柳条溝事件
1931年(昭和6年)9月18日、夜10時半、満鉄線が奉天近郊の柳条湖附近(柳条溝は奉天駅の次の駅。爆破は奉天駅・柳条溝駅の間で発生した)で爆破された。この爆破は独立守備隊第2大隊第3中隊長川島正大尉(このとき文官屯附近で演習中)が河本末守中尉、小杉軍曹ほか5名に命じ、実行された。ただし、河本中尉は事前に爆薬を設置していて、点火したさいも小杉以下には、わからないようにやったという。
爆発そのものは小規模なもので、線路の片側だけ1本が1メートル程度吹き飛んだだけである。直後、この上を通過した列車は無事通過している。
河本中尉は、爆発音を聞いて様子をうかがいに出た奉天軍兵士を射撃した。銃撃戦に発展し、そこに川島大尉の部隊が到着し、本格的交戦となった。川島大尉の報告をうけた上司の独立守備隊第2大隊長島本正一は隷下の第1・第2中隊と撫順にいた第4中隊に出動を命じた。
さらに大隊営所内に据えつけてあった24センチ榴弾砲も奉天軍の本営であった北大営に砲撃を加えた。この24榴は、永田鉄山陸軍省軍事課長の斡旋によって、7月に旅順から移送されたものだった。
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南陸相や金谷参謀総長までがこの計画に参画しあるいは指導していたとは言えないが、陸軍省では軍務局長、軍事課長、参謀本部では第一部長、第二部長以下中堅階級の主なものは直接間接に知っていた。小磯はかなり細部の計画まで知っており、永田は直接関東軍の土肥原大佐、石原中佐と連絡していた。(中略)
翌朝(9/19)早く永田の私邸を襲うと、まだ寝ていた。起きるのを待っていると「どうだ、北大営は占領したろうね」と応接室の扉を排して出てきた。目が赤く充血している。
「今朝はまだ社に寄っていませんから、その後の状況は知りません」と言うと、「あの要塞砲を旅順から運ぶのには苦心したよ。支那人の目につかないように、いや、日本人にだって知らすわけにいかないのだから、石原は非常に慎重にやったんだ。おそらく敵の飛行機は完全な姿で格納庫にあるはずだ。雨だれ砲撃といって格納庫や兵舎の周囲に砲弾を落とすようにしていたんだが、うまく行ったかな」
と、前からの計画の概要を大体話してくれて、
「これは君の肚にしまっておくんだよ、いま書かれては元も子もなくなるから」
と洪笑した。昨夜の小磯の言葉と、今朝の永田の説明をきいて、これは永田の方が一枚役者は上だなと感じた。
高宮太平『昭和の将帥』図書出版社1973)
高宮は杉山元陸軍次官と特別に親しかった『朝日新聞』記者で、統制派よりの人物。石原莞爾の陸軍省側連絡役は永田鉄山であることがわかる。永田はリークや「脅し」で新聞記者を手なづけるのが巧だった。 |
このとき板垣征一郎関東軍高級参謀は奉天特務機関にいて、午後11時に島本に軍命令、当時、関東軍配属であった第2師団歩29(平田幸弘)に東大営に向う命令を出し、軍司令官に報告した。
本庄繁関東軍司令官は旅順の関東軍司令部にいたが、石原莞爾参謀の意見具申をいれ、遼陽にあった第2師団(多門二郎)司令部と歩16の奉天へ向う命令を出した。さらに午前零時、全幕僚を集め、奉天攻撃と朝鮮軍にたいする増援要請を決心した。そして本庄は午前3時30分、旅順にあった歩30を率いて自ら奉天に向った。列車は19日正午、奉天に到着した。
奉天・長春・営口・鳳凰城・安東の占領
これより前、本庄は軍命令を、午前1時半に電報した。
- 第2師団主力は奉天に集中し、攻撃占領
- 歩4は長春の警備
- 独立守備隊主力は奉天に前進
- 第3大隊は営口占領
- 第4大隊は鳳凰城、安東の占領
- 第6大隊の2個中隊は奉天に集中して第2師団長の区処をうける
9月19日、午前6時30分、独立守備隊第2大隊は北大営を占領した。ここは王以哲(のち孫銘九らによって西安事件で殺害された)の独立7旅が駐留していたが、遺棄死体320を残して撤退した。日本側戦死者6名であった。
北大営は奉天軍の事実上の本営であって、ここを占領されたことは、奉天軍将兵の士気を沮喪させたものと思われる。ここに駐留していた兵士は6800人といわれるが、当日の滞在者や将校と兵士の割合などははっきりしない。
戦時でなければ軍隊の営所に携行量以上の弾薬は保管されていない。この攻撃は寝込みを襲った卑劣なものであろう。奉天軍には指揮者もなく、部隊編成もされていなかった。
歩29は続いて奉天内城の南側と北側城壁を占領した。4時45分、第2師団が奉天に到着し、大した抵抗もなく、奉天城全域を占領した。そのあと、東大営と山咀子の兵営を攻撃した。
長春でも、寛城子と南嶺の兵営が占領された。ここは5800人が駐留しおり、奉天側も組織的抵抗が可能であったと思われる。日本側戦死者は66名とかなり多い。
正午、本庄が奉天に到着した。独立守備隊主力は馬官橋の兵営を攻撃した。
営口や鳳凰城でも無血のまま、奉天軍は武装解除された。このようにして19日中に作戦は終了した。奉天軍のう省長の指揮下にある省軍は兵力5万8000であったが、このように一夜にして消滅した。この事件について、張学良は「無抵抗主義」をとったと後になり主張したが、正しくない。長春などでは、営所内であるが、果敢に抵抗している。
戦時編成になく、また無警戒の軍隊の営所を襲撃して全滅させることは簡単である。また黒龍江省・吉林省・熱河省の他の3省の兵力はいずれも奉天省の半分以下であり、また地勢的に連合することは不可能であった。張学良がもっとも中核の兵力を日本軍と同居させたことに問題があった。奉天軍は張学良の私兵ではあったが、張学良は同時に満州に私的政府を維持しており、他の軍閥軍と比較すれば国軍の色彩が濃かった。
軍隊とは政府に寄り添うもので、将兵が政府が消滅したと認識すれば、同時に軍隊も消滅してしまう。
そして軍事的には、この日をもって戦闘は終了で、あとは掃討戦とみなすべきだろう。満州事変の当初の2日間について、「本庄司令官の卓抜な決断力」「作戦参謀石原の神算」「(東北の)第2師団の強靭な戦闘力」などで勝利したというのは、完全な誤りである。この2日は丸裸で寝ている敵を重砲弾を撃ちこみ「勝利」したもので、軍事的評価には値しない。ところが、国民や一部軍人までも、これを「壮挙」と思い込んでしまった。
日本の失われた20年の始まりであった。
日本の要路はこの事件が、パリ不戦条約やベルサイユ条約第10条に違反する侵略行為であると理解していた(石井菊次郎『外交随想』鹿島研究所出版会1967)。
日本一たび怒り満洲に在つては先づ奉天を陥れ、次で長春に吉林に斉々恰爾(チチハル)に錦州に到る所支那兵の挑発と抵抗とを撃退し、上海に在つても亦頑強なる支那軍を攻撃して之を敗退せしむるや、極東事件に暗き欧米公衆は言ふまでもなく国際聯盟に至るまで我国の行動を以て正しく聯盟規約第十条の「聯盟国は聯盟各国の領土保全及現在の政治的独立を尊重し且外部の侵略に対し之を擁護することを約す」とある規定違反に該当するものと思惟したるが如くにして、支那の提訴あるや聯盟理事会は直ちに之を受理して我軍の侵略的行動を阻止せんとしたり。
極東の事態に通ぜざる者より今回満洲事変を一見すれぱ聯盟理事会の態度は蓋し当然なるべし。事変の動機たりし柳条溝に於ける支那正規軍の我南満鉄道線路破壊は支那側の否認する所なるが、仮りに之を事実とするも謂ゆる自衛行動には自ら限度なかる可らず、現場に在たる奉天軍の攻撃は別とし現場を距ること数百哩に亙る長春、吉林、斉々恰爾の攻撃に至っては之を正当防衛と認むる克はずとは蓋し常識の明示する所ならん歎。(日附なし)
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柳条溝事件の計画
1928年8月、石原莞爾中佐が関東軍参謀に転勤してきた。また1929年5月、板垣征四郎大佐が、河本大作の後任として関東軍高級参謀として赴任した。1928年6月に張作霖爆殺事件が発生しているから、いずれも直後であった。
