『全国民に告ぐ』
昭和12年12月15日、各新聞は一条実孝公爵、頭山満、山本英輔海軍大将三名連名による『全国民に告ぐ』と題する論文を掲載した。
「万世一系の天皇儼然として国家組織の中心を為した給い、億兆心を一つにして天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、君子一体、忠孝一致」の我が国体の本義が現状において顕われていな「世界は秩序壊乱、禍機鬱勃、正に歴史的転換の潮頭に立っている今日、「内、国力を統合して一体となし、外、世界未曾有の変局に処する」と絶叫した。
「西洋の余毒たる憲法政治を以て、政党対立の政治と解するが如き」であって、
「全国民の一致せる精神に即して一体になり」「皇国の政党」を樹立し
「現在一切の諸政党は覚醒せねばならず、彼我相対の境地を超越し、渾然一体となって、強力政党の新組織をつくれ」と呼号した。
「これができなければ現存諸政党は歴史的鉄則の下に粉砕せらるるの日、必ずや遠きにあらざるべし」と警告した。
この論文の背後には近衛文麿がいた。
重信嵩雄の中央公論昭和十三年二月号「一国一党の全貌」という記事によると、「全国民に告ぐ」は、近衛文麿と密接な関係を持っていた政界の黒幕、秋山定輔が近衛の了解の下に、右翼と共に「挙国一党結成促進研究会」を組織していた宮崎龍介等を使い、一条等の名前を装って発した警告だという。
昭和十三年一月、一条らの声明に呼応して中溝多摩吉らが防共護国団を結成し、「国内相剋排除、一国一党」をスローガンとして既成政党の解消を目指して動き始めた。中溝等は東京に二ヶ所の駐屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼等に各政党代議士を訪問させ、政友・民政両党の解消を勧告させた。ところがこの運動が十分に成果を収めぬ為、中溝らは実力を行使し、政友・民政両党本部に「推参」して党議によって解消を断行させようとする計画を立てたのである。
二月十七日、カーキ色の服に戦闘帽を被った防共護国団員六百名がトラックに分乗して両党本部に押し掛け、党の解消、挙国的態勢による新党樹立を要求した。十時間後には全員が検挙され、逃走していた中溝も三月十八日に自首し「政党本部推参事件」は落着したが、政党関係者を震撼させたこの事件の首謀者は、信じ難いことに近衛首相自身なのである。中溝の部下であった青木保三は戦後の回想の中で、中溝、青木ら護国団幹部が計画を作ったと告白し、
「それは十六ヵ条よりなり、先生(中溝)自ら筆をとって書き上げ、私に『君がつきっきりで、誰にも見せず、大至急タイプに三通を取って来てくれ』と依頼された。私は直系の配下で能書家を呼び、四通複写して、翌日三通と元書を先生に手渡した。先生は秋山氏と荻窪の近衛邸に持参して、説明した。先生が帰っての報告では、
『最後の項の、大日本党部の組織に賛成をしない国会議員一人につき、防共護国団員二名、警察官一名、憲兵一名をつけ、芝浦埠頭に待機の姿勢でおる橘丸に、一時監禁をし、伊豆大島へ流島の刑に処するという項については、「これは少し行き過ぎではないかと言って」自ら消したが、あとのことについては「中溝君、なかなか面白い計画ですね」と言われて、自分としては、非常に面目を、ほどこした』
と言ったことは、今でも目に見えるようである。
従ってこの内容については、近衛公はもちろんのこと、秋山氏、秋田氏、当時の内閣書記官長風見章氏、内務大臣末次信正、麻生、亀井の各氏と、ほかに近衛側近では後藤隆之助氏ら、極少数の人々は、あらかじめ承知して居ったと、私は今でも思っておる。
中溝先生が近衛公に提出した、建策書のうちには両党本部を占拠した暁には、都合によっては、開催中の議会に押しよせ、その実力で議会を休会に追い込ませる場合もあり得る、という事項もあったが、これは実行できなかった。」
