三月事件の真相は不明のまま、陸軍省部の大臣・大将にはまだ、橋欣流「錦旗革命」について理解を示す人物がいた。
8月4日、南次郎陸相訓示によって、満州における軍事力行使の可能性が示唆されると、国内世論は圧倒的に陸軍に味方した。国民は張学良政権による再三のテロ事件に辟易としていた。幣原軟弱外交の反動で、武力行使を辞せずという雰囲気が横溢した。
三月事件で示されたことは、陸軍省部のエリート軍人は実部隊を率いておらず、クーデターをやろうにも「武力」がないことであった。「武力」を無産三派のデモに頼っていては、「革命情況」の醸成にもならない。
橋本欣五郎はケマリストであり、君主制を廃止し軍事独裁を実行せねばならないと考えていた。永田流宮廷革命ではなく、実力で天皇を廃し、傀儡の「君主」を立てるべきだと思った。橋本は陸軍省部の将官は全員ダラ幹であり、このような本当の国家革新の役に立たないと思った。彼らのほんどがヨーロッパ帰りのエリートでありであり、ケマル革命の遂行者として相応しくない。
平時の軍隊には、通常実弾が支給されていない。参謀長と師団長のハンコをもらって出庫伝票を主計担当将校が弾薬庫に持参せねば実弾は受け取れない。この例外が関東軍などの植民地軍であった。世界史上のクーデター事件の大半が植民地軍から発生するのはこれが理由である。1914年のイギリスのアイルランド駐留部隊によるカラッハ事件、1936年のスペインのフランコ率いるモロッコ駐留部隊によるスペイン動乱、1960年代フランスのアルジェリア駐留部隊によるOAS事件が代表例である。
橋本は、ロシア班長の地位を利用して部下を使うと同時に重藤千秋支那課長を取り込み、まず関東軍を決起させることにした。このとき建川参謀本部作戦部長も取り込み、さらに陸軍省首脳陣の了解をも得た。
西園寺公望と南次郎
重藤千秋と藤田勇は親戚同士であった。重藤は安請け合いしたものの関東軍の要求する5万円の金策の目処がつかず、藤田に頼み込んだ。
藤田は渋ったものの応じた。重藤は新しく支那課に配属になった和知鷹二少佐に手付金2千円をもたせ満州に向かわせた。和知は、8月26日に帰国し、関東軍の最新の事変案をもって帰った。橋本欣五郎は報告をきき、その足で和知とともに藤田邸に向かった。
藤田は現金2万円を明日用意することになった。橋本は、大川周明に雇われている河本大作に現金をもたせ奉天に運ばせることにした。
不気味な動きに西園寺公望も気づき始めた。
「どうも自分のところにくる投書や情報を見ると、陸軍のなかにアカがいるのではないか、と思う。そのやり方は世界の歴史を見ても、帝室の亡びるとき、革命の前夜に似ている。ー中略ーどうも陸軍のなかに極左がいるように感じる」と牧野伸顕内大臣に伝えた。
昭和天皇は安保清種海相を呼び、「青年将校が横断的団結をし、下克上の気風があるというがどうか」と質問した。牧野が示唆したもので、海相から陸相に伝わることを期待したのである。
これを伝えらると南次郎陸相は驚愕し、9月11日、昭和天皇に「厳重に取り締まる」と釈明した。南は西園寺の差し金であると侍従長からきき、翌日、御殿場の西園寺邸を訪問した。
西園寺は「満蒙は中国領土だが、最近、軍が『満ゴロ』をおくっているというが面白くない。あんたは陛下を助ける地位にある軍の首長だ。厳重に取り締まってもらいたい」といった。
南は、桜会について知っていたが、関東軍の動向については知らず、恐縮して辞去するばかりであった。
このころ、集められた満ゴロは、酒を飲んで奉天市内を放歌高吟していた。奉天領事館も情報をつかみ、外務省経由、西園寺や牧野に内報されていたのである。9月15日、外務省は事態を放置できず、小磯軍務局長に情報を伝えた。陸軍省では幹部会議が開催され、それに出席した重藤・橋本は事変案が露見したと思い込んだ。
