蒋介石は日本旅行(途中、有馬温泉で宋美齢と結婚)を途中で切上げ、故郷の奉化県に帰った。1928年1月4日、南京に戻ったのち、国民革命軍総司令に復職した。
2月13日、蒋介石は再度の北伐を呼号した。部隊編成は、
第1集団軍 蒋介石
第2集団軍 馮玉祥
第3集団軍 閻錫山
第4集団軍 李宗仁
第1集団軍の内訳(総勢12万という)は、
第1路軍1A何応欽14A頼世広17A曹方順
第2路軍40A賀耀祖37A陳調元6A楊杰【ようけつ】
第3路軍7A白崇喜15A劉佐龍5A葉開金
であった。これに対抗するのは張作霖だけだった。4月7日、北伐が宣言された。ただし、武漢からも、第4集団軍に属する張発奎・唐生智・何建・劉興からなる部隊、総勢8万が鄭州方面に向かったが、以降、蒋介石に反乱を起こしたためか、台湾国民党の「正史」には含まれないのが普通である。
中心となる第1集団軍は、4月10日、山東省台児荘を落とした。14日には臨城、臨沂を占領、全軍はなだれをうって済南に進撃した。
済南事件
第三次南京事件や漢口事件などによるテロ事件によって、国府軍(当時、南方軍または南軍と呼ばれた)にたいする反感は日本国民の間で強かった。積極外交を標榜する田中内閣が山東半島に出兵することは、既定路線であった。前年の北伐のさいも、居留民保護のため、青島に出兵していた(第一次山東出兵)。ただしこのとき、国府軍は山東省まで達することがなく、日本軍は青島から出ることなく終了した。
山東半島には居留民は1万7000人いて、うち済南には約2200人(商阜地といわれる城外には1700人)居住していた。
派遣された第6師団(福田彦助中将)は、青島に上陸したものの、今回については済南に国府軍が殺到することを予想せざるを得なかった。福田師団長は、独断専行で、済南に5個大隊(『公刊戦史(昭和3年支那事変出兵し』では、5月3日、3500人とするがやや過少か?)を派遣し、自らも赴くことにした。福田は、シベリア出兵でも活躍した武辺者であった。
国府軍は5月1日から2日午後にかけて、約5、6万人が済南に到着し、城内を中心として各地に分営した。済南には領事館があり、藤田(英介)青島総領事代理は、奉天軍が退却するや、居留民に日本軍が急遽つくった二カ所の警備地区に移動するよう命令した。
蒋介石も、5月2日、済南城内に到着した。この当時の中国の軍閥戦争では、首魁はテロを恐れ幾重にも警護体制を敷くのが普通であった。幾多の戦闘があったとしても、戦場で首魁が捕縛されたり、戦死したりするケースはまずない。
蒋介石は、同日、商阜地に駐留する日本軍に、@治安維持の責任を持つので日本軍は直ちに撤退 されたし A日本軍は国府軍を敵視しないと公表しているので、防御物を撤退されたし
、との2点を申し入れた。
山東出兵は、純然たる居留民保護のための出兵で内戦に関与する意図はなかった。蒋介石は、日本が奉天軍のため行動していると疑わなかった。福田はこの申し込みにたいし、城内と商阜地を分ける麟祥(趾)門周辺の鉄条網だけを形だけ撤去した。
これをみた蒋介石は喜んだ。このまま北進するのであれば、津浦線と膠済線が結ばれる済南を確保することは兵站線維持のため絶対必要と思われた。そのうえ、この時点であれば国府軍残留兵力4〜5万にたいして、日本軍は寡少であり、勝利は疑いないと・・・。
5月3日
5月3日朝10時、蒋介石は、商阜地と周辺にいた正規兵と制服を脱がせた便衣兵に「自由行動をとれ=略奪を可とする」という命令を与えた。10時すぎ、このうちの正規兵部隊が満洲日報取次店を襲撃掠奪した。満州日報取次店は麟祥門から700メートル内側だつた。
ただちに領事館警察官が調査に向ったが制服を着た中国兵にサーベルを奪われ、暴行をうけた。1個小隊が直ちに逃げた警察官を保護しようとしたところ、中国兵は小銃を乱射した。ここに於て彼我交戦状態に入り、中国兵による乱射掠奪は一挙に市中に拡大した。