と述べている(1)。さらに麻生久(社会大衆党書記長)自身が、彼の晩年を近衛新体制の確立とこれを通ずる日本の革新に捧げ尽くした心境について、河野密に次のように語っているのである(2)。
「昭和十三年二月、第七十三議会の開会中、防共護国団による政友、民政両党の本部占拠があった。これをやったのは中溝多摩吉であるが、彼を背後から踊らしてやったのは近衛であった。国会開会中にその離れ業をやらして口を拭ってしゃあしゃあとしている度胸。これは革新をやるに足る人物だと思って自分は近衛に接近する気になった。日本の革新は、明治維新の革新でもそうだが、下から丈けでは出来ないので、上と下を結びつかなければ駄目である。それには近衛の門地と家柄はあつらえ向きである。」
昭和十二年六月、組閣の大命を受けた近衛は、総理としてまず「政治の貧困から引き起こされた国内の相剋摩擦の所産たる種々の事件の受刑者に、大赦を施すべきだ」と主張し、政治生命を賭けて投獄された二・二六事件、五・一五事件、血盟団事件の関係者、さらには共産党の受刑者をも無罪放免しようと狂奔したのである(近衛クーデター事件)。
これは国家の法秩序を破壊する大暴挙であり、昭和天皇、元老重臣、陸海軍首脳が挙って猛反対した為、近衛は大赦を断念したのであるが、翌年二月には近衛自身がテロを指揮したのである。参謀本部の早期和平方針を粉砕した第一次近衛声明の発表から一ヶ月後のことである。昭和十三年に近衛がテロを用いてまで画策した大日本党による一国一党計画は、第一次近衛内閣の総辞職によって流産したのであるが、更に近衛は、団琢磨や井上準之助を殺害し、無期懲役刑を受けたものの皇紀二千六百年祝典の恩赦によって仮出所した血盟団事件の首魁井上日召を、昭和十五年末から彼の私邸「荻外荘」に同居させたのである(3)。
我が国憲政史上、非合法暴力主義者を擁護し且つ自分の懐刀と為し、政党にテロを仕掛けた総理など近衛文麿以外にはいない。
戦後の我が国では、過去の反省として東条英機を非難すれば事足れりとする風潮が一般的であり、彼を日本のヒトラーにならぞえる史家もいるが、蒋介石政権との和平交渉継続を求める陸軍参謀本部を恫喝し、政党にテロを仕掛けた近衛こそ日本のヒトラーでありスターリンであろう。
日本憲政史上稀に見る狡猾にして強力な近衛の政治指導力は第二次近衛内閣においても遺憾なく発揮されていった。
(1)伊藤【近衛新体制】六十九〜七十六頁。頭山満は政党意見書を迷惑がったという。小川平吉日記昭和十三年二月十八日
(2)河上丈太郎編【麻生久伝】四七八頁。
(3)勝田龍夫【重臣たちの昭和史下】二一五頁。尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】二七五頁。
これと関連する動きとして、中溝多摩吉らの防共護国団を中心とする政党解消運動があり、昭和一三年2月にはいわゆる「政党本部推参事件」をおこしている。この事件の中心人物の中溝多摩吉は三多摩壮士の一方の旗頭で、普選運動以来政治活動に入り、この年一月「防共護国団」なる団体を結成していた。中溝は秋山定輔と交渉があり、「国内相剋排除、一国一党」をスローガンとして、前記の一条らの声明に応じ、その第一段階として既成政党の解消が必要だとして動きはじめた。中溝らは東京に二ヵ所の屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼らをして各政党代議士を訪問、政友・民政両党の解消を勧告させた。中溝の配下の青木保三の回想録によると全団員は、「陸軍の軍服に似た、カーキ色の制服をつくり着用し」ていた。この服は比留間安治なる「荻窪の近衛邸に、後藤隆之助(通称豪傑)らと常に出入りし、いわゆる〈近衛ブレーン〉の一人として相当に重きをなしておった」人物の斡旋によるものであったという。