1929年8月、石原は北満参謀旅行で「関東軍満蒙領有計画」を説明している。日本軍ではなくて、「関東軍」といっているところがミソで、このときから満州に私的な(すなわち天皇が主権をもつ大日本帝国とは独立した)独立国をつくることを夢想していた。
同じ月に張作霖爆殺事件に関与した疑いで村岡関東軍司令官が待命となり、畑英太郎中将が着任した。畑は実直な軍人であって、徒党を組み天皇に弓を引くことを考える人物ではなかった。畑の在任中、石原は手も足も出なかった。だが、1930年5月、畑は急死し、後任に菱刈隆中将が任命された。1930年11月、中国出張のおり、奉天に立ち寄った永田鉄山陸軍省軍事課長は石原と板倉に24榴の奉天移設を黙契した。このときより前に、石原・板垣が関東軍による「私戦」計画を抱いていたのは確実である。
1931年5月29日、菱刈司令官は「満蒙問題解決が国運打開の第1歩であり、根本解決のためには挙国一致の一大英断を要し、軍は深く期するところがある」と訓示した。菱刈は「挙国一致」といっており、石原らの「私戦」とは一線を画していた。
6月27日、対ソ戦のため興安嶺方面の兵要地誌作成にあたっていた中村震太郎大尉と井杉延太郎予備曹長が、奉天軍の屯墾軍第3団長関玉衝によって殺害された。この事件は中村大尉事件と呼ばれた。さらに日本国籍をもつ朝鮮人入植者と奉天政府が入植地をめぐって対立した。これを万宝事件と呼ぶ。この両事件は日本国内に大々的に報道され、国民に憤激を引き起こした。さらに奉天総領事林久太郎が、奉天政府と交渉にあたったが、いっこうに成果を得られなかった。
南陸相は若槻首相と幣原外相に断乎たる姿勢と軍拡を要求したが、若槻は幣原に「何もいってくれるな」と要求するだけだった。第3次南京事件、済南事件そして幾多のテロ事件が中国大陸では連続しており、国民が文民閣僚を信用せず、陸軍に期待する傾向が現れていた。
幣原喜重郎は日英同盟が崩壊したあとの日本外交を担った。日英同盟破棄という代償を払いながら、ワシントン会議を乗り切ったが、幣原は英米から裏切られたという思いがあった。そして、その代償を中国に求めた。すなわち、日本が善意をもって接し、反英米を貫けば、中国は日本に振り向いてくれると思ったのである。だが中国人は、東夷である日本人の膝を屈せしめ、日本の既存権益は断乎として否認し、機に応じて外国民間人資産を没収するという方針を決して譲ろうとしなかった。
さらに第3次南京事件を隠蔽し、済南事件によって蒋介石の抗日意識が固まっても、なお中国への宥和方針をとり続けた。
幣原は英米と協調してテロを防ぐという方針を嫌い、軍部と外交方針を一致させることもできず、他の文民や軍人を軽蔑するばかりであった。
8月1日、本庄繁が新関東軍司令官に新補された。板垣と本庄は親しい関係にあった。赴任前から板垣が柳条溝事件の計画について打ち明けていたことは確実であり、同時に永田らを通して省部にも相当数の理解者を得た。板垣は石原と微妙な温度差があり、「私戦」より、政府の追認を得た方がよいと考えていた。一方、この計画と並行して東京では、クーデターにより、立憲君主制を崩壊させ、近代トルコのような寡頭制による共和国を樹立する計画が橋本欣五郎によって練られていた。この両計画は互いに了知されたうえで推進されていたのである。
9月14日、橋本欣五郎大佐から、「現地の計画がバレた」という電報が板垣に入った。この情報は林総領事から外務省に入った。金谷参謀総長は大いに驚き、建川美次作戦第1部長を満州に派遣した。だが建川は事前に「私戦計画」を知らされ、賛成した「同じ穴の狢」であった。9月15日朝、石原莞爾は18日決行を決めた。
柳条溝事件直後の東京の反応
東京への第一報は奉天特務機関長土肥原賢二大佐からで、「北大営西側で満鉄線が爆破され、支那軍隊が我が守備兵を襲撃した」というものだった。中村大尉事件、万宝山事件そして相次ぐ中国内のテロ事件によって、この第一報は陸軍部内でもそのまま信じられた。
柳条溝事件の真相は、当時から日本軍の犯行であると噂されたが、全貌が暴露されたのは、花谷【はなや】正(当時少佐・関東軍参謀)が『別冊 知性』 (昭和30年12月号 河出書房)に手記を書いてからである。
花谷手記
花谷の言によれば東京で共謀に参加したのは、参本1部長建川美次少将(花谷は「張作霖事件以来の経緯もあつて一番信頼がおける」と書く)、二宮参謀次長、支那課長重藤千秋大佐、支那班長根本博中佐、ロシア班長橋本欣五郎中佐、永田鉄山軍事課長、小磯国昭軍務局長である。大半のメンバーは十月事件首謀者と重なり、たんなる満州における騒乱ではなく、立憲君主制を否定し、自らの政権を樹立する考え方があったことを伺わせる。
土肥原の第一報により、19日午前7時から陸軍省部では、軍務局長小磯国昭中将、軍事課長永田鉄山大佐、参本次長二宮治重中将、総務部長梅津美治郎少将、第一部長代理今村均大佐、第二部長橋本虎之助少将の6名が出席した会議が開かれた。
出席者のうち3名が共謀者であった。
会議では小磯が「関東軍今次の行動は、ことごとくその任務に鑑み、機宜に適したものである」と発言、一同賛成して終了した。
午前10時から緊急閣議が開催された。閣議では幣原外相が林総領事から伝えられた情報をもとに「現地軍部の計画的謀略行為ではないか」と発言した。省部会議の結論に従って増援軍派遣を諮る積もりであった南次郎陸相はたちまち気勢をそがれ、閣議は不拡大を決定した。
午後2時からの陸軍三長官会議(南、参謀総長金谷範三、荒木貞夫教育総監本部長)では、南は閣議決定を伝え、関東軍に不拡大方針を伝えることが決定された。
朝鮮軍では参謀神田正種中佐が共謀に参加しており、その手引きによって第39旅団は10時ごろ鉄道乗車を開始した。朝鮮軍が出師を起すには、閣議による予算支出決定と参謀総長の奉勅命令(天皇の了解のうえ、参謀総長が発する)が必要であった。だが、金谷参謀総長は満州への入境を認めないと連絡した。20日、朝鮮軍の越境が国内に伝えられると、国内世論は興奮し、朝鮮軍司令官林銑十郎を越境将軍ともて囃すありさまとなった。
国民は中国・満州内のテロに嫌気がさしており、それに無策な内閣に憤りを感じていたのである。第3次南京事件以降のテロにたいし何もしなかった幣原外交に対する批判が頂点に達した。22日、この行動は閣議で追認された。これ以降は関東軍の行動にいっさい歯止めがかからなくなった。
花谷は自国の外交官に刃を向けた
奉天総領事館の森島守人領事は、関東軍による北大営砲撃事件を憂慮し、蒋介石との交渉により解決する方策を模索しようとした。森島は関東軍の花谷正少佐に仲介についての了解を求めた(9月18日)。だが、じっさいには関東軍の花谷少佐が、中国人浮浪者を殺害し、ポケットに偽蒋介石密書をしのばせ、柳条溝における線路爆破をし組んだのである。この時点で森島は、柳条溝陰謀にまったく気づかなかった(おそらく気づいたのは1956年『知性』に掲載された花谷手記を読んでからであろう)。以下は東京裁判における森島の証言である。
「我々はこの事件(柳条溝事件)の調整の努力をするに当っては、平和的手段に訴へるべきである、又自分はこのやうにして満足に解決し得ると信じるといふことを彼に説得しやうと試みた。すると板垣大佐は私を叱咤して、総領事の任務は軍の指揮権に干渉するやうに企図されたかどうか知りたいものだといつた。
私は軍の指揮権の干渉に触れる問題は何もない。しかし私はこの事件は、普通の交渉により円満に調整し得るものと確信し、また後者の課程が日本政府の権益の立場より観て望ましいであらうといふことを主張した。