第6師団はこのとき、商阜地の中に二カ所ほど警備地域をつくり、その中に居留民を収容し、周囲には土嚢で囲った防禦陣地を構築していた。中国兵は数を頼んで、土嚢陣地に殺到した。
中国の軍閥戦争であれば、ここで守備側は算を乱して退却する。ところが日本兵は持ち場をいっさい去らず、正確な銃火を中国兵に浴びせた。土嚢陣地の前には中国兵の屍体が重なった。
3日午後に入ると、日本軍は逆襲に転じ、商阜地内を掃討した。3日夜にいたるまで商阜地では散発的な銃声が聞こえた。この日、日本人15人が警備地域外の商阜地内で惨殺された。この事件は翌日には「200人惨殺」として国内で報じられ、センセーションを巻き起こした。
事態収拾のため4日零時から、両軍の間で交渉がもたれたが、一向にまとまらなかった。東京では閣議でさらに1個師団派遣が決められた(第3次山東出兵)。
済南事件の真実
済南城占領
4日を通して断続的な銃撃戦が続く中、蒋介石は重大な決断を迫られた。済南で日本軍を相手に戦い、このまま消耗戦をやれば、北伐そのものの夢が潰えかねない。蒋介石は日本軍に済南をまかせ、そのままやり過ごして北上することを決心した。
5日払暁から済南の国府軍は、北上を開始し、1日かけて黄河を渡河した。6日早朝、蒋介石も朝靄に紛れて南門から脱出、17キロ南の党家荘にいたった。蒋介石は済南城守備のため李延年率いる3000人を残置した。
下着の蒋介石
馮玉祥は蒋介石から済南で会見したいとの要請をうけ、開封から蘭封、徐州にきたとき済南で日中両軍が衝突したの知らせをうけた。重大事であるが、少数の日本軍であり簡単に蹴散らすものとみて済南にそのまま向かった。鉄道は党家荘までしか走らなかった。蒋介石はそこにいて面会することができた。馮玉祥による記録である(『我が義弟蒋介石』長崎出版 1976)
蒋介石の軍隊は済南に入ると、大官は大きな料理屋、小官は小さな料理屋に入った。兵隊はしかたなく、すきっ腹をかかえて街の中をうろつきまわり、大声でどなったり住民を騒がせたり、軍規も節度もあったものではなかった。
日本人はずっと機会をねらっていたが、はたせるかな、日本の憲兵は蒋の軍隊と衝突をおこした。小さな衝突から大事件に発展した。蒋介石の軍隊は済南城内で武装解除させられ、蒋と黄郛は持物をすべて失い、白い下着のまま逃げだした。
これではまるで捕虜になったのと同じだ。泰安駅にたどりついた蒋は、わたしに来なくてもいいという電報を打ってきた。わたしは危険が大きければ大きいほど行かねばならぬと返電した。党家荘駅に着くと、蒋と黄郛が下着のままぼんやりつっ立っていた。
蒋の軍隊は武器をすべて日本人に取りあげられ素手のまま済南を撤退していた。その日われわれは回教寺院の礼拝堂で会議を開いた。
蒋はわたしに、これからどうしたらよかろうときいた。わたしは、
「日本人は、われわれ革命軍が勝利すればかれら日本帝国主義にとって不利になると考えている。日本がわれわれに挑戦してくるなら、他に方法はない、この地の日本人を革命の武力を行使して捕虜にするしかない。大事をいうなら、革命こそ大事だ、ほかのことは考える必要はない」といった。
協議を重ねたあげく、済南を捨てて北平へ前進し、軍閥を打倒してから日本にたちむかうことに決定した。「あなたにそれだけの忍耐力があるなら賛成だ」とわたしはいった。
蒋は日本人に恐喝されたためどうしても南京に帰るといって、全軍の指揮をわたしにゆだねた。わたしが承諾したので蒋は南京に帰った。わたしは約八十万の全軍を指揮して天津を攻め、ついで北平に向かった。
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福田は国府軍の北上を構わず、済南城引渡しを要求した。6日夜、容れられないとみるや、城壁に爆薬を仕掛けて破壊、さらに野砲で城内を砲撃、空襲も実施した。各城門を数線にわたる機関銃部隊による哨戒線で囲ませた。