重藤・橋本は直ちに「決行を急げ」と電報し、必要資金の残額3万円を、藤田に出させ、東京にいた土肥原賢二らに運ばせることにした。この金は、事変後不要になり、橋本と大川に返却されることになった。
十月事件
昭和6年9月17日、橋本欣五郎と大川周明は赤坂の料亭「鶴屋」で酒を飲んだ。大川は自宅に戻り、橋本は鶴屋に流連した。朝、目が覚めると新聞に事変第一報が掲載されていた。
橋本は、自身のクーデターも急がねばならないと思った。「ここにおいて、ぼくは、内地の一大革新を断行して政府を更迭しなければ、満州事変は成功せぬと考え始めた。そこで、着々と政府転覆計画を企画し始めた」(『橋本手記』)。
9月27日、満州で殺害された中村震太郎の葬儀のあと、九段の偕行社で桜会総会を開くことにした。このときまでに満州はほぼ関東軍によって制圧されていた。
葬儀では長勇(北京公使館付武官の発令をうけていたが赴任しなかった。省部軍人の綱紀は乱れ、執務態度はまるで新聞社報道部のようであった)が腕を切って、血書した幟が目についた。
桜会総会では、隊付将校がしきりに省部軍人を罵倒した。明治以来、こういった風景は今回が初めてであった。軍人とは階級が全てであって、上官を罵倒することは考えられなかったのである。
橋本は現内閣を打倒することを訴えた。そして有志には新閣僚名簿なるものを披露した。選挙はせず、議会は解散し、天皇から指名をうければ組閣できると考えたのである。橋本には社会主義者の醜さしかなかった。社会主義とは、私権・民権を官権をもって制限することであって、民衆の決起ではなく、軍官僚や政党員に期待する。
国策といえば、武力による膨張だけであり、橋本はいったいケマルから何を仕入れてきたのか疑問とせざるを得ない。
ケマルの議会演説
首相 荒木貞夫
蔵相 大川周明
外相陸相兼任 建川美次
海相 小林省三郎
内相 橋本欣五郎
法相 北一輝
拓相 藤田勇
警視総監 長勇
昭和25年のクーデター未遂事件
10月に入ると、橋本は、小原重孝や天野勇を従えて、連日、渋谷の「松尾亭」に隊付将校を集め、酒を出し、芸者を侍らせ、革命の大義を説いた。時々現れる長勇は、「お前たち、命を棄てよ。目的を達成すれば勲章くらいやるぞ。大臣・大将といえども塵芥のようなものだ。存分にタタッ斬れ」と演説するのだった。
橋本は前回の三月事件に懲りて、参加者から血判をとろうとした。多くの将校は「酒を飲ますの、芸者をあてがうのと、そんな金はどこから出ているのか」といって辞退した。
場所を神楽坂の「梅林」、渋谷の「湖月」と変えながら、血判状には150名の名前が加わった。
「決行計画は一夜にして政府機能を撲滅し、之に代るべき政府者に大命降下を奏請するにあり、之れが為に各大臣、政党首領、某某実業家、元老、内相、宮相等を一時に殺傷し、陸軍高級者は監禁乃至殺害し、之に使用する兵カは歩兵23箇連隊、機関銃60丁、毒瓦斯、爆弾、飛行機等なり」と血判者には行動計画も伝えた。
予定部隊の襲撃目標も決められた。歩3は警視庁占領を担当したが、血判組の中隊長は1個中隊を警視庁に並ばせ突撃訓練を実行した。警視庁は何事かと歩3本部に厳重抗議した。
計画は大掛かりであったが、情報管理は杜撰であった。首相府、議会、外務省・陸軍省勤務員の全員を殺害するといった計画をきくと、血判組の何人かは上司に相談した。10月10日前後になると隠然と情報は広まった。
統制派出現
荒木貞夫は8月人事で教育総監部本部長になっていた。噂は耳に入り、永田鉄山軍事課長に電話すると「もう収まった」との返事を得た。一方、根本博・影佐禎昭・藤塚止戈雄の3人は今村均に計画の詳細を打ち明けた。今村はすぐ手配して、陸軍省大臣室に幹部の参集を求めた。
荒木が大臣室に入ると、金谷参謀総長と南次郎大臣がかけていた。金谷はアル中であり、南は「左様せい」であったから二人とも、荒木の出馬を要請した。荒木は引き受けて、大臣応接室に入ると、杉山(元)次官・小磯(国昭)軍務局長・永田鉄山・岡村寧次・東條英機・今村均がいた。
