盧溝橋事件


1937年7月7日夕刻、支那駐屯軍歩1第3大隊第1中隊(中隊長清水節郎大尉)は、夜間演習のため豊台にあった兵営を出発した。当日は夜半にかけても30度を超える猛暑だった。

中隊は平時編制なので135人程度で、実包30発を携行していた。内地における野戦演習は空包を使用する。支那駐屯軍でも演習用としては空包を使用するが、護身用として実包を携行していたもので、植民地駐屯軍では普通のことである。

1930より演習は開始された。内容は軽機を前にたてた、匍匐前進によって敵鉄条網を突破する訓練だった。攻撃側と守備側に分れ、守備側は軽機をもって空包を発砲する。当時の空包は弾丸の代わりに紙を使用した。

2230ごろからの出来事である。

「前段の演習を終り、明朝黎明時まで休憩(野宿)するため、私は各小隊長、仮設敵(守備側のこと)司令に伝令をもって演習中止、集合の命令を伝達させた。私が立ってその集合状況を見ていると、にわかに仮設敵の軽機関銃が射撃を始めた〔もちろん空砲〕。演習中止になったのを知らず伝令を見つけて射っているのだろうとみていると、突如後方から数発の小銃射撃を受げ、確に実弾だと直感した。しかるにわが仮設敵はこれに気付かぬらしく依然空砲射撃を続げている。そこで急ぎ集合喇叭を吹奏させると、再び若干後方鉄道橋に近い堤防方向から十数発の射撃を受けた。その前後に振り返ってみると、盧溝橋(宛平県城のこと)城壁と堤防上に懐中電灯らしいものが明減するのが認められた」
(清水大尉陣中手記)

日本側の記録は清水大尉陣中手記を除いて多数があるが、大同小異である。

一方、宛平県城の守備についていた第3営長(大隊長)金振中によれば、「日本軍の行動を監視し、もし日本軍が挑発してきたら、必ず断乎として反撃せよ」と命令をうけていた。金は、当日も早朝から、トーチカの建設と塹壕掘削に部隊をあたらせていた。この施設の目的が、日本軍にたいするものであることは明白である。

ある二等兵の行方不明

ところが、射撃のあったあと点呼をとると、志村菊次郎二等兵の行方がわからなくなった。

「此間中隊長は大瓦缶西方『トウチカ』付近に中隊を集結せしむ。然るに兵一名不在なるを知り断然膺懲するに決し応戦の準備をなしつつ本件を岩谷曹長及兵一名(共に支那馬に乗馬す)をして在豊台大隊長に急報す……行方不明なりし兵は間もなく発見」(大隊詳報)。

「兵一名行方不明の報告を受け直ちに捜索を始めるとともに、豊台にある大隊長にこの状況を報告しその指示を待つこととした……行方不明の兵については、今夜の演習からみて遠くはなれているとも思われない。また敵弾は頭上相当高く飛んだのでその被害はまずなかろう。もし支那兵に捕えられたとすれば演習開始前の注意に従ってなんらかの処置を取ったはずである……この兵は約二〇分後無事発見された」(清水手記)。

志村二等兵の発見時刻ははっきりしないが、0015には確保されたようである。行方不明の理由は用便、道に迷ったなどあるが、はっきりしない。

一方、伝令は豊台の(一木)大隊本部に2350までに到着した。一木は直ちに北平にいた牟田口連隊長と連絡をとり、全大隊の出動を命じ、自身は、0100に、営所を出発した。別に、支那駐屯軍本部(天津)や北平特務機関にも連絡され、宛平県城に「軍使」をおくることが決定された。

この間、清水中隊は演習地を引き払い、西五里店に向かった。この結果、一木大隊と清水中隊は、西五里店西方で落ち合うことができた。一木は、「動かぬ証拠」が必要だとして、捕虜獲得のため清水に強行偵察を命じた。ところが0300に出発した清水は、予想外にも、十数名の中国兵と遭遇した。そして機転をきかせ、「兵が行方不明となった」と中国兵に話し、その場を切り抜けた。

