第二革命・国民党

第二革命

第二革命・国民党

興中会

孫文は、それまでの清国における「洋務運動」や「変法自彊運動」とは全く関係がなかった。これらの運動は官僚としての政策を追究することが主目的である。ところが孫文は、清国政府の官吏としての地位をまったく求めなかった。当時の中国人は少しでも教育をうけようとすると、四書五経から入ることになり、科挙受験が人生そのものの目的と化する。儒教とは、官僚の処世術なのである。

ところが、孫文の出身地広東省では、阿片戦争や太平天国の乱、アロー号戦争を経過し、知識階級に属している人々の間でも、科挙というコースを選ばないのが普通になっていた。

このころの広東省の若者の夢は海外雄飛であった。孫文は、兄の影響をうけ、1879年にハワイの移住し、そこで教育をうけている。1883年、両親の面倒をみるため一時帰国したが、その2年後、香港にいき西医書院(現在の香港大学医学部)に入学し、1892年、首席で卒業した。

孫文の思想の基礎とも思える社会ダーウィニズムはここで基礎が与えられたのであろう。

日清戦争が勃発した1894年の9月、孫文はハワイにいき、そこにいた華僑を集めて興中会を結成した。綱領は極めて斬新で、「中華を振興し、国体を維持する」というもので、清朝覆滅がすでに視野に入っていた。

1895年1月、宋嘉樹の求めに応じて帰国した。宋は元宣教師で、上海で出版社(のちの商務印書館)を経営し、聖書の出版で財をなしていた。宋には慶齢・美齢(蒋介石夫人)・靄齢(孔祥煕夫人)・宋子文などの子供がいて、のちに孫文は慶齢と再婚することになる。

広州起義

広東省でも、日清戦争が終了すると、徴募によって集められた兵士の大半が除隊となり、職がないまま巷にだされた。孫文は絶好の機会とみて広東城占領を計画した。

孫文と同郷香山縣翠亨村人の陸皓東の提案で青天白日旗(ただ日輪は現在12支に合わせ12と決まっているが当時はマチマチであった)も決められた。兵力はわずか数百であったが、多くは西江、北江、汕頭、香山、順コの哥老会・三合会などの暴力団組織から集められた。ところが朱淇が兄の朱湘に蹶起を話したため、清国官憲の知るところとなり、1895年10月27日、広東城内の捜索が実施され、セメント樽につめた大量の拳銃が発見・押収されてしまい、陸皓東も逮捕された。

10月29日、香港から広東に向った楊衢雲の1団は官憲の阻止線に遭遇し散り散りにされた。楊は直ちに香港にいた孫文に連絡した。

ところが朱貴全、丘泗等40人ほどはジャンクに乗り広州に向っていた。孫文からの連絡はこの1隊だけには届かず、全員が広州口岸壁で逮捕された。

陸皓東、朱貴全、丘泗らは、拷問のすえ、11月7日、処刑された。広東省政府は孫文の首に花紅銀1000元の懸賞金をかけた。

孫文は、12月、香港を脱出、広島丸で日本に逃れ、神戸に上陸した。孫文は生涯で18回神戸を出入りしたといわれる。そののち陳少白を横浜に残し、ハワイに向った。

しかしながら、広州起義の失敗により、ハワイの興中会は解散状態となっていた。落胆した孫文はアメリカにわたり、さらにイギリスに向った。ロンドンでは香港における恩師カントリーと旧交を温めたが、山気を起し、駐ロンドン公使館員を興中会に誘おうとしたが、逆に監禁されてしまった。しかしながら本国送還の直前に、イギリス政府が介入し、拘禁13日間でようやく脱することができた。この顛末を『ロンドン被難記』として出版すると日本でも訳され、孫文の名は一躍有名となった。孫文は、1887年7月、再度カナダ経由、日本に入国した。

このとき、孫文は宮崎滔天と出会う。宮崎は、

「かれなんぞその思想の高尚なる。かれなんぞ識見の卓抜なる。かれなんぞ抱負の遠大なる。しかしかれなんぞその情念の切実なる。・・・余は実にこの時をもってかれに許せり」とこの時の感激を記している(『三十三年の夢』)。

宮崎滔天は、旧知の犬養毅に相談すると、小村寿太郎外務次官と相談するように勧められた。小村は犬養と宮崎の話をきくと

「そういう乱暴な話はどうでもよろしい。即刻、孫文を日本から出すことを考えるように」といった。

犬養は困ったが、大隈首相を口説き落とし、どうにか居住許可をとりつけ、金づるとして福岡の炭鉱王平岡浩太郎をつけた。さらに孫文は久原房之助からも莫大な援助をうけたようである。孫文はこのとき日本に3年間滞在している。しかしながら、途中で百日維新が起き、その失敗のあと康有為が日本に逃げてきた。

孫文は自分に近づくあらゆる人間を取り込んだが、この科挙官僚でもあり変法派の康有為とは、まったく意見が合わなかった。これを聞き伝えた駐日清国公使館は、懸賞金を撤回し、高禄で孫文を召抱えようと近づいた。孫文はこの申し込みを取りあおうともしなかった。

