近衛語録

近衛語録

近衛語録

近衛文麿は五摂家筆頭の家柄である近衛篤麿の長男として、千代田区麹町で1891年10月に生まれた。母は前田慶寧侯爵5女衍子であるが、出生のとき産褥熱で死亡した。近衛家で正妻に嫡子が生まれたのは二百五十年ぶりのことだという。

1934年9月1日、原田(『西園寺公と政局』第4巻)
宮中に少し右傾と見られている人物を一人配したらどうか。いわゆる欧化主義の者ばかりで固めると、右翼一派に変な感じを与えないか。

近衛文麿は、1934年8月1日、アメリカから帰国した。近衛の中国以外の海外旅行は1919年の西園寺と同行してのパリ講和会議参加以来二回目であり、最後となった。資格は貴族院議長であるが、米国朝野で歓迎をうけ、フーバー大統領とも面会している。この時代の日本の指導者として珍しく近衛は海外留学経験がなかった。すなわち、一高・京都大学を卒業した段階でパリで日本代表団の随員となっているのであり、日本の国力の向上とともに外国で教育を受けなおす必要のない世代に属していた。

英米本位の外交を排す

この発言について西園寺は「右傾の者は大体ファナティックだ。そういう者を宮中に入れることは絶対にいかぬ。物のわかる者に右傾の気に入る様なことをしろというのは非常に無理だ。自分は先が短いが、近衛や木戸や貴君(原田)などは、ファナティックな空気を宮中に絶対に入れないようにしてもらいたい}と語った。

1934年10月1日、新聞記者
今となってはリベラリズムでは万事行かなくなった。各国ともブロックを作っているから、日本もブロックを作って対抗せざるを得ない。それには背後に武力を持たねばならぬ。幣原のように貿易一方で行く方法は今では駄目だ。ファッショのような極端はいけないが、しかし今までのようなリベラリズムの時代も、日本に戻ってこないであろう。

1934年12月号『維新』平凡社 「国家主義の再現」
これは極めて些末な一例であるが、併し日本民族と欧米民族とが、その根本に於て、即ち本質的に相異してゐることを物語るに充分なものである。従つて日本と欧米諸国との間に、とかく意志の疎通を欠き勝ちなのも、要するに本質的相異の然らしむるところであって、国際平和、国際協調等の根本的諸問題に対しても、そのプリンシプルにおいて彼我既に異なってゐるのである、ロロ(二字活字不鮮明)、我が国で、国際文化振興会等を設けて、しきりに我が国の文化を海外に向って紹介することに努力してゐるが、この本質的相異からして説明しない限りは、我が国に対する今日以上の理解は、到底欧米諸国に望み得ないのである。

人種を盛んに強調するのは日本の社会主義者の特徴で近衛もその例外ではない。ただし、近衛の場合は著しく攻撃的であって、東亜新秩序や暴力による平和体制の破壊をいうのである。欧米人と日本人との間で国際平和や国際平和の理解が「人種的差」によって本質的に理解が違うとするのであれば、会話や条約による問題の平和的解決は不可能である。

1936年3月4日西園寺と面会したあとの感想(『失はれし政治』「元老重臣と余」)
今度は元老は余を首班に奏請した。余は宮中で二時間元老と対談したが、元老の時代にたいする考え方は従来と変化はなかった。余が大命を拝辞したのは、健康その他種々の事情もあったが、また一面公と考え方に相当距離ありと認めたからである。

2・26事件により岡田内閣が倒れたあと、西園寺は後継首班として、近衛を指名した。だが、近衛は断った。このとき44歳であった。

1936年3月ごろ『大阪朝日新聞』の飯島幡司経済部長(『西園寺公と政局』第5巻)
事実西園寺公爵ももう年をとって、人に会えばくたびれるし、世の中の認識も大分違う、大体重臣たちもそんなやうに思われる、まあ国是の進展の上からいふとやっぱり邪魔になるように思ふ。

この発言について西園寺は「自分の本来の考えであるのか、或いは恐怖心からさういふやうにいった方がこの時勢に自分の立場がいいと思っていっているのかわからない。ああいふ人物でああいふ家柄に生まれて実に惜しいことだと思ふ。なんとか近衛をもう少し地道に導く方法はないだらうか」と語っている。

1936年6月13日米国NANA通信社
(国際)連盟の創始者たちは余りにも平和機関設立のことのみにとらわれすぎていて、平和撹乱の動因を除去するための一層重大かつ直接的な仕事に、ほとんど考慮を払わなかったのがその失敗の原因だとし、今こそ世界の政治家は、平和を脅かすいっさいの動因を徹底的に根絶するため、真摯な努力をすべきだ。

これは安全保障や平和についての陳腐な見解である。戦争経済原因説と呼ばれるもので、戦争は「貧困」または「貧富の差」が原因だと主張する。社会主義者やアメリカ人がこの見解を支持することが多い。だが大戦争とは「富者」同士で起きるのが普通である。

1936年9月6日原田(『西園寺公と政局』第5巻)
平泉文学博士をもう少し宮中に近づけて、陛下あたりがいろいろ話をおききになったらどうか

この平泉澄進講問題について湯浅内大臣が

「實は平泉澄といふのは自分も知つてをるけれども、まあ非常に極端な右の方で、この前も陛下に建武の中興について御進講をしたが、後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現在の陛下にあてつけるやうな風な話し方であった。

後で木下書記官(木下道雄内匠頭)だけは非常に感心しで、『實に面白かつた』と言つたが、木戸も『實につまらないことを申上げたものだ』と言つてをつた。自分もつまらないことを申上げと思つてをつたが、お茶の時に陛下から卒泉博士に対して『今の話はよくきいた。後醍醐天皇の御英明なことも自分はよく知つてをるけれども、当時後醍醐天皇のおとりになつた処置について何か誤りはなかつたか』といふ御下問があつた。

陛下も實はつまらないことを話したもんだとお思ひになつたやうで、後醍醐天皇の聡明はよく判ってをるが、やはりいろいろ事の手違ひの出来たのは、恩賞に不公平があり、またおとりになつた処置にも手落があつた、それをただ建武の中興を絶対的に礼讃したといふことについて、陛下はあんまり面白く思つておいでにならなかつたらしい。近衛公がその平泉を一番宮中に近づけたらどうかといふこは、そんなやうなわけでをかしな話だと自分は思つてをつた」