一方、一木は大隊主力を前進させ、0320ごろ、要地である一文字山を占領した。ところが0325に龍王廟方向から3発の銃声を聞いた。

牟田口=一木の攻撃命令

再度攻撃をうけたと直感した一木は、0400、上官の牟田口連隊長に攻撃許可を求めた。牟田口は、0325に宛平県城に交渉のため出発した森田中佐をみおくったあとだけに、躊躇したと思われるが、河辺虎四郎(旅団長)の許可を得ることなく、「現地の責任者が現地の状況に応じ、任務に基づき、決心することが最も適切」と判断し、0420、一木の求める攻撃許可を与えた。

その直後、一木は、軍使とされた第29軍顧問の桜井徳太郎(少佐)と西五里店西方で面会した。北平で、桜井は秦徳純(北平市長、第29軍副司令)と会見し、「馮治安(第37師長)の部下は宛平県城外にいるはずもなく、もし城外から発砲があったとすれば、それは匪賊だろう」との言質を得ていた。

しかしその話を聞き、一木は銃声が龍王廟からきた、と確信をもっていたため、「心事ノ陋劣唾棄スヘキモノアリ」と激怒した。

桜井は、宛平県城を避ければ、城外にいる敵にたいしては攻撃してよいと一木に言明した。桜井は、中国兵は宛平県城内から出ていないと確信していたに違いない。

一木は、0500、一文字山に戻り、「城外の兵力にのみ限定して攻撃せよ」と大隊命令を発した。夜が白々と明けると、宛平県城にいた中国兵は城外に出て、堤防沿いに龍王廟まで展開を開始した。それを見た一木は、先端にあたる龍王廟方面を、永定河両岸から攻撃することを命令した。

これは完全な奇襲となり、中国兵は、交通壕を通過して元来た宛平県城に逃亡を開始した。ところが一文字山から、この状態は丸見えであり、中国兵はバタバタと薙ぎ倒された。

この戦闘が続いている間、0620支那駐屯軍参謀和知鷹二が一文字山に現れ、宛平県城にいる敵兵の武装解除を軍方針とする意向を伝えた。

城内の交渉

宛平県城、日本軍が占領した1937年7月29日に撮影された。

一木の0530から始まる攻撃と同時に城内において、日中間の現地交渉が開始された。

日本側
桜井徳太郎(第29路軍顧問)
寺平忠輔(北京特務機関員)
斉藤通訳

中国側
金振中(営長)
王冷斎(宛平県長)
周永業(冀察綏靖公署交通処副処長)

だが、交渉途中で銃弾は城内に流れ込むなど、攻撃は激しいものとなった。金は「確かにしっかりした人物」(寺平後日談)で、直ちに戦闘をやめさせねばならない、と一致した。桜井・金・斉藤らは寝台をはがした白旗をつくって城壁に上り、発砲している中国兵に中止を命令するとともに、日本軍にも事情をしらせた。

ところが、一木は自ら先頭にたち、永定河を渡河、中洲まで達し、両側から包囲の態勢をとった。ところが、中国側は中州に孤立したようにみえた一木らに銃撃を集中、かえって日本軍は孤立するような状態となった。

この結果かどうか、銃撃戦は0730にほぼ終了し、以降は散発的の銃撃が発生しただけだった。1215には寺平は無事城外に出て、北平に向かった。それでも牟田口は城内に孤立した桜井を「見捨てる」ことを決心し、引き続き宛平県城全面占領を命令しつづけた。

戦闘の終息

一木は中州に孤立したあと、あくまで西岸に渡河し、宛平県城包囲を完成しようとしたが、渡河したのは150人程度の少数であり、牟田口も東岸に戻ることを1610に命令した。だが、一木大隊は動けず、撤退が終了したのは2340ごろである。

牟田口は宛平城に砲撃をかけた。更に1100からの総攻撃を予定し、住民の安全地区への移動を命令した。しかし、中州に孤立を余儀なくされた一木大隊の猛進のため、攻撃のチャンスはつかめなかった。

城内にいた桜井は、金振中に県城からの撤退を求めたが、頑として応じることがなく、1720ごろには名刺に「城と運命をともにす」と遺書を書いた。河辺旅団長も、1530、豊台に到着し、桜井らの救出を指令した。

0730から8日中、北平の第29軍中央から金振中に県城を死守せよとの命令がきており、ともかく日本軍が散発的の攻撃し、中国軍も中州に孤立した一木大隊を狙うということで、戦闘は膠着したといってよい。