恵州起義

北清事変が発生すると、孫文は再度武装蜂起を計画しだした。1900年6月、孫文は船上で、興中会同志との具体的計画をとたてた。まず鄭士良が恵州で蜂起しアモイを攻撃する。同時に広州でも史堅如が蹶起する。さらに両広総督であった李鴻章にも参加を促した。

宮崎滔天も謀議に参画していたが、海軍のエージェントであった山田良政を通して、台湾総督児玉源太郎、民政長官後藤新平の了解と武器調達への協力の約束を得た。孫文も船上から日本に戻ったのち、台湾に向った。

1900年10月、鄭士良は会党600人を率いて、新安県三州田に蜂起、東進し途中政府軍の駐留部隊を蹴散らしながら恵州に向った。途中、1万余の人数に膨れ上がったが、武器・弾薬の供給が間に合わなかった。

鄭士良は孫文に台湾からの武器・弾薬の供給を依頼したが、なんらかの事情で失敗、人数を減らすしかなくなった。鄭は少数を率いて香港に戻ることにしたが、途中で清兵に遭遇した。散々に敗北し、乱軍の中、山田は捕らえられのち処刑された。史堅如も広東省政府に爆弾を投げたところを捕まり、のち処刑された。

児玉源太郎や後藤新平の起義への関与は疑問が残る。日本人官吏は植民地出先の長になると、他国への干渉を止めさせねばならないのが、逆に、日本から流れ出た浪人に手玉にとられてしまう。他国への私戦は官吏という地位を棄ててから行なうべきだろう。

恵州起義に失敗した孫文は横浜山下町へ舞い戻った。やや落胆した様子だったといわれるが、ベトナムに渡り、1903年冬に戻ると革命軍事学校を設立した。寥仲凱・馬君武・湖毅生らが幹部であった。そのあと、アメリカやヨーロッパで活動した。

中国同盟会

1905年7月、東京に戻った孫文は宮崎滔天の周旋で黄興と会い意気投合、各地革命組織を糾合し一大会派をつくる準備会を開くことで一致した。

7月30日、70余人が集まり、興中会と興中会、華興会(黄興・陳天華・宗教仁などが1904年、長沙で設立)の合同を基礎に、光復会(上海を中心とする組織。以前は軍国民教育会暗殺団を名乗った。蔡元培・章炳麟・陶成章・徐錫麟・秋瑾らも加入していた)などの組織は個人で参加することになった。

孫文を主席として、組織の名は中国同盟会と決められた。綱領は、

「韃虜を駆除し、中華を恢復し、民国を創立し、地権を平均する」という四大項目であった。

最後の地権の平均は、孫文が東洋的であるとして固執したものである。

孫文はそのあとの『軍政府宣言』で

「文明の福祉は国民が平等にうけるものである。だから社会経済組織を改良せねばならぬ。その方法は全国の地価を算定し、現在の地価はその所有者に帰属するが、革命後に社会の改良進歩によって増加した地価は、国家に帰属させ、国民の共有とする。このように社会的国家を創造し、どの家の豊に暮らせるようにし、全国の唯一人も不満足のないようにする」と宣言している。

この「平均地権」は、アメリカ人経済学者ヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』"Principles of Political Economy"に啓発されたものだと孫文は説明している。

ただ、意味するところ土地の国有化であって、啓蒙主義の原則である私有財産保護と整合性がなければ、成功した者の財産没収を招きかねず、危険な処置である。

東京本部が置かれ、総理は孫文、機関誌は従来宋教仁が発行していた『20世紀之支那』に決められた。

武装蜂起

中国同盟会の指導する蜂起は、翌年から辛亥革命まで10回繰り返された。

  1. 萍劉礼蜂起(1906/12)劉道一と蔡紹南らが江西省で哥老会系を動員して起した蜂起事件。安源炭鉱の鉱夫を中心に蜂起軍は1万人を超えた。
  2. 黄岡蜂起(1907/5)広東省潮州
  3. 七女湖蜂起(1907/6)広東省恵州
  4. 防城蜂起(1907/9)広東省欽州
  5. 鎮南関蜂起(1907/12)広西省友誼関
  6. 馬篤山蜂起(1908/3)広東省欽州
  7. 河口蜂起(1908/4)雲南省
  8. 岳王会事件(1908/11)安徽省
  9. 新軍蜂起(1910/2)広東省広州
  10. 黄花崗蜂起(1911/4)広東省広州

だが、歴史の皮肉か、辛亥革命は同盟会と直接の関係をもたない組織によって開始された。だが、大清帝国を打倒し、共和国を樹立すると叫んだのが孫文であり、同盟会であったことは中国人の誰しもが認識していた。

1913年、中国史上初の国政選挙が実施されると同盟会を改称した国民党が第1党となるのは当然の成り行きであった。だが、孫文の3民主義、「民族・民権・民生」には、自由が含まれていない。孫文は選挙によって国民に信認されたと思わず、「天命」によって革命を実現させると信じた。孫文の革命には、自由を基礎とする議会制民主主義を実現させようとする考え方はなかった。

