旅順口の攻略

旅順口の攻略

旅順口の攻略

金州城を攻略した第2軍(大山巌)は、隷下にあった本土で動員中の第2師団をまたず、1個師団半のまま、旅順口攻略を目指すことにした。金州城に残置したのは1個連隊のみであった。

敵情については、旅順口本来の守備兵8050人(親兵3営、慶字軍5営、同馬隊1硝、桂字軍5営、和字軍3営)、金州及び大連湾にあった拱衛、懐字両軍の敗兵3600人、及び捷勝営の敗兵数百人。合計1万2千人(内9000人は新募兵)と予想された。

すでに、満州(東3省)と直隷省にあった常備兵は枯渇し始め、清軍は新しく徴募した未訓練の兵士からなる部隊の投入を開始していた。清国の新兵の徴募方法は街にあふれた失業者を強制的に営所に引き立てるのが一般的であった。

軍隊区分は、捜索騎兵隊(秋山好古)、左翼縦隊(混成12旅団1個連隊欠)、右翼縦隊(第1師団(山地元治))であった。混成12旅団長、長谷川好道は、11月14日の大連からの行動開始に先立ち、敵情視察のため捜索騎兵隊を営城子方面に先発させた。

土城子の戦闘

土城子の戦闘は、もしどちらが退却したことをもって勝敗を決定するものとすれば、日本軍の敗北であろう。ところが、戦闘のあった日の翌日19日、土城子に斥候を出したところ、敵兵の影はなかった。山地は直ちに第1師団の前進を命令した。

前日、土城子で戦った捜索騎兵隊はその晩、雙台溝に宿営したが、払暁から再度、偵察を開始した。8時半には土城子方面の偵察を終えたが、敵兵を発見できなかった。

騎兵隊長秋山少佐は、さらに大胆に歩を進め、石咀子南方約1キロに達した。そこから水師営を望見すると約300の敵が出没していた。

この日、第1師団本隊は山地師団長とともに午後、土城子に到着した。そして夕方までに砲兵、攻城工兵部隊も到着し、旅順口の前門を抑えた。

20日、大山軍司令官も火石稜に到着、直ちに、第1師団は旅順に向う本道方面、混成旅団は本道の東に展開する命令が下された。一方、清軍は防禦線内を動くばかりであったが、午後0時30分、水師営附近に約4000の歩兵が現れた。そして別の1000ほどの一隊も盤竜山から干大山に向ってきた。

だが、歩2第2大隊は干大山に埋伏しており、俄かに立って、敵を猛射した。そして野砲兵1連隊も陣地構築を終り、射撃を開始した。このとき敵砲兵も水師営と松樹山にいて盛んに砲火を浴びせてきた。

だが、敵兵は劣勢をみたのか、午後4時半には総崩れとなり旅順方面に撤退した。ただちに盤竜山方面に回りこんだが、敵兵の姿はなかった。またこの日、少数の敵部隊が混成旅団、捜索騎兵隊の前にも現れた。

当日夜、軍司令官から翌日、椅子山を中心とする要塞前面の堡塁を突破・占領することが命令された。

要塞の情況

清軍は鴨緑江防衛に主力を割いたけっか、金州方面の守備は手薄になった。そして、花園口に上陸した日本軍の作戦軸を読みきれず、むしろ営口方面から直隷平原に向うのではないかとみた。金州方面守備隊は金州城攻防戦に敗北し旅順方面に敗走した。

大連湾には趙懐業が懐字軍6営の歩隊を率いて守備していた。金州城の陥落を知るや恐慌に陥ったが、敗走してきた金州守備隊を応接せず、守備を厳とする構えであった。だが、日本軍が南関嶺に殺到すると、そこを守備する懐字軍も戦わずして壊乱し大連湾方面に逃げた。

大連湾は36門の海岸砲で守られていた。だが砲台守備に張り付いていた懐字軍は、金州と南関嶺の敗兵をみると怖気がさし、11月6日夜、砲具を破壊したり埋没させたりして、旅順方面へ逃走し始めた。