ところがこの点にきたとき、花谷少佐は怒った様子をして、刀を抜き、軍の指揮権に干渉することを主張するなら、その結果を負ふ覚悟をせよといった。彼は更に左様に干渉をする者は誰でも殺してしまふと言つた。花谷少佐のこの感情の爆発は、会話を途絶し、私は詳細に報告書を作成するため事務所に帰り、報告を作成した」。
軍の指揮権が、日本国政府の外交に優先するというのである。板垣征四郎は、これが訴因の一つとなり、絞首刑となった。石原莞爾は罪に問われず栄転した。花谷は戦後大分生き延び、貴重な証言をなした。
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錦州爆撃
9月22日の閣議で不拡大は再度確認され、関東軍の満鉄付属地への撤退方針が決められた。参謀本部は橋本第二部長を満州に派遣したが、軟禁状態に拘束され目的を果たせなかった。
この間に関東軍は吉林に進出した。中国は国際連盟に提訴した。
10月8日、石原莞爾は飛行機12機を指揮して錦州を爆撃した。国際連盟は大きな衝撃をうけ、日本の無法ぶりは世界に伝わった。アメリカのスチムソン国務長官(第二次大戦時の陸軍長官)は出淵大使を呼び「いかにも驚くべき出来事にして、端的にいえば日本政府の方針果たして出先軍隊に徹底い居るや否や疑わざるを得ざる状態となりたり」と伝えた。
これにたいし、幣原は出淵に「錦州爆撃事件は、あまり重要でなく、日本政府の真の意図を反映していない孤立した軍事行動にすぎない」という愚かな弁明をスチムソンに伝えるよう訓令した。文民にも日本のために体を張れる人物はいなかった。だが、この段階では中国におけるテロ、赤化勢力に対抗する日本という見方も多く存在した。
- フランス大使は、個人としては中国人には一度は「教訓を与えた方がよい」と思っていたと告げた。
- イタリア大使は、「秩序ある文明国の日本と混乱せる変態的な中国とは截然たる区別をして取り扱わねばならない。またもし満州から日本の勢力を排除すれば満州はけっきょくソビエトの勢力下に陥る」と述べた。
- イギリスのレディング外相は北平のランプソン公使に「中国にも慎重な態度をとり、日本人の生命や財産に損害を与えないよう勧告せよ」と訓令した。
国際連盟理事会で、すなわち多角的外交の場面で、柳条溝事件以降の情況が討議されると二国間における日本への同情は一歩引いてしまった。さらに、日本の外交官は関東軍を閣議が掣肘できないことを認識せざるを得なかった。芳澤謙吉は、16日、
「満州の情況は欧州諸国においては想像し得ざる状態である。敗残兵十数万がいて、馬賊は絶えず横行している。日本の今回の付属地外の出兵は戦争と称すべきものではない。いわゆる『植民地戦争』であって、欧州における侵略戦争にあたるものではない」
と演説した。この演説はイタリアのムッソリーニに影響し、エチオピア侵攻のさい参考になったかもしれない。
一方、中国の施肇基代表は「柳条溝事件以来今日まで中国本土において日本人の殺害されたものが一人もいない」と演説した。中国代表は中国のアキレス腱がテロ問題であることがわかっていたのである。
芳澤は満州における治安維持を目的とした出兵は許される、と主張したのであり、中国代表の「虞」と噛みあっていた。そして日本の国内世論の関東軍支持の声もテロにたいする嫌悪であった。ところが石原莞爾の欲望は、日本の国内世論に応えるものではなく、「満州独立王国」の建設であった。幣原外相はといえば、日本の国内世論に配慮せず、念頭には「外務官僚による外交の独占、外交官の福祉」しかなかった。
ところが、スチムソンは国際連盟理事会に代表をおくるなどしてシャシャリ出て、日本の「パリ不戦条約」違反をいい立てた。ただし、解決は2国間(日中)でなされるべきという見解を示した。
結局、連盟理事会では、13対1で「満鉄付属地への撤兵を11月16日まで完了させる」という決議案は否決(日本は常任理事国で全会一致原則)された。これは日本外交の敗北である。ところが石原莞爾らは「この爆破で連盟の日本に対する態度は急に悪化した」と喜ぶありさまであった。彼らは日本の国益は無視しており、本国が追討にくることはないと甘えるばかりであった。
「帝国の伝統を破り、天皇より独立分離せざるを得ず」
内地では橋本欣五郎が「クーデターモドキ」を計画していた。橋本はケマリストであった。すなわちケマル・アタチュルクの樹立したトルコ共和国を理想とし、同様の共和国を日本で樹立しようとしたのである。この年の3月にも三月事件を企画し、失敗していた。内容は宇垣一成を首班として荒木貞夫を陸相となすもので、手段は民間人に国会議事堂周辺でデモをさせ、それに呼応して陸軍が決起するというものだった。
宇垣や荒木は、酒席で声をかけられると、フンフンと相槌をうった。小磯国昭軍務局長は、話をもちかけられると、愛想笑をしながら、永田鉄山にペーパーで何か書けといった。途中で憲兵に捜査され、内部で本気かどうか疑った陸大卒軍人に密告され、途中で頓挫した。
橋本はこのとき、テロリストの岩田愛之助、回教学者の大川周明、社会主義者の西田悦らとも連携していた。さらに大本教などにも働きかけており、共和政体を目論んでいたことがわかる。
満州事変が勃発すると、橋本は好機とみたのか、再度、自分と親しい桜会に属するエリート軍人に声をかけた。
10月24日決行と橋本は決定し、桜会メンバーに赤坂・新橋・四谷の料亭で参加を促した。橋本の満鉄から流れてくるとみられる金をただ湯水のように芸者にまく姿に愛想を尽かせ、同志は、一人また一人と去っていった。10月17日、憲兵隊は首謀者12名を一斉検挙した。
これが十月事件である。
十月事件
10月17日、関東軍は橋本の拘束をきくと、「帝国の伝統を破り、天皇より独立分離せざるを得ず」と参謀本部に電報をおくった。
陸軍大臣は関東軍司令官に、陸軍次官は参謀長に、軽挙を戒める電報をおくった。本庄は、
「関東軍が聖代に許すべからざる不羈を謀り、しかも大臣自ら之を確信せらるるが如き驚くべき電報を拝し君国のため、真に遺憾にたえず・・・」
と返電した。本庄は板垣・石原の態度について、許しがたいものを感じ、叱責したに違いない。
このころ、板垣・石原・花谷は酒を飲むと、
「この計画は前からちやんと企ててあったので、既に七月二十五日には奉天に砲列を布いておいた。我々はこの計画に成功したのだから、次には内地に帰ったらクーデターをやって、政党政治をぶつ毀して、天皇を中心とする所謂国家社会主義の国を建て、資本家三井、三菱の如きをぶつ倒して、富の平等の分配を行はう。必ずやってみせる」
と公言していた(外務省亜細亜局第1課長守島伍郎の証言)。
石原や板垣は、社会主義を理想としていた。軍人というより革命家であって、事実、軍事的な興味については10月以降急速に失っていった。参謀本部は、9月23日ハルビン方面への派兵を中止させ、11月24日チチハルから撤退させ、11月27日錦州への派兵を中止させている。
関東軍司令部とはじっさいには政治集団であった。このとき隷下にあった第2師団はあくまでも仙台に本拠を置く師団であって、定期的に他の内地師団と交代していた。関東軍司令部と精神的な意味における忠誠心は持ち合わせておらず、参謀本部が断固とすれば、関東軍司令部は無力であった。チチハル攻略戦以降の作戦全ては、参謀本部の命令によったもので、関東軍司令部が企画したものではなかった。
石原や板垣は、参謀本部と司令官の断固たる決意に合うと屈服し、満州に独立国構想に邁進し、そのための政治的謀略にかかった。11月27日、革新貴族であった木戸幸一は日記に、
「軍部以外には何等国の前途にたいする確固たる政策の存せざりしことが遂にこの破綻をきたす原因なり」
と書いた。木戸ら国内文民も、官僚統制による社会主義的施策が日本のとるべき国策と思い込んでいたのである。
参謀本部は作戦について掣肘したが、満州をどう統治するかについて方針を持ち合わせていなかった。
第一次天津事件
