蔡廷
Cai
TingKai (1892-1968)
広東省羅定出身。保定軍学校卒業。元は第4軍第11師を率いた。北伐では共産党の南昌暴動を鎮圧した。中原大戦でも蒋介石の戦略予備隊として使われた。第一上海事変ののち、1933年、陳銘枢とともに福建省で反乱を起し自立した。敗れ、いったん国外に出たが、1935年、第16軍司令官に返り咲いた。こういった敗者の復活劇は中国ではよく発生するが、この場合、蒋介石が「度量の大きさ」を部下に示したかったがためであろう。1947年共産党に寝返った。共産党に人民代表大会広東省代表にまつりあげられた。
1932年、19路軍が上海に接近した。この軍は3個師団33千人からなっており、蔡廷
が指揮していた。蔡廷
の意図は現在に至るもはっきりしないが、傘下の師団の扶養に困り上海の租界参事会をゆすり金をせしめるのが目的だったと思われる。19路軍は蒋介石の湖南省東部の共産党根拠地討伐の命令に従おうとしなかった。
1月18日、日蓮宗の僧侶が襲撃された。三友実業公司というタオル会社の従業員が犯人とされたが日本人謀略説が強い(*)。いずれにしても19路軍の接近の方が重大だったから契機はすぐ忘れられた。蔡廷
はすでに租界参事会に兵士の給与支払いを要求しており、参事会の日本人メンバーは討伐を主張し堂々巡りの議論をしているところだった。海軍は陸戦隊派遣を決定した。
(*)田中隆吉少佐は、謀略を自ら全部実行したと「自白」した。目的は日本軍が介入する口実を作ることで、「日本人が上海問題に関与せねばならない」という国内世論との関係を考えたという。このあたりはアメリカの引き起こしたトンキン湾事件などと性格が似ている。「国際社会(租界)にたいする責任では派兵できず、日本人が襲撃されねばならない」という見方だ。この田中説は大方のところ現在でも信じられている。
他方、被害を受けた僧侶の属する日蓮宗日本山妙法寺派は現在でも謀略説を否定している。
田中隆吉は「東京裁判」で米人検事キーナンのアドバイザーをつとめた。本人は「日本人の犯罪」をあばき、米人検事に迎合する意欲は強かった。そのうえキーナンは田中に住居や情婦をあてがうなどの「証人への利益供与」「不当捜査」を働いていた。全体として、田中証言の任意性を疑う必要がある。
事件は「中国人による日本人僧侶への襲撃」と「日本人居留民によるタオル会社への襲撃(反撃)」の2段階に分かれている。田中はせいぜい、タオル会社への襲撃を「上海ゴロ」に使嗾した程度ではなかろうか。満州事変によって、上海における反日感情は従来になく高まっていた。
上海事変は結果として租界の各国人で編成された中隊は19路軍に全て参戦し、当時の国際社会あげての戦いだった。ところが終局では唯一効果的な戦闘行為を実施した日本軍が批判された。この事件は租界と私軍の戦いが本質にもかかわらず、事変後は軍部あげて軍閥私軍ではなく中国の正規軍と戦ったことを主張した。勲章のランクのせいと思いたくないが、これは致命的な失敗だろう。そして戦ったなら偉大な軍と戦ったことにしたい、という日本人のメンタリティは一般には理解しにくいものだ。
海軍も軍閥が金銭目当てで接近し、戦闘が開始されたことを認めようとしなかった。海軍はこの後国民向けに『昭和6・7年戦史』を出版し居留民保護のため中国軍と戦ったと主張した。じっさいは、軍閥にたいして租界共同軍が対抗し、海軍陸戦隊だけが突出、深追いして戦ったのだ。
また同じ理由で蒋介石は19路軍を私軍と捨て去ることができず後になり抗日の名誉を得ようとした。こうして日中双方が意図した当事者と認めたため問題がかえってこじれた。もちろん日本軍部と蒋介石が上海租界に野望がなかったと言えば嘘になる。そして両方の野望を挫いたのは19路軍の予想外の精強さだった。
中国(共産)政府は1960年代までは、蒋介石が19路軍の抗日を阻害したという見解だったが現在では修正して来ているようだ。中国(共産)政府は歴史を創作することが得意でやや歴代王朝の正史編纂方針とは異なるようだ。