 と詳しく語っている。

平泉澄は、当時から「右より」の史学者とみられていたことがわかるが、近衛文麿がどのようなつてで平泉を知ったかは、はっきりしない。平泉は終戦クーデターを引き起こした人物と懇意であった。また、坂本太郎や家永三郎は門弟である。史学の内容は旧弊な儒学的世界観に縛られたもので、正潤論のようなものが軸である。後醍醐天皇は歴代天皇の中で唯一儒教を信奉した人物であったので、平泉はそれを昭和天皇に押し付けようと計ったものだろう。

1936年10月、軽井沢の別荘にて、平泉澄(『日本の悲劇と理想』)

「只今の電話は□□□□からですが、ドイツとの間に防共協定が成立したさうです。日本外交の大成功ですね」。

平泉「さうですか」

「だって英米に全世界を握られては、たまりませんからね」

近衛文麿は極端な親独、反英米主義者であった。これの理由は「もたざる国」というのだが、当時の日本はすでに台湾・朝鮮を植民地とし、満州国を属国にする一大植民地帝国であった。

さらに膨張にすることによって、自ら名望を得たいということであろうか。日本の社会主義者は一般に親独または親ソであり、反英米であるが、その亜流であろうか?

1937年10月11日湯浅内大臣(『西園寺公と政局』第6巻)
哲学的にみて社会悪というものが世の中には存在する。たとえば、資本家としての弊害とか、或いは権力者の弊害とかいうようなものが存在する。結局2・26とか5・15とかいったようなことの起きるのも、犯人はとにかくどこまでも国家のために、或いは社会のためにこうしたいと思う純な考えでやるので、所詮社会悪を除こうというのが、その動機なんだ。だから陛下としては大局から御覧になってやはりその動機を酌んでやるだけのお心持がなければ、公平が保たれない。

支那事変が勃発する一方、日本には陰の重大問題があった。近衛は2・26受刑者の大赦を要求したのである。これについて西園寺以下宮中関係者は厳重に反対した。それに反論する近衛の理屈は「目的は手段を合理化する」という法治国家に反するであった。

近衛は革新貴族の仲間であり社会主義を趣味にしていた。最大の敵は組織としての陸軍であるが、それと対抗するため、橋本欣五郎ら三月事件、十月事件関係者、三上卓ら5・15事件関係者、2・26事件の陸軍皇道派と親しくつきあった。近衛の二重人格の顕われである。

上海・南京戦の勝利により、近衛は従来の非拡大を棄て拡大路線に転換した。近衛の意図は講和を自分の手ですすめ政治的得点を稼ぐことだった。当時近衛側近が作った文書が残されている。

今南京が陥落し蒋介石政権も窮境にたっているが権威が失墜したとは断言できない。手を緩めればまた頽勢を挽回してくるだろう。いわば、もう一押しという所だ。

このような情勢にあるとき(日本側から)条件を提示し講和を促すことは重大なる弱点がある限り、軽々にするべきでない。却って(中国の)侮りをうけて戦意を復活しかねない。すると大害を将来に招く。ゆえに政府としてはドイツ大使からの交渉にたいして賛成することはできない。

ただ軍部側の切なる希望もあり、賛成しただけにすぎない。もし中国側が全面的に承諾しなければ、この交渉は打ち切るべきだと了解に達した。

しかし軍部は支那が一部修正を申し込む場合は多少の譲歩をすべきだとの希望をもつ、と聞いている。軍部がこのように講和を急ぐのはそこに深い事情があると推測せざるを得ない

だがこれまで陸軍大臣は率直に閣僚に説明していない。もし陸軍大臣が他の閣僚を納得させることができないならば、政府は軍部側と別個の所信に向かって邁進する他ない

細木 重辰 「南京攻略戦」(『歴史と旅臨時増刊』1992・5 秋田書店)より、現代語に訳した。側近が近衛の口述を筆記したものと信じられている。

すなわち近衛は陸軍の意向を無視して工作つぶしに出る気持ちだったことがわかる。そして自分のことを政府と称しているが、これは広田を含んだ言辞だろう。政治家によるこの種の軽挙盲動は、現在においても発生している。ただ普通、外務省がなんらかのアクションにより防止することが多い。ところがこの時の外務省は違った。

工作の中心にいたのは広田弘毅である。この人物は元来英米派だが、玄洋社に関係するなど大アジア主義または福岡県閥に愛着をみせかつ心情としては反軍部だった。しかし軍部と結託することにより地位を築いたこともあり、対立は避けたかった。この時、ドイツとのパイプを握っていたのは広田だった。

また誤解があるが陸軍軍人がドイツ軍事学に入れあげていたのは事実だが、それと国家としてのドイツは区別していた。もちろん愛着は示したとしても同盟や敵対は別個のことと理解していた。陸軍軍人がドイツ贔屓のため国を売る程モラルが低いことは決してない。そのうえ上海決戦ではドイツ国防軍軍人は敵として現れていた。陸軍はヒトラーの対フランス戦勝利で「バスに乗り遅れるな。」という言葉が現れるまでドイツとの同盟を絶対としていたわけではない。

もちろん普通の陸軍軍人が世界情勢を把握したり、長期的外交関係を理解できる力はない。またそういった教育もなく経験もない。頭にあるのは中国へ派遣した軍をどうするか、更に脅威である(極東)ソ連軍にどう対峙するかしかない。

究極的な責任が近衛にあるのか広田にあるのかはわからない。ただトラウトマン工作より筋がよいアメリカの仲裁も広田が断っている。やはり外務省が必要な情報を天皇、近衛(内閣)軍部にあげなかった可能性が強い。更につけ加えれば、交渉に当たっての日本側主張のパターンが独ソ両国に筒抜けになったことも見過ごせない。

ゾルゲによるトラウトマン工作通報の可能性

リヒャルト・ゾルゲは日本が北進論を断念し、真珠湾攻撃にむかったことを通報したことで有名だが、それに止まらず、2・26事件のころから日本の機密情報を獲得、赤軍第4部に通報していた。戦前の検事調書ではゾルゲが赤軍に属していたことを明らかにするのに失敗している。

これは尋問が内務省の手で行われたためである。スパイ行為は平時においても戦時国際法が適用になる。ゾルゲの場合は民間人の格好で赤軍の支配下にあったのだから本来は軍法会議(軍事法廷)で軍事間諜として扱われ、通常は即時銃殺となる。このあたりは内務省が戦時国際法に暗かったのだろう。

調書によればゾルゲは1937年12月「日本の希望によりトラウトマン工作が開始されたが、日本の支那にたいする要求の増大と南京占領とにより失敗に終わるだろう。」と打電した。