11月8日、天津の中国側軍警は、帳璧や李際春などの不穏分子が日本租界に潜伏しているとして、拘束、引渡しを求めた。日本側が拒絶すると、午後8時から戒厳状態にして、日本租界の出入り口を交通止めにした。
午後11時、日本租界内の海光寺に集結した武装した中国人2000人が、租界外に出て、示威行動を始めた。
11月9日午前4時、天津軍司令官香椎浩平は中国軍警を日本租界から300メートル下げることを河北省主席王樹常に要求した。午前5時半、王は要求に応じた。だが、この暴動は14日まで続いた。
これらの事件は全て土肥原の陰謀であった。本庄は、9月25日、訓令を与えており、香椎にも連絡していた。溥儀を新満州政権の長にする構想は以前からあり、1930年9月には、河本大作が、小磯国昭の了解を得て、溥儀を訪ねたことがあった。今回の工作は、9月20日、建川美次が本庄との会食のさい持ち出されたものと信じられている。
外務省・天津領事桑島主計は、これを「時代錯誤」であるとして、止めに入ったが相手にされなかった。時代錯誤なのは幣原=外務省であって、このとき本庄や建川の思惑を超えて、石原や土肥原は満州に「社会主義国」をつくろうとしていたのだ。
宣統帝溥儀が天津(このとき、日本租界内宮島街にある静園に暮らしていた)を脱出したのは、11月10日であった。日本人3名を含む5名の従者を従えて、仏租界の埠頭から1隻の端艇にのり、白河をくだり、客船淡路丸に乗船した。営口で甘粕らの歓迎をうけ、旅順の粛親王府に落ち着いた。
直前に溥儀は土肥原賢二と話している(『私の半生』)。
- 溥儀「この新国家は、どのような国家なのか」
- 土肥原「私がすでに述べたとおり、自主独立で、完全に宣統帝が主となるものです」
- 溥儀「私がきいているのはそのことではない。この国家は共和制なのか、あるいは帝制なのか、帝国なのか、ということを知りたいのだ」
- 土肥原「これらの問題は、奉天へ行けばすべて解決できます」
- 溥儀「だめだ」
私ははっきりと主張した。
- 溥儀「もし、復辟ならば、私は行く。そうでなければ行かない」
- 土肥原「もちろん帝国です。これは問題ありません」
- 溥儀「もし帝国であるならば、私は行こう」
私は満足の意を表示した。
なぜ土肥原は宣統「帝」を引きずり出すのに、「帝国」とすることに躊躇したのだろうか?そのあとできた国は「満州国」であって、「満州帝国」ではなかった。石原や土肥原の頭には共和制があって、「帝政」を否定したかった。
彼らは、ロシア十月革命のようなものを想定していたのである。
チチハル攻略
柳条溝事件直後の軍事行動によって奉天省は平穏となったが、吉林・黒竜江の両省の向背は定まらなかった。関東軍は9月21日、第2師団主力を吉林に派遣し、居留民を保護することにした。吉林省軍はすでに市内から退去していた。
一方、黒竜江省への対策としては、
遼鎮守使張海鵬に働きかけ、機をみて黒竜江省に侵入させることを考えた。ところが、黒竜江省の名目上の主席万福麟は北京にいながら、馬占山を黒竜江軍司令官に任命した。占山は直ちに
昂【とうこう】鉄道の嫩江【のんこう】第1・第2・第5橋梁を爆破した。
駐チチハル領事清水八百一は、鉄橋の修理を要求した。一方で関東軍は、11月2日までに泰来まで北上した。
占山軍と関東軍は、11月4日、交戦状態に入った。占山軍は大興付近に防衛線をつくり、頑強に抵抗した。しかし、6日には三間房まで退却を余儀なくされた。
関東軍は、馬占山の下野と黒竜江省軍のチチハル撤退で矛を収めようとしたが、占山は拒否した。16日から戦闘が再開されたが、最早抵抗できず、昂昂渓に止まっていた軍主力とともに北方海倫に逃走した。
第2師団(多門二郎中将)は19日、チチハルに入城した。この戦闘による日本軍の損害は戦死者58名、負傷者127名、この他に凍傷患者が996名でた。満州事変における最大の損害であった。
第二次天津事件
11月24日、土肥原は第一次と同じように再度、中国人数千人を海光寺に集め、租界外を攻撃させた。天津軍の一部も呼応して、中国人街を砲撃した。
銃撃戦は一晩中続いた。香椎天津軍司令官は戒厳令をひき、塘沽へ陸戦隊を招致した。この事件によって、国府発表によると死者4人、重軽傷者20数人が出た。
この謀略の狙いは何であろうか?
石原莞爾は錦州の一挙攻略を狙ったのである。これがため本庄の口頭了解をとりつつ、馬占山と交戦中であった第2師団のうち2個大隊を除いて、奉天に集中させた。さらに北寧鉄道の要地新民を攻撃占領させた。11月27日、先鋒は繞陽河に達した。
天津軍や朝鮮軍もこのとき関東軍に呼応していたが、その統帥に服していたわけではない。石原らは絶えざる独断専行によって、この両軍をかきまわし、中央の統帥から離脱させることを狙ったのだ。
省部の中の大多数は、関東軍の学良軍への攻撃について好ましいとみていたが、中央の統帥に服さず、あまりにも反抗的な姿勢をみせる板垣・石原を掣肘せねばならないと考えた。11月15日、「委任命令」の措置が講じられ、チチハルへの拡大を抑制しようとして「北満への積極的作戦は実施しない」命令が発せられた。
金谷参謀総長は二宮治重参謀次長を「中央の意図を伝達し、関東軍の行動その他をして中央部の意図に合致せしむるが如くこれを指導すべし」と訓令を与え現地に派遣した。だが二宮が奉天に到着した20日の直後に第二次天津事件が発生し、憂慮すべき事態になった。
石原莞爾という男に軍事的才能はまったくない。関東軍の事変当初の行動はチチハル作戦を除いては全て夜盗の如きやり方であるに過ぎない。これまでの各国軍隊の模範となるべき栄光ある行動という姿は消滅し、そこには物資主義的思想しかない。石原のやり方は、わざと人の嫌がることをして自己を顕示するといったものであった。
参謀本部は「万一司令官にして命令に服従せざる場合においては重大な結果を招来するものとして、中央においても大なる決断的処置を考慮中なり」と打電した。本庄、板垣、石原を更迭するという含みであった。本庄は、石原に「誓願休暇願」を書かせ、土肥原を叱責し召喚した。錦州方面の作戦は中断された。
国際連盟第3次理事会
ドーズ Dawes,
Charles Gates(1865-1951)
アメリカのスティムソン国務長官は、事変の拡大について日本のパリ不戦条約のアウトライトな違反であるという認識を固めつつあった。共和党員のスティムソンは、国際連盟不参加が象徴的に示すような「孤立政策」からアメリカも脱却する必要があると考え始めた。
アメリカは、ジュネーブからパリに会場を移して開かれた第3次理事会にオブザーバーとしてドーズを派遣した。11月16日からドーズは、松平恒雄(駐英大使)とサイモン(英外相)と裏交渉を開始した。
松平恒雄は、テロについて指摘せず、条約についても見解を打ち出せず、平和主義者であったサイモンの加勢を期待するだけだった。この当時の日本は軍事一流、外交二流なのである。松平はドーズの鋭鋒を交わそうとして、「開戦経緯は日本に非がない」ことを証明するため、調査団派遣を持ち出した。外務省はパリ不戦条約の解釈を独法または大陸法で理解し、柳条溝事件を調査すれば十分であると誤断した。
この3者会談には中国は招請されず、またイギリスは漢口事件や第3次南京事件で、国府軍・国民政府から重大な被害をうけ、非は中国側にありという見方をしていた。
調査となれば、石原らの方法ではテロを非難できず(作戦が対テロに向いていない)、満州人の独立運動だと主張しても、溥儀を連れて来たのが柳条溝事件のあとでは、有効なものにならない。また、パリ不戦条約とは現状の国境を前提にするものであって、国境線についての歴史認識などは問題にならない。
芳澤謙吉国際連盟日本代表は、11月21日、連盟調査委員の満州派遣を正式に理事会に提案した。12月10日、この案は正式に採択された。
これによって翌年いわゆる「リットン調査団」が派遣されることになった。
