北支工作とは、1935年半ばから支那通軍人により進められた軍閥相手の政治工作である。本来外政に属し、外務省が所管すべきであったが、広田外相は「軍令問題」であるとして、いっさい容喙しなかった。
なぜ軍令問題であるかといえば、満州事変を終了させた唐沽停戦協定(1933年5月)は熱河省・奉天省と直隷省を境(長城線)を休戦ラインとした。ところが、休戦ラインの中国側の直隷省やチャハル省、山西省において国府軍勢力は微弱であって、学良系・閻錫山系・馮玉祥系の軍閥が割拠していた。これら軍閥にたいし関東軍や支那駐屯軍(天津軍)は治安問題について個別交渉を行うことは、停戦協定の付帯要項の決定にすぎないというのであった。
これら軍閥は、南京政府から官職をうけとって、「縄張り」を統治していた。軍事的に関東軍や天津軍はともかく、背後にある日本軍に抗することができないのはいうまでもない。支那通軍人は、背後にある日本の国威を利用しながら、中国内の軍閥間の外交交渉のようなことを始めた。
広田外交
広田弘毅は貴族的なところがない、革新官僚的人物であった。妻の影響をうけ大アジア主義団体である玄洋社に加入していたが、本人が思想的に影響をうけたとは思われない。外務省に入省してからも主として欧米畑を歩んだ。
5・15事件処理内閣である斉藤実内閣で外相になった。革新同志会に属していたが「無色」であることが買われたのだという。外務省は閨閥、門閥が盛んな場所である。斉藤は、外交においてなんら特色を打ち出したことはなかった。1933年、斉藤内閣が検察官横暴による帝人事件で倒れると、広田は次の岡田内閣でも留任した。
岡田啓介は「国民党の指導原理と日本の国策と相容れない」と考えていた。だが岡田は対中外交どころではなかったのである。元来、岡田内閣は政友会3人(床次竹次郎、山崎達之輔、内田信也)と民政党2人(町田忠冶、松田源冶)が加わった挙国一致内閣であったが、それだけに閣内協調をとることは難しい弱体内閣であった。
岡田内閣における問題は国体明徴運動(美濃部天皇機関説排撃運動)と叙爵問題であった。満州事変への論功行賞として、陸海大臣(荒木貞夫・大角岑)と関東軍司令官(本庄繁)の3人を男爵にするという案件であって、どうも石原・林から出てきたらしい。これについて、陸軍以外は反感が強かったが、西園寺公望の「争うようなことでもない」ということで裁可になった。岡田啓介のこの2件しか在任中の重大事件として取り上げていない。
1935年1月、広田弘毅は、国会で演説し、日本人の大半は気にとめないある提案を中国に行った。
「中国の政局は、近来、やや平静な状況を示しており、日本がもっとも懸念する東亜平和のため、はなはだ喜ばしい。両国間の懸案は漸次解決し、中国の国民も次第に日本の真意を了解する傾向にある。今後ますますこの傾向を促進したい」
蒋介石は、この件について日本大使有吉明と、1月30日、南京で会談し、次のような声明を出した。
「このたび日本の広田外相が議会で発表した中国についての言明には、誠意があるとわれわれは考えている。わが国朝野もこれにた.いしては深く納得するところがあった。中国人民はくり返し挑発を受けてきたため、一部で反日運動が発生したが、政府は絶えず合理的にそれをなくそうとしてきた。中国のこれまでの反日感情と、日本の中国にたいする優越的な態度は、ともに改めるべきで、それが友愛を厚くし、隣人とむつまじくする道である。わが全国の同胞も正々堂々とした態度と理知、道義に従い、一時的衝動や反日行動を抑えて信義を示すべきである。そうすれば日本も信義をもって答えると、私(蒋介石)は信じている」
蒋介石は特使として王寵恵を東京に派遣し、領事裁判権取り消しを求めた。広田は満州問題は棚上げにする前提で、これを交渉の俎上にのせることを了承した。領事裁判権とは内地混住権と裏腹の問題であり、中華思想からは内地混住は認められないのである。ただ、日本は日清戦争でこの問題を有耶無耶にしたうえで内地混住権を認めさせており複雑な立場にあった。
