旅順大殺戮事件

旅順大虐殺事件とは完全な虚報であり、1937年の「南京大虐殺事件」と同一の性格をもつ。この事件が日本国内で再報道されたのは戦後も遅く、1982年ごろの「教科書誤報事件」からであった。この事件は、橋本恕中国課長(異例の五年間、中国課長を務めた。田中角栄のベッドまで入れる男といわれた)によって引き起こされた。

鈴木善幸内閣当時であったが、田中角栄は派閥の親分であり続け、自身の収賄容疑を外交における実績を示すことにより切り抜けようとした。保守系親中派の原型をつくり、現在の民主党小沢一郎の行動パターンと酷似している。橋本恕が中国の歓心を買うため、教科書の「進出」"adavance"との言葉を「侵略」"aggression"に書き換えることを文部省に要求したことが問題の発端であった。

ただ橋本は英語のアグレッションが「先に手を出すこと」であるとは知らなかったようだ。このため、侵略とは語感から「何か略奪のようなもの」と誤解した。これで、南京大虐殺や旅順大虐殺が中国側から主張され出したのであった。初めは利権政治家の「火消し」と官僚の「人事執着」という喜劇から無辜の国民や兵士が大悪人にされるという悲劇に転化したのである。

当時の日本人には報道されなかったかどうか、という点では異なり、タイムズ紙(ただし、他紙特派員Frederic Villiersの書いた記事の転載)とJames CreelmanによるNew York World誌による大殺戮(massacre)記事について、国内でも報道されていた。

これへの反論も横浜で発行されたMail紙に掲載されており、当時から論争されていた。海外紙についても続報がなく、いったん立ち消えになった。

報道した特派員は陸軍第二軍付きであった三人の二人であり、いわば日本側から出た。第二軍が極端な秘密主義をとって、海外特派員に情報を出さず、また宿舎などで優遇しなかったことが原因であると、のちに参謀本部は反省した。

第二軍が旅順に突入したとき、清国兵士は逃亡準備を進めていた。市長(道台)であり軍事命令権も掌握する照與は国際法(ヨーロッパにおける戦争における慣習)を知らなかった。包囲された都市は守備隊を降伏させるという前提で、攻撃を免れるため開城することができる。これをしなければ、民間人も含めて徹底抗戦しかなく、城内の戦闘は野戦と同じである。民間人は安全地帯または家屋から出ず、戦闘に参加してはならない。兵士は制服を着て、民間人家屋外で戦闘する。

攻撃側は民間人家屋や文化遺産・施設は攻撃してはならず、民間人から略奪(金を払う徴発でない略取。ただし、市場価格で強制的に買うのが徴発である)してはならない。

中国兵はヨーロッパの規範はわからず、成歓や平壌における伝統的敗残法、平服を着て逃亡するに従った。平服を得るには民間人家屋を略奪せねばならない。民間人も抵抗する(当時、衣服は高価な財産であった)ので、市民と兵士間で戦闘が発生した。双方で死者が生じ、中国の習慣として屍体は屋外に放置された。

こうして日本軍が突入し、外国人特派員が恐る恐る入ったとき路上に屍体が散乱していた。そのうえ、家屋内における銃撃、日本兵への狙撃が発生した。すると日本兵も家屋内に立ち入り、検査せねばならなかった。1923年、1927年、1937年の南京では同じ事態が繰り返された。

ただし旅順では日本軍の完全包囲が遅れ、中国人兵士の大半は城外逃亡に成功した。呆然とする旅順市民、勝ち誇る日本人兵士を見て外国人特派員はどう報道するかといえば自明であろう。社会的混乱のさい自国で起きること、略奪事件であった。

旅順において清国兵が退去すると市民生活はすぐに平穏に戻った。旅順名物である京劇も復活した。それを観劇した日本兵は多数の写真を残した。

現代中国でも希な豪華な支那(女性は満州)服をまとった山東京劇が実演された(『日清戦争実記』第十六号、博文館)。大虐殺・大略奪・大強姦があったとすれば、このような衣装・舞台装置が維持できるはずがない。照明は石油ランプである。

旅順大虐殺は外国特派員の虚報であった。は逐電し行方不明になった。しかしながら第二軍司令部広報担当参謀は探し出し、ことの顛末を内外報道陣に説明させるべきであり、できなければ事実を広報すべきであった(ただし道台が降伏すれば刑死は免れない)。

すぐに作文に頼り保身のための秘密主義に陥る現在と過去の日本の官僚的処世が誤報事件の原因であった。

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