12月11日、調査団派遣が採択されたことを花道に、若槻礼次郎内閣は総辞職し、犬養毅が首相に推輓された。国民は幣原外交をもはや受け入れなかった。幣原外相の後継には芳澤謙吉がついた。
芳澤謙吉は、表にはださなかったが国民党支持者であり、この点で犬養と協調できた。幣原外交の破綻は、第3次南京事件と満州事変発生で明らかであり、「無抵抗」「宥和」外交に代わる外交が必要であることは朝野共通の認識となっていた。ただ、この当時のマスコミは「自主外交」を叫んだ。幣原外交が英米の圧力に屈しているとみたのであるが、じっさいには、英米強硬であり、対中宥和であったと気づくマスコミは少なかった。
国際連盟脱退
1933年2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)の賛成多数で可決された。
可決直後、「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と松岡洋右日本全権は表明し、その場を退席した。松岡はこういった大見得をきるのは得意であって、あたかも松岡の独断のようにもとられるが、じつはそうではなかった。
この時分、一番「脱退」を叫んだのはマスコミであり、板垣=石原の関東軍であった。ただし、東京の主役は、満州事変を主導しながら十月事件では火消しに動いた永田鉄山であった。永田は昭和7年8月の「荒木人事」によって参本第2(情報)部長になっていた。
白鳥敏夫外務省情報部長や本間雅晴陸軍省新聞班長はしきりに「脱退論」を新聞記者に述べ立てた。内田康哉外相は無論であったが、荒木貞夫陸相は迷ったようだ。永田は連盟規約15条を適用したら直ちに脱退すべきという意見であった.。
連盟規約16条は、「15条の条文に違反し、連盟のメンバーが戦争に訴えた場合それは事実上、他の全ての連盟のメンバーに対する戦争行為を犯したものとみなす」と定め、15条の国際連盟勧告違反に強い制裁を課していた。ただし、本条文はベルサイユ条約の一部であり、日本は条約当事国であった。
連盟規約自体に実効性が薄かった。英米法では「戦争防止が目的のベルサイユ条約において「戦争行為を犯したとみなす」といった文言から、戦争を誘発することは当然ないが、日本語や「独法」の世界にいた永田鉄山には理解が難しかったのであろう。永田は即座に脱退を決心、荒木に具申した。全体が脱退に動いていた以上、決定的であった。
錦州作戦
12月27日、本庄繁は錦州作戦を下令した。
この作戦は参謀本部の了解を得てやったもので、初めての「合法」の作戦であった。閣議では新任の陸相荒木貞夫が「軍事的合理性」を主張し了解をとりつけた。国際連盟における交渉を有利に進めるうえでも、奉天省(奉天・吉林・黒竜江が、清国時代の東三省=満州)の全面占領は必須と思われた(このとき荒木を筆頭とする皇道派は石原または本庄の行動に「よくやった」と理解を示していた)。
張学良軍には、機動戦的な冬季作戦を実行できる余力は残ってなかった。翌年の1月3日、錦州を占領したが、。張学良軍は無抵抗であった。
奉天と天津をつなぐ京奉線沿線には日本の天津軍が駐留しており、また海軍をもたない張学良軍は錦州・山海関・
州・天津の海沿い都市への補給は困難であり、鉄道を離れ、内陸部の熱河省にいくしかなかった。熱河省は湯玉麟が政府主席をつとめていたが、張学良と関東軍に両属する構えをみせ始めた。
錦州占領をきくと、スティムソンは、1932年年1月7日、スティムソンドクトリンを発表した。
スティムソン宣言
日本では、外交手段である「不承認」だけが意識され「不承認宣言」といわれたが、上記の通り、「パリ不戦条約違反」がその理由であって、日本の条約遵守の姿勢を問題にしていた。米国では、ハーレー国防長官は「外交声明は力によって支えられなければ無力である。日本は上海や満州で膨張政策を進めており、それは戦争によってのみ阻止できる。もしアメリカに戦争準備がないならば、無視されるに決まっている抗議に無益の言葉を費やさない方がましであろう」とスティムソンドクトリンに反対した。
イギリス政府は、門戸開放については支持するとしながらも「公式通牒を発することが必要とは考えない」と声明した。12月28日の犬養毅の「満州の門戸開放宣言を尊重する」との声明を出したのをうけたものである。英・仏・伊はむしろ、国際連盟の調査待ちの姿勢をとり、スティムソン宣言を無視した。
戦局も、1932年2月リットン調査団の結成から、その報告書が出た10月まで、動きがなかった。国内では、5月15日、5・15事件が発生し、犬養毅が暗殺された。代わって、斉藤実内閣が成立した。
満州国建国宣言
関東軍は前年から社会主義思想にもとづく国家樹立計画をもっていた。板垣征四郎は1932年1月、関東軍決起を説明しに上京した。その指示書の一節である(片倉日誌)。
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将兵ノ今次事変二際スル奮闘努力ハ是日清、日露二勝ルトモ劣ラザルモノアリ、サリ乍ラ下士兵ハ日露当時ト異ナリ労働運動乃至農民運動ヲ経過ツ来リシモノ多数ヲ占ム、故二彼等凱旋ノ後其ノ郷里ノ経済的悲況カ出征前ヨリモ尚悲惨ナルモノアルヲ認メ且満州ノ諸事業カ資本家、利権屋乃至ハ政党者流二依テ襲断セラレタリトノ感ヲ与フルトキハ彼等ハ省リミテ何ノ
為ノ奮闘殉難ナリシヤヲ云々スルニ至ルナキヲ保セス
若シ斯クノ如キコトアリトセハ我建軍ノ基礎二揺キナシトセス
又一面帝国ノ産業経済ハ殆ント行詰リアル事態ヲモ参照スルトキ今次満州問題ノ解決ヲ契機トシ我社会ノ社会政策ノ改善進歩二重大ナル考慮ヲ払フヘキ秋ナラサルヤヲ思ハシム
即チ
- 満蒙ノ地二集団移民ノ方法ヲ講シ出征兵二其ノ優先権ヲ与フルカ如キ
- 満州諸事業ノ有利ナル権利株ノ如キヲ国家保障ノ下二出征兵ノ郷国就中東北地方ノ社会事業費乃至教育事業費又ハ共有金等二依リテ収得セシメ以テ満蒙ノ事業ハ我等ノ事業ナリトノ観念ヲ彼等二与ヘシムルカ如キ
- 満州ノ廉価ナル石炭ヲ内地へ輸入シ之二依リ火力電カノミナラス水力電カヲモ著シク其ノ価格ヲ低下セシメテ延テハ各種工芸品ヲ安価ナラシメ一般社会ヲシテ之ヲ利用セシムルト共二外国製品二拮抗セシメ又此機会二我国内ノ電カヲ国有トシ統制セシムルカ如キ其他満州二於ケル鉄、肥料等諸種ノ安価ナルモノヲ輸入税ヲ低下ツテ一般人ノ利益ヲ図ルカ如キ等
総テ社会政策上大二考慮セラルヘキ問題ニシテ今回ノ満州問題二彼等自ラ奮闘セルコトニ依リテ日本カ潤ヘリトノ感ヲ抱カシムルコト緊要ナリ
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板垣征四郎は岩手県、石原莞爾は山形県出身であった。彼らのいうことは、出身地へ補助金を与えることであり、産業国有化であり、今どこにでもいる田舎代議士の利益誘導と変わらない。満州国の殖産興業といったところで、例えば国営製鉄所を鞍山に新設し、日本国内の製鉄所新設を禁止するなどの社会主義的「産業政策」であって、日本国内経済を低迷の淵に追いやるものであった。
1932年2月17日の建国会議記念撮影。前列左から馬占山、張景恵、本庄繁、熙洽、臧式毅。本庄のうしろが石原莞爾。右側にかかる垂幕に注意。「南無妙法蓮華経」は当時の社会主義を信奉する軍人の共通語であった。
北一輝は『支那革命外史』の巻末に「宇宙の大道、妙法蓮華経に非ずんば、支那は永遠の暗黒なり、印度独立せず、日本亦滅亡せん、国家の正邪を賞罰する者は妙法蓮華経八巻なり。法衣剣に杖いて末法の世誰か釈尊を証明するものぞ」と書いている。妙法蓮華経を「維新」「革命」に置き換えて読むのだという。
2月16日、関東軍が選定した各省のボスが集められた。いずれもその地域においては著名人であって、人選に偏りはない。吉林省主席の熙洽、奉天省の臧式毅、黒龍江省の馬占山、奉天市長趙欽伯が参加し「東北行政委員会」を組織し、新国家建設の準備を行うことになった。
