも華南臨時政府大総統であって、孫文も含めて中国全体を代表するものとはみていなかった。
孫文は、1月22日、「袁は溥儀を退位させること」「総統の地位を袁に譲ること」を声明した。
2月13日さらに、
- 臨時政府は南京に設け変更してはならない
- 新総統は必ず南京にきて就任し、そこで孫文と国務員の職を解く
- 必ず臨時参議院が制定した臨時約法とその法律を遵守しなければならない。
と3条件を出しつつ、臨時参議院(華南臨時政府)に辞表を提出した。臨時参議院はこの3条件を受け入れたのち、15日、新総統に袁世凱を選出した。
臨時約法は、3月11日公布された。民選議院の多数党が内閣を組織し、大総統の命令も内閣総理が副署せねば効力を発しないとされた。
極めて、議員内閣制を意識したものであったが、実効性には疑問のある内容であった。
清朝倒壊
これに先立つ1912年1月16日、袁世凱は、隆裕太后に「廃帝密奏」をつきつけていた。
段祺瑞も第1軍総統として各軍14万を代表し、将領46名とともに
「ただちに共和政体を定め、もって皇位を鞏固にし、大局を定めよ」と両義にもとれる代奏を袁世凱に請うた。
陸軍部大臣王子珍は「これは段の左右にいる青年がやったのではないか」と袁に伝えた。段に重ねてその真意を問うと「そのまま読んでくれ」ということだった。
だが、内閣はその上奏を摂政王に伝えることになった。
隆裕太后は家庭内雑事についてしか見識をもたなかった。愛新覚羅家家長として、おそらく孤独の中で金銭的打算のみで、1月30日、「廃帝」を承認した。
宣統帝の退位宣言は2月10日、行なわれた。袁世凱は、愛新覚羅家に従来通りの内廷費支払いを約束し、以降1924年まで、小朝廷として残存することになった。
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