追い討ちをかけるように、7日午後4時、12時間の期限付きで @暴虐行為に関係ある責任者の処罰A日本軍に抗争したる軍隊の武装解除B一切の排日的宣伝の厳禁C国府軍の済南及び膠済鉄道両側沿線20支里(12キロ)以内への立ち入り禁止、を要求したが、李延念ら現地軍で決定できる内容ではない。
日本軍は一向に城内に突入せず、砲撃と空襲を繰り返すだけだった。いたたまれなくなった李延年は9日夜、闇に紛れて東門から脱出を計った。だが党家荘への道路を数百メートル進むと、両側の家屋から猛烈な機関銃火が待っていた。前に進んでも機関銃火は止むことがなかった。翌日、約2キロの道程には累々と中国兵が斃れていた。脱出できたのは僅か500人という。
日本軍はその後、張群ら国府外務部長を済南に呼び出したが、埒があかず、交渉は北京と東京で継続した。最終的な交渉がまとまったのは翌年3月28日であった。
日本軍の戦死者は28人であった。捕虜を1179人を得、小銃2297丁を鹵獲した。
6月7日付け南京政府発表によると、中国人死亡者は3254人(うち男子2100人、女子66人、残り不明)負傷者は1450人である。
事件後の福田彦助の感想は「南軍もたいしたことはない」であった。蒋介石は「少しでも人間らしい心をもっているなら、どうしてこの恥辱を忘れることができよう。何をもってこの恥辱を雪ぐべきか。それにはただ自彊あるのみである。如有一蒙毫人心、其能忘此恥辱乎?忘之乎?雪之乎?何以雪之?在自彊而己!」(『蒋介石秘録』8)と5月9日の日記に記した。
念のいったことに、5月25日、蔡元培に「対於救国雪恥之指示」を出し、済南事件を教育の場で取り上げることを指示した。「雪恥」はこの頃の蒋介石の心理状態をよく表している。済南事件は自らの作戦失敗と自軍の不甲斐なさによってもたらされたものである。この真相を隠蔽して排外教育・反日教育で「雪恥」することは正しくない。
一方、日本でも5月7日から9日については「やり過ぎ」ではないかという声がでた。代表は吉野作造で次のように書いた。
「今では居留民そっちのけになり、出動した軍隊そのものの絶対安全を目標として戦線も相当広汎になり・・・略・・・多大な犠牲を払うことになった将兵に同情する」「今度のような形で支那と闘うは我が国にとりて一大不祥事である」(『吉野作造選集』9)。
戦死者28名は、当時の基準からみて「多大な犠牲」であろうか?世論は、もし出兵しなければ済南居留民が第3次南京事件と同様の被害をうけかねないとみなしていた。テロを度外視して、「対支政策」なるものにかまけた外交官やインテリが、蒋介石に「日本政府は居留民を保護しない」との誤ったシグナルを与えたともいえるのである。外務省が済南事件について諸外国への広報と英米の了解を得ることに失敗したことも忘れてはならない。
一方、5個大隊だけで国民革命軍最強の第1集団軍を撃破した日本軍の精強さをみて、関東軍参謀将校がある種の認識を得たことも間違いない。
国民革命軍北京入城
黄河を渡った第1集団軍は5月13日に平原に達した。同じ日、第2集団軍は徳州、第3集団軍は娘子関を経て石家荘、正定を占領した。
このとき張作霖はまだ北京にいた。
日本政府は5月16日、@南軍が京津地区に達しないうちに奉天軍が引き上げる場合、日本はこれを拒まないA南北両軍が京津地区で交戦したり、あるいは著しく両軍が接近して北軍が満州に退却するときは、南北両軍の武装を解除する、との閣議決定をなした。
駐支那公使芳澤謙吉はこれを張作霖に伝えたが、「勝敗は天にあり」と北京からの撤退に応じなかった。この閣議決定の狙いはこれによって張作霖の撤退を促すことにあったのは明らかだが、日本の満州主権について、かなり日本の利権を前提とした考え方が出ている。外務省がどのように関与したかは明らかではない。このとき、田中義一は外相を兼摂していた。