関東軍はそれまでに「満蒙共和国大綱案」「満蒙自由国設立案大綱」を準備していたが、内容は民族の平等と民主政体を主張した。石原・板垣は、日本の財政に依存しながら、立憲君主制の日本、昭和天皇が君臨する日本とは一歩距離を置こうとしたのである。
だが、集められたボスの意見はいっこうに一致しなかった。最後は板倉らの案にもとづき、「人民の意志」にもとづくが、「満蒙における帝国国策の実行は軍司令部中心となり、新国家成立後は新たに政府内に創建せらるべき参議府の連関により遂行するのを本質とす」とされた。関東軍司令部によりいっさいの自由競争を否定する社会主義国家を運営しようとしたのである。
1932年3月1日、溥儀を執政とする満州国の建国が宣言された。だが建「国」とは裏腹に溥儀は、関東軍に誓約書を差し入れていた。この誓約書は日本の閣議にはかけられなかった。
- 満州国は今後の国防及び治安維持を貴国に委託しその所要経費は総て弊国において之を負担す。
- 弊国は貴国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理並びに新路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。
- 弊国は貴国軍隊が必要と認める各種の施設に関し極力之を援助す。
- 貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任じその他中央及び地方各官署に貴国人を任用すべくその選任は貴軍司令官の推薦によりその解職は同司令官の同意を要件とす。
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満州国とは、独立運動でできた国ではなく、関東軍の私生児であった。石原・板垣らが満州「帝国」でなく満州「国」としたのは、君主国とは異なり、あくまでも自分達が主権者になる余地を残したかったからである。溥儀が満州国皇帝の肩書きを得たのは石原らが東京へ去った翌年であった。
日本国内では2月、総選挙が行われた。政友会は304議席を獲得、民政党の147席を圧倒した。国民は幣原外交をまったく否定した。社会主義政党であり「帝国主義反対」を唱えた全国労農大衆党は空中分解し、満州事変を支持する日本国民社会党に変貌していった。また赤松克麿は社会大衆党脱退派とともに軍部を支持する日本国家社会党を組織した。
犬養首相は満州国独立に反対であった。元々、孫文ら国民党指導部と親交があり、国民政府に同情していたのである。犬養は満州国承認を拒否した。さらに、第1次上海事変によって国際環境は好転しつつあり、イギリスを中心とする欧州各国は、上海租界を防衛する日本軍に喝采をおくった。3月、犬養は石原莞爾を呼び満州国建国中止を要請した。石原は「日本から正式な中止命令を出せ」といってこれを断った。
第1次上海事変
5月1日、犬養は「極端の右傾と極端なる左傾、両極端は正反対の体系なれど、実はその間隔は毫髪の差であり、ともに革命的進路を取るもので実に危険至極である」と演説した。軍部内でクーデター工作を進めていた青年将校は、孫文のような容共主義者と交際し、かつ裏面で国民政府と外交交渉を行う犬養の自己撞着に怒った。
犬養毅は、5月15日、暗殺された。
荒木貞夫は「これら純真なる青年(テロリストのこと)がかくの如く挙措に出たその心情について考えてみれば涙なきを得ない」とのコメントを出した。
犬養内閣は僅か6カ月で終了した。犬養の残した負の財産は大きかった。まず犬養は大アジア主義者であった。この点で関東軍司令部や陸軍支那通と共通の基盤にたっていた。首相がいくら「大人物」であっても関東軍参謀如きと面談して意見を聴取してはならない。犬養は野党指導者が長く、憲政の常道を知らなかった。社会主義にかぶれた青年といくら話しても、分かりあえることはない。軍務課長如きが内閣人事に公然と口を挟むようになったのは犬養内閣からであった。
犬養内閣の後継は斉藤実が組閣し、政友・民政両党からも閣僚がでて挙国一致の性格をもたせた。外相職には内田康哉がついた。
朝陽寺事件
1932年7月17日、湯玉麟と関東軍の連絡任務にあたっていた関東軍嘱託石本権四郎が、北票から錦州に向かう列車に乗車中、突然騎馬隊が停車を命じられ、拉致された。場所は朝陽寺で、熱河省と奉天省の省境のやや北にあった。蒋介石はわが「抗日義勇軍」の行為と主張し、犯行を自認しているが、確かに動機は存在する。
ただちに救出のため、関東軍錦州駐留部隊が出動し、湯玉麟の朝陽寺守備隊と銃撃戦が生じた。石本は遺体となって翌年発見された。
張学良は蒋介石の強要もあって、4万ほどの兵力を熱河省に入れた。8月5日、蒋介石は張学良のところに張群を派遣し、関東軍との「決戦」を迫った。蒋介石からみれば、学良軍と関東軍が消耗戦を展開するほど有難いことはない。
8月6日、国民政府行政院長汪兆銘は張学良が徹底抗戦をしないことを理由に辞職した。8月8日には、張学良が北平綏靖公署主任を辞職すると中央に返電した。
8月16日、国民政府は北平綏靖公署の廃止を発表するとともに、新たに国民党軍事委員会北平分会を設立した。だが、宋哲元がこの方針に反対し、分会委員長に蒋介石、委員長代理に張学良が就任することで決着がついた。
7月、斉藤実はリットンと面会したが、関東軍を従来の守備位置、関東州と満鉄付属地に戻すというリットンの提案を受け入れがたいという判断を固めた。これによる外交的孤立を辞さないというものであった。斉藤実は、満州国承認に踏み切った。
満州国承認
国会は全会一致で満州国承認決議を行い、9月15日、日満議定書を締結、満州国を承認した。
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日本国ハ満洲国カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固(きょうこ)ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ為左ノ如ク協定セリ
一、満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民ガ従来ノ日支間ノ条約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ
二、日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確護シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス
本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生ズヘシ
本議定ハ日本文及漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ拠ルモノトス
右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ
昭和七年九月十五日即チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス
日本帝国特命全権大使 武藤信義
満州国国務総理 鄭孝胥》 |
「満州国はその住民の意思に基づき自由に成立し」は満州事変の経緯からすれば、明らかに欺瞞であろう。大日本帝国はこれまでこのような虚偽を実行したことはない。また、この時点で満鉄付属地を除く満州から撤兵しても「その住民が自由な意思で独立」したことは確実であろう。
加えて、満州国承認は9カ国条約違反を構成する。日本はこの条約によって中国領土の満州を加えた一体性を認めているのである。日本のマスコミは歴史的経緯から、満州と中国の違いをいい「(リットン調査団の)認識不足」と批判したが、日本のそれまでの外交については「認識不足」であった。中国は直ちにこの件を国際連盟に提訴した。