この選挙で選ばれた議員も、有権者から国民党の看板によって選ばれた思わず、清国政府にとって代わった新政府の官吏に任命されたという気分が強かった。議員の多くは国民党または孫文の統制に服することなく、権力者に擦り寄ったり、賄賂で政見を決めたりした。1912年8月発足の議員政党である「国民党」は、1924年1月に発足した新生国民党とは組織的に連続しなかった。

宋教仁暗殺事件

宋教仁 Song JiaoRen(1882-1913)
字は鈍初。湖南省桃源出身。1904年、武昌で華興会を創設。翌年、同盟会に参加。1912年の同盟会の国民党改組に伴い代理理事長に就任。

辛亥革命によって北京政府が成立すると早速選挙が実施されることになった。これがため、1912年8月25日、同盟会を母体として国民党が組織された。

成立大会では孫文が理事長となり、黄興・宋教仁・王寵恵など8人が理事となった。翌1913年2月第1回国会選挙が行なわれた。

結果は、衆議院が596人中296人、参議院が274人中122人という国民党の圧勝であった。

選挙運動を中心にになったのは宋教仁であった。宋の主張は議員内閣制であって、臨時約法に従って、国権の最高権力を議会に置く考え方であった。その結果、国務院総理には宋が任命されるものと予測された。

1913年3月20日、南方での遊説を終り、鉄道で北京に引き返そうとしたとき、宋は上海閘北站で暗殺された。犯人(武士英[本名 呉福銘]山東省出身の会党員)はすぐ検挙された。袁世凱は「暗殺を企てた者を追求し、法律に照らして厳罰に処さねばならない」と声明を出した。

背後関係は徐々に明確になった。まず上海の骨董商人王阿法が「自分も暗殺をもちかけられた」と話した。その結果、もちかけた相手、会党共進会会長応桂声が逮捕された。応は「暗殺を国務院総理趙秉鈞と国務秘書洪術祖から依頼された」と自白した。

洪術祖は青島のドイツ租界にいったん逃れたが、その後逮捕され、1919年4月、処刑された。しかし、この過程で奇怪な事件が連続した。まず武士英が毒殺された。応桂声は脱獄に成功したものの京津線車中で密偵に殺害された。さらに、この密偵も軍政執法処長、陸建章によって殺され、趙秉鈞も1年後毒殺された。

この経過は、宋教仁暗殺の主犯が袁世凱であることを示す。20世紀において、国家元首が敵対人物を謀殺したケースはこれだけだと思われる(公然と行われた粛清や合法的処刑は数多いが・・・)。袁が「共和国」のトップにまったくふさわしからぬ人物であることは明らかだろう。

第2革命

宋が暗殺されたとき孫文は日本にいたが、早速戻り、討袁の軍をあげるべきだと主張した。

だが、4月8日国会が開催されると、多くの国民党員が袁世凱の金権攻勢によって切り崩された。議員一人当たり1万元がばらまかれたといわれる。金による脱党者は政党政治を批判し、宋教仁をも誹謗した。こういった連中は宋の演説のよって当選したにもかかわらず、金に目が眩んだのであって、恥ずべき人種というべきだろう。

袁世凱は共和党と国民党脱党者を中心に進歩党を結成し、議会多数を占めるにいたった。そして多くの脱党しない国民党議員も孫文のいう武力行使には反対した。

李烈鈞 Li LieJun (1882-1946)
江西省巣県出身。1902年江西武備学堂入学。1904年日本に留学、1907年、同盟会に加わる。辛亥革命では九江都督府参謀長であり、そのあと安徽都督に任じられ、さらに江西都督になった。

6月9日、袁世凱は国民党派の李烈鈞(江西都督)・胡漢民(広東都督)・柏文蔚(安徽都督)を解任した。

李烈鈞は、7月12日、討袁軍を起し、江西省独立を宣言した。続いて、江蘇・安徽・広東・四川・福建・湖南が呼応して独立を宣言した。黄興は南京に入り、程徳全(都督)を追い出した。

孫文は「この紛争解決の算段は一に袁の進退にかかっている。ところが袁は兵権を離さず、民国の大総統にもかかわらず、国民を虐げ、国民流血の上に、自己の地位を守ることに汲々としている」と北京の議員に呼びかけた。

袁世凱は張勲と馮国璋に軍をあずけ、二手に分かれて、南方派諸省を攻撃した。このとき諸省の軍はいずれも清国時代の新建軍であって、その将領は国民党の軍隊にたいする態度を好ましくみていなかった。袁世凱が逐一金をばらまき始めると、都督ら文民政府をたちまち裏切った。

戦いらしい戦いも発生せず、死者の多くは、政府軍と旧新軍の略奪行為による民間人である。最後の「激戦」は9月1日からの南京攻城戦であった。そして、張勲は3日間の「略奪自由」を許可した。この結果、日本人を含む数千人の民間人が殺害された。この略奪・殺人行為が第二次南京事件である。孫文・李烈鈞・胡漢民らは日本に亡命した。

南京事件の外交的決着