関東軍司令官村岡長太郎が動き出した。独断専行で関東軍に動員をかけ、奉天に集中を命令した。第2次山東出兵の福田彦助にならった行動であろう。ただ、居留民保護といった緊急避難的要素が村岡にはなかった。
この動きは国際的に報じられ、アメリカ国務長官ケロッグは、19日、「満州の主権は中国に属する」と記者会見で述べた。参謀本部は村岡の独断を危惧し、21日、制止命令を出した。関東軍司令部はこれに大いに失望した。参謀長斉藤恒はその日記に「私により政治を行う現首相の如きはむしろ更迭するを可とす」(6月1日)「腰のない外交では駄目なり」(6月3日)に書いている。これは、軍人の本分を完全に逸脱しており、「私により戦争を行う」ことを恥じていない。
村岡の前任者武藤信義も、軍人でありながら「私の政治信条」を行政の場で述べる偏頗な人物であり、陸軍支那通の暴走が始まりつつあった。中国の軍閥首魁が「元帥」を自称するなどの姿をみると自分の官僚としての身分に不満を感じてしまったのだろう。
5月30日、保定の守備にあたっていた孫伝芳が戦わず撤退すると、張作霖は北京の大元帥府で軍事会議を開き総退却を決定した。6月3日、張作霖は北京を離れた。
6月8日、閻錫山の一部部隊が北京に入城した。済南で第1集団軍の北上に同行できなかった蒋介石は南京に戻っていたが、6月26日、ようやく北京に入った。
1928年7月3日、蒋介石は、北平の碧雲寺の孫文霊廟に、馮玉祥・閻錫山・李宗仁と揃っていき、祭文を読み上げ、旧都の回復を報告した。
北伐は、蒋介石の思惑通り成功した。しかし、このときの蒋介石の力は全国に及んでいなかった。北伐に加わった諸勢のうち蒋介石直系は第1集団軍のみであり、兵力的にも4分の1に過ぎなかった。済南事件や張作霖爆殺事件によって、国民の間で反日意識が高まり、「強いリーダーを求める」結果、蒋介石が政治家として第1人者であると認識されるようになった。
中国国民党改組同志会
蒋介石は国民党内の主導権を狙い、第3回大会を自分が指名した代議員により開催しようとした。1927年12月、陳公博らによって上海で結成された「中国国民党改組同志会」はこの動きに反対した。長老組の呉稚暉・張静江・李石会も加わった。1928年10月、汪兆銘がフランスから戻り求心力も回復した。
第3回大会は、1929年3月に開催されたが、そこで汪兆銘は警告処分に付され、顧孟餘は3カ月活動停止、陳公博と甘乃光が除名された。西山派は復帰を許された。
中国国民党改組同志会は改組派と呼ばれるようになり「護国救国運動」を標榜した。だが実態は、1927年末の広州政変のさいの広東組であって、広西派と対立し、閻錫山や馮玉祥とは連絡がなかった。広西派の内情も複雑で、第2次北伐の最中には、李宗仁・黄紹пE胡宗鐸らも香港に途中で亡命する有様であった。
改組派は4月、護国救国軍の結成を唱えた。張発奎・唐生智・愈作柏が従来の行き掛かりから軍事力の中心とみられたが、いずれも反蒋運動の中心であった広西派には反感を抱いていた。蒋介石は張発奎に改組派との関係を詰問し「(陳)公博は何もできない。たとえ南京に帰ってきても何もできない。もし彼が何かやれるなら、『忘八蛋』(大馬鹿者)だ」と罵ったという(『中国国民党秘史』)。
蒋桂抗争(広西派の反乱)
李宗仁 Li ZongRen (1891-1969)
1913年広西陸軍軍学堂卒。広西派軍閥を率いる。1948年、国民党副総統ののち、アメリカに亡命。1965年、中国帰国。文革中迫害をうけ、北京で死亡。