元来、旅順口は清国海軍最大の基地であり、10年以上の歳月をかけて修築を重ねていた。海正面には黄金山、老律咀、饅頭山砲戦砲台を主幹とし、その他9個の補助砲台、水雷営を港口の東側、電気灯台を蛮子営砲台の西南麓に設けていた。陸方面には蟠桃山、大坡山、小坡山、鶏冠山、二龍山、松樹山に亘って、旅順市街(いわゆる旧市街)を半円状を囲んで9個の永久堡塁と4個の臨時砲台を設けていた。

11月9日以来、金州方面から陸続と敗兵が来着してから、旅順の守将はあわてだした。道台(市長にあたる)照與は清国の兵制では軍官諸将の上にたつ立場にいたが、10日、芝罘経由天津に向かい李鴻章に面会を求めた。だが李は心術、卑怯を看破して、譴責すると同時に旅順に追い返した。

当時、旅順には四将(いずれも統領)姜桂題・程允和・張光前・黄仕林がいた。これに敗将の徐邦道・趙懐業が加わった。そのうち趙は要塞を出ての野戦を主張した。13日になると、日本騎兵が水師営周辺に出没すようになった。17日、は水雷艇に乗り、芝罘に脱出、そのあと行方不明になった。

これによる士気の低下を怖れ、徐と姜は日本騎兵接近の報をきき出撃した。こうして起こったのが土城子の戦闘である。だが、そのあと水雷艇が旅順を離れると、黄仕林・趙懐業・衛汝成は密かに芝罘に脱出した。反面、姜桂題・程允和・張光前・徐邦道の四将は意に介さず、堡塁の守備についた。

だが、黄・趙・衛の配下は将を失って市内に留まり、略奪を開始し、ある者はジャンクで逃走した。大多数は民家に押し入り、平服を求め、いれられなければ、殺人強姦を働いた。

総攻撃

11月21日、第2旅団(西寛二郎)は払暁から案子山堡塁群攻撃の目的をもって、午前1時15分、前進を開始した。月色浅く、使用した地図が精密でなく、昨日派遣の偵察将校が敵の妨害により道路が観察できなかったことにより、行軍は難渋した。そのうえ煙霧が濃く敵の堡塁位置の確認が困難であった。

だが、7時に近づくと須臾にして霧は晴れ、野砲兵第1連隊は砲撃を開始、清軍も応射した。西少将は歩3に案子山低砲台への攻撃を命令した。このとき、案子山堡塁群には敵兵約1000が密集しており、果敢に機関銃や小銃で迎え撃った。連隊長木村中佐は、被害を減じるには急襲あるのみとして兵を叱咤し、7時30分、連隊を上げて襲歩に移り、硝煙をつき弾雨を冒し低地砲台に吶喊した。

7時35分、敵の大部分は狂奔・潰乱して敗走したが、勇敢な者は剣戟をふるって抵抗した。だが、ことごとくこれを斃し、砲台の占領を全くなものにした。低砲台が占領されるとと、左右の砲台を守る敵兵は士気を沮喪して逃走を開始した。

追撃射撃を終わった後、西砲台附近に集合した。このうち第3大隊第10中隊(豊崎大尉)は、約2分隊を率いて砲弾雨注の中、毅字前軍左営に迫り、ここに残留した敵兵10余名を斃し、占領した。

西少将は、予備隊として歩2第3大隊を率いて前進し8時15分、案子山低砲台に達した。そこで少将は、第3大隊に黄金山攻撃の任務を与えた。山地第1師団長も直轄する予備隊とともに前進し、歩3の盛んな戦闘ぶりをみて、増援部隊として歩15第3大隊を派遣した。さらに第1旅団(乃木希典)に第2旅団の右翼に増加することを命じた。

第1旅団は前進中、8時15分、楊樹溝北端に達するや銃火をうけ、歩1(隠岐重節)は鴨湖嘴附近で戦闘を開始した。

捜索騎兵隊は午前4時から曲家屯を出発し、方家屯に至った。すると7時ごろ、敵歩兵500が夏家屯西方に出現したのを発見し、監視したのち、歩1と連絡しつつ警戒にあたった。混成旅団(長谷川好道)は、第1師団の案子山攻撃の間は二龍山附近に敵にたいし持続戦の予定であり、そこに止まった。

