王正廷の革命外交


佐分利公使自殺事件

1928年6月、蒋介石は北伐に成功し、首都を南京に定めた。孫文の遺骸は北京西山の香上寺から南京におくられて、造営された紫禁山の壮大な孫文陵にうつされ、盛大な法要が営まれた。だが、各国外交使節は依然北京にいて、南京に移ろうとしなかった。共産主義者とも手をくみ、行く先々で虐殺事件を引き起こしてきた国民党を信用できなかったのである。

佐分利貞夫(1881-1929)

1929年7月、張作霖爆殺事件により田中政友会内閣が倒れると、浜口雄幸民政党内閣が成立し、幣原外交が復活した。幣原はロンドン海軍軍縮会議に忙殺され、中国外交は腹心の佐分利貞夫に任せることにした。だが1929年11月、佐分利は箱根冨士屋ホテルで自殺した。

この自殺の原因は「南京の国民党政治家にあまりにもひどく拒絶されたために、自分の個人的な不名誉を拭い去るための唯一名誉ある方法は自殺の他にないと考えた」(K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』福井雄三訳)と噂された。

幣原は佐分利の後任に小幡酉吉をあてたが、増長した蒋介石は、小幡が21ヵ条要求のさい強硬な態度をとったいうことで、アグレマンを出さなかった。これは重大な外交慣例違反である。ところが幣原はこれにたいし曖昧な態度しかとらなかった。現在の中国政府が日本の駐北京大使の人事について公然と介入する前例をつくってしまった。

このあと代理公使として重光葵が任命された。幣原、佐分利、重光は外務省の正統な流れを汲む英米派である。ところが、蒋介石に忌避された小幡は支那通なのである。

それにもかかわらず幣原は「日中両国の将来の幸福のためのより広い見地に立てば、政治的、経済的な全ての関係において日中両国の相互の調和と協力の道を追求する以外方法はないのだ、という考え方に納得できるであろう。決して対立することはなくむしろ大いに共通点のある両国の真の永続的な関心は、高まりつつある両国の親交を十分確かなものにすることでなければならない。もし、中国人がこれらの事実に気づき、日本がえがいているような政策に進んで反応するようになれば、日中両国の相互の幸福にとってこれ以上に役にたつことはないであろう。もしも中国人が治外法権に関する国際委員会の発足と北京関税会議の全過程を通じて日本代表が中国に示した心のこもった協力を思い出しさえすれば、日本が心に抱いていることを彼らが理解するのは困難であろうはずがないと1930年1月21日、演説した。

蒋介石はいくら「心のこもった協力」をされても、日本(幣原)の心をまったく理解しようとしなかった。蒋の頭の中は力こそ全てであって、英米とつながりを切ってまで中国に尽くそうとした幣原の心持など弱さでしかなかったのである。

そして、日本の英米派外交官は、対中国外交も欧米各国との外交と同様に対処すればよいと考え勝ちである。例えば、当方が譲歩すれば、相手国も譲歩するだろう考えるのである。ところが中国人は、相手国が譲歩すれば、「相手は弱い」とみなして条件をかえって吊り上げてくるのである。さらに、その譲歩を第三国との交渉の梃子に使うのである。古代の「夷を以って夷を制する」の手段である。

重光は幣原の意を汲んで、北京を棄て、上海=南京に住み外交を展開した。重光は関税自主権問題や治外法権などで譲歩を重ねた。重光は「日支の関係は急速に改善され、蒋介石はその軍隊を立て直すために、ドイツの顧問を排して日本の顧問にかえ、多数の訓練員を日本より招聘した」と自慢した。

クリスマス覚書

イギリスは日本が重光宥和外交により、第3次南京事件以来の悪化した中国外交を改善せねばならないと考えた。1929年12月、オースチン・チェンバレンはクリスマス覚書といわれる声明を発表した。

これは、イギリス外務省プラットによるもので、国民政府の承認、不平等条約の改訂、租界その他の返還を提案していた。イギリス駐支公使ランプソンは早速これを蒋介石に提出した。ただ、内容は、重光の譲歩と同じである。

すると第3次南京事件で被害をうけたアメリカも同調した。英米は、第3次南京事件のさい幣原に冷淡な態度をとられたことで、対支強硬政策は取りにくくなっていた。日本の重光宥和政策が発端となって、「夷を以って夷を制する」政策は期せずして成功した。

ところが、蒋介石は翌年1930年は動けなかった。中原大戦のためである。

革命外交

王正廷Wang ZhengTing(1889〜1961)
浙江省奉化県出身。1907年、米国留学。1919年、パリ講和会議代表。北京政府と国民政府双方の外務部長。1936年駐米大使。1952年以降香港に隠棲。

北伐前に列強と北京政府の間で行なわれていた「北京関税会議」は自然消滅していた。国民政府の伍朝枢外務部長は、漸進的に「不平等条約」の改正を交渉した。

ところが後任の王正廷外交部長(馮玉祥の元側近であってソ連寄りだった)は、こういった多国間協議は行なわず、個別条約について個別交渉する態度をうちだし、まずベルギーとの通商条約を破棄した。

期限の近づいた日支通商条約については、北伐前に芳澤公使と顧維均の間で交渉が行なわれていたが、改めて重光・王の間で条約改正が話し合われた。ところがその最中の1931年3月、王は突然、私案であるとして、革命外交のプログラムを新聞に発表した。それによると

  1. 段階: 関税自主権および海関の回収
  2. 段階: 治外法権撤廃
  3. 段階: 内河および沿岸航行権の回収
  4. 段階: 鉄道およびその他の利権の回収

であって、短期間に各国の利権を回収しようとするものであった。重光はあわてて王に確認を求めたところ、新聞発表の通りであるとのことだった。重光のような英米派の外交官はこういった「計画」に接すると、うろたえて「長期計画」の一環であるとみなしがちである。だが事実はたんに、王が得点稼ぎにため、思いつきで喋っているにすぎない。

強気になった王は、重光に関東州租借権も満鉄経営権も順序に従って回収すると言明した。この革命外交プログラムは新聞に発表されたため内外に非常な影響を与えた。

革命外交とは、いったん締結した条約を、一方が一方的に破棄することができるとする外交手法である。出鱈目な外交手段を「革命」という言葉を冠することにより誤魔化しているにすぎない。

これが成り立てば、条約の意味がなくなる。ヨーロッパ諸国は革命外交を当然否認したが、日米両国が、その都度応対したため事態を悪化させた。



王正廷『近代支那外交史論』竹内克己訳 中日文化協会 1929

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