広田は蒋介石の欧米を利用した反日運動にたいして、ヤミ交渉によって欧米を出し抜くという発想があった。広田の人生を貫くものは功名心なのである。両者は5月17日、互いに公使を大使に格上げすることにすぐ合意した。
蒋作賓大使の国書呈上
このころ、関東軍司令官・駐満大使・関東庁三位一体構想があり、外交二元化を避けようという動きがあり、陸軍は外務省のこういった国民党との協調を喜ばなかった。陸軍支那通は、軍閥を糾合して国民党政権を打倒するという時代錯誤の考え方があった。そのうえ、支那通の目線とは軍閥のものと一緒であった。
梅津=何応欽協定
華北では、広田外交と裏腹に日本人にたいするテロが横行した。蒋介石は、1932年ごろ(外務省調査では1931年)から藍衣社を組織し、共産主義者と日本人へのテロを開始していた(藍衣社の存在について、台湾国民党は否定している。しかし、『周仏海日記』や『上海租界警察日誌』で確認でき、国民党の事実隠蔽は明白である。藍衣社はテロ団体であって、租界や国民党の行政の及ばない地域に支部が設立され、黄埔軍学校卒業生が充てられた。実行者は、しばしば現役軍人で、銃器を使うことが特色である)。
1935年5月2日、3日、天津の日本租界で二人の親日派、『国権報』社長胡恩溥と『振報』社長白逾桓がいずれも射殺された。情況からみて藍衣社が関係したことはほぼ確実であろう。
5月11日、北平公使館付武官高橋坦は国民党軍事委員会北平分会代理委員長何応欽を訪ね、厳重な抗議を申し入れた。テロ行為について、何かせねばならないのは明白である。
5月29日、今度は天津軍参謀長酒井隆(1946年9月、B級戦犯として国民政府によって刑死)は高橋と同行、以下の要求を何応欽につきつけた。
- 中国側官憲による対満陰謀、対日テロなどは(唐沽)停戦協定違反であり、その根拠地が北平、天津であるからこの地区も実質上停戦区域に包含させる必要を生じるであろう。
- 両社長の暗殺は一九〇四年の天津還付に関する交換公文違反であり、日本は条約に基き、自衛上必要とする行動をとることがあるであろう。
- 憲兵(第3団)、(軍事委員会北平分会)政治訓練処、国民党(河北省・天津市)支部、藍衣杜の華北よりの撤退と責任者の罷免。
- 干学忠河北省省主席の罷免、とその指揮下第五十一軍の保定以南への移駐。
何応欽 He YingQin (1890-1987)
貴州省興義出身。字は敬之。日本に留学。陸士22期卒業。黄埔軍学校総教官。革命軍の中心部隊である教導団のリーダー。第1次北伐直後、蒋介石と対立した以外全て行動をともにした。台湾国民政府行政院長。台北で死亡した。
この要求は、天津の二人の親日派の殺害に関連した要求であった(別に熱河省における孫永勤の部隊が長城線を越え南下し、唐沽停戦協定の定める非武装地帯に入ったことも案件としてあげている)。1904年の北京議定書については「外国人(その使用人を含む)」の保護を目的として、平津地区の軍隊の駐留、治安維持を認めたものであって、胡や白ら中国人保護を目的としたものではない。
国府側も、「租界については行政権がないため責任がない」といっているが、これもおかしな議論である。租界は「外国人居住指定地域」であって、中国人の居住を妨げるものではなく、行政権は当然残っているのである。これがためテロ行為について、日本側捜査権が及ばないという致命的な問題を抱えてるのである。
酒井・高橋の要求は、日本による支配を前提とした非武装地帯の拡大をいっており、不当なものといわざるを得ない。
5月30日、天津軍は河北省政府庁舎を取り囲んだ。国民政府は河北省政府を保定に移した。5月31日、続いて干学忠と天津市長が更迭された。国府駐日大使蒋作賓は広田弘毅に面会を求めたが、外務省は「純粋な軍事問題」とつっぱねた。
6月4日、酒井は何応欽を訪ね、「全国の排外・反日行動の禁止」を含む一段と強硬な要求をつきつけた。これより以前、陸・海・外3省合同会議では「責任者の処罰」のみを決定していた。酒井と高橋は、国内で政治決定された内容を吊り上げたのであった。