ところがこの運動が充分に成果を収めぬため、中溝らは実力をもって政友・民政両党本部に「推参」して、党議をもって解消を断行させようとする計画をたてたのである。二月一七日六〇〇名の団員を動員し、カーキ色の服に戦闘帽をかぶった彼らは、トラックに分乗して両党本部に押しかけ、党の解消――挙国的態勢による新党樹立を要求した。民政党に向った隊は阻止されたが政友会に向った一隊は本部を占拠した。警視庁は一〇時間後には全員を検挙し、逃走していた中溝も三月一八日に自首して事件は落着した。政友会は津雲国利、西方利馬の両代議士が中溝らに内応したとして事件後に除名にしている。この二代議士はともにかねてから一国一党論をとなえていた政友会の領袖久原房之助の配下で、
久原もこの計画に関与していたことが推測されるのである。
しかし、この事件の背後は大きかったようで、青木は回想の中で、計画は中溝、横田、青木、神山らの団幹部で作ったとし、「それは十六ヵ条よりなり、先生〔中溝〕自ら筆をとって書き上げ、私に『君がつきっきりで、誰にも見せず、大至急タイプに三通取って来てくれ』と依頼された。・・・・・・私は直系の配下で能書家を呼び、四通複写して、翌日、三通と元書を先生に手渡した。先生は秋山氏と荻窪の近衛邸に持参して、説明した。先生が帰っての報告では『最後の項の、大日本党部の組織(内容は一国一党)に賛成をしない国会議員一人につき、防共護国団員二名、警察官一名、憲兵一名をつけ、芝浦埠頭に待機の姿勢でおる橘丸に、一時監禁をし、伊豆大島へ流島の刑に処するという項については“これは少し、行き過ぎではないか”と言って、自ら消したが、あとのことについては“中溝君、なかなか面白い計画ですね”と言われて、自分としては、非常に面目を、ほどこした』と、言ったことは、今でも、眼に見えるようである。従ってこの内容については、近衛公はもちろんのこと、秋山氏、秋田氏、当時の内閣書記官長風見章氏、内務大臣末次信正、麻生、亀井の各氏と、ほかに近衛側近では後藤隆之助氏ら、極少数の人々は、あらかじめ承知して居ったと、私は今でも思っておる」とのべている。また末次内相は議会での答弁で中溝と自分は無関係と弁明したが、のちに末次は中溝に対して「場合が場合であったので、ああ言ったのだから、悪しからず了承してほしい」と弁解したこと、「中溝先生が近衛公に提出した建策書のうちには、両党本部を占拠した暁には、都合によっては、開催中の議会に押しよせ、その実力で議会を休会に追いこませる場合もあり得る、という項目もあったが、これは実行できなかった」ことをものべているのである。つまり、青木によると、この事件は近衛および前述のこの運動の推進グループの了解の下に行なわれた。しかも場合によってはクーデターにもなりうる性格のものであったことになる。
牧達夫も次のように回想している。
此の頃近衛の身辺に寄せられた右翼及財界一部よりの猛烈なる反対にも拘らず新体制運動案の策定に参与した者達は軍部側を始めとして世論の大勢上かかる反対の策動を軽視するかたわら「今度という今度は」との言葉で表現された近衛の決意めいたものを最後迄信じて疑わなかったのである。・・・・・・此の頃自分も連日の如く井田磐楠、岩田愛之助、小林順一郎、太田耕造等より面談の強要を受け、激越なる口調を以って既に立案された翼賛会のイデオロギーを否定するのは勿論、ナチス独裁は我国体に相容れざる幕府の再現なりと指弾し時としては君達一派の思想の裏にはたとえ無意識にせよ「赤」の影響があるのではないかとさえ詰め寄られたのであった。特に井田、太田の両氏とも新体制準備委員であるに拘らず「国民よ直ちに“新体制早わかり”と云う怪文書を破棄せよ」と怒号して触れまわる程、彼等の反対は狂信的な熱風を孕んでいたのである。木戸日記研究会『牧達夫氏談話速記録』1979