1936年12月の西安事件以降、蒋介石の国民党における威信は決定的となった。それとともに、川越・張群会談は打ち切りとなり、日中間の外交交渉は途絶えた状態となった。
蒋介石は、日本の軍部出先による北支政治工作をも食い止めることに成功した。すなわち、宋哲元の第29軍に仮借のない圧力をかけることに躊躇する必要がなくなった。だが、外務省・陸軍省部ともに、この北支情勢変化を認識できなかった。3月に入ると、第29軍や北支小軍閥が、日本軍出先の懐柔に全く従わなくなった。

第29軍は全部ある4個師団のうち、143D、37D、38Dの3個師を張家口から大沽まで満州国に向けて配置していた。
132Dは河間・広平にあり、総予備とした。仮想敵が関東軍であることは明瞭である。
喜多報告
1937年3月上旬、参謀本部は、在中国大使館付武官喜多誠一少将(19期)、支那駐屯軍参謀和知鷹二中佐(26期)、関東軍参謀大橋熊雄少佐(29期)の三名を東京に招致し、現地の清勢判断を聴取した。三名の報告を総合すれぱ、おおむね次のようであった。
- 「蒋介石の抗日政策は、満州回復まで不変の政策として継承するであろう。北支におげるわが譲歩によって抗日政策の消滅を予期するがごときは見当違いもはたはだしいもので、最も有利な場合においても、ただ一時しのぎの策たるにすぎないであろう」
- 「蒋介石政権としては、名実ともに絶対抗日の大方針の下に内部の強化、軍傭の充実、欧米依存、南京北支一体化などの促進に急進すべきことを、日本としては明確に認識して根本的対策を立てるべきであり、いやしくも小手先の芸によって当面を繕うがごときは厳に避げなけれぱならない。同時にいかたる場合においても、軟弱政策の結果は、いよいよ現地の事態を悪化するにずぎないことを銘記しておく必要がある」
- 「以上のように日支関係の悪化は、到底尋常一様の手段では調整できるとは思われないいのであるが、一方わが対ソ関係を考えれほ、応急的には次の方針を採る要があろう」
- 「わが対ソ戦の場合、少なくとも蒋介石政府がソ連側に参戦の挙に出ぬよう対支国交を調整すること」
- 「前項の見込みがたい場合においては、対ソ行動に先立ち、まず対支一撃を加えて蒋政権の基盤をくじくこと。この場合においては、日本としてはソ支両面戦を覚悟して準備する必要がある」
- 「前二項のいずれの場合たるを間わず、当面まず応急彌縫的に対支関係の調整を図り、この間対ソ支戦備の充実を促進すること」
現地にあった軍人は実に的確な情勢分析を加えているのである。ただし、当時の軍事教育は「策案」であって、現状を分析したあと、必ず(軍事的)対策を書かねばならない。
一方、蒋介石が「絶対抗日」だとして、日本は、軍事面(抑止力と実戦力)と外交的対処の両面の方策が考えられる。(当時、政戦両略といった)喜多誠一ら三人は軍人であるから、外交については「対支国交を調整」「応急彌縫」などと曖昧な表現しかとれず、主眼を予防戦争においている。
だが、これをもって強硬策であると切り捨ててはならず、前段の蒋介石による開戦準備を見抜いていることを評価すべきだろう。のち和知鷹二は、3月27日に韓復から、蒋介石が平津地区で先制攻撃を行う、との情報を得たとしている。蒋介石は、北支軍閥首領あて、日本との戦端開始を3月までに連絡を済ませていた。
もちろん、宋哲元、閻錫山、韓復などの北支軍閥首領は蒋の言葉を普段であれば、額面通りとることはない。ところが、蒋介石は懐柔工作も平行して進めており、1〜3月に、冀察政務委員会の親日派を更迭し、人事権を確保していた。そして、宋哲元は従来、国民党とは一線を劃していたが、ついに2月の三中全会には、代理として秦徳純を出席させていた。
児玉ミッション
一方、北支情勢の急変を外務省本省は全く理解できず、就任直後の佐藤外相は宥和政策を呈示すれば、蒋介石が妥協するものとみなした。だが、戦争を決意した蒋介石は、このような日本の宥和姿勢を日本そのものが弱いとみなした。
佐藤は、経済外交によって何か打開できるものと錯覚した。その具体策として日華貿易協会会長児玉謙次を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、蒋介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし議論は北支間題に集中し、中国側は、翼東政府及び特殊貿易の廃止、北支特殊化の停止、自由飛行及び特務機関活動の除去などを強く要望した。
前後の事情について児玉謙次は次のように回想している。
「昭和十年十月、呉鼎を団長とする中華民国赴日経済考察団が日本を訪ねた。これは民間側の交歓により、日支関係を改善しようとする蒔介石、注兆銘の意図によるものである、考察団は主として日本の工業を視察して帰国したのち、両国の経済提携と貿易増進を図るため中日貿易協会(会長周作民)(日本側は日華貿易協会)を設立した。しかし、その後の日支関係が逐次険悪となり、日本側からの訪支の機を失していたが、昭和十一年秋、寺内陸相の強い勧めにより話し合いが進み翌十二年に経済使節団派遺が実現した。
これは中日貿易協会総会に出席するとともに先の訪日にたいする答礼という形式をとった。しかし日支交渉再開の打診が目的で、国交上の問題に触れねばならぬので、その腹案として、懸案の翼東政権を今ただちに廃止することはしばらく差し控えるが、翼東の低関税貿易の廃止、中国側の排日関税の改訂、日本軍用機の自由飛行の訂正、両国問の航空連絡、通信の拡張などについて外務及び陸軍側の了承を得た。
