日本軍は平壌を包囲攻撃した。清軍の回族の将領左宝貴は兵を率いて奮戦したが、砲弾に当たって犠牲となった。清軍の統帥の葉志超は城を棄てて逃走し、平壌は陥落した。
日本軍の先鋒が平壌に迫ると、葉志超は城を棄てて逃走することを主張した。左宝貴は断固として敵を迎え撃つことを主張して、平壌城に総攻撃をしかけようとした時、左宝貴は病をおして玄武門の城楼に立って指揮した。清軍は非常に多くの日本軍を打ち殺した。ちょうど日本軍が潮のように押し寄せて来た時、左宝貴は「勢い已に瓦解せるを知り、必ずや死せんことを志」した。彼自ら大砲に点火して日本軍を砲撃した。部下は彼に紅纓帽(赤いふさのついた帽子)をとり、黄馬掛(黄色い中国式の羽織)を脱ぎ捨てて、敵の注意を引かぬよう勧めた。しかし左宝貴は、「私は朝服を着ているのは兵士に私がまだここにいることを知らせるためだ。そうすれば、彼らはきっと敵と最後まで戦うであろう」と言いきった。全軍の将兵は大いに励まされて、勇敢に敵を倒した。すさまじい戦闘は明け方から昼過ぎまで続き、左宝貴は壮烈な戦死をとげた。

「民族的英雄」とキャプションがつけられた教科書に掲載された左宝貴の馬上の肖像。
原画となった写真から起したのだろうかイラストとしては正確である。
馬格が貧弱なのに驚かされるだろう。満州馬は重量にして日本騎兵の馬の半分ほどであった。
また、鞍は西洋式でなく、馬に布を被せその上に木製の鞍を置き、盾つき鐙があった。
軍服は、戎服に絹製のコートであって、動きに不便であるばかりでなく、防寒に難があった。
近代的軍装にまったく意を払っていないことがわかる。これでは戦争に勝てない。
甲午戦争のさなかに、左宝貴は慷慨して次のように述べた。
「敵(日本軍)は深入りし孤立している。今まさに奇計を用いて痛撃を加えるべきである。敵はもし1隻でも艦船が帰還しなければ、もう中国本土をねらうことはなくなるだろう。・・・もし戦うことなく撤退したならば、どうして朝鮮に顔向けし、また、国家に報いることができよう」。