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『木戸幸一日記』昭和13年9月7日の条
六時半、桑名にて近衛公、原田男、松平侯、津輕〔英麿〕後室〔照子〕と会食、別席にて近衛公と懇談す。新党々首云々について、大体左の如き事情たることを知り得た。
桑名とは新橋にあった料亭で、そこで会食したあと別室で近衛文麿と密談した。
漢口攻略後の時局の転回に当りては、或は蒋を対手とするの事態を生ずるやも知れず、又失業其他国内の状勢は相当憂慮すべきものあり、是等に対処するには政党を打って一丸止し、所謂一国一党的態勢を整ふるの要ありとの見地より、秋山、秋田、久原、
麻生等が参加し居り、前田〔米藏〕も最近秋田の仲介にて秋山と会見したりとのことなり、右の如き意味にて政党合同運動の進展する場合には、近衛公としても之が党首を断ることも如何かと考へ、曖昧なる返事を為し居るとのことであった。
武漢三鎮を攻略(13年10月実現)しても、中国全土統治に伴うコスト負担には耐えられない。この段階までで120万人が中国に駐留していた。占領地に租税負担を強いるどころか、宣撫工作費が持ち出しとなっていた。負担削減のためには蒋介石と妥協するのが手っ取り早い。派兵したあとの失業者増加は、いかにも経済無策と思えるが、じつは統制経済の結果であった。近衛の社会主義では処方箋が出ず、社会不安を抑え、人心を高揚させるには、ナチス張りの政治団体結成しかないと両者は一致した。
尚、近衛公は、自分が組閣以来支那事変の勃発に逢ひ、種々苦心を続け来りたるが、南京攻略後の見透し、一月十六日の声明の結果、新政府樹立の効果、成績等に顧るに、常に事志と違ふ処少からず、此上愈々蒋を対手とすると云ふことにならぱ、其責任も
重大たるを以て桂冠するの外たしと心中を語らる。
不運や苦心をいうが、要は自ら招いた失政により辞めたいというのである。
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この上愈々、「蒋を対手にする」とは駐支イギリス大使カーによる仲介活動を指す。
アーキボルト・カー"Archibald
Clark Kerr, First Baron Inverchapel"(1882-1951)
オーストラリアで生まれたスコットランド人。1906年に外務省入省。第一次大戦前、ウィルヘルム二世の妹と浮名を流した。またエリザベス二世の母君に求婚したが断られた。駐支大使のあと駐ソ大使。ヤルタ会談やポツダム会議のお膳立てをした。第二次大戦のあと駐米大使。そこで下僚がソ連のスパイと判明、モスクワに亡命するという失態となり、心労のため死亡。
この交渉の内容ははっきりしないが宇垣外相と孔祥熙行政院長の間で行われた。内容の中心は停戦協定と保障占領区域の設定にあったと推定される。おそらく一方的停戦通告で足りたと思われるが、停戦協定締結の権限は野戦軍司令官にあるので、陸軍の了解が必須であった。
東條英機が陸相になるまでの陸軍は即時停戦に熱心であったので、抵抗はなかったと思われる。
問題は陸軍支那通が外交ルートとは別に、高宗武・周佛海など汪兆銘一派と交渉をもっていたことである。この交渉には影佐、今井ら陸軍人と近衛ブレーン(大半は社会主義者)が参加した。影佐には蒋介石を下野させる考えが強かった。相手国の人事に介入すると外交は大体失敗する。ただし、中国の外交手法はこの方法なので、支那通は魅力に感じたのであろう。
彼らは外交のやり方がわからず、全権確認を怠り、日本を卑下・中傷し、汪兆銘一派に取り入ろうとしたのだが、蒋介石は日本の手の内を見透かした。影佐や今井は、中国側に2年内撤兵という条件を示した。これの悪影響はハル・ノートまで残った。
近衛がこの2元外交にのめり込んだのは確実で、9月2日、カー工作について拒否回答を与えている。この密談はその結論の再確認であった。 |
尚、最近宇垣方面より、首相の方針等につき悪声の伝へらるるは、結局此の内閣を倒さんとの意図の下に行はる上やにも推せらるとの述懐ありたるを以て、余は、此の際蒋を対手とすると云ふことを以て首相が退き、其新政局を宇垣外相の方針にて処理せむとするが如きは、到底思もよらざることにて、其の結果は国内に恐らく一擾乱を起し、結果より見て我国の負となるの虞十分あり、絶対に如斯ことは考へず、今一応勇気を起して邁進するの必要を力説し、其の為めには必要とあらぼ新党々首を引受げらるるも不得止べしと力説す。
後任は近衛首相を手厳しく批判する宇垣一成を想定しているが、陸軍の反対もあるだろう。とにかく蒋介石を相手とする方針転換は避けるべきだと一致した。これで和平見通しは崩れた。
尚、新党結成について、あらゆる場合を予想して懇談したるが、結局幹事長の人選が最も困難なりとのことに一致す。尚お互に充分考究することを約す。
蒋を対手とするも日支の間に和平を持ち来さるべからずとの論は、右翼方面も同論にて、頭山、末永〔一三〕等之に賛成す、末永より、右の点連絡ありたりと。
大アジア主義者も蒋介石と交渉することに賛成であった。
軍部は、参謀本部は大体右の論にて、今田〔新太郎〕中佐、秩父宮殿下等共の中堅なりと。板垣陸相は最初は之に反対の意向なりしが、最近は略之に同意するに至れり。
東條、影佐が反対の意見を有する為め、行悩の状態なりとのことたり。
参謀本部や中堅は蒋介石と和平すべきであるという意見であったが、東條・影佐が反対であった。影佐はトラウトマン工作に反対で廣田弘毅を刺すべし、と主張したことがあり、多田・下村の参本とは逆の道であった。東條は、察哈爾作戦を独断専行したことにより、なんらかの「領土割譲」のようなことを考えていたのではないか?これはのちの「駐兵論」につながる。
9月29日、宇垣外相は「対支院」(外務省から中国外交権を奪い、別建ての省庁をつくる案)問題で辞表を提出し、有田八郎に代わった。宇垣の抵抗はたんに縄張り争いであろう。11月から汪兆銘工作が始まり、12月に実現した。これは第2満州国であって、日本の負担は増加する。なんの解決にもならないのである。
近衛が改心、すなわち蒋介石を交渉相手として認めれば、問題は一挙解決であり、東條らを除けば陸軍はみな近衛が続けるのに賛成であったが、木戸・近衛ら革新官僚は内閣を投げ出す道を選んだ。近衛は杉山を革職して板垣を据えるなど腕力はあったのであるが、「決断力」がなかった。 |