このように軍首脳部は乗り気であったが、在留邦人の有力者たちからは情勢が険悪であるから渡支すべきでないという忠告が寄せられ、前途の困難が予想された。
従って経済提携については具体的成果を挙げることができなかったが、今後の話し合いの糸口をつかみ、またその前提となる両国間の政治上の障害が明らかになった。
日支問の政治問題を早急に解決することはすこぶる困難な情勢であった。
日本側では五月下旬、陸軍省の柴山軍務課長、外務省の森島守人東亜局長と海軍側代表の藤井茂少佐(軍務局課員)三名を中国に派遺し、現地各部隊、各機関に中央の新方針を説得させた。一方、中国側では、経済使節団訪支を契機として高姿勢となり、北支問題先決論がさかんとなり、翼東政権はむろん翼察政権解消まで叫ばれるようになった。また従来、翼察政権にたいする国民政府の圧力は日本と五分五分であったが、急に国民政府八分、日本二分となって、龍姻炭坑、津石鉄道の交渉も行き詰まってしまった」
このように中国を訪問した民間人、また在留邦人も蒋介石の抗日意思と北支軍閥への圧力強化を感じとっていたが、陸軍省部や外務省は、その宥和政策、喜多誠一のいう軟弱外交を変更することがなかった。
宋哲元の逃避行
宋哲元は蒋介石の開戦意欲を最早回避できないものと悟ったか、5月故郷の山東省楽陵に逃避した。冀察当局の再三の要請に拘わらず北平には戻らず、政務を部下に一任して責任回避の姿勢をとった。
教育総監部本部長香月清司は5月前後中国に主張し、6月5日次のように報告した。
「北支の情勢は相当逼迫しているように思う。ついては支那駐屯軍の兵力増強が是非必要であるが、すぐには出せまいから、少なくも熱河方面の兵力を増強して必要に応じ北支方面に使えるようにしたいものである。
北支駐屯部隊は対ソ戦教育を第一義とし、対支戦教育は従として実行され、その進捗の状況はおおむね適当と認められる。ただし練兵場、演習場が不便なのが最大の欠陥である」
このような報告をうけながら、石原莞爾参本第一部長は蒋介石の戦意をわかろうとせず、むしろ支那駐屯軍が謀略行為を開始するのではないかと疑った。石原の猜疑は消えず、省部協議のうえ、軍事化高級課員岡本清福を、6月18日現地に派遣した。岡本の帰還報告は戦争謀略をやるような噂はデマであるというものだった。それでも石原は、「現地にこのような気持ち(謀略)があったと言わざるをえない」と回想し、自らの情勢分析の甘さを反省していない。
七夕に北支に何かが起きる
北支軍閥軍の規模
第29軍
司令
宋哲元
副司令
秦徳純
参謀長
張越亭 |
第37師 |
師長 馮治安 西苑 |
15750 |
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第38師 |
師長 張自忠 南苑 |
15400 |
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第132師 |
師長 趙登禹 河間 |
15000 |
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第143師 |
師長 劉汝明 張家口 |
15100 |
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独立第39旅 |
旅長 阮玄武 北苑 |
3200 |
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独立第40旅 |
旅長 劉汝明 張家口 |
3400 |
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騎兵第9師 |
師長 鄭文章 南苑 |
3000 |
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独立騎兵第13旅 |
旅長 姚景川 宣化 |
1500 |
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特務旅 |
旅長 孫玉田 南苑 |
4000 |
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河北辺区保安隊 |
司令 石友三 黄寺 |
2000 |
河北省、察哈爾省にあったその他の軍閥軍
万福麟 130D・116D・119D・91D
馮占海 139D・141D・142D・39D
察哈爾(閻錫山) 68D・101D
北支軍閥軍の中心は第29軍であり、7・7事件(盧溝橋事件)以降も万福麟と馮占海の部隊は北上せず、一切、日本軍と第29軍の戦いに参加しなかった。また閻錫山の部隊は南下し、上海戦線に参加した。
第29軍の総数は7万8350人になるが、軍閥軍であるため補充制度や輜重部隊、生産補給体制をもたない。つまり警察部隊に似ており継戦能力がない。おそらく、フル編制の日本軍1個師団と戦って勝てないだろう。
ただし、当時の日本人、中国人がどう考えたかは別の話である。

防衛庁防衛研究所戦史室 『支那事変陸軍作戦〈1〉昭和13年1月まで』 朝雲新聞社 1975