国際連盟総会は事実上小国によって支配されていた。日本は英仏伊と渡りをつける方針をとろうとしたが、外務官僚は熱心でなかった。関東軍の暴走のため、満州とは一体どこなのかすら説明できなかった。ただ、国際連盟脱退は確かに日本外交の失敗であったが、それで日本が「世界の孤児」になったわけではない。
斉藤の失敗は「関内作戦」を躊躇し遅らせたことだろう。国民政府を屈服させるには軍事的圧力しかなく、北平・天津のある直隷平原に踊りこまねば軍事的決着がつかないのは自明であった。熱河作戦は兵員の消耗する冬に実行され、関内作戦は国際連盟総会の後であった。昭和の政治指導者は果断という点で明治より劣っていた。
8月陸軍定期異動で、板垣・石原・片倉等の「満州組」は関東軍参謀部から更迭され、小磯国昭参謀長・岡村寧次参謀副長・遠藤三郎作戦参謀等が着任し関東軍の陣容は一新した。これまでの関東軍独走は宗教的独善に凝り固まった石原莞爾とそれの信者であった板垣という組み合わせ抜きでは考えられなかった。斉藤内閣は、この時点で、石原独走を追認しながら、保護領満州国樹立を「国策」としていった。
山海関事件
天津軍の守備する最北端が山海関であった。ここには小規模の日本人街があった。10月1日、満州国警察と山海関守備隊(学良系の何柱国の部隊)との間で銃撃戦が生じた。双方死者が1名でたが、何柱国と守備隊長落合甚九郎少佐との間の話し合いで決着がついた。
12月8日、北寧線列車に山海関城(東羅城)方向から射撃があり、銃撃戦となったが、9日午前2時までに銃撃は停止された。
1933年1月1日、山海関城外南方にあった日本軍駐屯地(他にフランス軍とイタリア軍も駐屯していた)憲兵所で手榴弾が爆発した。中国側は現在に至るまで守備隊長落合甚九郎の謀略と主張するが考えにくい(『侵略ー中国における日本戦犯の告白』などで橋場賢三氏が日本陰謀説を述べているが、橋場氏は中共による拷問をうけており、任意性がなく、証言としてとりあげるべきでない)。
なぜかといえば、元旦とは、日本人が事件を引き起こすには向いていない日である。当時の日本の手榴弾は擲弾筒で発射し着発を加味したもので、日本の兵士があまり得意とする兵器ではなかった。また狙われたのは日本の憲兵宿舎であり、日本人がテロの目標とする場所ではない。
落合は支那通であったが、1931年5月までは、国民政府に招聘され、陸大教官として兵学を教え、事変終了後も国内の士官学校で国民政府派遣の留学生の面倒をみるなど教育畑を歩んでおり、特務機関などにいて謀略をめぐらすタイプではない。そのうえ、山海関城は日本軍の戦略的見地からは無価値であったはずだ。日本陸軍は一貫して中世城郭より野戦築城に重点を置いていた。
元旦を気にせず(中国人は旧正月を祝うのが普通)、手榴弾の投擲を好むのは中国兵なのである。ただ、何国柱は日本軍を怖れる一方であったから、国際連盟の議事をなんとか有利に運びたい、国民政府の仕業であろう。
落合は爆発が起きたとき、山海関城に年始挨拶にいく途上であった。着くと、山海関城の城門は全て閉じられ、午後には鉄道車両が城内から銃撃されるに至った。翌日正午、落合は鉄道線以南からの撤収を要求する最後通牒を渡すことになった。中国側は回答を拒否した。何国柱が外出中であったためという。
1月2日から、関東軍は長城の北に散兵壕の構築を開始したが、そこも山海関城内から射撃をうけた。1月3日正午、山海城攻撃が開始された。戦闘はあっけなく終了し、城兵は、3時半までに城を棄て、石河南岸に退いた。
1月5日、出渕駐米大使は、スティムソンが「日本は国際連盟やケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)から脱退した方がいい。我々は別の世界に住んでいるのだ」と語った、と日記に書いた。アメリカが事件の概要を知るには早すぎる。出渕は日本軍の非をならし、スティムソンに迎合したのであろう。このころになると日本にもこういったケチな外交官が多くなった。ただ、出渕も陸軍の行動に煮え湯を何度も呑まされたのであろう。
熱河作戦
1933年1月21日、内田外相は「満州、蒙古と中国は、長城によって区切られている。これは歴史的にみても議論の余地はない。さらに熱河省が満州国の一部分であることは、満州国建国のいきさつを見ても明白である。最近、熱河省内に治安を乱す者があるだけでなく、張学良麾下の正規軍で国境を越えて省内に侵入する者もいる。日満議定書によれば、満州国領土は日満両国が共同で治安を維持することになっている。熱河問題は満州国の国内問題であり、また日本は条約上の義務を有するため、これにたいして極めて関心を持つものである」と貴族院で演説した。
満州国が自らの手で独立したものであれば、内田の論旨は誤っているといえない。だが満州国の外交権は事実上日本に握られていることを考えれば、日本の中華民国承認における義務、九カ国条約による義務に抵触している。
1月27日、政府方針に沿って、関東軍司令官武藤信義は熱河作戦を発動した。だが冬季であり、攻撃部隊の編成は遅れ、2月21日、第6師団と第8師団は3手に分かれて、熱河省に侵攻した。熱河省主席当時湯玉麟は「洞ヶ峠」を決め込んでいた。
北は通遼から開魯、中央は錦州から朝陽、南は綏中から凌源へ向かった。これにたいし湯玉麟はまったく抵抗できなかった。朝陽に配置されていた董福亭の部隊の大半は寝返り、開魯を守備した崔興武は事前に関東軍と気脈を通じており、戦わずして降伏した。
凌源では多少の戦闘がみられたが、冬季作戦であり、補給がほぼ不可能の場所であり、3月2日、降伏した。干兆麟【うちょうりん】の130師が風雪をついて凌源の救援に向かったが、途中、日本軍の迎撃にあい、干は戦死した。
熱河省の省都常徳では思いがけない事態が起きた。湯玉麟が大量の自動車をかきあつめ、阿片と私財を積み込んで、3月3日、逃亡した。第8師団の川原挺身隊はわずか128人で承徳に、3月4日朝入場、占領した。
学良軍は王以哲を筆頭に長城線の守備についたが、3月10日、古北口市街地南門を日本軍が奪取、長城線対峙で戦線が固まった。
関内作戦
承徳方面から北寧線沿いに重点の変更を終えた関東軍は、3月26日、長城線を突破した。山海関北方の九門口から右門寨に殺到し、4月1日、右門寨は陥落した。さらに4月10日、長城線全線に亘り、準備射撃を開始した。
11日、
州北方約60キロの冷口に到達、13日には界嶺口も突破した。抬頭口を経て憮寧へ進撃を開始した。北平にいた何応欽は、北平と天津の防衛は困難とみてイギリス公使ランプソンに仲裁を依頼した。
ランプソンは全権確認ができないとして拒絶した。国府軍は
河以西まで退却した。何応欽は北平で「背城借一」の計、すなわち、城内で1戦を交えてすぐ撤退するしかないと思った。だが、ここで驚くべき事態が起きた。
本庄繁(1876〜1945)
兵庫県生まれ。陸士9期、陸大。支那通で1919年から1921年の間、張作霖の軍事顧問をつとめた。この間の事跡から支那通としては珍しく、軍事センスはあったと思われる。満州事変勃発のおり、関東軍司令官。2・26事件で反乱側にたち、そのあとの粛軍で、侍従武官長を罷免され、予備役編入。終戦時、自決した。
靖国神社に残された遺書には「満州事変はテロにたいする自衛戦争だった」と書かれている。
18日、昭和天皇は本庄侍従武官長(1933年4月6日、軍事参議官より転任)に「関東軍に対し、其前進を中止せしむべき命令を下しては如何」との下問があった。これにたいし本庄は「去りながら、直ちにこの種大命を降下することは、軍の指揮上容易ならざる結果を招きやを虞れ、暫くお待ちを願いたく」と奉答した(『本庄日記』原書房)。
