西ローゼン協定

西ローゼン協定は従来あった小村ウェーベル協定と山縣ロバノフ協定を置き換えたものである。この協定の出来上がった経緯は、従来の現地での交渉の結果出来上がった二つの協定とは完全に異なり、ヨーロッパ外交の中で締結されたものである。

日清戦争後、日本は朝鮮については政治的に清国から独立させることに成功するとみなした。その後三国干渉により遼東半島から撤退を余儀なくされると、国内では「臥薪嘗胆」の声があがり、富国強兵策とヨーロッパ外交に地歩を求めることに意を注いだ。その点で対李朝工作といった現地工作は閔妃殺害事件をきっかけに放棄された。問題の中心は日本の安全保障であって、朝鮮の政治経済近代化ではなくなり、儒教外交から近代外交への転換でもあった。

1897年11月、ドイツが宣教師殺害事件というささいなことをきっかけに、膠州湾に上陸、清兵を200人という少数の兵士で蹴散らすという武力行使に出た。これに清朝は、露清秘密攻守条約に頼るだけで、何も出来なかった。ヨーロッパ各国は、時間の問題で中国は五大国(英独仏露伊、オーストリアはいっさい海外植民地に興味を示さなかった)と日本によって分割されるのではないか、と観測した。

1884年のベルリンにおけるアフリカ分割会議が想起されたのである。

最大の問題はロシア極東艦隊の越冬問題であった。カシニー密約によって清国はロシア艦隊の越冬地として膠州湾の提供を約束していた。膠州湾がドイツのものになれば、ロシア極東艦隊は行き場がなくなる。独露は極東では同盟していたが、ヨーロッパでは露仏同盟vs三国同盟で対立する間柄であった。ヨーロッパに緊張が走った。

ところがドイツ皇帝ウィルヘルム二世とニコライ二世との間には了解が存在したようにみえた。ウィッテは、海軍大将アレクセイ・アレクサンドロビッチ大公がニコライ二世がこういうのを聞いたと書いている。

(1897年7月、独帝がペテロホーフを訪問したおり)「ドイツ皇帝は馬車の中で、ドイツはある目的と自国の利益のためドイツ艦隊の根拠地として支那の膠州湾を占領したいのだが、ロシア皇帝の同意なしにはこれを決行することを欲しない。ロシアの艦船がまだ一度も碇泊したことのないこの膠州湾がロシアに必要であるかどうか、と僕に質問した。これは非常に不愉快なことであった」(『ウィッテ伯回想録』上)

ドイツは、1897年10月のドイツ人宣教師殺害事件の3カ月前から、膠州湾獲得についてドイツはロシアにたいして了解工作をしていたというのである。

ウィルヘルム二世はニコライU世に次のような手紙を送っている。

「深い感謝の気持ちとともに、私はあなたと過ごした楽しい時間を思い出す。そこで交わされた会話では、主上の中の主上によって定められた任務の実現のためある原則について一つの意見をもった」(1898年1月4日付け)

「私は旅順におけるあなたの成功した作戦について心からお祝いを申し上げる。我々二人は渤海湾口のよき歩哨となることであろう。我々は「黄色いヤツラ」"Yellow Ones"(原文英語)に尊敬されることになるだろう。同様に朝鮮における優れた外交手段によって、苛立つ日本野郎"fretful Japs"の感情を宥めたことにもお祝い申し上げる」(3月28日付け)

ウィルヘルム二世というべきか、ドイツ人というべきか、その品のなさに「主上」も驚いたことであろう。この手紙そのものはともかく、外交政策については、当時外務省の実権を掌握していたホルスタイン政務局長の了解を得ていたことは確実である。

ニコライ二世は、1月4日付けの手紙については事実ではないとして反論した。これはニコライ二世の臣下への言い訳(外交政策を独断で決定した)に過ぎず、ウィッテの回想が正しく、ドイツの膠州湾獲得について了解したのではなかろうか?

ローゼン(Roman Romanovitch Rosen, 1847-1921)
先祖はナポレオン戦争のボロジノの戦いにも現れる、文武の名門であった。職業的外交官貴族として20歳で外務省に入り、セルビア公使のあと1897年駐日本公使になった。ミュンヘンやアテネ駐在のあと1902年、再度駐日本公使になり、日露戦争開戦を経験した。ロシアの外交官は軍人との接触がほとんどなく、戦争阻止に動ける地位にはなかった。ポーツマス講和会議が開催される運びとなると、駐アメリカ大使となり、ウィッテの次席全権として参加した。1911年までアメリカに留まったが、召還され、上院議員となった。十月革命後、スウェーデンに移住、そのあとアメリカに脱出した。

ドイツ外務省は、1897年12月から膠州湾獲得についてヨーロッパ五大国とロシアを通して日本に了解工作を展開した。これが当時の「ヨーロッパ・コンサート」と呼ばれた外交であった。どの国も植民地をめぐって本国間での戦争を望まないことが基礎になっていた。紛争の前に外交で利害を調整するのである。

1898年初頭から、ロシア及び英仏から朝鮮に関して具体的提案があった。林董駐露公使、加藤高明駐英公使、栗野慎一郎駐仏公使がその任に当たった。3月28日、ロシアは一方的に軍事顧問団の撤退を表明した。

俄館播遷

1898年4月25日、西徳次郎外相とローゼン駐日ロシア大使の間で、西ローゼン協定が締結された。表面上の文言はともかく、ロシアは朝鮮における軍事行為は行わず(開港地への薪炭補給、休養を除き)、日本の経済上の優越を認めた。