この内容はおそらくドイツ大使ディルクセンから得たものだ。この内容は恐るべきものを含んでいる。すなわち外務省は天皇にこの条件吊り上げの経緯を戦後に至っても報告していない。ところが、外務省とドイツ大使とはなんらかの打ち合わせをしていることだ。

この後、ディルクセンは外務次官ワイツゼッカーの手により更迭されオットーが赴任した。オットーもゾルゲを重用したが、反面ゾルゲはオットーの妻と内(姦)通(当時は日本の刑法犯にあたる)していたという。事件発覚後、リッペントロップによりオットーは北京の閑職に回され、そこで妻と離婚している。片足が不自由でもそちらの方は活発でドイツ大使館員の妻、相当数と関係していた。

この男のために、日華事変の終息がある程度、妨害されたことは明らかであり、ゾルゲ事件は十分教訓とされねばならない。

当時リッペントロップはソ連との交渉もあり、日本との提携を強化する計画だったがヒトラーに止められたと言う。ヒトラーは日本の政治自体は昭和天皇がすべて最終的に決裁していると信じ込み、通常の外交ルート以外はパイプを持とうとしなかった。そしてヒトラーのテーブルトークには大島大使からの情報が頻発して出てくる。

結論を先にすれば、三国同盟は軍事条約だが日独の軍部がほとんど接触しない珍しいものだった。これからみても当時の陸軍は同盟を共同作戦実施のためとは全くみなかったことがわかる。そしてドイツ軍部の中心にいたカイテル、ルントシュタット、ヨーデルの手記には日本は全く登場しない。

リヒャルトゾルゲ

近衛はトラウトマン工作に初め賛成を与えのち反対に転じたことが、これによりわかる。そしてトラウトマン工作のイニシアチブをとったのは外務省=広田である。ここにねじれがある。近衛がこの時尾崎秀実らの影響でトラウトマン工作潰しに出たとみる証拠はない。ただし尾崎は蒋介石無視=汪兆銘政権樹立策を積極的に支持する論説を発表していた。

尾崎秀実や松本重治など『朝日新聞』組がなぜ汪兆銘工作に必死になったかは検討に値する。この工作とトラウトマン工作潰しに関係があったかという点である。汪兆銘は蒋介石と対立する「左翼」であり、ソ連系の人物である。尾崎や松本は、親ソであるにもかかわらず、親独の顔をしていた。松本は支那事変を「第2次日独戦争」と称した。

トラウトマン工作はここにあるように近衛が途中で広田の出していた第1条件を吊り上げたことにより失敗した。失敗というのは蒋介石は第1条件をマル呑みしていたが、近衛が要求した第2条件のマル呑みに躊躇したためである。実は第1と第2でそれ程差はない。ただ文言が第2の方が厳しく素人が読めば面子を失わせるものがあった。とにかく蒋介石は内容の詳細を知るため照会を入れた。これに対し近衛は陸軍の反対を押し切り、無礼だとしてトラウトマン工作自体の中断と汪兆銘工作を開始した。近衛の動機はここにある言葉だけでは理解できない。

一方、蒋介石は面子を無視し受け入れることはできた。やや躊躇の姿勢をみせたのは近衛と陸軍(多田参謀次長)が対立したことを知っていたためだとも推定できる。蒋介石はおそらくドイツ大使(トラウトマン)から、日本側の内部対立を教えてもらっていたのではないか。

トラウトマン工作

このトラウトマン工作潰しの歴史に与えた影響は計りしれない。第一に陸軍は間違いなく対ソ連に集中し中国大陸の泥沼から脱することができる。もちろんこれは対ソ連戦争(先制攻撃)の可能性を強くする。しかしスターリンが日本の軍事力を考慮し、対ヒトラー強硬方針をとれなくなった公算も強い。そして陸軍は少なくとも親米路線に転換しただろう。中国問題を除けばアメリカとの間に争点はない。

第二に蒋介石は武装共産党解体(掃共作戦)に集中でき、もし日本の軍事的支援があれば少なくとも国共内戦でみられたように満州から崩壊することは避けられただろう。極東を以降現在まで混乱に陥れたほとんどの要因が発生しないことになる。

東條らを除けば陸軍は上海決戦を純軍事的な観点でみる傾向が強かった。ところがこの文民介入による講和失敗から、打開策を自ら求めたり(桐工作)、外交=ドイツとの戦時同盟による打開を求めるようになる。

文民が軍部の意向に反して、講和に反対した。これだけでもあまりない事だ。そして近衛は国民に人気があった。政府各省はセクショナリズムに走り自分の権限の維持に汲々としていた。とくに広田・近衛は第1次大戦型戦争の悲惨さを理解していなかった。すなわち小火器中心の陸戦で武器・兵員が拮抗していれば双方に膨大な損失が生じそれは賠償・領土という手段で取り戻せるものではない。

上海決戦はそれでも日本の一方的な勝利のため、この凄惨さが広田・近衛にはわかりにくかったのだろう。第2次大戦以降は日華事変のように国家間の戦争でもある地域の治安維持を目的とする戦争が大部分となった。もともと日華事変の日本の大義、中国内の治安確保、満州分離をG5諸国とソ連に訴えるべきであり、それを戦争目的として明確にすべきだった。他国への働きかけにより自国の要求が縛られるのは事実だが、敵から攻撃をうけ防衛に成功しても講和により大きな利得は期待できない。近衛のような軽佻浮薄子が国民の人気を集めたのが悲劇の始まりだった。

現在からみると、昭和天皇の上海短期決戦・即講和というお考えが一番すぐれていたようにみえる。

原田熊雄述『西園寺公と政局』第6巻203ページ、
1937年12月10日、近衛が原田に語った内容

實は海軍も外務省も御前会議を非常に急いでゐるわけぢやあなく、また御前会議がそれぼど必要だとは思ってゐないけれども、陸軍がやたらに焦ってゐるのと、さうして十二日頃に支那側の意向が多少判る筈なので、それまでに、寺内、松井両軍司令官がかねて主張して來てゐる非常に強硬な意見を抑へるのにも、やはり『御前會議で決めた』といふことで抑へたい、」といふ陸軍大臣達の希望である。

つまり、陛下を謂はば道具に使はうといふんだから甚だけしからん卑怯な話だと思ふけれども、まあこの場合已むを得ないから、願はうとしてゐるんだ。いま隣の室に軍令部次長(古賀峯一)や参謀次長(多田駿)が來て、いろいろ文句なんかを直してゐるんだが、参謀次長なんかに至つてはまことに判らない先生で、よくあすこまで行つたと自分なんかも思つてゐる。