このメンバーはのちの統制派であって、永田が集めたものであろう。永田と岡村寧次・東條英機はバーデンバーデンの密約のメンバーである。このときの永田は荒木派であって、十月事件では弾圧する側に回った。満州事変を積極的に企んだが、橋本欣五郎の案には「権力奪取手段」=「宮廷クーデター」が抜けており、陸軍が決起すればなんとでもなる程度の了見と思い失敗必至とみた。そのうえ成功して橋本欣五郎=大川周明一派が権力を握ってしまうと考えたのであろう。
永田からみれば、橋欣は大川と北の違いもわからず、中から密告者が出たことも知らぬマヌケであった。
荒木貞夫による鎮圧
一致して即時検挙を主張したが、荒木貞夫は、「ちょっとまて、オレが話す」といって引き止めた。橋本の居場所が築地の「金竜亭」とわかると、そこに乗り込んでいった。荒木は「おまえ、ヤメレ」と橋本に話しかけた。
橋本は「ヤメましょう。ですが閣下を男とみてやめるのですから、後始末は善処してください」と頼み込んだ。
荒木はそのあと2時間も、長・小原・田中弥・馬奈木と酒を飲み交わした。今村は心配になり金竜亭に駈けつけると、長が今村をいきなり罵倒した。今村は長を「上官にむかっていうことか」と平手で殴りつけた。
今村が即刻検挙を訴えると、荒木は「保護検束」すると宥めた。
9月17日午前3時、東京憲兵隊は金竜亭を包囲した。新聞各社ともそれまでに情報をつかみ、そのまた周囲を取り巻いた。だが新聞各社は、記事掲載禁止通知がくると1行も報道しなかった。橋本は「其の夜予は将来の兵器の分配所偵察のため各料理やを転々とし、夜三時頃築地金竜に至る」(中野雅夫『橋本大佐の手記』みすゞ書房)とあとで語った。
この間、橋本は何をやっていたかといえば「西園寺工作」であった。橋本は根本・影佐・藤塚に裏切られたと知り、旧知の高畠義彦(陸士27、大正8年に連隊長を殴打し予備役編入)と岩田愛之助(阿部政務局長暗殺事件関係者)に連絡をとり、杉山茂丸(博多出身の大アジア主義者で児玉源太郎や政友会と関係した。夢野久作は長男)から西園寺公望に連絡した。直接ではないが杉丸は個人秘書と電話がつながったが、西園寺は相手にしなかった。
昭和期のクーデター未遂事件には必ず権力奪取のための「宮廷工作」が含まれている。この段階で大部分、昭和天皇や廷臣に拒絶され、「未遂」に終わるである。西園寺経由の宮廷工作では西園寺が暴力を嫌い、議会制度維持を重んじていたから不可能である。橋欣はこのときになり、議会占拠や陸軍の暴発程度では、日本では権力移動が起きないことを悟ったのであろう。三月事件首謀者の永田鉄山は西園寺秘書の原田熊雄や「青年貴族」木戸幸一と連絡を保っていた。
これにたいして橋欣のルートは資金提供者であった徳川義親(政治的理解能力に劣った)や大川周明などを通じたファナティックな大アジア主義者経由であり、筋がはるかに劣った。
橋本・長・田中の3人は、大手町の難波憲兵大佐の官舎に収容された。ほぼ同時に和知鷹二・馬奈木敬信少佐・佐藤幸徳少佐・野田謙伍少佐・小原重孝大尉・野田又男中尉も麹町憲兵隊などに収容された。密告者の根本・影佐・藤塚も「疑われないため」収容された。
拘禁された12名は、18日夕刻、2人づつ分散して地方の旅館に軟禁されることが決まった。橋本と根本は稲毛の「海気館」、小原と影佐が横浜の港屋旅館、長と馬奈木が市川の旅館、和知と野田又雄が水戸の旅館、田中弥と野田謙伍が伊豆三島の旅館であった。
11月2日夜、全員が釈放された。翌日、参謀本部講堂に集められ、金谷参謀総長から、橋本・長は重謹慎20日、他の10人は口頭の訓戒の処分を受けた。
エピローグ