8日日中、第29路軍中央は日本との直接交渉を拒んだが、1830ごろ秦徳純は今井武夫ら北平特務機関との交渉に応じた。翌9日0200、日本軍と第29路軍を永定河を境に分離する協定が成立した。

左から中島第四郎第29軍顧問、松井機関長、桜井第29軍顧問(のちビルマ戦線で活躍。戦後1961年三無(さんゆう)事件に関連して検挙された)。当時の陸軍支那通は好んで支那服を着用した。

戦闘は、ここで中断した。だが、細目の交渉が引き続き秦徳純と今井武夫の間で行われた。秦徳純は従来になく強硬であって、宛平県城からの撤退を断然拒否した。最終的に日本側が折れ、松井太久郎、和知鷹二、中国側委員張自忠、張允榮の間で下記条文に調印をすませた。これは日本側からみれば、相当寛大なもので、謝罪の方式も定めず、責任者も特定の人物を指定することなく宋哲元の自由裁量にまかせ、また盧溝橋の日本軍も自発的に撤退することを約したものであった。

盧溝橋事件現地協定(松井・秦徳純停戦協定)

  1. 第二九軍代表ハ日本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
  2. 中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
  3. 本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且ツ取締ヲ徹底ス

    以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス

注意すべきなのは、この停戦協定に藍衣社と共産党の名前があげられていることで、当時、犯人が誰か共通認識があった。

この戦闘の結果、一木の第3大隊は戦死10人、負傷者30人を出した。第29路軍は死傷180人(うち戦死60人)と伝えられる。

そして、事件は一旦ここで終了した。両軍は、そのまま睨み合いを続け、日本軍が実際に宛平県城を占領したのは7月29日のことである。

盧溝橋事件の初めの一発は誰がうったか

盧溝橋事件の一発(実際は十数発)を誰がうったかという点は、当初から疑問がもたれ、現在に到るも決着がついていない。そして、単純に謎解きが面白い、という面がある。

  1. 日本軍謀略説
  2. 第29路軍射撃説(故意または偶発)
  3. 国民党謀略説(藍衣社)
  4. 共産党謀略説
  5. その他(他軍閥または民間人)

の日本軍謀略説は国民党政府が一貫して唱えているもので、内容は事件勃発当時から現在に至るまで変化がない。(以下のコミュニケは第29路軍発表のものと信じられている)

「民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外盧溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが盧溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵らは熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに盧溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平補佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、盧溝橋北方において対時の状態となる」

中国側の一貫した主張は、兵士一名の失踪とこの事件の原因を結び付けていることである。しかし、志村二等兵が行方不明となったのは事実だが、すぐ発見されている。そして、中国側が一兵士の失踪を知ったのは、0330〜0400ごろと推定される清水中佐による強行偵察のときである。

ともあれ、中国側は事件の起点を、0330ごろからにおいており、7日1100から0330の間の事件は何も説明していない。要は「熟睡中」としているのである。

の第29路軍が意図的に発射したという説はどうだろうか?この説は清水中隊全員が信じ込んだものである。

だが、前述の第29路軍コミュニケからこれも成立しない。第29路軍が意図的に射撃するとは、日本軍に挑発を仕掛ける目的である。この当時の第29路軍が、反日教育に血道をあげ、国民党に接近していたのは事実である。だが、第29路軍の独立は、日本と国民党政府の間にたつことのみで成立しており、第29路軍が日本軍と決定的に対立することを避けねばならないことは自明である。

更に、挑発目的だとすれば「功」を誇るはずである。だが、「正当防衛の目的」をもってなどと自制的である。

次に、第29路軍兵士による偶発説がある。これは、1100ごろの日本軍の仮想敵の空砲射撃に触発され、中国兵が興奮のあまり射撃したものとする。だが、十数発の射撃であり、個人のものとは思われない。当時、第29路軍が塹壕やトーチカ修理に地道をあげていたのは事実であるが、あくまでも平時体制であって、戦時という認識にあったわけではない。金振中は実包について毎日在高を確認していたはずで、実包の紛失は、どこの国の平時の軍隊にとっても重大である。もし、部隊で誤って実包を使用したとすれば、部隊責任者の金振中に報告しないはずがない。