12月10日までには、近衛に蒋介石の廣田第1提案受諾の返事が入っていた。「12日頃支那側の回答がある」とは近衛の口から出任せである。原田への話はそのまま西園寺に伝わるので警戒したのである。

御前会議開催の希望は昭和天皇からであったが、近衛はもし天皇に発言されたならば支那側回答を拒絶する方針がひっくり返ることを恐れ、西園寺に何も発言しないことを頼んだである。寺内・西園寺にはトラウトマン工作の詳細は伝えらておらず、近衛はありもしない強硬話を引き合いに出しただけである。つまり卑怯なのは近衛である。

御前会議は11日午後2時から1時間開催され、近衛ペースのまま支那側回答拒否が決められた。

多田駿にたいする批判などは語るに落ちる。

2万人の英霊が散華し、第1次大戦以降の塹壕戦として最も徹底的な勝利だった上海攻防戦はこうして近衛と外務省の愚行により無に帰した。

1938年5月30日、原田熊雄へ
原田熊雄述『西園寺公と政局』第7巻3ページ、
「どうも陛下は少し潔癖過ぎる。もう少し清濁併せ呑むやうなところがおありになって欲しい。今の内大臣(湯浅倉平)のやうに気宇の小さい者が附いてゐるからじゃないか」
和平工作の問題について
「今頃になるまで和平の必要が判らなかったのではなからうけれども、あまりに智慧がなさ過ぎぢやないか」

近衛取り巻きのうち「清」は、尾崎秀実(ゾルゲ事件のインフォーマント)、「濁」は井上日召(血盟団事件首謀者)であるのかもしれない。井上日召は「私の心の中には完璧な天皇がいる。この天皇と現実の天皇の間に食い違いが生じたら、私は自分の心の中にいる天皇の命令に従う」(橋本惠『謀略』早稲田出版)といったという。

この井上の発言は近衛の心持とよく合っているのであろう。「清濁併せ呑む」は悪事を働こうとする政治家の常套文句であるのかもしれない。また、和平を拒否し、智慧がなさすぎたのは、近衛である。

1940年7月14日矢部貞吉(『近衛文麿』上、弘文社)
後継の大命に際し、天皇は通常憲法の條章を守ること、財界に動揺を與えないこと、米英と協調すること、という三カ條の御注意を與えられる。自分がもし大命を受ければ、恐らく同じ御言葉があると思う。ところが陛下の憲法の條章と仰せられるのは、多くは西園寺、湯浅流の古い自由主義的解釈であり、また財界の動橋を御軫念で、株の上下まで御心配になるし、対外的には深く親英米的な御感情がある。

ところがそれをそのまま遵奉するのでは、今日の日本の政治はとても行えない。西園寺公が立憲的な君主に仕立てるために、なるべく現實政治に御関與にならぬように御教育をし、政治學や史学よりも、生物學の研究をお奨めしたのは、大きな意味があつたが、率直にいうとそのために.陛下は、複雑な政治問題と、とりわけ事態の動態的な発展につき、御理解が薄いように見受けられる。だから時勢の進展と關係なく、いつでも同じ様に右の三カ條を持ち出される。

そこで自分としては、又右の様な御言葉があつたとき、そのままでは大命を拝受するわけに行かない。その場合には、憲法の解釈が時代とともに発展しなければならこと、経済もこの準戦時においては、どうしても統制と計画を欠くことはできす、一々株の動揺まで心配してはいられないこと、そして又現下の国際情勢では、英米の態度に鑑み、その英米との交渉をやるためにも、或程度独伊との關係を強化する必要もあることにつき、率直に申上げて御許しを得たい。そういう趣旨のことを書いてくれないか。

この発言は、ヒトラーのフランス戦大勝利の直後、米内内閣総辞職のさいあったものである。『近衛手記』などでは違うことが述べられているが、これは矢部貞吉が直接聞き取ったこのであり、同時代のものとして信用できる。近衛はここにおいて、立憲君主制を憲法の解釈によって廃し、自分を中心とする寡頭政治のようなものが理想であると考えていたことは確実である。

1940年11月連合艦隊司令長官山本五十六(支那方面艦隊司令長官島田繁太郎宛の手紙)

「日独伊軍事同盟は以前は海軍の立場からは種々困難ありとの事たりしに此度は連絡会議にて海軍も直に同意せられ実は不思議に思ひ居りたり。然るに其後海軍の様子が少しもはっきりせずおかしいと思ひ居りしに同盟成立後二週間目位に海軍次官(*)が懇談に来られ物動方面等容易ならぬ事を説明されたり。

 其時そんなら同盟になぜ反対せられなかったかと質問せしに、次官はあのと
きは海軍が反対すれぱ陸海対立し国内政局に由々敷犬事を生ずる虞ありしにより大局上同意せしも、然し海軍戦備には幾多の欠陥あり、万難を排し速に之を整傭ぜざれぱ国防上憂慮すべき事にたるとの説明ありたる為、自分は尠からず実は失望せり。

海軍は海軍の立場を充分に考慮して意見を樹てて貰はねばならず、国内問題の如き別に考慮して自分が姑何様にも善処すべき次第なりし也」

(*)豊田貞次郎

近衛は海軍の中心的イデオローグが山本五十六と見抜いていたようである。組閣以来、1940年度中、9月末と11月某日と2回荻外荘に招いている。山本は近衛が嫌いであり、「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平をいわれたり」と書いている。

このとき、近衛は山本の対米開戦意欲を見落としていたようである。近衛は軍事知識は欠落しており。何か作戦上のことを聞きたかったのであろう。もちろん海軍人は明かすことはない。

1941年9月総辞職直後(矢部貞吉(『近衛文麿』上、弘文社)
人の心など、当てになるものではないですね。

賀屋興宣(大蔵官僚)は総辞職の前夜、内田信也宅で「軍部内閣は阻止すべし」と声涙を下し、「大変なことになる」と力説した。だが一夜明けた翌日には東條内閣に馳せ参じた。企画院総裁であった鈴木貞一も「辞職する」「留任など求められてもしない」と力んでいたが、翌日は求められるまま留任した。

この姿をみた近衛が嘆いたもの。だが、その近衛も組閣大命を受けた直後に祝いとして重伝の太刀一振りを東條に贈っている(矢次一夫『東條英機とその時代』三天書房)

1941年12月8日箱根で真珠湾攻撃の報をきき、東京に戻り、華族会館で細川護貞に(『近衛日記』)
えらいことになった。僕は悲惨な敗北を実感する。こんな有様はせいぜい二、三ヵ月だろう。