長谷川少将は、案子山の戦闘が終了したのを見届け、独力をもって松樹山・二龍山を攻撃することを決心した。8時30分、歩24(吉田清一中佐)に攻撃前進を命令した。9時30分、攻撃陣形への編成を終り、第2大隊が二龍山に向って前進した。この方面の敵はよく防禦陣形を整えており、盛んな銃火をこの部隊に浴びせた。ようやく9時50分、第2大隊は東八里庄南端に達した。第3大隊も八里庄の西北約800メートルの高地に達した。吉田中佐はここで第1大隊を第3大隊の右翼に増加し、交互に躍進せしめることにした。

だがこの連隊を援護すべき徒歩砲兵連隊は遠距離と閉鎖器に故障したため、砲撃中止の已む無きに至った。ここにおいて敵守備兵は全力をあげて砲火を集中し、一時危急に陥った。中佐は軍旗護衛の第3中隊を除いてあげて戦線に投入し、さらに督戦、10時45分八里庄東方の低地に達した。すると野砲兵第1連隊は陣地変換をようやく終り、松樹山方面に射撃を開始した。

歩24の士気はあがり、松樹山砲台の斜面を登攀した。すると一弾が松樹山砲台火薬庫に命中、轟然大爆発を引き起こした(日清戦争では、榴弾が榴散弾より7:3の割合で使用が多かった)。そのためか守備兵は二龍山に退却を始めた。第1、第3大隊はこれをみて吶喊したが、砲台の手前450メートルで5個の地雷が爆発した。しかしながら点火が過早であり、死傷者は出なかった。

11時30分、吉田中佐は敵がいないのを見届け自ら二龍山に闖入した。敵は数分前に南に敗走していた。同時に二龍山東方陣地、望台北方陣地も占領した。

この動きにつれて左翼縦隊の他の諸隊も勇躍前進し、歩14連隊第1大隊は東鶏冠山西北方砲台、第3大隊は五家房北方高地の西北部を占領した。だが10時50分、南方に前進しようとしたとき、第3大隊長花岡少佐に1弾が命中、重傷を負った。第3大隊第12中隊は敗兵を追尾して、蟠桃山、北山の両砲台を占領した。すると2000の敵兵が海岸に沿って、大連湾方面に逃走するのが望見された。直ちに柳樹屯の古川兵站監に連絡された。

一方、歩2と歩3も武庫附近の敵に向っていった。そのとき松樹山砲台の大爆発が起き、敵陣は動揺し、旅順市内に潰走を始めた。歩2第3大隊は白玉山山頂に達した。毅字後軍左営、武庫も占領された。このとき午後1時前後であった。

歩1は8時15分楊樹溝に達し、敵を駆逐して占領した。すると鴨湖嘴北端周辺に敵兵約1000をみた。歩1連隊長隠岐中佐は、饅頭山、城頭山砲台からの射撃が急であったが、9時30分ついに鴨湖嘴南端に達した。乃木少将は野砲兵1連隊6中隊を鴨湖嘴に招致し、文家屯、三羊頭の敵に射撃を浴びせた。午前11時、伝騎が来着し、案子山方面に転進することを命じてきた。

しかしながら隠岐中佐は当面の敵に対すべきたとして退けた。第1旅団が、この命令をうけ案子山方面に向かう準備を開始したのは午後零時30分ごろである。捜索騎兵隊は、逃亡した敵の監視にあたっていたが、11時ごろ、三羊頭村西方の小半島から乗船して海に走るのを望見できた。だが、連合艦隊は鳩湾にいて、水雷戦隊が急襲の構えをみせると陸地に戻った。

旅順口方面の掃討

大山大将は李家屯東南の丘阜に進み、午後零時半、旅順口の占領を命令した。

歩15第3大隊と歩2(伊瀬知大佐)は毅字軍操練場に集合し、3時30分発起し、旅順市街を通過し黄金山砲台に向かうことを命令された。ところが歩2は黄金山、東人字墻、模珠礁の各砲台に敵兵がいないことを発見し、4時50分、直ちに占領した。このころ日没となり、この部隊と歩3は砲台に遺棄されていた敵軍の天幕を利用して宿営に入った。歩15第3大隊は市街に突入したが、すぐ日没となり市内に宿営した。