金振中は8日0530になっても、日本側軍使とともに発砲を抑える側に回っており、実包使用を命令していない。

そして一木が激怒したように、龍王廟やそれと宛平県城をつなぐ塹壕に第29路軍兵士が、実際にいたか疑わしい。まず、平時に兵士を、塹壕に夜間おくことは相当に困難である。穴を掘っただけの塹壕には休憩施設も宿泊施設もなく、兵員をとどめることができない。これでは、兵士を塹壕に野営させることができない。また夜間パトロール体制を組む理由もない。龍王廟と宛平県城をつなぐ塹壕は、交通壕と呼ばれるもので、そこを直接防衛するものではなく、伝令兵などの移動のためにつくられたものである。清水が0330に遭遇した第29路軍兵士は、なんらかの異変が起きたとみなし、払暁とともにパトロールに宛平県城から出かけた公算が強い。

すなわち、第一発があったとき、第29路軍兵士は宛平県城で熟睡していたのではないだろうか。

次にの共産党説である。他の説と異なり、中共政府はこれを是認している。すなわち、1950年と「解放」直後に次のような記事を発見できる。

1950年12月9日の『人民日報』
「劉少奇配下の抗日救国学生隊が『盧溝橋事件』を仕組む」

この共産党主導説は、事件直後から出ている。『読売新聞』は、1937年7月15日付けで、「随所に出没して爆竹をならす」策動者がいたことを報じている。更に、この犯人を「共産党人民戦線派」としている。この報道は爾後、共産党北方局とつながる清華大学生が逮捕されたことにより裏付けられている。

このように、大学生が爆竹などをもち、7月11日以降、両軍の衝突を画策したことはあったようだ。ただ、支那駐屯軍には熱河作戦などで実戦経験のある将校・下士官がおり、爆竹と実弾射撃を間違えることはない。実弾の場合、弾丸の飛翔音が伴う。また、11日以降の爆竹音については、日本軍兵士も確認しているが「イタズラ」だとして相手にしていない。

そのうえ、共産党は最終的に中国を支配した勝者であり、盧溝橋事件について特別の思いいれがあるのは当然である。つまり、事件は自分が引き起こしたと「功」を誇る理由がある。だが当時の共産党の実働部隊は、学生を教唆して爆竹程度の「イタズラ」をさせる程度の組織力であり、戦後の「事件を仕組む」という発表については虚偽とみなさざるを得ない。

一方、共産党は軍閥軍を含む各種政治組織に浸透していた。すなわち、国民党においても軍政両面にわたり相当数の共産党員がいた。戦後確認されたところでは、第29路軍に浸透していた最高位の共産党員は副参謀長の張克侠である。ところが張克侠は戦後次のように語っている。

「宋哲元の代りに出た電話で何応欽から早く北平へ戻って応戦準備せよと督促され、煮え切らぬ宋をやっと説得して作戦計画を作れと命じられたが、張自忠の働きかけか翌朝には心変りして日本軍との交渉を始めてしまった(中略)。七月二十八日午後二時から開いた第二十九軍の首脳会議は、北平撤退の是非を論議した。その直前に張友漁、楊秀峰から民衆を動員しても北平を守れという党の指示が届いたので、その主旨を力説したが、宋は『そんなことができるはずがない』と言い、張自忠の放棄論に決まった。会議の結論はすぐ楊に伝え、日本軍が占領したら”清共”を始めるだろうと警告した」(『盧溝橋事件の研究』秦郁彦)

この張克侠の回想は7月11日以降のことのみでしかない。内容は何応欽(国府軍参謀総長)から、戦争のための作戦計画を要求されたが、宋哲元が拒絶したという内容である。最後の段階で、共産党らしい民衆を盾にとった北平市内における抵抗を要求されたが、それも宋哲元のうけいれるところとならなかった。

張克侠は第29路軍の要人であることは疑いないが、軍全体を動かすことに全力をあげており、一部党員による破壊活動などは念頭にもない。

これでは、たとえ張克侠が共産党の意向に従ったとしても、やはり軍隊の命令機構の中で活動するしかない。盧溝橋事件では、金振中(国共内戦時、共産党に寝返った)に命令したか否かが共産党関与を決めることになり、結果としては、第29路軍射撃説と変わらず、否定されることになる。