ロシアは西ローゼン協定を英仏独との妥協手段として日本への一時的譲歩と考えた公算が強い。ロシア人のアジア人種についての偏見は抜き差しならぬものがあった。1900年、ロシアの駐日武官ワノフスキーは本国に以下のように報告している。

「日本軍は未だに内部組織の混乱から抜け出ていない。日本軍が精神的基盤を自分のものにし、その上にあらゆるヨーロッパ式軍隊の組織をつくり、ヨーロッパ最弱の小国に太刀打ちできるようになるまでには、数十年、おそらく百年はかかるであろう」

当時の言葉であれば、朝鮮は日本の「影響圏」"Sphere of Influence"に入ったのである。これの見返りは旅順・大連租借と東支鉄道南満州線建設承認であったことは疑うに固くない。この段階ではロシアの満州全体についての影響圏は認めていないが、事実上の満韓交換の成立とみなされたのである。

日本国皇帝陛下の外務大臣西男爵並全露西亜国皇帝陛下のコンセイエー、デター、アクチュエル侍従特命全権公使ローゼン男爵は之が為の各相当の委任を受け千八百九十六年六月九日、五月二十八日モスコウに於いて陸軍大将山縣侯爵とスクレチール、デター、プランス、ロバノフとの間に調印せられたる議定書第四条に準拠し左の約款を協定せり

第一条 日露両帝国政府は韓国の主権及完全なる独立を確認し且つ互に同国の内政上には総て直接の干渉を為さざることを約定す

第二条 将来に於て誤解を来すの虞を避けるが為め日露両帝国政府は韓国が日本国若は露国に対し勧告及助力を求めるときは練兵教官若は財務顧問官の任命に就ては先づ相互に其の協同を遂げたるに非ざれば何等の嘱置も為さざることを約定す

第三条 露西亜帝国政府は韓国に於ける日本の商業及工業に関する企業の大に発達せること及同国居留日本国臣民の多数なることを認めるを以て日韓両国間に於ける商業上及工業上の関係の発達を妨害せざるべし

千八百九十八年四月二十五日東京に於て本書二通を作る
西(印)
ローゼン(印)

(カタカナ文を平仮名文に改めた他、現代漢字に修正した)

この協定についてウィッテはこう述べている(『ウィッテ伯回想記』上)。

我々はニコライ二世陛下が即位の当時に日本と締結した協約(山縣ロバノフ協定を指す)によって、朝鮮で優越的な勢力を占めていた。ロシアは朝鮮に軍事顧問をもっていた。かなりの駐屯軍隊ももっていた。

最も意義のあったのは、朝鮮の財政を一手に掌握したいたことである。私はこの協約にもとづいて、朝鮮王府の財政顧問を任命した。この顧問は実質において朝鮮大蔵大臣の仕事をしていた。この顧問はかって私の下の収税局長をしていたアレクセイエフであった。

当時アレクセイエフは財政問題については朝鮮王国で完全な勢力をもっていた。彼が朝鮮の全財産経済を漸次手中に収めつつあったことは疑いもない事実である。

ところが関東州の占領は恐ろしく日本の心配の種をまいてしまった。その結果、ムラビヨフ伯(外相)は日本との衝突を怖れ、日本の要求によって、朝鮮から軍事顧問と駐屯軍を引上げさせた。そのために朝鮮王の顧問アレクセイエフも朝鮮を去らねばならなくなった。かくて朝鮮における軍事的勢力や経済的勢力は、ロシア代表の手から日本代表の手に移されることになってしまった。

1898年4月13日(露暦)に日本と締結した協約は、日本を安心させる手段に外ならない。我々はこの協約によって、朝鮮を日本の実際勢力の下に提供してしまったのである。ところが日本はこの協約を当座の手段だと解釈した。

もし我々がこの協約を正直に守り、ただ紙の上ばかりでなく、この協約の精神にもっと忠実であったなら、言いかえれば、朝鮮を完全に日本の勢力下に渡してやったなら、恐らくロシアと日本との平和関係はいつまでも続いたことであろう。

ウィッテはこのあと大蔵大臣として、旅順・大連占領によって海軍力拡張に直面し、アレクセイ・アレクサンドロビッチ大公と相談し、予算外9000万ルーブル支出を決定したと書いた。ニコライ二世は非常に喜んだという。

これに限らないがウィッテの記述には非常に矛盾が多い。第1にウィッテは山縣ロバノフ協定によって朝鮮に優越的な地位を占めたとしているが、それは「紙」の文字の「解釈」に過ぎない。優越的な地位とは、軍事的裏付けなければ保持できない。海軍の優越とシベリア鉄道がなければ、ヨーロッパロシアから8千キロ離れている朝鮮の保持は不可能である。

第2に西ローゼン協定はロシアの外交的失敗というが、日本がこれによって旅大租借を黙認したのは確実であって、ウィルヘルム二世のいう「賢い外交的手段」であろう。もし朝鮮に軍事顧問団を残せば、日露開戦とともに開戦当日捕虜になっただけであろう。

旅順・大連占領とともに生じたのはじつは海軍問題であった。西ローゼン協定は、ヨーロッパ外交枠内の取り決めであって、カシニー密約のように背反すれば、ヨーロッパにおけるロシア外交が問われる。

三国干渉をやりながら長崎に休養地を求めるといった日本との「曖昧な解決」は不可能になった。旅順が不凍港・恒久的軍港になると、その防衛が問われる。すると旅順艦隊は日本艦隊に海戦で勝利する作戦能力があるか検討されねばならなかった。ペテルブルグの海軍軍令部はニコラーエフ海軍大学で、1899年から、日露艦隊決戦の図上演習を開始した。

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