1929年2月21日、李宗仁は、国民党武漢政治分会主席の名前で、湖南省政府主席魯滌平を解職し、葉hと夏威の部隊を武漢から長沙に移動させた。1927年7月の唐生智の旧湖南軍の兵権喪失以来、李宗仁を長とする広西派は両湖・広西を事実上支配したが、1927年11月の広州政変以来、湖南省の基盤が蚕食されていた。この反撃に出たのであった。
蒋介石はこのとき、奉化県に帰省していたが急遽、南京に戻り、断乎とした反撃の策をとることに決定した。
李宗仁は第2回北伐時には第4方面軍軍長であり、白崇喜の部隊を北京方面に派遣していた。また広西派は旧湖南軍を吸収した関係から、兵数40万に達していた。
2月28日、南京政府は蔡元培と何応欽に広西軍の長沙進出の調査を命じた。これは、調査するまでに葉hと夏威の部隊を長沙から引かせることを促し解決しようという穏便な策であった。だが、李宗仁は直ちに南京を離れ上海に向かった。
3月13日、宗仁が軍を引かないことが明白となり、まず政治分会を全て廃止し、葉hに軍を戻す命令を出した。葉hが命令を拒否すると白崇喜が不穏な動きを開始した。すでに崇喜は孤軍であり戦うしかないと決めていた。山東省に向かうことを提案したが、今度は部下の林品仙が、それを拒否した。崇喜はいたたまれず、香港に逃亡した。
3月23日、南京政府は形式上、第4集団軍に属していた李済
をも逮捕、断乎たる姿勢を示した。宗仁は上海から広西省に向かった。蒋介石は武力討伐を決意、砲艦楚同にのり、武漢に攻め込んだ。4月5日、武漢は落ち、宜昌を攻めた。
だが、広西派の重鎮黄紹р熄@仁と組んだ。5月5日、広西派は「護党救国軍」を名乗った。しかし、広西派下部の寝返りが相次ぎ、5月10日、省都桂林は国府軍に寝返った部隊に占領された。さらに梧州・南寧も落ち、黄紹пE白崇喜は下野を通電、李宗仁もベトナム方面に逃亡した。
蒋馮抗争
馮玉祥も、4月24日、河南省開封に師長以上を集め軍事会議を開き、山西省西部に駐屯していた孫良誠の部隊を呼び、主力を潼関に集中した。
そのあと広西派が総崩れになった5月15日、隴海鉄道の施設を破壊し、「護党救国軍」を結成すると通電した。配下の兵士には、中央政府からの交付金が削減されたからとして、給与を遅配し敵愾心を煽った。蒋介石は5月中旬までは懐柔策をとったが、広西派鎮圧以降は強硬策に転じ、5月24日、馮玉祥の逮捕命令を出した。
逮捕令を知った韓復【かんふくく】、石友三などの有力幹部は動揺をきたし、鄭州に下った。ここで、閻錫山が助け舟を出した。「馮玉祥に非を認めさせるので、そのあと二人による外遊を認めて欲しい」という訳のわからない提案を蒋介石にした。5月27日、馮玉祥は「入山読書」を宣言し、閻錫山の本拠地、山西省太原に向った。蒋介石は、7月6日、逮捕令を取り消した。
8月、蒋介石は北京に陳布雷・孔祥熙・趙戴文・熊式輝・周仏海ら文人とともに北京飯店に止宿、閻錫山を招いた。馮玉祥の外遊すべきことを説いたが、閻は病と称してドイツ病院に入院し面会謝絶を装った。
蒋張桂抗争(張発奎と広西派の反乱)
張発奎 Zhang FaKui
(1889-1970)
字は向華。広東省始興県生まれ。県吏の子供。1916年武昌陸軍第2軍官予備学校卒後、粤軍に配属。第2革命に参加のあと孫文の「随身侍衛」となった。第1次北伐では、第8軍に属し、汀泗橋戦で名をはせた。そのあと事実上、第8軍の軍長となったが、武漢政府のロシア人統治に耐えられず、広州に戻ったところ広州事変で粤軍にかつがれた。1932年、南京・広東統一がなると復権したが抗日を訴え、いれないとみるや欧州に下野した。1936年、復帰し、支那事変では武漢方面軍を率い、武漢三鎮攻防戦の指揮をとった。そのあとも湖北・湖南・広西を転戦した。国共内戦では、中共に屈することなく海南島まで逃げ、徹底抗戦した。そのあと香港に逃げ隠棲した。広東人としての生を全うした。