国共両派を含む軍閥は、中国のルールで戦っている。日本の大アジア主義者はこのルールに魅力を感じていた。ところが日本の社会はアメリカの理想主義的ルールに魅力を感じまたそれを具現する外交官もいた。ところが西ヨーロッパの規範が当時の国際法で、条約を締結した以上遵守せねばならなかった。
日本の欧州派外交官にしてみれば、よもやまともな国が蒋介石を応援するはずがないという思い込みがあったのではないか。蒋介石夫人の宋美齢はこの事変で中国兵が野戦病院で十分手当てを受けられず死亡して行くのを批判され、「薬を買う方が、兵隊を雇う方よりも高くつく。」と発言し物議をかもした。まず、このような情況と場所で戦争にはいることに慎重になるべきだったのだ。
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この当時、日本人街は虹口(ホンコウ、当時ホンキュウ)にあった。ここは元アメリカ租界だったがイギリス租界との合併で共同租界となったときアメリカ人は引き上げ日本人が住みついた。それとともに住居地区としての格が落ち、汚い雑居ビルが並ぶ一角となっていた。
上海のビジネスセンターだったバンド(外灘)地区の後背地が高級とされた。バンドに並ぶネオゴシックのビルを所有していた横浜正金銀行や三井物産の支店長社宅はそこにあった。三井物産の支店長社宅は第2次大戦後、蒋介石が住み上海一の民家と言われていた。(現在幹部用のホテル、重慶大廈の裏)虹口は言わば、大陸浪人の集まった場所とも言えた。虹口に住む人々は居留民と呼ばれ、旧イギリス租界に住む人々は商社側と呼ばれた。
上海総領事石射猪太郎
海軍の一遣艦隊の兵力は旗艦安宅以下軽巡1隻、砲艦9隻、駆逐艦14隻であり、陸戦隊は900人(戦闘開始時は1830人)であった。
虹口の後背地は閘北(ジャオベイ、当時シャペイ・ザホク)でそこは中国人居住区だった。戦闘は閘北と虹口(共同租界)の境界線で発生した。すでに閘北北四川路には19路軍がバリケードを築いていた。
1月29日、市街戦が開始された。道路を挟んでの撃ち合いとなった。海軍の陸戦隊は重砲は所有していないから、双方軽火器での戦いだった。ただ海軍は対地攻撃機をすでに所有していたから、閘北に激しい爆撃を浴びせた。この時まだスペイン動乱でのゲルニカ爆撃の以前だったから、日本海軍が最も早く大規模爆撃を敢行したのかもしれない。
便衣兵戦術
大角海相は、1月24日には陸軍の照会に「陸軍部隊不必要」と答えたが、1月30日、荒木陸相から再度照会をうけると、陸軍出兵を懇願した。日本の陸海軍は華北が陸軍の縄張り、華南は海軍と決めており、海軍は陸戦であるにもかかわらず、面子を棄てられなかったのである。
2月1日、租界参事会は19路軍にたいする「警備」として、義勇隊を編成し各国陸戦隊や志願した市民が参加した。
日、3920
米、2750
英、3850
仏、960
伊、160
その他、1746
であった。
一度大規模な戦闘に発展すると、海軍は「中国正規軍」と戦っていると宣伝を始めた。このとき蒋介石は「下野」中であり、職責上の軍事責任者に戻ったのは、1月27日であった。蒋介石は事変発生時徐州にいたが、重要事とは考えていなかった。中央軍の上海派遣の決定は2月1日、南京駐留の87師(愈済時)と88師(編成中)に与えられたが、情勢をみるに止まった。
交戦への中央軍の本格的介入は、2月17日、88師と87師を統合した指揮を帳治中に与えたときからであった。そのとき呉淞砲台にまで前進していたが、戦闘には参加しなかった。また、陸軍が3月1日から戦闘に本格参加すると戦敗必至とみて、すぐさま引かせている。
海軍は佐世保・横須賀から増援軍を逐次投入し、兵力は5個大隊(6000人)にまでに達した。陸軍の先遣部隊は第12師団の混成第24旅団(下元熊禰/2800人)、第9師団(植田謙吉)と決まった。
しかし19路軍は、閘北の防衛線を突破されても抗戦を続けた。戦闘は閘北を越え、農村地帯に入ったが、ここでも陣地が既に構築されていた。海軍陸戦隊は閘北と農村の接点で戦闘を続けたが、2月中旬まで戦線は膠着した。