近衛には首相退任後、いっさい情報があげられていなかったことがわかる。これは近衛だけでなく、この時代は軍人・政治家あらゆる公職退職者に共通していた。現代日本にもみられる極端な現役主義である。

ただし、近衛は9・6御前会議、その前の大本営連絡会議の事実上の主宰者であった。この二つの会議で事実上開戦が決定されたが、近衛はその結末について予想できなかったようである。トップとしての重要な資質、自らの決定または否定、「何もしない」の結論を出す能力が近衛には欠けていた。

このとき、近衛はルーズベルトとの会談に賭けていたが、それに失敗すればどうなるかを予想できなかった。近衛ブレーンは数多くいたが、じっさいの所、誰も信用していなかったようにみえる。

1941年12月30日箱根湯本福住旅館(近藤道生『国誤りたもうことなかれ』角川書店2006)
ハワイで軍艦を十隻や二十隻沈めたからといって、国民みんな勝った勝ったとすっかり舞い上がっているけれども、アメリカと戦ったのはいかにもまずい。とにかく陸軍に頑固ものがいて、対米交渉をやらせまいとするし、アメリカも最後は大陸から一兵も残さず撤退しろという、プリンシプルにこだわって、きわめて挑発的だった。

開戦を陸軍とアメリカのせいにしているのは、いかにも近衛らしい。前段で敗戦を予期したかのようなことをいっているのもまた「らしい」というべきだろう。ところが、これを聞いた近藤道生(元国税庁長官)は近衛にいたく感動している。近藤は秀才官僚であるが、これは無理がないのである。

近衛は、周囲に集まる人間によって調子を合わせ、いうことを転々とさせた。両方を知る人間は「二重人格」とも思ってしまう。太平洋戦争の準備・開始・終了で負の行為をなした近衛文麿・山本五十六・阿南惟幾に共通してみられる人格なのである。現在に至るまで「信者」をもっている点でも共通している。

1942年1月1日富田健治へ(富田健治『敗戦日本の内側』)

今日の宮中は真珠湾攻撃礼賛で持ち切りだった。岡田(啓介)大将すら杯を重ねて、大へんな勢いだった。やっぱり岡田も軍人ですね。そして言うには山本(五十六)はやっぱりえらいよ。末次(信正)でも。真珠湾攻撃をやらせたら少しは残しておいたろうに。山本は全部をこの作戦にぶちこんでしまった。

山本はポーカーの世界的名手じゃったが、奴はポーカーの手を真珠湾に使いおったのだ、と大へんな御機嫌で、それを取り巻く老人たちが何もわからずお太鼓をたたいていた。不愉快でしたね。低級ですね。この調子じゃ最後迄行ってしまうかも知れませんよ。

真珠湾作戦のあと、海軍条約派軍人がおおはしゃぎした様が伺える。だが、真珠湾における戦果は米戦艦保有17隻のうちの4隻に過ぎなかった。そのうえこのうち2隻はすぐに復旧し、アメリカは戦時中にさらに10隻の戦艦を完工させた。

海軍条約派の米国民を軽視する発想(真珠湾を奇襲すれば米国民は士気阻喪し、米大統領は和を乞う)そのものが誤っていたのである。

近衛文麿はさすがにそういった思考は「低級」と退けた。だが、なぜそれを前年9月6日にいわなかったのかという疑問が残る。

1944年7月18日東條内閣総辞職の日、短刀で相手を突き刺すような仕草をしながら夫人に(山本有三『濁流』毎日新聞社1974)
今日は昭和の入鹿(いるか)を、やっつけたよ

近衛文麿は東條英機を蛇蝎のごとく嫌った。酒井縞次らと暗殺計画を練ったほどだという。東條内閣倒閣の原動力が近衛であることは疑いない。

近衛上奏文(1945年2月24日)


敗戦は遺憾ながら最早必至たりと存候。
以下此の前提の下に申述べ候。

 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)、随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。

 つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於ては、ソ運の異常なる進出に御座候。我国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミソテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易たる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧洲諸国に対する露骨なる策動により、明瞭とたりつつある次第に御座候。

 ソ連は欧洲に於て、其の周辺諸国にはソビェット的政権を、爾余の諸国には少くとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。ユーゴーのチトー政権は、其の最も典型的なる具体表現に御座候。

 ポーランドに対しては、予めソ連内に準備せるポーラソド愛国者運盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切候。ルーマニア、ブルガリア、フィンラソドに対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し候。

 イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致候。スウェーデソがソ運との国交開始を提議せるに対し、ソ連はスウェーデソ政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、これがため外相の辞職を余儀なくせしめ候。

 占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との問に深刻なる闘争続けられ、且つこれら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり、而してこれら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。

 ドィツに対してはポーラソドに於けると同じく、已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権竜樹立ぜんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ候。

 ソ連はかくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をたし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ連のこの意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。

かくの如き形勢より推して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に、干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候。(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止等々)。

 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動、及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。

 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にも、此の主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞いたし候。

 職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受げ入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

 抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画たりしこと、今や明瞭なりと存候。

 満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せぼ国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座候。

 これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引ぎずらんとする意図を包蔵しおり、無智単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なLと存候。

 この事は過去五十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座候。

 不肖は、この間に二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんがため、できるだけこれら革新論者の主張を容れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢を加えつつありと存候。

 かかる主張をなす者は、所謂右翼者流なるも、背後よりこれを煽動しっっあるは、これによりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子たりと睨み居り候。

 一方に於て徹底的米英撃減を唱う反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかたる犠牲を払いても、ソ連と手を握るべしとさえ論ずる者もあり、又延安との提携を考え居る者もありとのことに御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、凡ゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともたらぼ、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

 戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望あるというならば格別たれど、敗戦必至の前提の下火論ずれば、勝利の見込なき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を、講ずべきものなりと確信仕候。

 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失いおるも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

 もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打っ時は、右翼左翼の民間有志、この一味と響応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て

 戦争を終結せんとすれば、先ずその前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さえ一掃せらるれぽ、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。

 蓋し彼等は未だ大たる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他たらざるが故に、その本を絶てぼ、枝葉は自ら枯るるものたりと存候。

 尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。

 元来米英及び重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改らば、彼等としても戦争の継続にっき、考慮する様になりはせずやと思われ候。