歩14と歩24は敗兵が東方へ脱出することを阻止する命令をうけた。だが部隊の大半は敗兵を急追し、市街北端に達していた。このため兵を望台や二龍山に戻す必要があり手まどった。歩1も案子山に転進するため陣地撤退の準備をしていたところ、再度、鴨湖嘴に止まれという命令で混乱した。ただ、午後1時ごろから敗兵が集まり1000人にも達した。そして野砲を取りだし、歩1に射撃を浴びせた。だが、前進して逆襲するには至らず、連隊は同地に宿営した。

ところが、軍司令官には、各地補給処から敗兵から襲撃をうけた、と連絡が入り、第1旅団をあげて金州守備隊(歩15河野通好)へ増援に向かわせることを決心した。このため第1旅団(歩1と歩15第3大隊)は22日午後1時25分準備を整え、金州城に出発した。

22日朝、旅順口はむごたらしい風景であった。敗兵による同士討と、良民住居への略奪とにより、兵隊・民間人入り乱れての遺棄死体が街頭に散乱していた。

旅順大殺戮事件

敗兵の多くは、西海岸に沿って竄走し、捜索騎兵隊と歩1の哨戒網を潜脱した。気温は華氏35度に下がり、烈風迅雨狂暴逞しく、暗黒咫尺を弁ぜず、という情況であった。鬚髯は凍り、水筒は破裂した。どのようにして敗兵が脱出していったのか想像するに足る。

市内に敵兵の影はなかった。生き残った市民が三々五々顔を出す程度であった。捜索を完全に実施するゆとりはなく、夕刻、操錬場に集合し、各兵站処への増援の準備に入った。翌日工兵が水雷線を除去すると巡洋艦松島が寄港した。

金州城の防戦

第2軍主力が旅順口攻略のため出発したとき金州城には歩15(第3大隊欠)が残置された。この他に古川兵站監の下に1個大隊(歩14第2大隊)が大連湾に置かれた。

11月21日、金州城は復州街道方向より敵襲をうけた。河野少佐は事前に攻撃があるのを察知し、4個中隊を金州城外に守備させた。午前11時20分、旌旗数流をたなびかせ、十三里台南方の高地に清軍が出現した。歩兵約2000、騎兵5,60の1団は三梯団をなして前進してきた。さらに後方には歩兵約3000、騎兵約100が復州街道を南下していた。

河野連隊は鹵獲砲(クルップ80ミリ)を城壁にあげ射撃した。夜半前までに118発をうったというから当時としては盛んな砲撃である。敵は復州街道の八里庄附近で左右に分かれ、北門と東門を目指し攻撃してきた。河野はほぼ全軍を城外に出し防戦に当たらせた。

夜半までに全ての攻撃は撃退したが、日本軍は戦死者8人、清軍は遺棄屍体503を残す激戦であった。清軍は宋慶によって率いられ、銘字歩隊10営、毅字軍歩隊10営からなり6920人を数えた。退却後は三十里堡及び四十里堡に留まり、敗兵の収容につとめたという。

翌日から、旅順の敗兵と前日の金州城防戦による敗兵が、貔子窩周辺と土城子周辺にそれぞれ出現することが予想できた。この当時、兵站主地を花園口から柳樹屯に移しつつあり、花園口に蓄積した軍需諸品を転送する必要が生じていた。このため、まず花園口から貔子窩の間にある兵站処を撤去する必要があった。このため、電線保員を残し、貔子窩にまず集めることにした。

22日未明から敗兵は雙台溝と王家屯に現れた。三々五々相携えて数十または数百の群をなし、間断なく脅威を与えることになった。とくに雙台溝では午前10時には500、午後4時には300の一群がきた。そのあと三十里堡との間では、一度撃退した者と新来した者が重なり、一帯の山野は一時敗兵をもって覆われるに至った。

大部分は金州城を目指したが、少なからぬ部分は民家に入り平服を徴し、良民の体を装って、捕獲を逃れようとした。敗兵の中には頑強な抵抗を試みた者もあったが、大部分は士気沮喪し、日本軍の誰何に会うと、周章狼狽して奔竄した。だが兵站処の兵力は十分ではなく、その逃走路を扼することができず、大部分を北方に逸走させた。