中共策謀説は、1988年失言により罷免された奥野誠亮によっても唱えられ、有名となったが、左右両翼によって支持される傾向がある。ただ、前述のように成立しない。

次にであるが、いわゆる冀北保安司令石友三による西北軍閥説、田中隆吉による茂川機関説があるが、石や田中は虚言癖があることで有名な人物であり、まともに取り上げるに足りない。

そして、最後に残るのがである。「北平特務機関日誌」の7月16目の記事に「北支事変ノ発端二就テ」の情報に関して、次のように述べている部分がある。(『北平陸軍機関業務日誌』昭和12年7月)

「北支事変ノ発端二就キ翼察要人ノ談左ノ如シ 事変ノ主役ハ平津駐在藍衣社第四総隊ニシテ該隊ハ軍事部長李杏村、杜会部長齋如山、教育部長馬衡、新聞部長成舎吾ノ組織下二更二西安事変当時西安ニアリツ第六総隊ノ一部ヲ参加セシメ常二日本軍ノ最頻繁二演習スル盧溝橋ヲ中心二巧、ミニ日本軍ト第二十九軍トヲ衝突セシメムト画策シアルモノニシテ第三十七師ハ全ク此ノ術中二陥入レルモノナリト」

冀察要人が誰かは特定されていない。しかし、藍衣社(国民党テロ組織)の李杏村、齋如山、馬衡、成舎吾など首謀者の名前が出ており、具体的である。

そして、盧溝橋事件は前年8月、9月に発生した日本人を狙ったテロ事件と、手口が酷似している。すなわち、凶器として銃器を用い、犯人が行方をくらまし、直後に犯行声明を出さないことである。

そして、これらは藍衣社の引き起こすテロ事件の特徴でもある。「動かぬ証拠」がない以上、これだと決め付けることはできないが、消去してもどうしても残るのがこれである。国民党(蒋介石)は、第29路軍を味方につけ一定量の日本軍を引き付けさせ、上海で決戦に臨む作戦計画をもっており、日本軍と第29路軍の戦闘開始を誰よりも望んでいた。すなわち、動機があるのである。

蒋介石の反応

盧溝橋事件が発生したとき、蒋介石は政商会議と銘打って、夏の避暑地である蘆山に国民党関係者および共産党代表を集めていた。会議に第29路軍関係者は少数しか招待されていない。

蒋介石は盧溝橋事件について、次のように日記に書き残した。

「倭寇(日本軍)は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、われわれを屈服させようというのだろうか?それとも宋哲元に難題をふっかけて、華北を独立させようというのだろうか?日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時であろう」

そして宋哲元に指示した。

「宛平県城を固守せよ。退いてはならない。全員を動員して事態拡大に備えよ」(『蒋介石秘録』皿)

われわれの準備が未完成と書いているが、蒋介石が絶好の好機とみなしたのは疑いない。そして「挑戦」があった以上「応戦」を決意した、と書いている。蒋介石秘録の「秘録」とは名ばかりで、実際には第2次大戦後、自己弁護と自慢のために書かれた「顕示録」である。

事件が自分が指示して藍衣社が実行したと書けないのは当然であるが、「応戦」を決意し、第29路軍に徹底抗戦を命じたことは明らかにしている。つまり、蒋介石は、この時点で戦争を決意しているのである。ただもちろん、日本側はこのことを知らない。

蒋介石は直ちに戦争計画の発動を指令した。計画はファルケンハウゼンによりたてられたもので、上海に日本軍を誘導し、そこで殲滅的打撃を加えることを骨子としていた。第一号動員は7月9日が第1日であって、主力となる88師、87師、38師をまず徐州に集中することだった。徐州は津浦線(天津と上海を結ぶ)と隴海線(海州=連雲港と開封を結ぶ)の交差する地点にあった。

一方、第29路軍にたいしては、国府軍が北に向かい応援するので、日本と徹底的に戦えと命令した。しかし、第29路軍は、この国府軍支援を信じることができず、日本と妥協することはできないか、と模索を続けた。