混成24旅団と第9師団は呉淞埠頭と租界埠頭に、14日から上陸を開始した。18日、英国公使の斡旋で植田師団長は蔡廷
に20日までに、獅子林砲台と嘉定飛行場を結ぶ線(撤退要求線)の北まで退くことを要求した。
20日、江湾鎮附近で戦闘が激化した。植田中将は25日朝、準備射撃を開始した。しかし、これは陽動作戦で、本格的な攻撃は北方からであった。
2月28日、すでに乗船行動中であった第11師団(厚東篤太郎)と混成24旅団、第9師団を隷下に収める上海派遣軍が編成されていたが、その司令官白川義則が上海に到着した。白川は海軍の作戦計画を一蹴し、七了口から第11師団を上陸させ、19路軍を包囲殲滅する作戦計画を示した。
3月1日、第11師団は七了口から、第9師団は江湾鎮から総攻撃にうつった。19路軍はたちまち総崩れになり、上海で臨時にかき集めた輜重兵(学生が多かった)の遺棄屍体を多数残し、西方に退却した。これにたいし日本軍も追わず戦火が拡大することはなく、白川大将は、3月3日、戦闘中止の声明を出した。
戦いは1月28日から3月3日の1ヶ月間余りに及んだ。次の日華事変のときの上海攻防戦から見れば、19路軍は善戦したと評価できる。
19路軍の戦死者は2413人、第5軍(87師88師)の戦死者は1566人。負傷者は7703人(内訳不明)であった(国民政府発表)。また民間人死者は1万1000人とされるが、現地徴募による輜重兵(学生など)はこのうちに含まれているものと推定される。日本側戦死者は591人、負傷者は1773人である。
日本側の停戦宣言をうけて、3月14日から上海の英国領事館で開催された。これより前の3月4日、国際連盟総会が開催されたが、ノルウェー・メキシコ・ギリシャなど小国が「武力侵略反対」を発言し、日中両国は停戦せよという決議が下された。
この戦闘の経緯は19路軍による租界参事会への課徴金要求と租界内に軍事施設をつくったことに端を発している。ところが、国際連盟で日本側は、この経緯をまったく説明しなかった。海軍が自らの存在を過大にみせようとして、19路軍という「軍閥軍」ではなく国府軍と戦ったことにして勲章を狙いにいったためである。ジュユネーブの日本の外交官は、陸海軍がどのような反応をするかわからず、積極的な外交ができなかった。
停戦会議は重光葵駐支公使、郭泰祺外交部次長の間で行なわれ、5月5日、上海停戦協定が締結された。
張治中の軍命令
白川大将は、4月29日の天長節の際、祝賀会場で朝鮮独立主義者尹奉吉に爆弾を投じられ死亡した。重光葵も片足を失う重傷を負った。5月3日、郭泰祺も「対日宣戦布告」を叫ぶ学生に暴行をうけ重傷を負った。
このような緊急事態には海軍の急速展開部隊しか間に合わなかった。しかしそれでは、本格的陸戦には耐えられなかった。あるいは海軍は単にその事実を立証したかったのかもしれない。この事件は実利が伴わず、海軍の汚点と捉えるむきもある。しかし戦争とは常に実利が伴うわけではなく、そういった発想事態が極めて膨張主義的と言わざるを得ない。無償で自国民・兵士を警察行動のために失うことがある。海外派兵をすべて帝国主義と結びつける発想と別れる必要がある。この時、上海に派兵しなければ、おそらく上海租界は滅びたか19路軍の保護下にはいっただろう。
19路軍と言われる写真。
日本国内ではNHKにより、そのように主張されている。実際は上海市政府(現在:共産)により公認されているに過ぎない。マキシム重機関銃を構えている。この銃は第1次大戦時、ドイツから同盟国(オーストリアを除く)に供与されたが、数は少ない。
あるいは、その後蒋介石が輸入したスコダのライセンス生産品と思われるが、19路軍に供与されるとすれば早過ぎる。将校の帽子はフランス流のケピで蒋介石の本軍(通常の軍帽)とは異なっている。
すなわちどの軍とも矛盾する。中国軍(国民、共産、軍閥)は写真班を随行しないため実際に確認された写真は極めて少ない。あるいはこの写真は上海租界の外国人写真家によって撮影されたものかもしれない。ただし後方に将校が起立しており実際の戦闘中ではない。