本庄は真崎参謀次長を呼び「現況と次長等の前に奏上せる所と一致せず」と伝えた。真崎は恐懼して、武藤関東軍司令官に親書を届け、重ねて「兵を撤退せねば、奉勅命令が下るであろう」と小磯参謀長に電信した。
4月23日、関東軍は撤退を開始、長城線に戻った。
日本軍の撤退によって和平の機運が生じたが、北平駐在武官永津佐比重は消極的であった。このころの国民政府から国民党北平分会への指示は、すべて日本公使館によって傍受・解読されており、「もったいをつける」態度は、斉藤実や荒木貞夫のカンに触った。
永津は関内作戦の再興を意見具申し、参謀本部は、5月3日、関東軍参謀長小磯国昭を東京に呼び、関内作戦の策案を命じた。昭和天皇は「作戦を差し控えしめんとする意図に非ず、ただ統帥の精神にもとるを許さず」としたという(『本庄日記』5月10日)。
国民政府は日本に和平の意欲を促進させるため、北平に和平交渉のための「行政院北平政務整理委員会」を設置、黄郛を委員長に任命した。
5月7日、第6師団は山海関から撫寧、第8師団は古北口から石匣鎮に向かった。戦闘は一方的で、第6師団は12日までに
河を渡河、第8師団は石匣鎮を占領した。
17日、唐山が陥落、18日からは密雲・三河・薊県を占領した。5月20日、天津軍は北平城内に600人を入れた。22日、新河村・馬駒橋方面では、守備していた万福麟、王以哲の部隊が潰走した。
蒋介石は戦局悪化を認めるしかなく「列強のいわゆる我が国にたいする援助とは、ただたんに日本に非難の言葉を浴びせるだけだが、日本は武力をもって迫ってくるのである。立国は他人に頼ることはできない。すべて自己の努力によるしかない」と、第5次掃共戦を実行している陳済棠に書いている。
塘沽停戦協定
5月22日夜、日本公使館で黄郛と永津佐比重の会談がもたれ、現戦線から長城線までを緩衝地帯として日本軍は長城線内に撤退する、との内容で合意が成立した。
黄郛は何応欽を訪ね、この提案を受け入れれば、日本軍はこれ以上の前進をしないと約束したと強調した。張群や熊斌【ゆうひん】が集まり協議したが、北平と天津が助かるという内容であれば承諾すべきとの結論になった。蒋介石も国際連盟決議に抵触する停戦協定を締結することに躊躇したが、これ以上の中央軍の損害には耐えられなかった。
5月30日31日、関東軍代表岡村寧次、永津佐比重ら7人、軍事委員会北平分会代表熊斌、徐燕謀ら6人は、塘沽の日本軍運輸部派出所に集まり、塘沽停戦協定に調印した。
- 中国軍はすみやかに延慶、昌平、高麗営、順義、通州、香河、宝抵、林亭口、寧河、蘆台を通す線以西および以南の地区に撤退し、爾後、同線を越えて前進せず、又一切の挑戦撹乱行為を行うことなし。
- 日本軍は第一項の実行を確認するため、随時飛行機その他の方法に依り、これを視
察す。中国側はこれにたいし保護および諸般の便宜を与うるものとす。
- 日本軍は第一項に示す規定を中国軍が遵守せることを確認するにおいては、前記中
国軍の撤退線を越えて追撃を続行することなく、自主的に概ね長城の線に帰還す。
- 長城以南にして第一項に示す線以北および以東の地域内における治安維持は中国側
警察機関これに任ず。
- (略)
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満州事変はこのようにして多国間の調停を経ず、二国間の交渉によって決着がついた。英仏伊はこの停戦を歓迎した。
日本国内では、リットン調査団は「認識不足」、すなわち「満州は漢民族の土地ではなく、満州族の土地である」との俗流マスコミ見解が横行した。日中間のみで、停戦協定が成立したことに「自主外交」の成果であると評価された。
「満州組」は凱旋帰国し、日本全体に重きをなした。
東京裁判の首席検事であったキーナンは江口航記者に向って、
「日本はなぜ満州だけで満足しなかったのか、満州を固めておけば十分やって行けた筈なのに、支那に手を出したのがまずかった。君はそうは思わないか」(田中稔『田中隆吉著作集』あずま堂)
と真顔で言ったという。
終戦直後の田舎アメリカ人の率直な感想であるが、現代日本人にもこれと同様の見解を示す人士が絶えない。だが、満州事変とは十月事件と軌を一にしたクーデター事件であって、満州では、張学良政権を武力で覆し、「建国宣言」を出せば、それで権力奪取は終了であったが、日本では、橋本欣五郎が西園寺公望に荒木貞夫に首相大命降下せよ、といったところで「眠い、話はゆっくり」で終わりだったのである。
そもそも、満州事変は「日本はなぜ、満足しなかったのか」ではなくて、統帥権ですら分散されている日本は「共謀」による「統一した意思」など存在せず、「意思を討論する場=議会」が機能していなかったのである。
北岡伸一の詭弁
安部内閣と胡錦涛政権との間で合意された「日中歴史共同研究」において「日本の侵略」(一体どの戦争についてが不明?)を認め、当然のこととする北岡伸一は次のように書いた。
「中国側は、日本側が日本の侵略を認め、南京虐殺の存在を認めたことが共同研究の成果だといっている。しかし日本側はそんなことは共同研究を始める前から当然のことと考えていた。実際、日本の歴史学者で日本が侵略していないとか、南京虐殺はなかったと言っている人はほとんどいない」(中略)
「中国側が時々権益を侵犯したのは事実だが、関東軍は謀略によって軍事作戦を開始し、南満州と東部内蒙古の全域を有していない北満州まで、あわせて日本全土の3倍の土地を制圧したのである。これは自衛をはるかに超える武力行使と相手国主権に対する侵害であって、それを通常、侵略というのである」(『読売新聞』2010年4月18日朝刊)
これは詭弁としかいようがない。下段では満州事変について述べているが、「軍事作戦(計画)を開始し」という一点で関東軍=日本側の侵略は動かない。21センチ重砲の旅順から奉天への移動という端的な事実から日本側の「計画」があったことは動かない。しかしながら前段から「日本の侵略」については、「南京虐殺」を並行して書いており、強く支那事変を連想させる。
問題は「満州事変」と「支那事変」が「塘沽停戦協定」で切れていることである。この停戦協定は、蒋介石政権が締結したものであった。しかも中国=蒋介石政権は日本軍の熱河作戦と関内作戦について国府軍を投入して「交戦」、そのうえで北京を脅威され停戦に応じた。つまり日中間に戦争があって、中国側は敗北屈服したのである。侵略側が戦争に勝利した好例であろう。
蒋介石が復讐を誓い、五年後に支那事変を開始=侵略(軍事作戦を開始)したのもまた事実なのである。いったん停戦協定を組んだからには、その変更を武力行使で打開を試みることは「侵略」であり、「大義」(領土獲得・奪回など)は関係がない。
さもなもなくば、北朝鮮が「休戦協定」に違反して、韓国・アメリカ・日本(軍事基地を条約で締結することにより準参戦した)を計画にもとづき「軍事作戦」を開始して、ソウルを「火の海にすることも」可となってしまう。
「日中歴史研究」が事実上は「外務省」の肝煎りであり、「日本側」を代表したものではとてもない。また「ほとんどの学者が賛成した」ことで自己の主張を正当化することなど学者のとる態度ではない。日本の「官製」歴史研究はこの程度のものである。
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森克己『満州事変の裏面史』図書刊行会 1976
防衛研修所戦史室著『戦史叢書 大本営陸軍部』(1)朝雲新聞社 1967
緒方貞子『満州事変と政策の形成過程』原書房 1966
花谷正「満洲事変はこうして計画された」『知性』1956年12月別冊 河出書房新社
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書 1950
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