21日に金州城増援の命をうけた歩1第2大隊(粟屋幹)は旅順街道を驀進して金州城に向かおうとした。22日午前3時出発、営城子で30の敗兵を撃破、11時30分王家屯兵站処に到着し、1個小隊を留め、午後1時150の一群を追及、尾撃し、2時50分、前各鎮堡に到着した。そして三十里堡に向うと、600の敗兵が後各鎮堡に、700の敗兵が三道溝からきて、両者合同する形容を示した。これを攻撃したところ抵抗50分ののち全く潰乱して北方に逃走した。

こうして大隊がまさに三十里堡に到着するとき、後尾で随伴していた大行李隊が突然400の敗兵に襲われた。このため三十里堡の要員と協力して反撃した。ところが窮鼠ネコをかむで、突進してきた。ようやく撃退し終わったときは午後7時を過ぎていた。この日、三十里堡に現れた敗兵は2500、遺棄死体は90に達した。日本側戦死者は1名であった。

柳樹屯では敗兵に備え、工兵隊が堡塁を構築し、さらに大連湾には駆逐隊が遊弋した。敗兵は21日から現れた。金州城でも守備を固めたが、敗兵は復州街道からきたようだった。

22日午後に入ると金州城前面に敗兵が出現した。すなわち、午後2時半、2000の敗兵が続々金州湾岸を北上してきた。このため北方警戒の兵をして攻撃させたが、敗兵はその都度四散し、名状しがたい混乱に立ち至った。このため抵抗がない場合は格闘を避け、射撃するに止めた。この日、金州守備隊と衝突した敗兵は約3500、このうち屍体の発見された者400を数えた。海中の溺れた者も多かった。日本側の戦死者は5名であった。

乃木少将が率いる第1旅団主力部隊は22日土城子を出発した。敗兵を掃討しながら進み、23日に三十里堡に宿営し、金州城に向かい、守備隊を指揮においた。

清軍守備隊の情況

守備隊の諸将で戦う前に逃亡する者がいて、姜桂題・程允和・張光前・徐邦道の4将が残された。20日、協議の結果、各堡塁守備隊を区処した。

右翼ー蟠桃山より松樹山
指揮官ー姜桂題・徐邦道
1 桂字歩隊4営
2 和字歩隊1営
3 拱衛歩隊3営砲隊1営馬隊1営
4 懐字歩隊6営2哨

案子山堡塁群
指揮官ー程允和
 和字歩隊2営

これの他成字歩隊5営を予備隊として市内においた。この他、海岸砲台の守備をなすために慶字8営が配置されていた。

11月21日、日本軍の攻撃をうけ、案子山堡塁群が陥落すると、一気に士気が沮喪した。一部兵士は早くも東西両海岸から北方に遁走した。そのあと二龍山と松樹山が奪われると、諸隊潰乱し、収拾できない状態となった。あるいはジャンクをかりて海上に逃げる者、民家に入り制服をうち棄て平服に着替え、金州方面に向かおうとする者などが多かった。

だが、姜桂題・程允和・張光前・徐邦道の四将ともに敗兵に交じり、北走し、金州地方を通過して宋慶の軍に投じるのに成功したという。

清軍の作戦評論

清国が国庫を傾けて造営した旅順要塞はわずか攻撃1日であっけなく陥落した。兵力寡少であり、防禦の体をなしていなかった。すなわち最も激戦が予想される案子山堡塁群には、2営すなわち600人程度しか配置できず、また直ちに増援に向う予備隊がなかった。とにかく砲台の前面左右には防禦網らしいものは存在しなかった。

歩兵の突撃にたいして、もっとも有効な防禦は小銃・機関銃をもった散兵線である。ところが清軍の将は塹壕もつくらず、またそこに配置する兵力も十分ではなかったのである。清の諸将は文官出身が多く、また教養は四書五経の類であって、近代軍事学に通じていなかった。

また、降伏の方法を知らず、敗北したさいは、敵陣を平服(便衣)で浸透しながら逃走することのみを念頭においた。成歓や平壌でも同じことがすでに発生していた。村田銃では弾幕射撃が不可能であり、また機関銃が配備されておらず、榴散弾射撃以外の方法では鏖殺は難しかった。だが日本軍がなぜ対策を講じななかったのか疑問が残る。



参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』育英舎 2007

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