 それはとも角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。
以上

日本人のある種代表的なものの見方であろう。ソ連と戦う素振りをみせ、英米・重慶の歓心を買おうという考え方である。だが、このときの主敵はアメリカなのである。アメリカは無条件降伏を公言しており、このとき降伏することを天皇が命令しても日本国内は収まらない。

また、国内民間共産勢力(そのようなものは監獄内以外なかったが)や軍部内の社会主義勢力(その大部分は、近衛につき従った人々である。ただ近衛は「統制派」とりわけ東條一味をさしたのであろう)を弾圧したところで、英米・重慶の歓心など買えるはずがない。

近衛が自らの右傾=社会主義趣味について、ここの時点でようやく反省したことは評価すべきであろうか?昭和天皇は近衛にこの時点で3年会っていないが、苦笑したことであろう。

このときの日本には米軍と一戦し耐えがたいほどの損害を与え、アメリカから降伏条件=交渉による和平の条件を出させるしか方策はなかった。

 戦争直後近衛による手記【陽明文庫】(『大本営海軍部大東亜戦争海戦経緯』〈2〉防衛庁防衛研究所戦史部

……然ルニ翌昭和十五年春二至リ、独乙ハ破竹ノ勢ヲ以テ西「ヨーロツバ」ヲ席巻シ、英国ノ運命モ亦頗ル危殆二瀕スルヤ、再ピ三国軍事同盟ノ議ガ猛烈ナ勢デ国内二台頭シ来ツタ、只前年ノ同盟ハ、「ソ」聯邦ヲ対象トシタルニ対シ、今度ハ英米ヲ対象トスル点二於テ根本的二性質ガ異ルノデアル、

余ガ昭和十五年七月第二次内閣組識ノ大命ヲ拝ツタル時ハ、国内二於ケル反英米熱ト日独伊三国同盟締結ノ要望ガ、正二沸騰点二達シタル時デアツタノデアル……

三国同盟条約締結ニハ具体目標ガニツアルノデアル、第一ハアメリカノ参戦ヲ防止シ戦禍ノ拡大ヲ防グコトデアル、第ニハ対ソ親善関係ノ確立デアル

第一米国ノ参戦防止

三国同盟締結ノ際賜ハレル詔書二「禍乱ノ戡定平和ノ克復ノ一日モ速カラソコトニ軫念極メテ切ナリ」ト仰セラレタルハ、即チ米国ノ参戦ヲ防止シ、世界戦乱ノ拡大ヲ防ガソトスル御主旨ナノデアル、

然シナガラ三国同盟ノ締結ガ、果シテ米国ノ参戦ヲ防止スル効果アリヤ否ヤニ就キテハ、大二議論ガアツタ、

締結直前ノ御前会議二於テモ「米国ハ従来日本ガ、独伊側二走ルヲ阻止スル為、日本二対スル圧迫ヲ手控ヘテ居ツタガ目本ガ愈独伊側二立ツト云フ事ニナレバ、自負心強キ彼国民ノ事ユエ、之二依リ反省スルドコロカ、却テ大二硬
化スベク、日米国交ノ調整ハ一層困難トナリ、遂ニハ日米戦争不可避ノ形勢トナルベシ」トノ説モ出タ、

然シナガラ松岡外相ハ「日米ノ国交ハ今日迄ノ経験ニヨレバ、最早礼譲又ハ
親善希求等ノ態度ヲ以テッテハ改善ノ余地ナク、却テ彼ノ侮蔑ヲ招キ悪化サス丈デアル、

モシ之ヲ改善シ此上ノ悪化ヲ防グ手段アリトスレバ、「スターマー」ノ言ノ如ク唯毅然タル態度ヲ採ルト云フコトシカ残テツテイナイ、

ソノ毅然タル態度ヲ強メル為二一国デモ多クノ国ト提携シ、且其事実ヲ一日モ速二中外二宣明スルコトニ依リテ、米国二対抗スルコトガ外交喫緊事デアル 然シ本大臣ハ、カカル措置ノ反響乃至効果ヲ注視シツツ、尚米トノ国交ヲ転換スル機会ハ、之ヲ見逃サナイ積リデアル

唯ソレニシチモ、一応ハ非常二堅イ決心ヲ以テ、毅然対抗ノ態度ヲ明確二示サネバナラヌ」ト論ジタノデアル

此両説ノ何レガ正シカリシカ、却三国同盟ノ締結ガ果シテ米国ノ参戦ヲ防止スル丈ノ効果アリシヤ否ヤハ、実ハ永久ノ謎デアル、

何トナレバ、昭和十六年十二月米国未ダ参戦セザルニ、米属ノ参戦防止ヲ目標トシタル日本自身ガ、進ソデ米国二宣戦シテシマツタカラデアル、

只少クトモ同盟締結約一年有余、米英ガ参戦シナカツタト云フ事実ハ、三国同盟ノ効果デアツタト云ハレヌ事ハナイ、

現二米国ハ十六年四月ヨリ開始サレタル日米交渉二於テ、終始三国同盟ヲ骨抜キニスベク執拗二努カシタノデアル、

此事ハ三国同盟ガ、米国二取リ厄介ノ代物デアリ、此同盟ノ存スル限リ米国ハ容易二参戦スルヲ得ナイ事清ニアツタコトヲ雄弁二物語ツテ居ルト思フ

第二対蘇親善関係ノ確立

三国同盟ノ第ニノ具体目標ハ、独「ソ」不可侵条約成立後ノ独「ソ」親善関係ヲ、更二日「ソ」関係二拡大シテ、日「ソ」国交調整ヲ図リ、出来得レバ進ンデ日独「ソ」ノ連携二持ツテ行キ、之二依リテ英米二対スル、日本ノ地歩ヲ強固ナラシメ、以テ支那事変ノ処理二資セントスルコトデアル:…

近衡は、(1940年10月締結の)三国同盟は、以前のもの(平沼内閣時)と根本的に異なるものと回想している。平沼内閣時においては日独伊防共協定の対象をソ連以外の英仏に拡大すべしという問題であった。これにたいし三国同盟の目的とは対米参戦阻止であった。アメリカもこれに気づき、日本を独伊と切り離そうと多少の譲歩を、1941年4月行った。

陸軍の三国同盟締結の目的は支那事変終結であって、中国の「友邦」ドイツを日本に味方につけ、英米をもドイツ警戒の点から日本の味方に仕向けることであった。こういったイデオロギー抜きのビザンチン外交の当否は別にして、陸軍の思惑と松岡外交(=反米)が食い違っていることについて近衛は少なくとも調整すべきであった。とくに松岡の増上慢をへし折ることは必要であったろう。