国民政府は屈服し、6月10日、睦隣敦交令を発し、排外主義の是正を国民に訴え、6月4日の全要求を受諾することを伝えた。
翌6月11日、高橋は北平分会を訪問し、付帯事項を要求した。
- 中国側は約束した条項を規定時間内に履行する。日中関係を妨げるような人物や組織を2度と河北に入れない。
- 日本は省・市の職員を任命するとき、日中関係を妨害することなない人物を選ぶことを希望する。
- 約束された事項の履行について、日本側は監視および糾察お手段をとる
これは5月29日の内容をエスカレートさせたもので、河北省全部にわたり、日本が行政の監察権を得るのに等しい内容である。高橋がなぜこのようなことをしたかといえば、5月29日の内容が日本政府の決めた最低限の要求、すなわち、責任者の処罰を上回った内容であるため、陸軍本省から褒められ、同じことをやれば再度褒められると思ったからである。
これによって蒋介石が不必要な屈辱感をもったのは想像にかたくない。
ただし、日本側が「梅津何応欽協定」だと騒ぎまわったのは、付帯事項がついた内容であった。
高橋坦は戦後「日本側の要求の中には中国の内政に関する事項が少なくなく、しかも広汎かつ強烈で、排日根絶のためとはいえ、いささか行き過ぎであったと思うが、天津軍としては当時中国側の執拗なる反満反日に対するもっとも徹底した手段であると確信して立案し、関東軍と連絡の上、中央の認可を受けたものである」と語っている。
高橋は真実を語っていない。なお高橋もB級として無期徒刑となり、昭和28年に釈放された。
土肥原=秦徳純協定
1935年6月5日、内蒙アパカの特務機関員、大月、大井、山本ら4名が張北南門で宋哲元軍によって拉致・監禁された(8時間後釈放)。
土肥原奉天特務機関長は早速、宋哲元軍の参謀長秦徳純と交渉し、次の各項目を認めさせた。
一、張家口・張北南側以北にわたる宋部隊の南方への移転
二、排日機関の解散
三、遺憾に意の表明、責任者の処罰
以上の2週間以内の実施、付帯事項として、
一、蒙古人圧迫の停止
二、日本人旅行者の援助
三、日本軍事設傭(飛行場、無電台たど)の援助
四、軍事及政治顧問の招聘
五、撤退地域の治安維持は停戦地区に準ずる
この事件は元来ささいな事から発生し、そのうえ内容が奇妙である。すなわち、宋哲元軍はこの協定によって張家口から北平に移動することが可能となった。宋哲元は馮玉祥の部下であり、いわば北洋軍閥直系であるが、このときは中原大戦による敗残軍に過ぎなかった。宋哲元軍(29路軍)を事実上北京の主になることを容認しているのである。
関東軍は宋哲元南下を歓迎した。この理由は満州国に隣接している察哈爾省について、蒙古独立工作を企画していたためである。この企画は辛亥革命のときから、川島浪速らによって進められいたが、福島安正・建川美次らの戦争英雄も濃密に関与していた。企画失敗の責任をとらされ両者とも大将になれずじまいであった。
「蒙古独立工作」は何か日本人の琴線にどこか触れるものがあったのかもしれない。
土肥原は五族協和について、満州事変勃発直後の会議ですでに語っている。五族とは、日本・朝鮮・漢・満・蒙をさす。会議は三宅参謀長が主宰し、土肥原・板垣・石原・片倉(衷)が参加した。
土肥原は、そこで「日本人を盟主とする在満蒙五族共和国」を熱心に主張した。だが、満州においては漢族が90%以上を占め、そのうえ満族や蒙古族は自己の言語を失いつつあった。
土肥原の発想には、「分割統治」または「夷をもって夷を制す」というところがあって、華北についてこのころから、軍閥同士を競わせ、日本の出先機関がそれを統御する方法を念頭においていたのであろう。
先の梅津何応欽協定にしても、土肥原の発想を抜きには考えられない。宋哲元についても御しやすい人物として、自分の手駒のように使いたかった。また、土肥原は、青木・坂西と連なる支那通本流に属していて、北京政府をつくった北洋軍閥への思い入れが深かった。宋哲元は連ソを唱えた馮玉祥の部下であっても、流れは北洋軍閥直隷派の末なのであった。