張発奎は1927年11月の広州事変により軍職から遠ざかっていたが、春の蒋桂抗争のさい蒋介石を支持したため、4師を率い要衝宜昌に駐留していた。しかし、広西派に不穏な動きが見られたため、北上し隴海鉄道の守備につくよう命令された。
しかし、張発奎は命令に従わず、かえって南下、湖南省に向かい、広州をつこうとした。さらに、フランス外遊中の汪兆銘を迎え入れ党を改組すると通電した。
9月20日、蒋介石は張発奎討伐を命令した。だが、張発奎は石門、慈利、桃源で国府軍を撃退し、叙浦、新化、安化一帯の山中にこもった。さらに、9月27日、広西省政府主席愈作柏と師長李明瑞が寝返り、広西の独立を宣言した。
蒋介石は、10月7日、陳済棠の軍を派遣、梧州から広西省に攻め込んだ。たちまち広西派の楊騰輝は国府軍に寝返り、愈作柏はベトナム国境に近い龍州に逃走した。
蒋唐石抗争(唐生智と石友三の反乱)
石友三 Shi YouSan
(1892-1940)
吉林省農安出身。反覆常ならぬ人物であって、1928年馮玉祥の配下にあったとき、少林寺を焼き討ちしたほか、北伐にも参加、第3次南京事件に関与した。1930年の中原大戦では馮玉祥を裏切り、張学良に味方した。そのあと独立の形勢を示し、韓復を応援したりしたが、1933年ごろから、冀察政務委員会に加わった。1936年ごろから共産党員の張克威と連絡をとり、共産党にも誼を通じたようである。だが、支那事変初期には蒋介石に味方し、山東方面に逃れたあと、部隊をまとめ山西省に根拠地を設定した。だが、1940年11月部下の反乱にあい黄河河畔に生き埋めにされた。あまりの裏切り回数によって「倒戈将軍」とあだ名がつけられた。
湖南省の山中にたてこもった張発奎は、1929年11月16日、恭城から通電し、「護党救国軍第8路総司令」を名乗り、広東省奪取を宣言、自身は広西省北部に移動した。これに愈作柏の後任の呂煥炎も呼応した。さらに李宗仁の残党も加わった。
南京政府は何応欽を鎮圧に派遣した。国府軍は、12月10日、広州北方50キロの花県にまで迫った張発奎の部隊と戦い、大破した。
唐生智は、は第1次北伐のさい広西派におわれたが、蒋桂抗争のさい北京にいた湘(湖南)軍の指揮を任され。そのあと鄭州駐留を命ぜられていた。11月、唐は、馮玉祥軍に戦いを挑んだ。黒石関・登封・臨汝で対峙した。蒋介石は周仏海らに許昌にて石友三・韓復渠・何雪竹を集め、唐生智と会議させた。唐は収まらず、黒石関に戻り、一戦して馮玉祥を破った。
直後、安徽省では石友三が兵変を起こし、12月2日、「護党救国軍第5路総司令」を名乗り、南京方面に向かった。南京の揚子江対岸の浦口に到着したが、なぜか軍隊が南に出払っていて空の南京攻略を目指さず、北行した。12月5日、鄭州にいた唐生智も「護党救国軍第4路総司令」を名乗り決起した。
南京政府は、12月7日、唐生智にたいする逮捕状を出した。唐の馮玉祥との争い、そして決起は謎とされるが、湘軍はやはり湖南に戻りたくて、漢口に向かいたかったようで、それと唐の武漢政府再興の野望とが重なったようである。
12月20日、閻錫山と張学良は連名で「決然として中央を擁護する」と通電した。石友三はこれをきいて戦わず矛を収めた。
国府軍は閻錫山と挟み撃ちで唐生智軍の攻撃に向かった。河南省は数十年ぶりの大雪で、積雪量は1メートルを超えた。唐生智が抵抗したが補給のない中、飢えと寒さに消耗していった。1930年1月3日、国府軍が駐馬店を占領すると、湘軍1万6000は降伏した。唐は変装して逃げ、香港に向かった。
唐も石も蒋介石に電報をうつときには必ず「職」(部下という意味)と自称した。これについて胡漢民は「叛をなしてなお職と称し、兵を逞しくして江を渡らず」と風諭した。

『蒋介石秘録』8 サンケイ新聞社
周仏海『回憶録』仮谷太郎訳 大陸新報社 1944
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