日本の反応

盧溝橋事件の一報は、7月8日0554に、詳報も1020に、東京に入ったが、大きな事件と考えられたふしはない。

ただその午後、田中新一陸軍省軍事課長と武藤参本作戦(第3)課長は、内地から3個師団すると、雑談し意見が一致したという。(田中新一『支那事変記録』)

ただ、この件も田中(拡大派)の回想によるであって、他にもいわれる武藤(拡大派)の「面白いことがおきたね」(河辺虎四郎『北支事変にたいする回想』)という発言と同種の「そういえば、こうだった」の類の発言に過ぎない。

戦後に書かれた軍人の書物は田中・武藤を拡大派、石原(莞爾)河辺(弟)を不拡大派とするが、疑わしい。つまり、「動員」「集中」だけを論じたのであれは、外交手段として用いる(脅威を与える)こともあり、拡大(=攻勢作戦)を主張したり、反対したことにはならない。

田中や武藤は確かに好戦的な男(反面、好戦的な男がよくあるように小心)であるが、北平近郊における騒動を戦争に訴えて解決しようとしたものではない。なぜならば、詳報の段階で現地解決済みと判明していたからである。

田中と武藤が狙ったのは、平津地区への集中に一カ月が見込まれる内地3個師団を、動員下令一カ月後、第29路軍の4個師に対峙させ、平津地区と張家口以東から、威圧することによって、第29路軍を追放し、そこを満州国と第29路軍(またはそれに代わる軍閥軍)の間の中間(非武装)地帯とすることだった。

だが、これも選択肢の一つにすぎなかった。参謀本部は8日1842に支那駐屯軍に「事件の拡大を防止するため、兵力を行使することをさくべし」という臨命第400号を与えている。

ただ、なにもしなければ平津にある支那駐屯軍5000は、第29路軍6万に一瞬にして包囲され、孤立しかねない。陸軍省は深夜作業をもって、第29路軍の攻勢に対抗できるまで支那駐屯軍を拡大しうる方策をたてた。翌9日、杉山元陸相は閣議に内地から3個師団、朝鮮軍から1個師団の動員を提案した。だが、ほぼ同時に停戦協定の知らせが入り、見送りとなった。ただし、関東軍から一部、朝鮮軍の第20師団を応急動員することが認められた。

ところが翌10日になると国府外交部の強硬態度、国府軍(中央軍)動員の報道が東京に到着し出した。

  • 10日11時、南京駐在日高参事官は、外交部長王寵恵を訪ねて、今次事変におけるいっさいの非は中国側にあり、いっさいの損害賠償と合理的要求を留保する旨を通告した。王外交部長はこれに反駁し、妥結させようとする誠意は認められないという。
  • 23時、陸軍省に入った公電によれば「蒋介石は四コ師を石家荘付近に北上すべく命令し、同時に中央飛行隊に対し出動命令を下したるもののごとし」と。
  • 同盟漢口電によれぱ、蒋介石は蘆山会議の繕果、徐州付近に駐屯しある中央軍四コ師に対し、11日払暁を期し河南省境に集中進撃の準傭を命じた。
  • 上海特電「10日、何応欽は軍事会議を開き津浦線、隴海線一帯の軍隊に対し動員待機令を下し、とくに津浦線方面の軍責任者第1軍長胡宗南に重大指令を発した。また河南の中央軍は山西に入る態勢にある」と。
  • 支那駐屯軍からの報告によれば「平漢線方面の支那軍は漸次北上を開始し、第53軍長萬幅麟の都隊は保定より啄県琉璃河方面に、商震部隊は彰徳、順徳方面より石家荘、保定間に、更に中央軍の劉崎部隊は開封、鄭州方面より衛輝、順徳に向かいそれぞれ移動中たり」

事実だけとると、上海特電が的中している。上海特電とは海軍諜報部隊が国府軍暗号を解読したものである。また支那駐屯軍情報が具体的であるが、もっともはずしている。現地からの第一報は大半が誤報である。

これだけの軍事情報が集まれば、軍人は何かせねばならない。だが、徐州方面に集中した国府軍(中央軍)が北に向かうか、南に向かうか予断を許さない。盧溝橋事件は蒋介石の戦争決意により第2段階に入った。



今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964
寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社、1970

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