白堅武事件
梅津・何応欽協定によって国民党北平分会は主を失い、何応欽の代わりに黄郛が派遣されたが、北京外交団に忌避され、南京に戻った。河北省政府は保定に移り商震が主席に就任した。干学忠軍と国府中央軍も南下し、北平には政治的軍事的空白が生じた。
6月27日、白堅武が石友三の支持によって、突然、豊台で蜂起し、列車を乗っ取って永定門から北平に入ろうとした。部隊は300人くらいであったが、志村正三など日本の大陸浪人も加わっていた。
だが、白の計画を事前に察知した商震の命令で北平を守備していた万福麟の部隊に簡単に鎮圧された。白は関東軍の資金(中堅幹部ですら自由になる公金がある有様だった)を受け取っていた可能性が強く、また事前に蒙古工作に執念を燃やしていた板垣征四郎ら幹部と面会を繰り返していた。
北京外交団(このころ大半の国は北平にまだ公使をおいていた)は、日本の関与を疑い照会を入れた。外務省は志村を直ちに帰国させた。
州事件
8月4日、河北省政府の戦区特警第3総隊長劉佐周が
州駅で何者かに銃撃され射殺された。塘沽停戦協定の非武装地帯で起き、唐山守備隊長温井親光を狙撃し、弾がそれたものだった。手口からみて、藍衣社の犯行とみられたが、現行犯逮捕に失敗した。
陸軍中央は関東軍が河北内政に関与することを防ぎたかったのか天津軍に捜査を任せた。当初、軍事委員会北平分会の仕業であると疑ったが、真相解明に失敗した。
8月末、北平政務整理委員会が廃止された。同時に宋哲元を平津衛戍司令に任命した。5月29日に酒井隆(天津軍参謀長)が要求していたものであった。狙いは国民党の華北統治機構を弱体化であろう。
9月、天津軍司令官多田駿が、「国民党および蒋介石政権を北支から除外するためには、威力の行使もやむを得ない」すなわち、国民政府と華北の統治機構の分離を支持する声明を出した。北支とは、察哈爾・河北・山東・綏遠・山西の5省を指した。このうち、察哈爾と綏遠は現在内モンゴル自治区に属しているものの、河北(直隷)・山東・山西の3省を喪失すれば中国の一体性がなくなるのは明らかであった。満州事変における内国民の意識は、「満州は中国固有の領土ではない」であった。この延長線からいえば、北支は中国固有の領土である。
2カ月半後の10月29日、高橋坦と天津軍参謀中井増太郎は、商震に「遺憾の意を表す」「犯人の逮捕」<軍事委員会北平分会の解散・北平市長袁良の解任><将来、反日満機関を北上させないこと>の4点を要求した。前2点は河北省主席の治安維持上の責任を問うたもので、陸軍中央の了解をとったものであった。後2点については高橋・中井が吊り上げたものである。支那通を先頭に陸軍若手将校や若手外交官は外交慣例を無視し、暴走した。
国民党内部では「日本人は我々を奴隷にする積もりなのか」(蔡元培)という声が出、日本側では「支那問題は当面の間押しの一手なり」(須磨弥吉郎南京総領事)という状態であった。
リースロス幣制改革
リースロスは、9月6日、東京を訪問、広田・重光に面会し幣制改革を説明したが、二人は「時期尚早である」と反対した。
11月8日、大使館付武官磯谷【いそがい】廉介は「出先軍部として国民政府のこの度の幣制改革には反対である。日本政府は反対の態度を明らかにし改革を中止させるべきである」と声明を出した。
冀東政権の樹立
土肥原は天津にきて新たな工作を開始した。河北省東部の塘沽停戦協定による非武装地帯に冀東政権という「独立政権」を樹立を計った。
土肥原は
楡区行政督察専員殷汝耕に働きかけ、11月23日、天津の旅館で日本酒で「独立」を合意した。11月24日、殷汝耕は「冀東防共自治委員会」を発足させ、国民政府からの離脱を宣言した。11月26日、国民政府は殷汝耕の逮捕令を出した。
冀察政務委員会