時流に流されやすい軽佻浮薄な才子・社会主義カブレが経験者をないがしろにし、自分には「複雑な問題」についての理解力が備わっているという自惚れが垣間見える。つまらない人間が「青年宰相」とおだてられ、のぼせ上がって国を誤った。

戦争直後近衛による手記「三国同盟二就テ」【陽明文庫】(『大本営海軍部大東亜戦争海戦経緯』〈2〉防衛庁防衛研究所戦史部


……最近我戦局頗不利ナルニ加ヘテ、独乙崩壊ト云フ重大事実二直面シ、一部ニハ三国同盟締結二対スル責任ヲ云々スルモノアルヤニ聞ク、仍テコゝ二余ノ所見ヲ述ベテ置キタイト思フ

余ハ、今以テ三国同盟ノ締結ハ当時ノ国際情勢ノ下二於テハ止ムヲ得ナイ妥当ノ政策デアツタト考ヘテ居ル

即独乙ト「ソ」聯ハ親善関係ニアリ、欧洲ノ殆全部ハ、独乙ノ掌握二帰シ、英国ハ窮境ニアリ、米国ハ未ダ参戦セズ、

カカル状勢ノ下二於テ独乙ト結ビ、更二独乙ヲ介ツテ「ソ」聯ト結ビ、日独「ソ」ノ連携ヲ実現シテ、英米二対スル我国ノ地歩ヲ強固ナラシムルコトハ、支那事変処理二有効ナルノミナラズ、コレニヨリテ対英米戦ヲモ回避シ、太平洋ノ平和二貢献シ得ルノデアル、

随テ昭和十五年秋ノ状勢ノ下二於テ独乙ト結ビシコトハ、親英米論者ノ云フ如ク必ズシモ我国ニ採リテ危険ナル政策ナリシトハ考ヘラレヌ、之ヲ強ヒテ危険
ナリト云フハ感情論デアル、

感清論二非ザレバ独乙ノ敗退ヲ見テ後カラツケタ理窟デアル、トカク我国ノ外交論ニハ感情論ガ多イ、同盟締結当時ノ反対論モ、主トシテ親英米的感情ヨリ発シタルモノ多ク、英米ノ勝利独乙ノ敗退ヲ科学的根拠ヨリ予想セル先見ノ明二本ヅクモノデハナカツタ様デアル、

故二親英トカ親独トカ云フ感情ヲ離レテ、冷静二目本ノ利害ヲ中心トシテ考ヘル立場ヨリ見レバ、是等ノ反対論ハ十分首肯出来ナカツタ

然シナガラ、昭和十五年秋二於テ妥当ナリシ政策モ十六年夏ニハ危険ナル政策トナツタノデアル、何トナレバ独「ソ」戦争ノ勃発ニョリテ日独「ソ」連携ノ望ハ絶タレ、「ソ」聯ハ厭応ナシニ英米ノ陣容二追込マレテシマソタカラデアル、

事コゝ二至レバ独乙トノ同盟二尚拘泥スルコトハ、我国ニトリテ危険ナル政策デアル、巳二危険ト感ジタル以上ハ、速二方向転換ヲ図ラネバナラヌ、爰ニ於テ日米接近ノ必要ガ生ヅタノデアル、

然ルニ陸軍ハ此期二及ソデ、尚独乙トノ同盟二執着シ、余ノ心血ヲ漉ギタル日米交渉二対シ種々ノ横槍的注文ヲ発シ、遂二太平洋ノ破局ヲ齎シタノデアル、コレ亦日本ノ利害ヲ冷静二検討シタル結果二非ズシテ、主トシテ親独的感情ヨリ発シタルモノト思フ、感情論ガ外交ヲ左右スルコトノイカニ恐ルベキカヲ知ルベキデアル

同盟反対論者ハ、米国ノ対日態度ハ三国同盟ヲ契機トシテ俄然強硬トナリ、遂二日米開戦トナツタ、故二日米開戦ノ原因ハ三国同盟ノ締結ニアリト云フ、然シナガラ之ハ法理二反シ、又事実二反スル

法理上カラ云ヘバ、目本ハ米国ガ独乙二宣戦シタル場合二於テ始メテ、米国二宣戦スル義務ヲ生ズル、然ルニ昭和十六年十二月日本ハ、米国ガ未ダ独乙二宣戦セザル以前二、進ンデ米国二対シ宣戦シタノデアル、

随テ日米戦争ハ三国同盟ノ義務トシテ始メラレタモノデナイ、三国同盟ノ義務トハ関係ナク、日本独自ノ立場二於テ宣戦シタモノデアル、

故二宣戦ノ詔書ニモ三国同盟ト云フ文字ハ全然見出サレナイノデアル、即チ法理上ヨリ云ヘパ日米開戦ト三国同盟トノ間ニハ何等因果関係ハナイ

次二事実上二於テモ其間二因果関係ハナイ、ナルホド三国同盟ノ締結ガ、英米ノ輿論ヲ一層激化シタコトハ事実デアル、然シナガラ例ノ通商条約廃棄ノ如キハ、同盟締結前即十五年四月二日二行ハレテ居リ、又カノ資産凍結令ノ如キハ、同盟締結後十ケ月ヲ経タル仏印南部進駐ヲ契機トシテ行ハレタノデアツテ、同盟締結ノ直接ノ反響トシテハ具体的二何モ表ハレナカツタノデアル、

殊二日米国交調整ヲ目的トスル日米交渉ガ、同盟締結後約半歳ヲ経タル昭和十六年四月米国ノ提議ニヨリテ開始セラレタト云フ事実ハ、三国同盟ト日米開戦トノ間二事実上因果関係ナカリシコトヲ物語ルモノデアル

近衛文麿と松岡洋右の3国同盟の狙いは、じつはソ連を入れた4国同盟であった。いう所の「法理」とは、条文の機械的解釈であろう。だが、平時の同盟が戦時同盟にスムーズに移行するかは、イデオロギーが関係する。

近衛がヒトラーの国家社会主義をどう考えているかといえば、ソ連類似のものと考えていたのではないだろうか?その上、太平洋戦争の開始は、日本の宣戦によるとしており、この点における理解はしっかりしている。ただ、宣戦が問題というより、先制攻撃がより問題であり、海軍の責任をこのときの政敵である陸軍(=東條)に帰しているのは、この人らしい。

近衛が内閣を組閣するとき「東亜新秩序」という膨張主義と親ドイツ感情に溺れ「3国同盟」を主張したことは、太平洋戦争の開始責任とは離れて、やはり責任を追及されねばならないだろう。