租界参事会は日本軍の行動の賛辞を贈った。独仏も喜んだ。しかしアメリカだけは日本を非難した。イギリスは黙った。閘北の爆撃が残虐と言うのだ。一方戦略爆撃が効果あると始めて立証され軍事専門家の注意を集めた。また海軍は戦争を限定して考えたから市街地、すなわち租界防衛という点から離れることがなかった。陸軍は七了口と租界からの挟撃を計ったが、もし時間が許せば、七了口から西部に出て迂回し包囲殲滅を狙っただろう。
爆撃は民間人とくに宣教師からみれば残虐と映った。また近代兵器で、時代遅れの武器で戦う中国兵を無残にたたいたという印象をうけたのかもしれない。しかし理由がなく金品をアメリカ人を含む租界に要求してきたのは19路軍だ。
あるいはアメリカの世論は単純に強い日本が弱い中国をいじめたとみたのかもしれない。しかしアメリカも同じ理由で40年後ベトナムで全世界から非難を浴びせかけられることになる。
この事件の正否は全ての戦争と同様にわからない。あるいは戦争に参加するだけでこの程度の批判は浴びるということかもしれない。ただはっきりしているのは時代が変わったことだ。つまり租界などというやり方が既に時代遅れになったのだ。それでも現在中国各地にある塀に囲まれたゴルフ場と外人専用アパートを見るとこの時代の人々を単純に非難できない気もする。
この事件の後日談も後味の悪いものだった。19路軍は蒋介石の命令で福州に移動した。そこでも外人に金をせびったが失敗した。その段階で抗日に燃える志願兵は落胆し去っていった。翌年給料の支払いを求め暴動を起こし、蒋介石の苛烈な砲撃により、19路軍は殲滅・解隊された。
外交は舞台を欧州に移し続けられた。日本の欧州派の外交官が、中国の反日運動を非難した。中国側は閘北の爆撃の残忍さを批判した。これでは宣伝の仕合で議論にならない。双方とも戦争目的は終了しているから顔を合わせる必要がなかったのだ。国際連盟公使佐藤尚武は「文明国を相手にするのであれば、私達の行動は全く違ったものとなったでありましょう。」と演説した。次にたったスペイン公使は「では世界の平和はどうなるのでしょうか」と言ったという。
与謝野晶子は、翌年、第19路軍が租界に金をせびったあげく、日本軍と交戦となったことの愚かさを嘆いた。近代戦の理解もなく中国民族主義の愚かさもわからず、輜重軍夫となって前線に飛び出し、塹壕内で死亡した上海の学生・女学生に同情し、命の尊さを説く詩をつくった。
江湾鎮の西の方かの塹壕に何を見る。
行けど行けども敵の死屍、折れ重なれる敵の死屍。
中に一きは哀しきは学生隊の二百人。
十七八の若さなり、二十歳を出たる顔も無し。
彼等、やさしき母あらん、その母如何に是れを見ん。
支那の習ひに、美くしき許嫁(いひなづけ)さへあるならん。
彼等すこしく書を読めり、世界の事も知りたらん。
国の和平を希ひたる孫中山の名も知らん。
誰れぞ、彼等を欺きて、そのうら若き純情に、
善き隣なる日本をば侮るべしと教へしは。
誰れぞ、彼等を唆かし、筆を剣に代へしめて、
若き命を、此春の梅に先だち散らせるは。
十九路軍の総司令蔡廷 の愚かさよ、
今日の中にも亡ぶべき己れの軍を知らざりき。
江湾鎮の西の方かの塹壕に何を見る。
泥と血を浴び斃れたる紅顔の子の二百人。
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与謝野晶子は、この戦いの張本人が蔡廷
であると、はっきり理解していた。現在日本において、この事件が日本と中国の間の戦争とされていることは誠に不思議である。そのうえ、学校教科書で日露戦争について「反戦詩」をつくったとされる晶子が、中国人学生の無益な死に同情している。晶子を賛美する日本の教育者が、晶子が軍閥を批判するこの詩を無視するのは、あまりの自己撞着ではなかろうか。
晶子はあらゆる戦争被害者に同情しているのであり、とりわけ非戦闘員を前線におくるやり方を批判しているのである。第一次上海事変から、中国人の排外主義は暴力の形をとって現れていたのである。
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