国民政府は冀東政権に驚き、何応欽を急遽、北平に向かわせ、河北省に新たな政権樹立を目論んだ。
宋哲元を委員長とする冀察政務委員会(冀とは河北省をさし、察とは察哈爾省をさす)を12月18日に発足させた。宋はこの政権が国民党の道具にされるのを恐れ、政務委員17人のうち王克敏ら「親日派」を7人程度入れた。宋が土肥原と人事について了解工作をしたのは明らかである。もちろん陸軍中央は親日派など誰も知らない。
この冀東政権と冀察政務委員会は、梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定の直接の結果である。なぜかといえば、両協定の骨子は国府中央軍の両省からの撤退である。だが、代わりにどこかの軍隊、それも相当の兵力を入れなければ治安が維持できないのである。
冀東政権は、土肥原が何か長期的計画をもって実行したものではない。あちこちの北洋軍閥系の著名人に声をかけて断られた結果であった。当時、
東と呼ばれた冀東政権の地盤(同時に塘沽休戦協定の非武装地区)は、関東軍と中央軍が撤退すると、石友三と李際春の軍閥兵が跋扈しだし、かえって治安を悪くなった。このため両軍に撤退を求めたら、今度は土匪が暴れだし手がつけれなかった。
要は中国における統治とはまず治安維持であって、警察目的の軍を駐留させることであった。冀東政権をつくって、保安隊をつくることを命令しても隊員は土匪か軍閥兵から募集するしか方法がなかったのである。
梅津・何応欽協定の当事者である高橋坦は戦後になり次のように語っている(『昭和史の天皇』(15)読売新聞社)。
「かくて北平、天津一帯には逐次察哈爾省から移駐した宋哲元軍と軍と河北省中部から移駐した商震の軍閥軍隊が駐屯するようになった。
日本側として、この要求が有利であったかどうかは疑問である。私としては北支における反満抗日をやめさせるためには、北支に南京中央政府の有力者がおってその衝に当たり、日本側はこれと折衝することによって最も効果を収めることが出来ると思う。
王克敏を委員長とする華北政務整理委員会や何応欽を主任とする軍事委員会の存在は、誠に当を得たもので、これを存続することが日支両国にとり有利であると思っていたが、梅津・何応欽協定の結果、中央軍の撤退にともない、この二つの重要機関が自然に撤収せられ、外様大名たる宋哲元を主席とする冀察政務委員会が、これに代わることとたったことは、大勢上やむを得なかったかも知れぬが、はなはだ遺憾なことであった」
とにかく、日本軍全軍をもって中国全土の治安維持にあたるなどは国軍の本末転倒であろう。北支工作にあたった梅津・板垣・土肥原・酒井・高橋は全て第2次大戦後、連合国戦犯裁判にかけられ、板垣・土肥原・酒井は処刑された。
北支工作は主として陸軍があたった政治工作であるが、少なくとも陸軍中央の支持はあった。こういった政治工作は中ソなどの共産国家が戦前・戦後日本に仕掛けてきたものと同一である。ただ、このときの中国は国民党独裁にあり、国民党からの分離をいうことは、中国からの分離と同義にきこえたのは間違いない。蒋介石は翌年に入ると、北支工作への反撃として、テロの実行を開始した。
第2次大戦後にいたっても蒋介石は、この北支工作に関与した支那通軍人への憎しみを失わなかった。 BC級戦犯として国民政府によって処刑された軍人は昭和殉難者法務死氏名録によると167名に達する。蒋介石は「以怨報徳」(『論語』(憲問篇)「或曰、以怨報徳、如何。子曰、何以報徳。以直報怨、以徳報徳。からの引用であるが、孔子はそのような虚飾を用いず、怨みには直接的感情に訴えろという)と戦後大分たって宣言した。これこそ虚言であろう。
蒋介石は、孔子の助言通り「以直報怨」で、日本人支那通軍人に応じたに違いない。
戦後支那通(チャイナスクール)が蒋介石の「以怨報徳」を崇めるのは、「論語読みの論語知らず」以下であって、笑止である。
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