橋本は11月末、姫路野砲兵連隊付に左遷された。1936年、2・26事件後の粛軍で予備役となった。ただし2・26事件と直接の関係はない。他の8人も、インパール作戦を師団長として戦った2名がいるなど、多くは軍務に精励した。田中清は、詳細な『十月事件手記』を残したが、それが禍根となり、佐官で終わった。陸軍は満州事変とは異なり、「クーデターごっこ」に過ぎないこの事件を極端なまでに隠蔽しようとした。
小原・田中弥・天野はたんにロシア班で橋本の部下であり、いわば職制参加であった。他も確信犯としては、支那課・支那通が多かった。建川と重藤は満州事変との係わりで忙しく、十月事件そのものには関係しなかった。証拠書類の湮滅には協力した。
未遂クーデター、十月事件について、12人以外の共犯者はまったく罰せられなかった。
成功したクーデター、満州事変の首謀者、板垣征四郎は陸軍大臣、石原莞爾は参謀本部作戦部長にまでのしあがった。かつがれた神輿、本庄繁は侍従武官長、荒木貞夫は陸軍大臣、林銑十郎は首相にまでなった。ただし、いずれも職務に成功したとはいえない。
予備役編入後、橋本欣五郎は、大衆参加による暴力革命を起こす方向に転換し、青年トルコ党を真似た大日本青年党を結成した。支那事変では、予備役召集となり、野重砲兵第13連隊長として上海・南京戦に参加した。留守中は建川美次中将が大日本青年党統領代理となった。除隊後、大日本青年党を思想団体「大日本赤誠会」に改編した。最高2500人程度組織することに成功した。戦後、A級として東京裁判に訴追され終身刑を宣告され、1955年まで収監された。
橋本の料亭アジに加わった海軍将校は、5・15事件を引き起こした。加わったものの離反した隊付将校は北一輝、西田悦に感化され、2・26事件を引き起こした。
レーニンの60万円が三月事件、満州事変、十月事件、日本社会党結党の原動力となった。金の受託者、徳川義親、藤田勇は有能であったと推定できる。藤田の家は赤坂にあり5階建てで、虎ノ門のアメリカ大使館を見下ろせた。アメリカ大使館側の抗議により窓が開けられなかったという。政権をとった共産党は、国家の外交やスパイ行為について、非共産党の社民勢力、国家社会主義勢力を利用するのが通例である。
立憲君主制を突き崩した三月、十月事件、張学良の満州を崩壊させた満州事変、戦後日本の親ソ勢力、日本社会党の結党は全てソ連の国益に役立った。ソ連は、満州事変をも歓迎し、1936年、満州国に東支鉄道を売却した。自らの公使館・領事館を襲撃した張作霖・学良父子を許さなかったのである。60万円の投資で、東支鉄道売却代金1億6000万円を獲得したともいえる。
橋本欣五郎はもちろん政治屋陸軍人は、自らが傀儡になって踊っていることに全く気づかなかった。
一方、ソ連は自らの金の効果が出たことを承知していた。コミンテルン第13回大会(1933年12月)で野坂参三は次のように演説した(立花隆『日本共産党の研究』(下)262ページ)。
「実に革命の波は、排外愛国主義とテロの台頭と同時に昂揚している。日本は今や、偉大なる階級衝突の前夜にある。我々の眼前で革命的条件が成熟しつつある。日本帝国は断末魔の状態にある。しかしながら、排外愛国主義の嵐とテロと、社会民主主義者の裏切りのため、勤労大衆の革命的エネルギーは抑圧され、まだ爆発する迄に至っていない。我々の任務は、大衆の間に、執拗な活動をなし、この革命的爆発を促進させる事である」
「将来対ソ同盟の戦争が起った場合、革命的兵士が指揮官たる荒木に反抗し、彼等の部隊を赤軍の部隊にかえ、武器を天皇に向ける事は、全然夢想ではない」
このとき、日本共産党は特高の弾圧により壊滅状態にあり、国内での基盤は喪失していた。この演説を誇大妄想とみなすのは誤りである。ソ連(=野坂)が期待したのは、日共ではなく、荒木(陸相)の下にいる「革命的兵士」だったのである。


中野雅夫『満州事変と十月事件』講談社 1973
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