終戦直後か、細川護貞へ
『歴史と人物』昭和52年1月号 中央公論社
戦争裁判に引っ張り出されて、いろいろ議論すると、陛下の問題が出てくる。シナ事変というものは、結局、責任が陛下にゆく。法律的に純粋に考えれば自分に責任はない。統帥権に帰する。しかし、それは弁護しようと思ってもできないじゃないか。むしろ自分がはっきりしたことをいえばいうほど、天皇に責任がゆく。だから自分は法廷に立って説明することはできない。

近衛は自分が裁判に出れば(真実をいわねばならないので)、本当のことを喋ってしまい昭和天皇に責任が及ぶといい張ったようだ。細川も昭和52年と戦後30年たっても戦争の本質がわかっていなかった。

(国際法)を純粋に考えれば、自衛戦争のみが戦争として許されるのであって、支那事変は日本にとり自衛戦争であった。従って、上海特別陸戦隊が攻撃されたとき、軍隊を上海に集中すべきだと天皇が主張したのは当然なのであり、それに反対し「逃げろ」といった石原莞爾が異常なのである。

支那事変の戦争(開始)責任は蒋介石とドイツ軍事顧問にあって、日本にはない。近衛やブレーンは、第一次大戦におけるドイツの戦争責任について論及したベルサイユ条約の「純粋国際法」について無理解であった。加えて、日本は主要連合国としてその当事国なのである。西園寺の「ドイツと同じことをやれば国が滅びる」がついにわからなかった。

近衛の最大の失策はトラウトマン工作とカー工作の拒否にあった。

『毎日新聞』1945年12月17日記事(伊東治正署名)

「戦争前には軟弱だと侮られ、戦時中は和平運動者とのゝしられ、戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」

「人間の一生は棺を蔽うてからでなければ分からない。いや棺を蔽うて何十年も何百年も経つて後の歴史家が公正に判断してくれるだろう。

近衛文麿は戦争責任を全く感じていなかった。だが、支那事変和平拒否・三国同盟推進と松岡洋右外相任命・96御前会議主宰を考慮すれば、「運命」ではなく「自らの決心」が(主要ではないが)戦争の一因となったのは明らかであろう。

近衛が首相職になければ日本の「運命」がいい方向に大きく変わったのではなかろうか?

遺書 近衛通隆(次男)の依頼にもとづき書いたもの(1945年12月15日)
「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受げる事は堪え難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し日米交渉に全力を尽したのである。その米国かち今犯罪人として指名を受
ける事は、誠に残念に思ふ。
しかし僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知已が存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と、是等一切の所謂輿論なるものもいつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。其時初めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう」

「戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解」と近衛は最後に書いた。この言葉は日米の輿論にたいし向けられたものであるが、じっさいには近衛の心のうちではないだろうか?

トラウトマン工作のさい、料亭「桑名」密談のさい、近衛文麿に増長がなかったかといえばウソになろう。

斉藤隆夫は近衛文麿を厳しく批判した。

悪や無策の連続
平然たる官僚群
敗戦責任の追究にも頬被


戦争中最も独断横暴の猛威を発揮した官僚が終戦の今日かつての歴史に見られぬほどの無策無能の低能ぶりを発揮しているのは一体何であろうかと国民は一様に呆れかえっている。

そこで役人というものは一般国民より一段上のエライ人だと思っていた単純な国民の中にも役人に対する疑いと憤怒が勃然とわき起こりつつある。私はその正直な国民諸君に「官僚の正体はこれだ」と化けの皮を剥いでハツキリ見せてあげたいのだ。

一口に官僚といっても「統率する」官僚と「される官僚」とがある。「される官僚」はいわば是命に従った側であるから暴慢増長して直接国民を虐げた点は許し難いがやや罪は軽い。

「統率した」者共は徹底的に追及すべきであると考えるが、その何れに属する官僚からも敗戦責任をとったという話をきかぬのは実に不可解きわまる。

「あと一息で勝つ」「ソレニ倍増産だ」「敵の降伏は近いぞ」とヘトヘトに疲れ果てた国民の鼻面をひっぱり廻した官僚が一夜明けたら民主主義日本建設の指導者としておさまり返っているのでは浦島太郎のお伽噺以上ではないか。この者共の徹底一掃のみが新しい日本を作りあげるのである。

だがなぜ官僚は依然官僚悪を発揮して恥じぬのだろうか。それには立派な垂範者があるからだ。東條と近衛といいたいが東條はすでに聯合国側の俘虜となっているから別として近衛とは何をした男か。

支那事変の創作、汪政府樹立、三国同盟締結、これはみな彼がやったことで敗戦日本の今日を招いた主因だ。国内的にいえば彼の作った大政翼賛会は一体何をする団体であったか。国民の血税貯金をしぼりあげて年額二千余万円、戦争中を通じては一億万円以上の予算を分捕り、国民の言論を封じて眠らせ近衛の子分や右翼浪人にぜいたく三昧をさせていた団体だ。

この近衛がいま憲法改正をやっておる。爵位返上などというゼスチュアをやってみせる。敗戦責任などどこ吹く風だ。かかる厚顔無恥の華族さまが官僚の上におさまっていたのだから、官僚たるもの国民の敵となるのは当然であって、これは一近衛ばかりでなく、同様の人物が現政府の閣僚にも少くない。

彼らの責任を追及しこれら官僚元締の一掃を実行してはじめて日本に民主政
治を実現できる。国民の要求する政策が実行されるのである。

この近衛式の人間が政府の要位にある間はどうして官僚の責任追及などできるものか。官僚の無為無策が今日徒らに国民を失業へ、食糧難へ、飢餓へと駆り立てている原因はここにある。断乎として根本的手術を行わなければ国民は一体どうなる。

いまの様相は正に革命と動乱の前夜である。しかもその革命は合法非合法の境目にまで来ているではないか。悪官吏の一掃と共に、世論に傾聴し世論と共に歩む率直かつ果断の政治家が政府を作らねば駄目だ。現在官僚の悪や無策が痛論されているが根本的手術を行わぬ限り蛙の面に水である。

同時に国民も亦官尊民卑の弊風を棄てて常に厳正な批判を為政者に向ける訓練を行わねばならぬ。官僚の責任追及はかくてのみ可能であり、そのことが民主的政府の樹立となり人民百年の幸福を生むのである。(『社会周波』コラム齋藤隆夫談)

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近衛の「英米本位の平和主義を排す」
近衛のパリ講和会議印象記